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People / ハンセン病に向き合う人びと

平中 忠信(北海道「はまなすの里」代表)

北海道出身のハンセン病回復者とその家族を支援する「はまなすの里」。
その15年の活動を牽引してきたのが代表をつとめる平中忠信さんだ。
御歳90歳。自身も若き日に病気との闘いを克服し、つねに社会的弱者に温かい目を注いできた。
その半生を振り返りながら、北海道のハンセン病回復者支援の実践の様子と将来の展望について話をうかがった。

Profile

平中忠信氏
(ひらなか ただのぶ)

1926年(大正15年)札幌生まれ。1958年(昭和33年)より北海道社会福祉協会に勤務。業務部長を経て福祉法人北海道共同募金会事務局長を勤め、86年(昭和61年7月)に退職。同年9月に福祉法人北翔会(重度心身障害児者施設)理事長に就任。その間、財団法人北海道ハンセン病協会理事・副会長を勤め、2002年に「北海道はまなすの里」を設立。1980年より北海道出身のハンセン病回復者を訪ねて、全国の療養所をまわっている。北海道社会福祉史研究会会長、日本福祉学院、北海道浅井学園(現北翔大学)等非常勤講師を歴任。

北海道出身のハンセン病回復者に
寄り添って15年

「はまなすの里」はどういう活動をされているのですか。

  • インタビューに同席してくれた「はまなすの里」副代表の磯田順子さん。平中さんの記憶の曖昧なところを的確にフォローして、息の合った掛け合いが見事。

  • 北海道の全中学・高校に配布された、ハンセン病問題を授業化するための教材。

「はまなすの里」は2002年に設立ですが、2001年には活動を開始していたので、もう15年になります。活動のメインは北海道出身のハンセン病回復者の皆さんへの訪問活動ですね。回復者の高齢化の問題もあって、最近は少し減ってきていますが、年に4〜5回は全国の療養所を訪問します。教員研修という形で東京の多磨全生園や、青少年研修では青森の松丘保養園に泊まり込みで行きますが、それも含めて年に4〜5回になります。

回復者の方々も平均年齢が85歳を超えてきましたからね。北海道出身の回復者は松丘保養園(青森県)に16人、長島愛生園(岡山県)1人、駿河療養所(静岡県)1人、多磨全生園(東京都)2人、東北新生園(宮城県)1人、栗生楽泉園(群馬県)に4人おります。菊池恵楓園(熊本県)の方は亡くなってしまいました。ずいぶん少なくなってしまいましたね。

また、北海道出身のハンセン病回復者に絵手紙を送る活動も毎月継続しています。始めた頃は絵の先生の指導を受けながら、3〜4年は習いましたか。回復者の皆さんは字を書くのが難しかったり、目が不自由な方が多いので、お返事はいただかなくてもいいですよという形で、毎月送らせていただいております。松丘保養園では、私たちが送った絵手紙の展示会を開催してくれています。同じ人の絵手紙が、いつも同じ回復者の方にいかないようにローテーションしているのですが、送られた絵手紙を部屋に飾って大事にしてくれている方もいます。

それと、北海道庁が主催している回復者の里帰り事業の支援があります。2年に1回実施していますが、これも高齢化で参加者が少なくなりました。多磨全生園には毎年参加されるご夫婦がいらっしゃいますが、今では、毎年参加されるのは数人になってしまいましたね。

里帰りされた方は、そのまま北海道に戻ることはないのですか。最初に「はまなすの里」とお聞きした時に、てっきり里帰りした回復者の方々が共同生活しているような場所があるのかと思いました。

社会復帰される方はいませんね。遅すぎたのです。療養所から出ることができるようになった時には、すでに高齢でしたから。実は最初は、そういう方たちのために共同生活の場をつくる構想もあったのですよ。けれども、回復者の方々は来ない。一時的な里帰りには来るけれども、また療養所に帰ってしまう。私たちの力不足もあるのですが、道庁のほうでも、そこにはまったく力を入れる気はないようです。

