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平沢 保冶×笹川 陽平(WHOハンセン病制圧大使)対談 vol.1

長年、ハンセン病にまつわる偏見、差別と闘い、回復者の人権回復のため運動を続けてきた平沢保治さん(88歳)。
その平沢さんとWHOハンセン病制圧大使・笹川陽平氏とは、長年の友人同士でもあるという。
「ちょっと早めの誕生日祝い」のため、平沢さんが陽平氏を全生園に招いたのは2014年も押し迫った頃。
心づくしの宴と対話が、多磨全生園内にある平沢さんの自宅で、和やかな雰囲気のうちに始まった。

Profile

平沢 保冶氏
(ひらさわ やすじ)

国立ハンセン病資料館運営委員・語り部。前多磨全生園入所者自治会会長。東村山市身体障害者患者連絡協議会副会長。
1927年茨城県古河市に生まれる。14歳のとき多磨全生園に入所、現在に至る。1950年範子夫人と結婚、その際に断種手術をうける。その後、ハンセン病回復者・患者及び障害者運動にかかわり、一方で多磨全生園を「人権の森」として地域の人々に憩いの場として受入れてもらいたいと療養所の緑化・植樹運動に取り組む。さらに隔離されてきた入所者の生きた証を残し、ハンセン病史から得られる教訓を後世に伝えたいと、ハンセン病資料館の設立に尽力する。近年は、資料館の「語り部」として、地域の小中学校の子どもたち、看護学校の学生を対象にした人権教育に積極的に携わる。年間5千人の子どもと会い、自らの人生を振り返り、「生きていくことは簡単じゃない。でも辛さに堪えられる人間になってほしい。」と語りかける。ハンセン病の哀しい歴史を踏まえて、しかしそれでも希望を捨てなかった自らの生きる姿を見せて、希望という虹のかけはしが未来にもかけられるよう、子供たちに生きる力を注ぎ続けている。

笹川 陽平氏
(ささかわ ようへい) WHOハンセン病制圧大使

1939年1月8日東京生まれ。明治大学政治経済学部卒。現在、日本財団会長、ミャンマー国民和解担当日本政府代表、WHOハンセン病制圧大使、ハンセン病人権啓発大使(日本政府)ほか。40年以上にわたるハンセン病との闘いにおいては、世界的な制圧を目前に公衆衛生上の問題だけでなく、人権問題にも目を向け、差別撤廃のための運動に力を注ぐ。ロシア友好勲章(1996)、WHOへルス・フォア・オール金賞(1998)、ハベル大統領記念栄誉賞(2001)、読売国際協力賞(2004)、国際ガンジー賞(2007)、ノーマン・ボーローグ・メダル(2010)など多数受章・受賞。

同じ失敗を繰り返さないために。
ハンセン病の歴史を語り継ぐということ

笹川 僕は本を出版しても、何をしても、お祝いごとってしたことがないんだ。でも、平沢さんが「今度笹川さん来たときには、誕生日のお祝いでお酒を飲ませます」って言ってくれたから、今日は全生園までやってきました。あなたの言うことを聞かないわけには、いかないからね。

平沢 先生は、私よりもひと回りも若いんだから、これからも頑張ってもらわないと。では、先生のこれまでのご活躍に感謝して、これからも一緒に頑張りましょう。

笹川 ありがとう。

平沢 これ、さつまいもの乾燥芋なんだよ。食べてください。昨日茨城から送ってきた。私は今、茨城大使もやってるからね。(部屋にある写真を指さしながら)見てくださいよ、この写真。これは早稲田大学行ったときにね、吉永小百合さんと一緒に撮ってもらったの。私、鼻の下長くしてるでしょう(笑)。

笹川 本当だ(笑)。それにしても人間、科学技術は進歩して、生活は便利になったけれども、こと心の問題ということになると、あまり進歩していないように思えるね。過ちばっかりで、世界中でいまだに民族紛争や戦争が続いている。そんな中で、ハンセン病にまつわる問題というのも人類が犯してしまった大きな災い、負の遺産だと思うんです。それを、きちんと後世の人たち、とくに子どもたちに伝えていかないと。ハンセン病の問題を忘れてしまったら、また同じ失敗をしてしまう。

平沢 小平市にもね、精神保健福祉法が改正されたとき、精神障がい者の施設ができたんですね。そのときも、反対の声があがったんです。そこで私たちが中心になって支援活動をしました。だから私はハンセン病だけじゃなくて、エイズ(HIV)患者、精神障がい者、障がい者、知的障がい者、こういった人たちもみんな同じような問題に直面していると思っているんです。

