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People / ハンセン病に向き合う人びと

青木 美憲(邑久光明園 園長 )

弱者切り捨てをしないような仕事がしたい。そう思いこころざした医学の道。
しかし大島青松園で知ったハンセン病政策の歴史、回復者たちとの出会いが、一人の青年の将来を決定づけた。
ハンセン病患者のための医者となり、現在、邑久光明園で園長を務める青木さんは、
これまで何を感じ何を考えてきたのか。また、現在、療養所の現場では何が問題になっているのか。

Profile

青木美憲氏
(あおき よしのり)

1965年札幌生まれ。

医師臨床研修と大学院博士課程修了後、邑久光明園、国立国際医療センター(ハンセン病プロジェクトでミャンマーへ派遣)、駿河療養所、大阪府保健所を経て、2015年より現職。

1988年に架けられた邑久長島大橋。別名「人間回復の橋」

国鉄民営化と弱者切り捨てを目の当たりにし、
医学の道へ

青木さんは何をきっかけとして、
ハンセン病医療の現場で働こうと思ったのでしょうか。

もともと鉄道が大好きで国鉄に就職したいと思っていました。でも、ちょうど大学受験のときに国鉄が解体されて民営化されてしまった。私は北海道出身なんですが、地元を走っているのはローカル線ばかりで、それが民営化によってだいぶん廃止されてしまいました。民営になった以上、採算に合わない路線が廃止されるのは当たり前なのかもしれませんが、それでも市民にとっては大切な日常の足を、そうそう簡単になくしていいというものでもないでしょう。その様子を見て「将来、弱者切り捨てをするような仕事はしたくない」と思った。こうして医療の道に進むことにしました。医者になれば「弱者切り捨て」をしない仕事ができると考えたんですね。

その後、大阪大学の医学部に進みました。あるとき学生サークルでハンセン病の療養所を訪問する機会があったんです。行き先は大島青松園、1987年のことでした。それまでハンセン病のことはよくわかっていませんでしたが、何回か療養所に通い、勉強するにつれて、ハンセン病というのは医療従事者が患者さんを苦しめてきた病気であること、隔離が必要ないとわかっていながらも「らい予防法」がまだ存続しているということを知りました。またしても人を切り捨てる現実と、医療の現場で出会ってしまったわけです。

ハンセン病の患者・回復者が直面してきた現実を知れば知るほど、「これはあまりにもひどい」「これはおかしい」と思いました。この状況を回復するのは医者の責任だろうとも考えました。しかし、そういった現実があることは、なかなかわかりにくかったんですね。今では「らい予防法」の違憲国家賠償請求訴訟の裁判を経て、過去に国がとってきた隔離政策は誤りであった、多大な被害を受けた回復者の人権回復がたいせつだ、といったことも広く知られています。でも私が療養所を初めて訪問したころは、サークルのメンバーのなかにも「差別なんかないじゃないか」とか、「ハンセン病の問題はもう終わったことだ」と言う人がありました。

入所者の人たちは穏やかに暮らしている。それでいいじゃないかと。

  • 光明園入所者有志によって建立された、「らい予防法」違憲国家賠償訴訟勝訴記念の碑

たしかに表面だけ見れば穏やかに暮らしているように見えますが、入所者の方々がどんなつらい経験をされてきたのかは、ただ普通に療養所を訪問しているだけではなかなか見えてきません。その表面だけを見て「入所者は穏やかに暮らしているじゃないか、差別問題はもう終わったんだ」などと言う人と、よくケンカしたものです。と同時に「自分自身が将来医者になるときに、この問題を避けてしまっては、ハンセン病を放置してきたのと同じ側に立つことになる」とも思いました。ハンセン病に関わる仕事に就きたいと思ったのは、それがきっかけです。

いきなり療養所に行っても何もできないと思っていましたので、大学を卒業してから臨床研修として一般の内科病院に行きました。またハンセン病の問題は医学的な面だけでなく、社会的な側面も知る必要があると思っていましたので、内科病院での研修が終わったあと、あらためて大阪大学・公衆衛生学教室の大学院にも通いました。

