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People / ハンセン病に向き合う人びと

紀伊國 献三(笹川記念保健協力財団会長)

世界のハンセン病のために、人道的・科学的見地から、大胆な施策の数々を提言し実行してきた笹川記念保健協力財団は、
信念と使命感に燃える人びとの数奇な出会いによって生まれた。
病院管理と医学教育のエキスパートとして日本の医学界に尽力しながら、財団の活動の中枢を担ってきた紀伊國献三さんに、
ご自身の半生とともに財団創生期の懐かしいエピソードを振り返っていただきました。

Profile

紀伊國 献三氏
(きいくに けんぞう) 笹川記念保健協力財団会長

1933年生まれ。57年国際基督教大学卒業、61年米国ノースウェスタン大学大学院病院管理研究科卒業。61年より厚生省病院管理研究所で研究員・主任研究官。78年よりWHO公衆衛生専門委員。筑波大学医学専門学群、国際医療福祉大学などの立ち上げに携わるとともに教鞭をとる。ミズーリ大学医学部医療管理学客員教授、東京女子医科大学でも客員教授をつとめる。99年日本医師会最高優功賞、2006年日本医学教育学会牛場賞、2008年中国衛生奨、2009年ヘルシーソサエティ賞などを受賞。笹川記念保健協力財団には創設時から理事としてかかわり、1993年より常務理事、2000年より理事長、2013年より会長をつとめる。

笹川記念保健協力財団が
生まれた日

紀伊國先生は、笹川陽平さんとともに、
笹川記念保健協力財団が誕生する瞬間に立ち会ったおひとりですね。

  • 左:石館守三氏 右:笹川良一氏
    石館守三氏は笹川記念保健協力財団初代理事長(1974~92)

まさに「歴史的瞬間」の目撃者です(笑)。

1973年、笹川良一さんの支援を得て、日野原重明先生がつくられた「ライフ・プランニング・センター」の第1回目の理事会のあとの昼食会が新日本閣で行われました。そのとき、理事の石館守三先生が、「われわれは世界のハンセン病患者のためにも何かをすべきである」という話を切り出したのです。すると笹川良一さんが膝を叩いて、「私はハンセン病にものすごく関心があった。石館先生がリーダーになってくださるなら、私の終生の事業にする」と言われて、笹川記念保健協力財団がつくられることになったわけです。

石館先生は、日本薬学界の父とも言われ、初代の東大薬学部長をつとめられた方です。石館先生が合成した「プロミン」のおかげで、日本の多くのハンセン病患者が救われたことはご存じですよね。

その石館先生が、「日本のハンセン病は、歴史的に外国人の助けを受けてきた。ところが世界を見渡せば、ハンセン病の問題を抱えた国や地域がまだまだある。これに対して日本が何かすることは日本の光栄な義務である」とおっしゃったのです。その言葉はまだ私の耳に残っていますよ。

私はそれまでハンセン病のことはほとんどわかっていませんでした。でも、この“事件”をきっかけに、世界のハンセン病患者のための仕事に携わることになったわけです。

そもそも紀伊國先生は病院管理のエキスパートですよね。
なぜその席に立ち会っていらしたのですか。

  • 笹川記念保健協力財団第2代理事長の日野原重明氏と理事の皆さん
    前列 左:日野原重明氏 右:大谷藤郎氏
    後列 左から、湯浅洋氏、山口和子氏、紀伊國献三氏

それを話し出すと長い長い物語になりますよ(笑)。私が病院管理を専門職にするきっかけをつくってくださったのが日野原先生です。

日野原先生と出会ったのは、ICU(国際基督教大学)です。じつは私はICUの第一期生なんです。ICUは湯浅洋先生のお父さまがつくられた大学で、湯浅先生とも私は同期なんですよ。日野原先生はそこで、保健体育の授業を担当されていた。卒業間際になって、先生に将来のことを相談したところ、「病院管理をやったらどうか」と言って、マッケクランというアメリカのお医者さんが書いた一冊の分厚い英語の本を貸してくださったんです。これが大変おもしろい本でした。