 昔、私が結核の患者会に出席したときも、私が座った席や触った手すりなどを消毒していたなんていう話を、あとでよく聞いたものです。でも、それで彼らとケンカしてしまったらダメなんですね。なぜ、そういうことをするんですか、ということをよく聞いて、彼らを説得しなきゃいけない。私たちは常に少数者なんだから。

 全生園の緑化運動、今は「人権の森構想(註:全生園に関わる施設、森などを人権の森として保全、保存しつつ、地域に開放するという構想)」っていってますけど、これも最初に木を植えたときは「国の土地にいくら木を植えたって、療養者がいなくなれば、みんな切り倒されて終わりじゃないか」なんて、よく言われたものです。

笹川 この広い療養所を、今後どうしていくかというのも大きな課題ですね。平沢さんたちが、周辺の住民の人たちのために木を植えて、それがこんな立派な森になった。これをきちんと保存していくためには、どうしたらいいか。これは相当知恵を巡らせないといけないと、いつも思っているんですけどね。

平沢 全生園の敷地というのは国有地ですから、利活用するにしても、なかなか簡単にはいかない部分もある。けれども私は環境庁などに働きかけて、国立公園として残すべきだと思っています。親しくさせてもらっている宮崎駿さんに、お力を貸していただいて「人権の森構想」という運動をやっているのも、だからなんですよ。

1本ずつ手で植えることから始まった
約3万本、252種類の「人権の森」

平沢 私は全生園に14歳で入所して、少年寮の雑居部屋で軍国少年として教育を受けました。「お前たち、らい患者も天皇陛下のために鬼畜米英を殺せるようになれ」って。でも、戦争が終わったら、アメリカで治療薬のプロミンができていたことがわかって、私は、やっぱりどこの国の人とも仲良くしなきゃいけないと思いました。

 石館守三先生がプロミンの合成に成功したけれども、日本では当時、プロミンを治療に使ってくれなかった。私の場合は母が土地を売って、プロミンを独自に入手してくれたんですが、薬の量をどれくらい使ったらいいものか、わからなかったんです。結果、私は手に障がいが出て、竹細工の仕事ができなくなってしまった。それで、手が悪くてもできる園内緑化の仕事を始めたんです。だから私は庭師二級の資格も持ってます。

 園内で緑化の仕事をしながら、外では「らい予防法廃止運動」とか、そういった活動をしていたんですね。1960年頃には自治会の役員になって、地域を飛び回っていたら今度は全身神経痛になって、これも後遺症になってしまった。その後、元気な人が外へ出て働くようになると、全生園には身体の弱い人たちばかりが残るようになってしまいました。そこで自治会を再建することにしたんですが、その再建の目標として掲げたのが緑化運動だったんです。

笹川 そんないきさつがあったんですか。

平沢 それまでにもいろいろな差別、それこそ唾を吐きかけられたりもしましたけども、怨念を怨念で返すところに未来はない、私はそう信じています。そこで感謝の印として、緑の森を残していこうと決心したんです。1970年代のことでした。

笹川 当時はまだ環境問題とか、植樹運動もなかったころでしょう。

平沢 そうやって緑化運動をして、ハンセン病の歴史が終わったときに緑の森が残るようにしたいと思ったんです。北條民雄(※註:多磨全生園に入所後、「いのちの初夜」などの作品で知られるようになった小説家。1937年没)ゆかりの図書館も、あまり人がいかなくなったっていうから、ハンセン病文学を中心とした図書館を作ろうということで、このあいだ亡くなった山下(道輔)君なんかを中心として、やりました。これも私たちがいなくなったあと、どう語り継いでいくかという「資料館構想」の一部です。国立ハンセン病資料館ができたことで、我々に対する社会の目もだんだん変わってきましたよ。

 一方、私はさまざまな方々のおかげで、世界のいろいろな国にも行くことができました。とくに笹川記念保健協力財団の方々には、たいへんお世話になりました。そんな経験をして以来、私のモットーは「足は地元に、目は日本に、ハートは世界に」なんだって、あちこちで言ってるんです。これ、カッコいいでしょ(笑)?

