ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

ハンセン病に向き合う人々

小牧 義美(ハンセン病回復者 / 啓発活動語り部)

テレビで観た桂林の景色をこの目で見てみたい。
それがきっかけで参加した中国ハンセン病村交流ツアー。
現地を訪れた小牧さんが衝撃を受けたのは、渓谷の絶景などではなく、医療も生活支援もない状態で
放置された村人たちの姿だった。
あの人たちに何かしてやれることはないのか。
焼け付くような思いから、さまざまな人との出会いが始まっていく。
このとき、小牧さんは72歳だった。

Profile

小牧 義美氏

1930(昭和5)年、兵庫県生まれ。6歳の頃に宮崎に移住、13歳から宮大工として働く。16歳のときハンセン病と診断され星塚敬愛園に入所。戦後は長島愛生園(岡山)、待労院(熊本)などでも暮らした。2003年、中国のハンセン病村を初めて訪問、村人たちの置かれた境遇を見て、中国での回復者支援に積極的に関わるようになる。2006年からは中国のハンセン病村に住み、医療指導などをおこなったが、活動中に負った足の怪我が悪化し、2007年11月に帰国。現在も中国での回復者支援、各地での講演活動などをおこなっている。

桂林の絶景を一度でいいから見てみたい、それがきっかけ

  • 中国で目にした村人たちの生活は、想像を絶するものだったという

  • 快復村では傷を悪化させないためのケアなどを村人たちに指導した

  • 「自分にもなにかできることはないか」という思いは、原田燎太郎さん(左)と出会ったことで一気に現実味を帯びていった

2003年に笹川記念保健協力財団主催の中国ツアーがあって、ぼくは最初、観光に行きたくてツアーに申し込んだんだ。テレビで見た桂林の漓江(りこう)とか、ああいった雄大な景色を見てみたくてね。ハイビジョン放送で観ていたときは、ここに行くのは夢のまた夢か、と諦めていたけど、ツアーで行けると聞いて、やったーと思いましたわ(笑)。締め切り間近だっていうから急いで電話した。生まれて初めての海外旅行。パスポートも初めて取った。

そのときに中国のハンセン病村(※中国では一般に麻風村=ハンセン病村と呼ぶ。これに対しワークキャンプの参加者たちは病気が治った人たちが暮らす場所という意味を込めて快復村と呼ぶ)へ行って、向こうの人たちがどんな暮らしをしているか、初めて知ったんですよ。

本当にひどいと思った。村人たちと交流する機会があったんだけど、お互いことばもわからないから、ぼくは座っている村人の足がどうなってるか、ずっと見ていました。足の悪い人が、かなり多い。それで同行していた通訳の人に「あそこにいる足の不自由な人と話がしたい」と頼んだんですよ。足がどうなってるか見せてほしいと言うと、その人は、にこにこしながら靴下を脱いで見せてくれた。

……びっくりして言葉が出んかった。両足とも指がない。大きな口を開けた傷がそのままになっている。骨も見えてました。治療なんて、なにもしてないわけですよ。ガーゼをあてて包帯を巻くことすらしていない。これは一体なんだと思いました。

治療棟はどうなってるのかと通訳の人に訊いたら、村には治療棟というものがなかった。医者もいない。看護師もいない。医療だけじゃなく、生活の面倒を見てくれる人もいないと言うんだ。どの村もそんな状態で、どんなに身体が不自由な人でも助けてくれる人はだれもいない。

もっとひどい話も聞きました。中国のハンセン病村では、具合が悪くなったら、もう天命だと本人が宣言するらしいんですね。毛布にくるまって、そのまま死ぬまでじっとしている。まわりの村人も寄りつかないんだそうです。ぼくは思わず怒鳴りました。「お前たちは、具合の悪くなった人間が飲まず食わずで横になっているのに、水の一杯も飲ましてやる気持ちがないのか!」って。

