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藤崎 陸安(全国ハンセン病療養所 入所者協議会 事務局長)

「もともといたのは青森(松丘保養園)なんだけど、住んでいた年数を全部足したら、ここが一番長くなるんじゃないですか」
そう言いながら緑の濃くなりだした多磨全生園内を歩く藤崎さん。
歩いていく先には、次第に野球グラウンドが見えてくる。
新良田教室で野球に打ち込んだ日々、みずから「天職」と語る全療協での活動、
そして高齢化が急速に進むなかで明らかになってきた、各自治会が抱える現実と越えていかなければならない課題。
今回のインタビューは野球グラウンドから始まります。

Profile

藤崎 陸安氏
(ふじさき みちやす)

1943年秋田県生まれ。8歳のときにハンセン病と診断され、兄、母とともに松丘保養園に入所。その後、長島愛生園内にある岡山県立邑久高等学校・新良田教室で学ぶ。卒業後は松丘保養園自治会で書記を務め、その後も青森と多磨全生園内にある全患協(※当時。現在の全療協)本部を数年ごとに行き来しながら、自治会活動全般に深く関わっている。2010年より現職。

子どもの頃から好きだった野球、
そして音楽への情熱

  • 2016年12月のトークイベントで語る藤崎さん(左)。右は野球部仲間、太田明さん(菊池恵楓園自治会副会長)

野球のグラウンドにいると、なんとなくワクワクしてくるっていうかね。毎週土曜日には、ここへやってきて東村山パワーズ(※全生園の地元、東村山を拠点とする中学生の軟式野球クラブ)の練習を見ています。アドバイスなんてできませんけど、監督さんと話をしたりしてね。毎回、試合見るのが楽しみなんですよ。この頃パワーズも強くてね、けっこう地方の大会で優勝したりするんですよ。

新良田教室野球部の東日本遠征(※詳しくは2016年12月4日(日)、国立ハンセン病資料館1階映像ホールでおこなわれたトークイベント「野球談議 嗚呼、新良田教室野球部 !!」記事を参照)のときも、ここで試合をしたんですか。

ここで2試合やりました。どこの療養所でも職員チームと入所者チーム、それぞれ1試合ずつやるので合計2試合になるんですね。このグラウンドは戦時中は芋畑だったそうですよ。サツマイモがよく採れた。今の野球場は戦争が終わって作り直したものです。

トークイベントでは、とにかく野球漬けの高校生活だったと話していましたが、ほかのことには、まったく興味はなかったんですか。

じつは音楽が好きなんです。私はクリスチャンで青森の教会でオルガン弾いたりしていました。正式にレッスンを受けたわけじゃないし、そのあと手を悪くしたのであまり弾かなくなりましたが、それでもときどき弾いたりしています。主旋律とハーモニーの2音くらいですけどね。学生時代はトランペットを吹いてました。

それは初耳です。というか、かなり意外ですね(笑)。

高校時代は野球部と吹奏楽部に入ってたんですよ。晴れたら野球、雨ならラッパ、そういう生活です。野球と音楽は、なぜだか子どもの頃から好きだったんですね。私が新良田教室に入った年に吹奏楽の楽器一式が寄贈されたんです。当時はトランペットなんて吹けなかったですけど、ぼく吹奏楽やります、と言って夢中になって練習したら、やっぱりものすごくおもしろいんですねえ。楽譜の読みかたなんかも練習しているうちに自然に覚えてしまいました。

今でも吹奏楽の演奏会があると、よく聴きにいきます。高校生くらいになると、かなりレベルも高いんですよ。私たちがやっていた頃は吹奏楽といったら行進曲だったけど、最近は交響曲の楽曲をアレンジして演奏したり、うまいもんですよね。このあいだは立川まで行って「カルメン(※ビゼー作の歌劇)」を観てきました。どちらかというと交響楽の方が好きだけど、オペラもいいですよ。

藤崎さんの好きな交響曲って何ですか。

好きな曲はメンデルスゾーンの交響曲第五番(宗教改革)。今まで聴いたコンサートのなかでは小澤征爾指揮のN響の「ベートーヴェン交響曲第五番(運命)」が一番よかったかな。……というわけで、老いてますます、やることはたくさんあるわけですよ(笑)。