ハマナスは北海道の代表的な花です。アイヌの人々はこれを食用や薬(ビタミン補給)として活用していました。故郷を追われて、日本各地の療養所で暮らす北海道出身のハンセン病回復者の皆さんが、この支援ボランティアの活動で少しでも故郷に近づけるように努力しようと名付けました。「はまなすの会」ではなく「里」としたのも、回復者の皆さんの心の「ふるさと」になろうという想いをこめました。

回復者が帰れないのは、家族や親戚が受け入れないからです。いまだに家族との関係が修復されていないケースも多い。いまさら来ないでくれと言われる。たとえば、ある長男の方は、妹が何人も北海道で嫁いでいるにもかかわらず、札幌に講演に来てもらったりしても、ご家族の方との溝が埋まらない。本人が北海道に住めばいいのにと思いますが、「お兄さんどこにいたの?」という話になると、やはり家族も踏み込めないわけです。

このあたりのフォローが、政府のやり方も官僚的で「はい、今日から自由にどうぞ」といわれても、それは無理ですよ。やはり一人ひとりの身になって、あらゆる方面からの社会復帰の手を差し伸べないと難しいです。北海道はそれほど強くないといわれますが、療養所の方に聞くと、まだまだハンセン病の差別や偏見が根強い地域もありますからね。

「はまなすの里」が教育に力を入れているのも、ハンセン病回復者の方々を受けいれる社
会をつくっていこうということですね。

  • 「はまなすの里」の機関紙。右が10周年記念の第19号(2012年9月1日)、左が第23号(2016年2月1日)。

だから、療養所に泊まり込んで回復者の方々と交流したり、ハンセン病のことを勉強する青少年研修と教員研修を大事にしています。松丘保養園での青少年研修は、2014年まで毎年11回続けました。始めた頃は、「はまなすの里」の単独開催でしたが、第4回目より北海道と共催になっています。教育というのはそう簡単に目に見えて成果が現れるというものではなく、地道に活動していくしかないなと実感させられますね。

教員研修は「はまなすの里」10周年(2012年)の時に始めたのですが、5回目になる今年は看護師、社会福祉士、弁護士など専門職の方の参加が多かったですね。多磨全生園の資料館(国立ハンセン病資料館)でハンセン病の歴史や資料収集の方法を学んだ後、森元さん(森元美代治氏/NGO IDEA ジャパン代表→森元氏へのインタビューもご覧下さい)など、回復者の方々のお話を聞きます。また、道内出身の回復者のお話を直接聞くことを最も大事にしています。他に全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)の事務局長さん、自治会長さんのお話をうかがうなど、現場の方々に触れる事を中心に組み立てています。

学校に配布するハンセン病問題を授業に取り入れるための教材も作成されましたね。

2012年の第1回教員研修に参加した先生方から、これは学校教育の場にぜひ必要なことだから、教材にしようという話になりました。研修に参加した中学校の先生方が中心になってまとめて、素晴らしい授業化のガイドブックに仕上がったのが2014年です。ハンセン病に専門的に関わってきた牧野先生(牧野正直/邑久光明園名誉園長)に監修していただき、ずいぶん厳しく修正も入れていただきました。

この教材を「ふれあい福祉協会」の支援もあって、北海道内のすべての中学校・高校に配ることができました。その中で事例として扱ったのが、多磨全生園の鈴村洋子さんのお話です。教材の表紙に使わせていただいたお地蔵さんの絵も、鈴村さんが描いたものをお借りしました。巻き紙になっていて、とても素晴らしい作品ですよ。鈴村さんには教員研修でもお話いただきましたが、先日、北海道新聞の記事で紹介されて、初めて十勝出身であることを公表されました。

ほかに「はまなすの里」の活動としては、シンポジウムの開催や映画の上映会、会員の機関紙の発行があります。上映会では、2003年に『風の舞』(宮崎信恵監督)に2000人、2007年には『新・厚い壁』(中山節夫監督)に1000人を集めることができました。今年の『あん』(河瀬直美監督→原作のドリアン助川氏のインタビューもご覧下さい)も大盛況でした。