次の日は、あこがれの桂林で川下りをすることになっとったんだけど、あの村の光景を見たら、とても観光どころじゃなかった。なんとかして村人たちの力になりたい。それしか頭になかった。日本へ帰ってきて中国のハンセン病回復者のために寄付もしたけど、それだけじゃつまらん。「おれにもなにかできることはないか」って、ずっと考えてた。

でも中国へ行くのはいいけど、ぼくも身体が不自由だから、誰かに面倒を見てもらわなきゃいけない。そんなことではやっぱり無理か、と諦めかけていたとき、山口さん(※山口和子氏。笹川記念保健協力財団・元理事)が「小牧さん、いい人がいますよ」と言って燎太郎(※原田燎太郎氏。NPO 家 -JIA- 元事務局長。現・資源調達部)のことを紹介してくれたんだ。

燎太郎には翌年(2004年)中国へ行ったときには会えなくて、2005年の3月にようやく会えた。あいつは2003年に大学を卒業して、ひとりで中国に渡ったんだけど、会う前から電話で話したりはしてたんですよ。それで初対面のあと、バスの隣の席に座ってハンセン病村に着くまで、ずっと話をした。「お前さんたちは村へ行って水道だ、下水だ、トイレだといって施設ばかり作ってるけど、ひどい傷を抱えた村人がほったらかしになってることの方が問題じゃないのか。あれじゃ死ぬのを待つようなものじゃないか」と、まっさきに言いました。

次に会ったのは2005年のゴールデンウイーク頃。燎太郎が電話かけてきて「じいちゃん、ワークショップがあるから雲南省まで来ないか」って言うわけですよ。「おれひとりでは、よう行かんわ」って返事したんだけど、福岡空港で飛行機さえ乗ってくれれば、あとは迎えに行くからって。その頃、JIAという組織はできたばっかりだったんですよ。これからどうするかという大変な時期でね。それなら一肌脱ぐかということで、出かけていきました。

中国にはハンセン病快復者の語り部で王さんという人がおって、この人の講演がとても人気があるんです。ぼくも講演を聞いて、だいぶ勉強させてもらいました。その王さん、燎太郎、ぼくの3人で雲南省の昆明市というところへ行った。建物の壁を覆ったブーゲンビリアの花が真っ赤に咲いていて、それはそれはきれいなんだ。

ワークショップの最終日に挨拶してくれって頼まれたので、「あそこにノッポの日本人(※原田さんのこと)がおるけど、あれは潰れても全然かまいません。しかし、みんなの力で作り上げたJIAという大事な組織、これは潰さないよう、みんなでがんばってほしい」と挨拶しました。みんな大笑いしとったよ(笑)。

村人たちを助けるため、快復村にひとり残って思ったこと

  • ワークキャンプで学生たちと。小牧さんはみんなから親しみを込めて「あんちゃん」と呼ばれているという

ワークショップから帰ってきて、しばらくしたら今度は九州の学生たちが桂林の快復村へワークキャンプに行くので一緒に行きませんか、と連絡してきた。日程を聞いたら8月のちょうど一番暑い時期で、そんなん暑くてかなわんから行かん、といって断ったんですよ。それでも熱心に誘ってくれるので、まあええか、行ってみるかという気持ちになった。

福岡空港で集合したときに、学生のリーダーやってた原由季子さんという人から「小牧さんは普段、みんなからなんて呼ばれてるの」と訊かれたんですよ。ぼくは長いこと敬愛園では「あんちゃん」と呼ばれてた。「おれ、あんちゃんって呼ばれてるわ」と答えたら、もうそこからぼくの名前は「あんちゃん」です。ハンセン村の村人からも日本語で「あんちゃん」と呼ばれた。音の響きが、中国の人にも覚えやすかったらしいね。

中国に着いて燎太郎からも、あんちゃんと呼んでいいかって訊かれたけど「ノー。お前はダメ。おじいちゃんと呼びなさい」と言いました。だから、あいつだけはぼくのこと、今でもおじいちゃんと呼ぶでしょう(笑)。