予防法改正の前年に入所、
改正要求闘争を目の当たりにする

  • 松丘保養園へ入所したのは今から半世紀以上前の1952年4月のことだった

1943(昭和18)年、5月18日秋田市で生まれました。私が物心ついたときには、母親はすでにハンセン病にかかっていて、家の奥にある座敷でいつも寝ているという状況でした。私の家では母と私、私のすぐ上の兄の3人が病気になったんですが、私はとくに後遺症もありませんでした。兄は顔が腫れぼったくて、それでお医者さんに診てもらったら、病気だということがわかったんです。

青森の療養所(松丘保養園)に行ったのは、1952(昭和27)年の4月21日。このときも親子3人で行ったわけですが、私は病気になった2人のつきそいで行くのかな、くらいに思っていました。自分が病気だということは療養所に行く日になっても知らなかったんですね。

園では自治会の人、同じ秋田県から入所した人たちなどが待っていて、療養所のことをいろいろと説明してくれましたが、その人たちにはとても重い後遺症があって、私は恐くて思わず泣き出してしまったんです。食事の時間になっても食べる気にならず、その日はとうとう何も口にしませんでした。ところが不思議なもので、夜の献立だけは記憶に残っているんですね。ごはん、カレイの煮魚、それからおひたし。料理が並んだ様子は、いまでも鮮明に覚えています。

私が療養所に入ったのは1952年でしたが、翌年の1953年は、ちょうど「らい予防法」改正要求の闘争が行われた年なんです。あれは振り返ってみても、じつに壮絶な闘争だったんだなあと思いました。青森でもハンガーストライキをやったりしたんです。いま思えばまちがいなく予防法闘争は人権闘争だったと思います。

当時、藤崎さんはまだ小学校低学年ですが、予防法闘争の様子などは記憶に残っていますか。

よく覚えてますよ。夏の暑い時期なのにお寺に人が集まって戸が開いている。いったい何をやってるんだろうと思って、のぞきに行きました。そうしたら女性を含む4人の方がハンガーストライキをやっていたんです。私が見に行ったときはハンガーストライキの7日目。男の人は髭ぼうぼうで、目の悪い人はサングラスをかけている。そんな人たちが白装束で座っているわけです。なんだかよくわからなかったけれども、これはただごとじゃないと子供心に感じました。それからは園内でデモ行進をやったりするときも、どういうわけか先頭に立って歩いたりしてね。

あとで聞いてみたら、園にいた子供たちのなかでハンガーストライキの様子を見に行ったのは私だけだったようです。あとでみんなに聞いても、そんなの覚えてないというんですね。その後、私が自治会活動に関わるようになっていったのは、ひとつには、あの光景を目にしたからじゃないかと思うんです。

  • 新良田教室は1955年開校。1987年に廃校となるまで30年以上にわたって人材を輩出しつづけた。写真は長島愛生園内に残る校舎跡

その後、高校を受験して岡山の邑久高等学校新良田教室に入学しました。青森を出発したのは1959(昭和34)年4月10日。これ、なんの日だかわかりますか。もうみんな、何の日だったか覚えてないでしょう。この日は皇太子殿下(※現在の今上天皇)のご成婚の日なんですよ。国を挙げての祝賀ムード、園でも紅白まんじゅうが配られました。そんななか、岡山へ向けて出発したわけです。

東京へは翌朝の5時に着きました。岡山へは翌日の朝着の予定ですから、逆算すると東京を出発するのは、その日の午後3時くらいになる。出発まで10時間もあるけど、どうするんだろうと思っていたら、なんと客車の外から鍵をかけて、付き添いの職員がどこかへ行ってしまったんです。広い品川の操車場に、ぽつんと客車一両だけ置き去りです。弁当ふたつ──朝飯と昼飯ということだと思いますが──だけ渡されて、ほったらかしです。物や動物みたいな扱いじゃないか、我々に対する仕打ちとはこういうものなのかと思いました。

当時はまだ隔離政策が続いていた時代で、長島愛生園に行ってからも理不尽な扱いをされることはありました。しかし、それにもまして、このときのできごとは強く記憶に残っています。今まで生きてきた74年のなかで比べるもののない経験、人生のなかで、けっして忘れることのできない「屈辱の10時間」です。この思い出は天国までもっていくつもりでいますよ。

このときは青森から4人、途中宮城から4人、東京から4人、静岡から3人乗って合計15人で長島へ向かったんですが、みんなこれから同じ学校へ入る者同士、客車のなかは和気あいあい、楽しい雰囲気ではありました。でも東京を出発して夜になってくると、あらためて思うわけですよ。「あの操車場での10時間というのは、おれの人生にとって何だったんだろうか」ってね。