2001年の「北海道はまなすの里」発起人会。中央が平中さん、右から2人目が磯田順子さん。

役所の福祉活動に見切りをつけて
民間ボランティアによる支援へ

平中さんがハンセン病と関わるようになったきっかけは何でしたか。

  • 上は栗生楽泉園の重監房跡にて、「はまなすの里」会員研修より(2004年)。多磨全生園の国立ハンセン病資料館にて教員研修(2010年)。

「はまなすの里」設立を最初に呼びかけたのが2001年でした。ライ予防法が廃止になったのが96年ですね。私は、それまで北海道庁所管の財団法人北海道ハンセン病協会の事務局長でした。北海道社会福祉協議会と北海道共同募金会の事務局長も兼ねていて、社会福祉協議会での私の上司が、北海道ハンセン病協会の理事だった関係で関わるようになりました。

年に1回程度、北海道出身の回復者を訪ねて、全国の療養所に行くのがその財団の主な活動でした。昭和53年(1978年)だから、まだ事務局次長だった頃ですが、事務局長の代理で松丘保養園と、多磨全生園に行く機会があったのです。その時に、初めてハンセン病の方々に接して、びっくりしたのですね。なんだ、まったく問題ないじゃないか。普通に接する事ができるじゃないかと。当時は、回復者だけではなくて、治療中の方もいました。

その頃は、松丘保養園に北海道出身者が50名以上いました。北海道には療養所がなくて、東北6県と北海道の患者さんが青森の松丘保養園に集められましたから、保養園の4分の1くらいが北海道出身者でしたか。明治42年に最初に全国5つの療養所が出来たうちの1つです。

2001年に、最終的に財団を解散する事務作業をすべて私がやりました。会長は北大医学部長の先生で、私は理事で副会長だったのですが、会長が病気で倒れたので、事務局長であり会長の代理でもあった私が幕引きをしました。「はまなすの里」は2001年に準備会をつくり、2002年に発足したので、北海道ハンセン病協会を解散した時には、すでに準備を進めていましたね。

準備会の前に、有志7名を連れて、松丘保養園を訪ねて1泊の合宿をしました。そこで北海道出身の回復者の皆さんに会って、こういう事をしたいんだという想いをぶつけてみたのですね。その時に、平中さんの思う通りに、ぜひやって下さいと励まされて、決心できたのです。当時の松丘保養園の福西征子園長にも、大変お世話になりました。

なぜ、北海道ハンセン病協会を解散して、「はまなすの里」をつくろうと思ったのですか。

  • 青森松丘保養園で福西征子園長の講義を受ける青少年研修生(2006年)

  • 栗生楽泉園の桜井哲夫さんの部屋で記念撮影。

北海道ハンセン病協会は年1回、それも1カ所しか療養所を訪問しないわけです。実は、松丘保養園は過去2回火事にあってまして、その時に北海道出身者が全国6カ所の療養所に移されました。東北新生園、栗生楽泉園、多磨全生園、駿河療養所、長島愛生園ですね。一番遠いところでは菊池恵楓園(熊本県)にも1人入りました。

当時は福祉協議会のメンバーといえども、誰も療養所に行きたがらない。まだライと呼んでいた頃ですから。なので、私は志願して、松丘に残った人も含めて、7カ所全部訪ねてまわりました。結局、2001年に協会が無くなるまで、毎年訪問していました。行けば、皆さん涙を流して喜んでくださる。

これは、道庁の管轄の元でお役所的にやっていてもダメだと思いました。家族さえ会いに来てくれない方々ですから、もっと北海道の人々に訴えていかないといけない。そんな時に、やれ理事会だ、道庁の部長や課長の決済だと、ゴチャゴチャやってる場合じゃないと(笑)。

ハンセン病回復者の方々に話を聞くと、警察と保健所と道庁の役人がついてきて、ひどい時は畑で拘束されて、そのまま着替えもできずに連れていかれたとか、大変な目にあっているわけです。いわゆる「無ライ県運動」ですが、北海道でも各地で強引なやり方をしていたのですね。