そうして、先生が医長をつとめていた聖路加病院で病院管理のレジデントとして2年間働くことになり、再び日野原先生の勧めでフルブライトの試験を受けて合格し、氷川丸でシアトルに行き、そのあとシカゴにあるノースウェスタン大学大学院でマッケクランが創始したプログラムを学ぶことができたのです。またアメリカのマスターコースでは実際の病院で実習もできますので、たいへん充実した勉強ができました。

ところが、シカゴの病院で研修中に、聖路加の橋本寛敏院長から電話があり、急遽日本に呼び戻された。なんでも厚生省が病院管理研究所をつくることになったので、そちらに行ってくれないかというんですね。

当時、日本では東京女子医大などで病院ストライキが起こって大騒ぎになっていたのです。それで中山マサさんという日本初の女性厚生大臣が、日本の病院管理を改革するための研究所をつくると国会で発表してしまい、大慌てで研究員を探していたらしい。こうして1961年6月から、新宿の戸山町の国立東京第一病院の敷地内につくられた、厚生省病院管理研究所に勤務することになりました。

日本の病院管理は、アメリカに比べてかなり遅れていたんですか。

戦後、GHQがきたとき、日本の病院を見て、「アメリカの中世期の状態だ」と酷評していますが、たしかに病院管理という面ではかなり遅れていたでしょうね。私の父が大学病院に入院したときは、母親が布団をかついでいって、病院で三食つくって父に食べさせたりしたものでしたよ。日本の病院が完全給食、完全看護になるのは戦後のことです。それまでは病院が提供するのは寝る場所だけという状態でした。

日本の病院が近代化されてからも、とくに医大や大学病院にはいろいろな問題がありました。じつは日本の大学紛争は東大の医学部に始まっているんですね。あまりにも保守的で、階層性がきつく、医学教育の方法論も確立していなかった。また診療よりも研究を重視して、患者本位の病院という発想がない。各科別の病院がたまたまひとつ屋根の下に集まっているというような状態で、いろいろな病気を抱えている高齢者などは、いったいどこの科に行ってみてもらえばいいのかさっぱりわからない。

私は、こういった日本の医学教育や大学病院のあり方こそ改革すべきだと考えていましたので、16年間にわたって病院管理研究所につとめながら全国の労災病院の管理などに携わるとともに、筑波大学の医学の創設にもかかわりました。なにしろ私も若くて血気盛んでしたからね(笑)。思い切って、研究よりも教育と診療を重視したプログラムの導入や、患者さんを科別で分けないための病棟編成を進めましたよ。

信念をもつ人々の出会いが
出会いを呼んでいく

そういう経験から、日野原先生の「ライフ・プランニング・センター」の
立ち上げにもいろいろ尽力されたわけですね。

もともと国際基督教大学のなかに、地域のための病院をつくるという計画があり、日野原先生と私も準備を進めていたのです。ところが学園紛争が起こってしまったため、計画が立ち消えになってしまった。この新しい病院は、「予防医療」という日野原先生の考え方を具現化するような病院になるはずでした。そのためにすでに声をかけていた人たちもいましたので、いまの砂防会館のなかに、予防医療のためのクリニックを急遽つくることになったわけです。なにしろ資金がないので、日野原先生も私もえらく苦労しました。検査用の冷凍ストッカーが必要になり、一計を案じて、中古のアイスクリームの冷凍庫を安く買って代用したりしましたよ(笑)。

その2年目の夏のことです。日野原先生の患者さんで大森正男さんというゴルフ場のオーナーがいましてね。その方の仙石原の別荘で、クリニックの中心メンバーが集って反省会と勉強会をやったんです。ちょうどそのとき、箱根にある大森さんの別な別荘に偶然、笹川良一さんが滞在されていて、突然倒れてしまったんですね。急遽、日野原先生が呼ばれて、往診に行きました。このとき、日野原先生は笹川良一さんに出会うわけです。

笹川記念保健協力財団誕生のきっかけになった、最初の“大事件”ですね。

笹川さんの具合はかなり悪かったらしいのですが、幸い、日野原先生の往診でよくなられた。このとき、日野原先生の「予防医療」という考えを聞いた笹川さんは「私は消防をやってきた。消防においても大事なことは予防なのだ。皆さんの考え方はたいへんすばらしい」と言って、クリニックを支援していただけることになったわけです。