そのときのワークキャンプは2週間。その2週間で何ができたかというと、何もできないわけですよ。もちろん下水作ったりとか、何かを直したりとか、そういうことはするわけだけど、それより村人に必要なのは傷の面倒を見てあげる人じゃないかと思ったんですね。自分で治療できるようになるには、まず治療してみせて、やり方を教えなきゃいかん。ワークキャンプの間、村人たちに治療のしかた、してはいけないことを教えたけど、たった2週間じゃ、なんにもならんでしょう。

そこで燎太郎に「おれは帰らん。ここに残る」と言いました。「ここで村人に傷の治療のしかたを教える。ビザが切れる頃に、また迎えに来てくれ」って。それで2ヵ月ほどおったんですけど、その間にも傷が原因で2人ほど死にました。傷を放っておいたら、いかんのですよ。

  • 原田さんと小牧さん。「燎太郎には今までずいぶん迷惑をかけてきた。でも、あいつは決していやと言ったことがないんだ。見上げた男だよ」

燎太郎は広州へ帰って「じいちゃんが、どうしても残るというから村に置いてきた」と説明したそうです。学生たちは「小牧じいちゃんは、ことばもわからないのに村に残って傷の治療のしかたや、村人たちが本当に必要としていることを教えている。自分たち学生は年に1回か2回村に行って、ワークキャンプして帰ってくるだけ。本当にこのままでいいのか」と話し合ったらしい。

その後、中国の学生たちは週末ごとに5〜6人のグループでハンセン病村を訪れるようになりました。翌週は別のグループが村に行って手伝いをする。「みんな、あのじいさんを見習おう」って言ってね。ぼくがいた村にも、たくさんの人が来てくれました。……うれしかったわ。今では「傷が治った」と言って、見せに来てくれる村人もたくさんいます。村で暮らす人たちの意識も変わったと思いますね。やっぱり「治す」ということを教えなきゃ、なんにもならんのですよ。

中国に比べれば、日本は恵まれてます。ハンセン病の問題をどう語り継いでいくかという課題はあるけど、それを別とすれば非常に恵まれた環境にある。それよりも中国の村で暮らす村人たちが、もう少し楽しく豊かに暮らせるようになってほしいと思う。村人の平均年齢訊いたら、まだ60歳ちょっとなんだ。

2006年からは中国のハンセン病村に住み込むことに決めた。そしたら知り合いが「敬愛園を退所して中国へ行くそうだから、今度2〜3人で一杯飲みに行こう」と誘ってくれたんだ。それで軽い気持ちでいいよ、と言っておいた。ところがしばらくしたら、敬愛園の園内放送で「小牧義美さんの送別会が開かれます。みなさん、ぜひご参加ください」なんて放送してるじゃない。しかも会場は立派なホテルの大広間だっていうんだ。ありゃ誰でも驚くわな(笑)。

ちょうどその頃、燎太郎が結婚することになってね。それまでは中国行くたびに燎太郎のところに世話になってたんだけど、新婚家庭に居候するのは、さすがに気が引ける。中国のどこかの街でひとり暮らしをしようかと思ってたんだ。そしたら「じいちゃん、うちに来ればいいじゃないか」と言うんだよ。家に行ってみると中国人学生の居候もおって、ほかにもたくさんの人が出入りしてました。飯を食ってるやつもおれば、シャワー浴びたり、寝たりしているやつもおる。いったい何人住んでるのかわからないくらいの状態だったね。

それで今週はこっちの村、来週はあっちの村と、あちこち連れて行ってくれた。70ヵ所くらいは行ったんじゃないかな。燎太郎は本当によく調べていて、どの村にはなんという名前の人がいて、その人は身体のどこが悪いとか、よく知ってましたよ。ぼくも傷の治療はこうやるんだ、と教えてやったりね。

広州へ電車に乗って帰ってきたとき、プラットホームで足をくじいた。中国のプラットホームっていうのは、かなり低いところにあって階段を4〜5段降りるんだけど、ぼくは弱視だから段があるかどうか、よく見えない。みんな平らに見えるのよ。それで下まで転がり落ちてしまった。