すでに日本に憲法があった時代に、役所の人間がついていながら、そんな酷い事があるなんて想像できませんでした。けれど、そのことを一般の市民も黙認している。ライ病というと、みんな見て見ぬふりをする。知ろうとしない。北海道のような開拓された新しい土地柄でさえ、古い差別や偏見にとらわれているのはおかしいですよ。

しかも、松丘保養園に行くと、ほとんどが症状の軽い人でした。それなのに療養所に入る時に、わざわざ離婚させられた人もいました。療養所内で結婚しても、子供はつくってはいけないとか。そんな人権を無視したやり方を国がやってきたわけですよ。私は社会福祉協議会にずっとおりましたから、大きな矛盾を感じるようになりました。

それで官製のというか、上からの支援ではなく、ボランタリーな組織を指向された。

96年のライ予防法廃止で、全国で回復者支援のボランティア活動が活発になってきていた時期で、北海道のハンセン病回復者とその家族の支援活動も、役所の管轄ではないボランティアでやるべきだと考えていました。また、ちょうどその頃、私は地域の福祉活動でボランティアの導入を奨励していました。なぜか当時の教員にはずいぶん反対されましたが、保健師や看護師さんたちは理解してくれましたね。北海道では旭川あたりがすすんでいました。

現在は、「はまなすの里」の正会員・支援グループ・寄付者合わせて57名ですが、発足当時は100人程度いました。2001年に呼びかけた時の発起人は、記録を見ると20人ですね。今の副代表の磯田順子さんも、その時の発起人のひとりです。全国の療養所を訪問する出張費も、一部は会費から補填しますが、ほとんどが手弁当のボランティアです。

「はまなすの里」の15年を振り返ってどうですか。

  • 「北海道はまなすの里」に札幌弁護士会より『人権賞』が授与される(2009年)

まだまだハンセン病の問題全体からみると、ほんの一滴という感じですね。差別や偏見の問題は根が深いものがあります。札幌の高校には、われわれの機関紙を置いてもらっていますが、浸透するには残念ながらまだまだですね。けど、ハンセン病をめぐる空気感は少し変わってきたのではないでしょうか。全然知らないということは少なくなった気がします。

ハンセン病に限らず、障がい者全体についていえば、今はとくに嫌われるということが少なくなりました。新聞やメディアを見ても、同情的というか、開かれたというか、存在がきちんと認められてきましたよね。そういう意味では、われわれのやってきたことは、その先鞭をつけるという意味で、多少なりとも役に立ったのかなと思っています。それだけに、相模原の障害者施設で起きた事件は残念でなりませんね。やっぱり、まだまだなんですかね。

最近は弁護士グループとの協力会があって、出前授業とか活発にやってくれていまして、先日も北広島の学校の先生が、われわれの会員にもなって、研修にも参加してくれました。こういう理解を少しずつ増やしていくしかないと思っています。これからも青少年研修、教員研修を中心に地道な活動を続けていきます。教員に限らず、ぜひ一般の方々にも拡げていきたいですね。

戦争の10代、病苦の20代、
30代で福祉との出会いが人生を変えた

大正15年生まれといえば、昭和元年と重なっていて、昭和とともに歳を刻んで歩んでこら
れたわけですよね。

  • 幕別町図書館(北海道)の企画展「知ってる?ハンセン病のこと」で講演をする平中さん。

  • 企画展を主催する「まくべつBOOKサポーター/図書館エディター」のメンバーとの記念撮影。

私の青春時代はずっと戦争でしたからね。戦後の20代は悪戦苦闘というか七転八倒というか。戦後すぐに結核をやりまして、今でも右側に多発性関節炎が残っています。下半身はずっと痺れたままです。何度も挫けそうになりましたが、それでも「なにくそ!」という不屈の精神というか、病気に負けてたまるかという気持ちで立ち上がってきました。

社会福祉協議会の仕事に入ったのが32歳でした。それで人生が大きく変わりました。それまでの20代は、本当に苦しかった。何をしていいかさえわからずに、ただもがき苦しんでいましたね。母が結核でしたし、兄も結核で亡くなりました。弟も結核を患いました。結核に対する知識もなかったですから、家庭内で感染したのでしょう。