私が大学院に行こうとしていたのは、らい予防法が廃止された(1996年)直後でした。そのときふと「らい予防法がなくなったんだから、もうハンセン病のためにできることはないのかな」「これで問題は解決されるのかな」という考えが頭をよぎったんです。それで、お世話になった関係者の方々に、これでハンセン病回復者のおかれた状況はよくなっていくのでしょうかと訊いて回りました。ところがそのとき皆さんが口を揃えておっしゃったのは「まったくそんなことはない。らい予防法がなくなっても、問題は何も終わってはいない」という意見だったんです。

そこでまず大学院にいる3年間の間に、誰が見てもこれは問題であるということを数字で証明しようと思いたちました。瀬戸内三園の入所者全員、818人の方々とお会いして全員に同じ質問をさせてもらい、結果をデータ化する。そうすることで被害の全体像を可視可したわけです。それまでにも入所者一人ひとりの手記などはありましたが、それだと「あくまでその人の主観であって、客観的事実とは言えない」などと文句を言う人が必ず出てくるんですね。そうやって大学院での勉強を終えたあと、ようやく内科医師として邑久光明園に赴任することになりました。2000年4月のことです。

邑久光明園に赴任して青木さんが最初に感じたことはどんなことでしたか。

ご存知のとおり、ハンセン病の新しい患者さんは日本国内にはいらっしゃいません。日本ではハンセン病の診断、治療などの経験は積めないんだということに、赴任して初めて気がつきました。となると、患者さんのいる海外へ行って、そこで経験を積むことが必要なのではないか。たまたまその頃というのは2000年から5年間にわたってJAICA(国際協力機構)がハンセン病対策プロジェクトをミャンマーで展開していた時期でした。そこでぜひにとお願いをして、そのプロジェクトに参加させていただきました。ミャンマーには2002年の10月から2004年の4月までのおよそ1年半滞在しました。

ミャンマーでは、現地にある国立ハンセン病病院に通って患者さんの症状を見せてもらったり、各地のフィールドで保健師さんがどのように予防活動をしているのかを一緒に行動しながら見せてもらいました。こうした経験のなかで、ハンセン病の患者さんの症状、治療の様子など、さまざまな勉強をすることができたと思います。治療のノウハウは実際に患者さんを見ていくなかで身についていくものですから、このミャンマーでの経験には大きな意義がありました。その後、国立駿河療養所、大阪府保健所などを経て2009年に邑久光明園の副園長として戻ってきました。

外島保養院時代の歴史を伝える十二府県連合の碑

過去の過ちを繰り返さないため、
さまざまな取り組みが進行中

光明園は外島保養院(大阪)の歴史を背負っているという、
他の療養所にはない一面もありますね。

  • 邑久長島大橋の工事や開通の様子を伝える展示パネル

邑久光明園の前身である外島保養院は大阪府・神崎川の河口、海に接した海抜0メートル地帯にありました。それが1934年(昭和9年)、室戸台風の直撃を受けて壊滅してしまったんですね。そもそも河口の中州に療養所をつくること自体が間違いだったと思います。さらにやりきれないのは、過去に移転計画が何度も出されていたにもかかわらず毎回住民の反対にあって計画が実現しなかったということです。一度などは土地まで入手したのに住民からの反対で断念しています。もし実現していたら187名が亡くなるという悲劇も起きなかったでしょう。これも地域から排除されてしまったがための悲劇だと思います。

外島保養院は府県連合立の公立療養所で、大阪府を中心とした近畿・北陸の2府10県(京都・大阪・兵庫・奈良・和歌山・三重・福井・石川・富山・滋賀・岐阜・鳥取)がつくったものでした。であれば建て直すときも2府10県のどこかに建てるというのが当然のことでしょう。ところがすべての自治体が反対した結果、2府10県とはまったく関係のない岡山県の長島に新しい療養所をつくることになった。つまり入所者さんたちは療養所ごと地域から追い出されてしまったわけです。これは他の療養所にはない歴史だと思います。

青木さんは2014年4月に邑久光明園の園長に就任されたそうですが、
現在の療養所が抱える課題にはどんなものがあるとお考えですか。

3つあると思います。ひとつめは職員の確保です。今ある療養所というのは、過去に国が行っていた間違った隔離政策の被害を、可能なかぎり回復していくための施設です。ですから、もっとも重要な役割は、入所者の皆さんに自分らしく快適に過ごしていただくことです。入所者の方々は後遺症のために介護の必要度も高い状態ですから、介護員、看護師、医者、施設を運営するためのスタッフ、このすべてが揃わないと質の高いサービスを提供することはできません。にもかかわらず、スタッフの数は足りていないんですね。