笹川 カッコいいねえ。それはいい標語だ。でも平沢さんは、それを実際にやってきた。有言実行の人だからね。標語だけで終わってないですよ。木は全部で何本くらい植えられたんですか。

平沢 大体3万本くらい。252種類。今は山茶花の早咲きがピンクと赤、それから白が咲いてる(2014年12月時)。これが終わるとロウバイが咲いて、ロウバイが終わると紅梅が咲く。普通の梅が咲くのは、そのあと。春になって桜、ツツジだね。

 今から20年前くらいには、われわれはふるさとには帰れないけど、せめて、ふるさとの森を作ろうということで、「県木の森〈けんぼくのもり〉」というのを作りました。園内に各県の木を植えるわけです。東京だったら銀杏、北海道はエゾマツとかね。ほかにも島根県の黒松とか秋田県の秋田杉、茨城県の梅。それも全生園の中にあります。

 我々の先輩たちも、つらかったけど、いつの日かハンセン病が治って故郷に帰れる日が来るんだっていう夢と展望だけは捨てなかった。今では東村山市も委員会を作って、「人権の森構想」を進めてくれてます。山吹舎っていう私が昭和20年から5年間暮らした昔の宿舎を復元したり、「望郷の丘」を復元したりね。

 「望郷の丘」というのは、大正11年から3年間、患者が逃げないようにといって全生園のまわりに2メートルの深い掘を掘らされた。その土を先輩たちが積み上げて、10メートルの丘にしたんです。そこに登るとふるさとが見えるといってね。それで、誰言うともなく「望郷の丘」という名前がついた。ハンセン病の歴史は、すごく残酷だけど、そこには常にロマンがあったんです。人生にはロマンがなけりゃいけないって私は思うんですね。先生もそうでしょ。ロマンがあるから、世界の国々まで行けるんだよ。

病気との闘いと差別との闘い。
道のりは遠いが、常に希望をもって

平沢 2015年1月には熊本で行われる国のハンセン病シンポジウムがありますが、厚労省の人たちには若い世代の人たちを中心に取り組んでもらったらいいって、さかんに言ってるんです。やっぱりこれからの世の中は、若い人たちが変えていかなきゃ。

笹川 若い人たちは真面目だし、旧い考えに捕らわれたりしていないからね。彼らが中心になるっていうことは非常に意義のあることですよ。そのためにも世界のハンセン病に関する資料を後世に残し、伝えるということが大事なんだね。このあいだはモロッコの他にスペイン、ポルトガルにも行きましたけど、そういったところでも過去の資料は、かなりきちんと残っていましたよ。

平沢 スペインの場合は、ハンセン病の療養所といっても、カトリックの教会がかなり多いですよね。先進国は教会が中心になって日本よりも一世紀くらい早く解決に向かっていたし、開発途上国に関しては、笹川先生たちの力で、かなりよくなってきた。

笹川 日本財団が世界にMDTの薬を無料配布した5年間(1995年〜)で治癒した患者数は、およそ500万人と言われています。それをノバルティスが引き継いでくださっているおかげで、その分の予算を社会活動家や看護師さんの支援に使えている。非常にありがたいことだと思っています。しかし「差別との闘い」というのは、まだまだ始まったばかりです。この道のりも、かなり長いでしょう。

平沢 それは、世界中どこでも同じですね。最初に(国立ハンセン病)資料館を作ろうとしたときも、なかなか資金が集まらなかったんです。それで地元の中学生、高校生のボランティア、それから看護学校の生徒さんたちと、駅前に立って募金をお願いしたりもしました。そのときも「なんだ、平沢さん、障がい者だと思っていたら、らい患者だったのか」なんてことを言う人もいてね。入所者も、誰も行きたがらない。行くのは、私と小田倉君ふたりでした。

笹川 ここの資料館も、だんだん立派になってきたから、これからは外国の情報も入るようになるといいですね。

平沢 先生には身体に気を付けて、まだまだ元気でいてもらわないと。まだ先生は75(歳)でしょう。1月で76(歳)だよね。

笹川 そう。しかし、人の誕生日までよく覚えてるね(笑)。

平沢 最初会ったときに何年生まれだって聞いたら昭和14年だっていうでしょう。昭和14年は西暦1939年だから、計算したらすぐわかるじゃない。しかも私のひと回り下だから、忘れようがないんですよ。私が100歳になったら、先生は88歳になるんだよ。今の私と同じ年だ。

笹川 そのときは、2人で100歳と88歳のお祝いをしないといけないね。

(つづく)