召集令状は来ませんでしたが、19歳のときに軍属として働いていました。兄2人が戦争に駆り出されて、母は結核で、父も病気で半身不随でした。だから、病気の両親と弟をかかえて、私が働くことで一家を支えていましたから。父は大きな時計屋をやっていたので、その時の蓄えが多少あったのと、私が夕刊の新聞配達をして1円50銭もらい、1円は米代になって、残り50銭で私と弟の身の回りの事を賄うということで、生活保護ももらわずに、なんとか食いつないでいました。

23歳で結核になって、北海道大学病院から国立整形外科療養所に送られたのですが、どうせ療養所から出られないのなら、アイヌの事を勉強しようと思って、日高門別の病院を探して、そっちに移らせてもらいました。そこで、ちょうどアメリカ軍が日高門別の土地を接収して演習地にするという騒動があって、『日高門別演習所』というルポルタージュを書きました。

ルポルタージュというと、作家や記者を目指していたのですか。ほかにも世に出た著作物がありますか。

若い頃は詩を書いていました。ルポルタージュというのも、自分ではスケッチと呼んでいて、極めて短い言葉で、状況をとらえて表現していました。農村地帯を歩いた記録『西足寄開拓地』とか、いま自分で読んでも、よく描けているなと(笑)。『北方農業』などの雑誌に掲載されたりして、若干の収入があったと思いますよ。

90歳になって、自分の生涯を自伝にまとめたいと思っていますが、それ以外にもすでに書籍になっているものもあります。主に福祉関係の、恵まれない人のために尽くした人物の伝記が多いです(シリーズ『福祉に生きる』(大空社)/25巻『山谷源次郎』、42巻『小池九一』など)。あと、函館の福祉事業についてまとめたものや、トラピスト修道院の孤児院について書いたものもありますね。

驚いたことに、私が書いた詩や、そういう著作物を熱心に集めてくれている研究者がいるのですね。私が20代の頃に雑誌に投稿した、昭和30年までの詩や著作をまとめて第1巻にして、「平中忠信全集」を出すといっていて、おそれいりました(笑)。今も頼まれている福祉関係者の伝記があるのですが、この歳になると、なかなか進まなくて困ったものです。

90年の人生を歩んでこられて、「はまなすの里」の活動を含めて、これから何をされたい
ですか。

  • 平中「これから磯田さんのような若い人達に頑張ってもらって」
    磯田「あらやだ、私ももう70なんですから!代表に比べれば若いですけど(笑)」

私が結核を患った頃、当時の結核患者というのは、まわりにとても恐れられて、隔離もされました。それが時代とともに、いろいろな社会的なケアをするセクションができて、今では療養所も無くなりました。ハンセン病にも、そういう社会復帰をコーディネートする機関が必要です。私は、今のハンセン病の療養所は廃止して、特別養護老人ホームをつくるといいと思っています。

この話を函館出身で懇意にしていただいている邑久光明園(岡山県)の青木美憲園長(→青木美憲氏のインタビューもご覧下さい)にしたら、まったく同意してくれました。一般の人でも入れる特養にすることで、もっと垣根が下がりますよ。ハンセン病に関しては、どこか腰の引けている国の役人には耳が痛いかもしれませんが(笑)、そういう大胆な提言もしていきたいですね。

それにしても、まさかこの歳まで「はまなすの里」をやっているとは思いませんでした。女房には、いつまでやるつもりなの、もういいかげん辞めなさいと口を酸っぱくして言われてますよ(笑)。私も、もう引退すると言っているのですが、なかなか代表という肩書きをおろさせてもらえない。

振り返ってみて、長年福祉畑で活動して来てよかったなと思います。だから、辞めるというより、次のリーダーに継承していかないといけませんね。ハンセン病のような特殊な問題だけではなく、他の病気などで困っているグループに対しても、ぜひ協力して支援していけたらと思っています。

取材・編集・写真:太田剛