あとで聞いたら、そんなことを考えていたのは、どうも私ひとりだったみたいです。お前たち、あのときどう思った、ってあとで訊いたら、とくになんとも思わなかった、そんなこと考えてたのは藤崎くらいだろうって言われました。なぜだろうと不思議に思ってます。いまでも……。

  • 朝から晩まで野球漬けだったという高校時代。後列右から三番目が藤崎さん

長島では、たくさんの先輩たちが歓迎してくれて、そこからは私にとって人生でもいちばん楽しい時間が始まったわけです。新良田教室での4年間(※新良田教室は4年制の定時制高校)というのは本当に何ごとにも代えがたい、楽しく有意義な時間でした。勉強をしたという記憶はまったくありませんが、120名以上の若者たちがともに楽しく騒いで暮らした日々、これもまた決して忘れられない思い出です。

ずいぶん悪さもしました。誰かが丹精込めて育てていた柿を盗んで食べちゃったり、夏にスイカを盗んできて友達に売ったりしたんですね。売って入ったお金は夜食の費用に充てるんです。療養所の夕食は夕方6時前に出るでしょう。一日中野球の練習していると、どうしたって夜中に腹が減るんですよ。

いま考えると長島愛生園の人たちは、じつに寛大で優しかったと思います。高校生が少々悪いことをしても、咎めたりしなかったですから。本当にありがたいことだったと思っています。

野球部では途中からプレイングマネージャー(※監督の役割も兼ねる選手のこと)の役割を買って出たそうですが、それはどうしてだったんですか。

スパイクで足を怪我してしまったんですよ。病気で末梢神経が麻痺しているから怪我したことがわからなくて、気がついたら歩けないくらいまで悪くなっていたんです。これじゃ、しばらくは歩いたり走ったりはできないということで、プレイングマネージャーをやることにしました。

プレイングマネージャーは足の怪我がよくなってからもつづけました。当時の野球部の顧問は野球経験のない人で、練習にも顔を出さないんですよ。だから部員のなかに監督的な人間が必要だったんですね。私は3年のときからプレイングマネージャーをやっていたので、上級生も叱りつけてました。「おい、なにやってんだ、しっかりしろ」なんて言ってね。勝つために練習してるわけですから、そこのところは容赦ないわけですよ。

当時、卒業後の進路については、どのように考えていたんですか。

「どうせ療養所に帰るんだから、それでいい」くらいしか考えてなかったです。大学へ行く気はないし、後遺症があるので社会復帰も無理だろうと思っていました。ただ、新良田教室という学校は「らい予防法」改正闘争に関わった人たちが「将来、自治会で活躍する人材を育てるために、若い人たちには教育を受けさせた方がいい」と考え、大変な努力をして勝ち取ってくれたものなんですね。そのことに対する恩義というのは、ものすごく感じていました。

私は高校卒業後、青森に帰って自治会書記になったんですが、これも長島で過ごした4年間、そこで感じた恩義というものが理由だったように思います。受けた恩義は、やっぱり返さなきゃいけないですからね。そのあと、1964年に全患協本部が瀬戸内の長島から多磨へ移ってくるから書記として行かないかと言われて、東京にやってきました。昭和39年というと、これは東京オリンピックの年ですよ。競技の様子は浅草にある喫茶店でテレビで観てました。その喫茶店には当時はまだ珍しかったカラーテレビがあったんです。

本部に3年務めたあと、1967年にいったん青森に帰り、翌年1968年2月には全生園で知り合った女性と結婚式を挙げました。女房は沖縄出身だから、青森みたいな寒いところでやっていくのは大変だったと思うんだけど、そこはこう、うまくたぶらかしてさ(笑)。自治会の人が全患協ニュースに「南の花嫁、雪国に来たる」なんて記事を書いたもんだから、しばらくのあいだ、どこへ行っても冷やかされましたよ。

青森と東京を行ったり来たりする生活だったわけですね。

そんな生活がその後もずっと続くんです。1968年の1月から青森で自治会の執行委員になり、1974年まで務めました。そのあと1975年から、また全患協本部で二期4年。1980年からは青森で自治会副会長、1985年には、またしても本部に戻ってくるわけです。このときは7年半務めて1992年に青森に帰りました。