支援を受けるためには財団法人をつくる必要があるとのことだったので、私がさっそくその手続きにあたりました。財団の名称は、日野原先生とともに考えに考えて「ライフ・プランニング・センター」にしました。患者さんのライフプランをサポートする医療をめざそうという意図を込めたもので、私たちも大変気に入りました。厚生省のお役人からは「カタカナ名の財団なんか認可したことがない」と言われたのですが、幸い理事に名前を連ねてくださった石館先生の教え子が厚生省にいたこともあって、その名前のままで通すことができました。

先ほど申し上げた新日本閣の“事件”というのは、この「ライフ・プランニング・センター」の第1回目の理事会のあとに起こったことだったわけです。それからわずか1年後には、笹川記念保健協力財団を設立することができました。

「笹川記念保健協力財団」という名称はどのようにして決まったのですか。

  • 「らい予防法」廃止に尽力した大谷藤郎氏と

「保健協力」というのは石館先生の考えによるものです。私たちがやるべきことは「援助」という上から目線のやり方ではなく、あくまで対等な関係による「協力」なのだということに石館先生は非常にこだわっていました。

そこに「笹川記念」とつけたのは私のアイデアです。なにしろそのときすでに笹川さんは75歳、石館先生も73歳という高齢でしたからね。こんな二人が出会って信念をもって「終生の事業」を立ち上げたんですから、先々のことを考えて「笹川記念」としたほうがいいと考えたわけです。ところが、またしても厚生省からは「まだ生きている人の名前に“記念”を付けた財団名なんて前例がない」と文句を言われました(笑)。このときも食い下がって、最終的に通してもらいました。

このとき、財団のあり方について私が相談させていただいたのが、大谷藤郎先生です。そのときは国立療養所課長をされていました。ハンセン病については日本にはすでに藤楓協会があるので、あなたがたの財団では国際的な活動をされるのがいいだろうというアドバイスをいただいたのです。のちに、大谷先生には、笹川記念保健協力財団の理事になっていただきました。

大谷先生は、「らい予防法」廃止や、
国家賠償訴訟のときにも中心になられた方ですね。

厚生省の公衆衛生局長、医務局長にまでなられて、退任されたあとにガンにかかったのですが、命がけで「らい予防法」の廃止に尽力されました。私は大谷先生から言われて、那須に国際医療福祉大学をつくるときにお手伝いをさせていただいたのですが、ちょうど例のハンセン病の裁判があった時期でしたので、原告である患者さん側の立場と、被告である国の立場のあいだで悩まれている大谷さんの姿を見ていました。本当にすばらしい、偉大な方でした。

信頼関係にもとづく
WHOとの連携

日本財団や笹川記念保健協力財団とWHO(世界保健機関)との
パイプづくりはどのように進んだのですか。

  • 盟友となったハーフダン・マーラー氏と(元WHO事務局長)

それも偶然から生まれたことだったんです。笹川良一さんは朝早くに電話をするのが好きな人でしてね。そのときも朝5時半くらいに私のところに電話があった。何事かと思えば、「私は今度76歳の誕生日を迎えるにあたり、100万ドルを用意した。これをアフリカのハンセン病に悩んでいる20カ国にあげたいのだが、どうすればいいか」と言うんです。私は銀座にあった笹川さんのオフィスに出向いて、「アフリカの国々にお金をあげても、うまくハンセン病のために使われることはないでしょう。WHOという国際機関がありますので、そこにお金を出して、計画をつくらせたらどうでしょう」と申し上げました。笹川さんが「WHOというのはどこにあるのかね」と言うので「スイスのジュネーブです」と答えると、「じゃあ君、明日行って、話をつけてきてくれ」。「これはえらいことになった」と思いましたね(笑)。

それでも1カ月後には石館先生と、犀川(一夫)先生とともにジュネーブに行き、事務局長のハーフダン・マーラーさんとお会いしました。そのころ、WHOでは資金不足のためにハンセン病のためにあまり有効な活動ができていなかったので、マーラーさんは、申し出に対して、非常に喜ばれました。