スタッフ不足の原因は職員の定員削減にあります。5年ごとに公務員削減目標が定められていくなかで、その対象にハンセン病療養所の職員も含まれてしまったんです。それによって職員数がだいぶん減ってしまった。こうした現状に対して、ハンセン病療養所入所者協議会(全寮協)が「法律で定められているような生活が送れるようにするためには、職員を確保することが重要である。そのことが明記されているにも関わらず、国は責任を果たしていないではないか」と働きかけをした結果、ようやく昨年、療養所職員が定員削減対象から外されました。これで一段落といったところですが、定員が確保されたからといって欠員がすぐに埋まるわけではありません。

ふたつめは運営の問題です。私もいろんな療養所で園長を見てきましたが、入所者に対して理解のある人もいれば、そうでない人もいるというのが正直なところですね。極端な例では、国家賠償裁判の最中に裁判妨害をするような園長もいたんです。

なぜそのようなことが起こってしまったのでしょうか。

「園長や医者は親のようなものであり、患者は子どものようなものだ」という認識の人もまだまだ多いんですね。上から患者を見下ろして「自分の言うことを聞け」という態度で接してしまう。そういう人たちが今もいることは、残念ながら否定できない事実です。ある種のパターナリズム(干渉主義・家父長主義)と言えるかもしれません。

たとえどんなに人権意識をもった優れた園長であっても、自分の好きなようにできる権限が与えられるとなれば、いつか間違いを犯してしまうのではないでしょうか。そして、いったん独善、独断に陥ってしまえば、どんどん入所者の方々の気持ちから離れていってしまう。入所者のためにと思ってやっていたのに、実際は逆のことをしていたというようなことも起こりうると思います。今は入所者の方々もまだお元気ですから大事なことは自治会に相談してから決めることができますが、園だけで大事なことを決めていくようになっていけば危険もそのぶん増していくでしょう。

具体的な対策は、もう始まっているのでしょうか。

「人権擁護委員会」と呼ばれる第三者組織を全国の療養所に置くことを、提案しています。委員会には自治会の思いを代弁する外の人たちにも入ってもらう。個人の場合、認知症になってしまったときのことを考えてあらかじめ後見人を選定しておいたりしますが、それと同じことを組織としてやるわけです。自治会の代わりに「人権擁護委員会」が代弁をする。

この提案を、2年前からハンセン病市民学会でも採り上げてもらっていて、今年(2015年)春の市民学会では最終案の決議もなされました。各療養所における「人権擁護委員会」の設置を国に対して求めていくことになっています。とはいえ、そのような仕組みができたとしても、大事なのはこれからでしょう。入所者さんの人権が守られるかたちで最後まで療養所の運営ができるかどうか。そこが問われていると感じます。

療養所が抱える問題点、最後の3つめは何でしょう。

  • 邑久光明園人権啓発展示会を案内する入所者自治会長の屋猛司さん

社会交流です。らい予防法がなくなり、国家賠償請求の裁判にも勝って、入所者の皆さんの権利もかなりの面で回復がはかられた。けれども、療養所から出て行くことは難しいという現実は依然としてあります。多くの方がここを終の棲家と考えざるを得ません。ここで暮らしながら地域とのつながりができ、「自分にとっては、ここが故郷なんだ」と感じてもらえたらいいと思いますが、残念ながら現実はそれとはほど遠い状態だと言わなければなりません。

光明園のなかにも近々特別養護老人ホームができますが(2015年秋開所予定。入所者以外が利用する老人ホームが療養所内にできるのは全国初)、これがひとつの突破口になればと思っています。老人ホーム内には入所者や市民が利用可能な交流スペースも設けられる予定です。地域開放に向けての将来構想については、ほかにもいろいろな可能性が考えられるでしょう。私たちもこの課題にしっかり取り組んでいきたいと思っています。

患者全員を隔離することが正しかったのか。そこまでする必要があったのか。この総合的な判断のところで、過去の日本は間違いを犯しました。実際のハンセン病は強制隔離や断種によって撲滅を目指すような病気ではなかった。もちろん、この病気に対して間違った対応をしてしまったのは日本だけではありません。世界中でいま問われているのは、過去に犯したこの間違いを、どう正していけるかということなんですね。

取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