ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination

Leprosy Sanatoriums & Resource center in Japan / 日本のハンセン病療養所・資料館

Oku Komyouen

邑久光明園

岡山県

室戸台風の被害を乗り越えて開設された、
長島ふたつめの療養所

大阪府西成郡川北村外島(現在の大阪市西淀川区中島付近)にあった外島保養院の代替移転先として1938年(昭和13年)に開設。外島保養院は、1907年(明治40年)発布の「癩予防ニ関スル件」においてハンセン病患者の隔離が規定されたことを受けて、1909年(明治42年)に開設された。正式名称は「第三区府県立外島保養院」、入所対象者は2府10県(京都・大阪・兵庫・奈良・和歌山・三重・福井・石川・富山・滋賀・岐阜・鳥取)の患者と定められた。神崎川河口近くの低湿地にあったことから1934年(昭和9年)9月の室戸台風で壊滅的被害を受け、その際に196名(うち入所者173名)が犠牲となっている。

現地復興は不可能と判断されたが、大阪府内で代替地が決まらなかったため、外島保養院は長島愛生園がある岡山県邑久郡(現・瀬戸内市)長島に移転、府県立療養所・光明園として再建されることとなった。その後1941年(昭和16年)に厚生省に移管され「国立療養所・邑久光明園」と改称。1988年(昭和63年)には念願の邑久長島大橋が開通し、岡山県側への自由な行き来も可能となった。園内で開催される納涼夏祭りは、この地域最大の夏のイベントとして地元の人たちにも親しまれている。

国立療養所 邑久光明園

http://www.komyoen.go.jp/

〒701-4593
岡山県瀬戸内市邑久町虫明6253
Tel. 0869-25-0011 / Fax. 0869-25-1763

アクセス:

JR赤穂線邑久駅下車 東備バス(瀬溝・愛生園行)光明園下車 または瀬溝下車タクシー約7分

View Points

View Points of Oku Komyouen

  • 邑久長島大橋

    長島と本土との距離はもっとも近いところではわずか30メートルですが、このわずかな距離がハンセン病患者に対する差別的な隔離政策の象徴ともなり、長いあいだ愛生園、光明園の入所者の方々を苦しめてきました。1969(昭和44)年から邑久光明園で架橋運動がはじまり、3年後両園自治会の意志統一のもと、以降19年もの歳月をかけて地元や国や関係省庁への働きかけが進められ、ついに1988(昭和63)年、邑久長島大橋が開通しました。別名「人間回復の橋」とも呼ばれています。

  • 二つの桟橋

    写真の右側の桟橋は「患者桟橋」と呼ばれ、入所者専用として使われていました。左側は「職員桟橋」と呼ばれ、園の職員の通勤や来客のための桟橋とされていました。この患者用と職員用という二つの桟橋の遺構は、かつての療養所が患者と職員のエリアを厳しく分けていた時代を彷彿とさせます。1975(昭和50)年ごろからは職員用と入所者用の区別はなくなり、1988(昭和63)年に邑久長島大橋が開通してからは、これらの桟橋が使われることはほとんどなくなっています。

  • 監禁室

    「監禁室」は、療養所を逃走した人や、園の規則を破った人がいれられた懲罰的な施設です。1916(大正5)年、ハンセン病療養所所長に懲戒検束権が与えられ、1931(昭和6)年には「国立らい療養所患者懲戒検束権」が制定されたことから、療養所内に園長の権限によって監禁室をつくることが認められるようになりました。光明園では1939(昭和14)年に監禁室がつくられ、1953(昭和28)年まで使用されていました。2002(平成14)年に歴史的建造物として修復し、薄暗く過酷な監禁室の様子を中に入って見ることができるようにしています。

  • 恩賜会館

    光明園のなかでひときわ目立つ、洋風の趣きのある「恩賜会館」は、1941(昭和16)年、皇太后陛下の御下賜金をもとに、大阪府をはじめとする2府10県の連合府県から資金をあつめて建てられました。入所者の集会所として、さまざまな趣味の会合や展示会会場として利用されてきました。昭和前期に建てられた建物のなかで、唯一いまも現役で使われているものです。

  • 旧光明学園校舎

    旧光明学園は1939(昭和14)年に開校、当初は入所者が先生をつとめました。1947(昭和22)年に裳掛小中学校第三分校となって、「光明学園」の名称はなくなり、本校から先生が派遣されて来るようになりました。児童がいなくなったため1959(昭和34)年には小学校が、1962(昭和37)年には中学校が閉校となりました。閉校後、校舎は畳工場として使われていた時期もありますが、2010(平成22)年からは資料展示室として利用されていました。

  • しのびづか公園

    かつて、亡くなった入所者は、園内の火葬場で入所者の手によって火葬されていました。1955(昭和30)年にはこの場所に火葬場が移設され、1964(昭和39)年からは愛生園との共同利用になり、2000(平成12)年まで使われていました。その間、両園合わせて1500有余名の方々がこの場所で荼毘に付されてきました。2006(平成18)年に、火葬場跡を公園として整備し、慰霊碑を建立しました。2007(平成19)年には、「ハンセン病問題に関する検証会議」によって明らかになった、ホルマリン漬けの胎児たちのための慰霊碑も建てられました。

資料展示室

旧光明学園校舎を利用し、2010年5月にオープン。入所者の暮らしなどがわかる歴史的な物品を展示するとともに、夫婦舎の居室を再現。入所者による絵画や手工芸品なども展示されている。光明学園は1934年に開校され、1947年に裳掛小・中学校第三分校となり本校から教員が派遣されるまでは、入所者が先生を務めていた。小学校は1959年に、中学校は1962年に閉校された。

資料展示室

〒701-4593
岡山県瀬戸内市邑久町虫明6253
Tel. 0869-25-0011 / Fax. 0869-25-1763

アクセス:

JR赤穂線邑久駅下車 東備バス(瀬溝・愛生園行)光明園下車 または瀬溝下車タクシー約7分

開館時間
平日 9:00~17:00
*開館日などの詳細問い合わせ、見学希望は、邑久光明園庶務課までお問い合わせください。

写真で見る「国立療養所 邑久光明園 / 資料展示室」