そうして日本に帰ってきてからしばらくすると、今度はマーラーさんが時差を間違えて朝の4時に私に電話をかけてきたんです。「いまWHOは天然痘撲滅の重要な時期にある。あの100万ドルの一部を天然痘に使わせてくれないか」と言うのです。私がそのことを笹川さんに相談しますと、笹川さんはひと言、「その男は信用できるかね」と聞きました。私はマーラーさんとは1回会っただけですが、結核の専門医として中米やインドでボランティア活動をされてきた経歴などを伝えたうえで「信用できると思います」と答えました。

そうしたら、笹川さんは、「“このお金はあなたに差し上げたのです。自由にお使いください”というふうに伝えてくれ」と言われました。さすがに、修羅場をくぐってきた大人物だ、人の心をつかむ術を知っている人だなと感心しましたね。

マーラーさんは、100万ドルものヒモ付きでない寄付は初めてだとさらに喜ばれました。この資金のおかげでWHOの天然痘撲滅が成し遂げられ、またこのことがきっかけで、WHOと私たちのあいだに信頼関係が生まれ、今日まで続いてきたわけです。

紀伊國先生の何事も恐れぬ実行力もすごいですね。
だから新しい大学や組織の立ち上げのときには必ずお呼びがかかる?

ははは。新しもの好きなんかなあ(笑)。でも、ほかの人がやらないこと、やらない方法をつねに考えるようにしてきました。会議などでも、私は「満場一致はありえない」とよく言うんです。満場一致になりそうだったら、「ほかの考え方もあるんじゃないか」と言って、意識的に伸ばすようにしますね。そうして、何か新しいこと、新しい方法を求めているようなところがあります。私は長らく医学教育にも携わってきましたが、学生たちにも「ほかの人たちが行かないところに行ってほしい」と言い続けてきました。

国際基督教大学の第1期生ということも関係しているかもしれませんね。先輩がいないからすべて自分たちで切り拓いていかなければならない。あの体験によってパイオニア精神が育まれたのかもしれません。

WHOと日本財団および笹川記念保健協力財団の皆さんの連携によって、
世界中のハンセン病患者が激減してきました。
これからのハンセン病対策の課題は何だとお考えですか。

  • 各国語で作成された「ATLAS OF LEPROSY」
    (A. Colin McDougall、湯浅洋 笹川記念保健協力財団作成)

石館先生は、人道的な気持ちがなければこういう仕事はやるべきではない、ただしその方法は科学的でなければならない、といつも言い続けていました。私は、いまでもそれがもっとも重要なことだと思います。

MDT(多剤併用療法)によってハンセン病患者は少なくなりましたが、まだまだ新しい患者も出ていますし、それがどういう経緯で感染するかはまだはっきりしていません。ですから、患者さんを早期発見し、後遺症が出てくる前にMDTで治してもらうこと。この後遺症が出てくる前の早期治療が非常に重要です。それが偏見や差別のいちばんの原因ですからね。

それから、マーラーさんは「プライマリー・ヘルスケア」(※)という方法論を考えたのですが、アフリカ諸国にはまだこういった考え方は及んでいません。医学的な専門家でなくとも、ある程度訓練をすれば、村のなかでハンセン病の診断はできるはずなんです。そのために、湯浅洋先生は「アトラス・オブ・レプロシー」という、写真を見ながらハンセン病の判定ができる本を各国に配りました。こういう患者発見のための仕組みや工夫とともに、MDTを上手に与えていけば、ハンセン病の医学的な問題はかなり解決できることでしょう。

それと同時に、やはり人権問題への取り組みですね。笹川陽平さんが、チェ・ゲバラの『モーター・サイクル・ダイアリー』をヒントに、「ハンセン病において医療と人権は車の両輪である」と巧みな言い方をされているように、私も医療と人権の両輪を回していくことが欠かせないと思います。

じつは私の名前「献三」は、熱心なクリスチャンであった両親が、私を神と人とに捧げるという意図を込めて付けてくれたものなんです。あまり実行してないのですが、その名前に報いるためにも、悩んでいる人がいる限り、その人の友人になる、そのための努力をこれからもつづけたいですね。

註)プライマリー・ヘルスケアとは、健康を基本的な人権として認め、健康の格差解消を目的として、医療,予防活動,健康増進を積極的に展開する方法論・アプローチ。1978年、WHOと国際連合児童基金による合同会議における「アルマ・マタ宣言」で初めて定義づけられた。

取材・編集:太田香保 / 写真:小森康仁