多磨全生園内にある納骨堂。いまでも藤崎さんは毎朝、お参りを欠かさないという

「生きてきてよかった」
そう感じてもらうための闘い

藤崎さんは2010年に全療協事務局長に就任されましたが、このときはなにかきっかけが
あったのでしょうか。

  • 藤崎さんは全療協事務局に毎日通って執務をとる

いよいよ本部も人がいないということになってきて、神さん(※神美知宏・元全療協会長。2014年にハンセン病市民学会の開催されていた草津で急逝)が青森まで訪ねてきたんです。2005年の春でした。「お前も女房を亡くして独り身になったことだし(※藤崎さんの奥様は前年の2004年逝去)、そろそろ東京にきておれの手伝いをしてくれないか」と言われました。それもありかなと思って、また東京に出てくることにしたんです。

藤崎さんが社会復帰という選択肢を選ばなかったのも、やはり自治会の仕事に対する使命感があったからなのでしょうか。

妻は健康でしたから社会復帰したいという思いを持っていました。妻のお姉さんも東京都内にいて、こっちに来れば仕事はたくさんあるからと言ってくれたんですが、私は「自治会の仕事が自分の天職だと思っているから、社会復帰をするつもりはない」と妻に言いました。

私がここで自治会の仕事をしているのは、過去何十年という長い年月のなかで手足を失い目を失った療友たち、こうした人たちがいま年を取って身体が不自由になり、人の世話に頼って生活しているわけですね。そんな彼らが感じてきた惨めな思いを少しでも払拭して、「やっぱり生きててよかった」と感じてほしいからなんですよ。それができないんだったら、私の生きている価値なんてないと思ってます。それが我々の使命なんですよ。

毎朝、仕事にくる前には全生園の納骨堂にお参りにいきます。いままでお世話になった先輩の方々、みんなに手を合わせて拝んでるんですね。どうか力を貸してくださいとお願いしにいくわけです。過去に生きた人たちの死をけっして無駄にしてはならない。そのことを再確認すると同時に、自分の気持ちを奮い立たせているんです。

現在、全療協が現在取り組んでいる課題にはどんなものがありますか。

全国の療養所は、どこも高齢化が進んでいますが、まずは人生の最期をどのように過ごしてもらうか。これが第一の課題ですね。毎日の介護のなかで、入園者の皆さんがぞんざいに扱われることもあるわけで、これは大げさでもなんでもなく人権問題であると思っています。

こうしたことをなくしていくためには、各園に人権擁護委員会のような組織をつくり、人権が損なわれるような行為があった場合には、すぐに正していく必要があります。職員の方々がなにげなくやっていることでも結果的に人権侵害になってしまっている、そういう事例というのは、見ていくとけっこうあるんですよ。

人権擁護委員会の組織を公正なものにしていくためには、外部の人たちに参加してもらうことも必要でしょう。弁護士の方でもお医者さんでもいいので、自治会がこれと見込んだ第三者に委員として入ってもらう。この人たちに入所者の声、気持を代弁してもらうことになります。これが、やはり大事なんです。こういう組織をつくってほしいと各園にお願いしているところです。

第二の課題はお医者さんの問題です。お医者さんのなり手がいないんです。全生園もかつては定員いっぱいまで、お医者さんがつねに揃っていたんですが、最近は辞めていく人が多い。とくに内科医の先生が減っているんですね。これは夜中に具合が悪くなったりする高齢者にとっては、非常に大きな不安材料なんです。辞める理由は給料が安いからなんですよ。

昔はよその病院を定年退職した方がお医者さんとして勤めるというケースが多かったんですが、最近は若い先生も多い。それはとてもいいことなんですが、給料があまりに安いと、その人たちの生活が立ちゆかないわけです。定年退職した人なら退職金もあるし、子育ても終わってるからいいんでしょうけど、若いお医者さんはまだ子育てが終わってない人も多いですから、教育費などがかかるわけです。これじゃやっていけないということで辞めていく。

現在、全国の療養所の医師充足率は70%くらいです。以前は90%近くでしたから、かなり低くなっています。これと見込んだ先生にいろいろお話して、来てくださいとお願いするんですが、最後に給料の話になると「意義のある仕事だと思いますが、これではやっていけません」と言われてしまう。とても残念なことです。こうした状況もなんとかしていきたいと思っています。

取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