抹消神経が麻痺してるから、そのときはひどい怪我かどうか、よくわからなかった。本当はすぐに手術しなきゃいけなかったし、そのまま歩いたりなんて、しちゃいけなかったんだな。広州に戻ってきてからは、家のなかで車椅子生活。足の具合もどんどん悪くなるし、もうダメだと思って燎太郎に「おれ、日本に帰るわ」と言って帰ってきた。それが2007年11月。ちょうど10年前のこと。11月27日に鹿屋の病院で足を切断したけど、義足を履くまでに1年かかった。

子どもの頃の経験から生まれた小牧流・負けじ魂

  • カラオケも愉しみのひとつ。「昔は北島三郎をよく歌ってたけど、最近は五木ひろしが多いかな」

ぼくは子どもの頃からこの病気にかかっていたと思うんだな。ものすごい痛がりで走れないし、友達と相撲を取っても痛い。なんでだろうと思って不思議だったんや。「なんで、こんなに痛いんかな」「おれ、なんでこんなに弱いんかな」ってずっと思ってた。身体も小さかったしね。

小学校も2回転校していて、小さいときからの友達もいない。転校した先でのいじめもあった。あの転校生生意気だ、連れてこいといって5〜6人で囲まれて殴られたりもした。でも人間不思議なもので、とことん殴られると痛みを忘れるんですよ。そうなるともう恐くない。明くる日から殴ったやつ、ひとりずつ捕まえて喧嘩した。それが小学校6年生のとき。

「おれには何もない」って思ったときに、「これで終わってたまるか」という気持ちが湧いてきた。いろんなことに反発するようになったのは、それがきっかけだったかもしれないね。あとは早くに親父が死んで、貧乏だったからというのもある。暮らしが今より悪くなる、不自由になる、それが恐いという感覚がない。中国に行って村に住み込んだときもなんとも思わなかった。毎日なんとか暮らせれば、恐いものなんてなにもないんですよ。

あと思うのは、やっぱり燎太郎のことだなあ。ボランティア活動している中国の学生たちは、あいつのことを全面的に信頼してるんだ。なにか緊迫した事態になったとき、燎太郎がなにか言うと、学生たちがばしっとまとまる。あれはすごい。横から見ていてもなかなかいい雰囲気だと思う。あいつは、なんでも自分が先頭に立ってやる。だから学生たちも信頼してついていくんですよ。

その分、世間は広くない。あれは学生たちとのワークキャンプは一生懸命やってるけど、他のことはほとんどしていないでしょう。観光地でもなんでもいいから、もっと中国のいろんなことを知った方がいい。世界に目を向けよ。中国から首を上に上げよ。それくらいの気概を持っていけば、先のことだっていいようになるんだよ。

  • 敬愛園ではミケという名の猫とふたり暮らし。「こいつを見ていると人生、生きたいように生きればいいんだって、いつも思うんだよ」

ぼくは今86歳で、ちょうど敬愛園の平均年齢と同じなんです。もうほとんど目が見えない(※小牧さんは重度の弱視)から、どこかへ観光に行きたいとか、そういう気持ちはまったくない。その代わり講演に呼ばれたら、どこへでも行きますよ。どういう話をしてもらいたいか、そういうことだけちょっと決めてもらったら、いくらでも話せますから。その意味でも中国での経験は大きかった。やっぱり縁があったんかなあ。

3月31日と4月1日には中国・北京にある蓬蒿(ポンハオ)劇場というところでチャリティー講演会をすることになってます。最初は1日だけという話だったんだけど、以前、JIAで活動していて劇場運営にも関わっていた女の子(※頼慧慧さん)が、絶対に2日間やるべきだと言ってくれて2日やることになりました。個人経営の小さな劇場らしいけど、一般の人たち向けにハンセン病の話をするというのは、ぼくが初めてのことらしい。

あとは、今までしてきた体験を書いておきたいと思ってるんですよ。目がよく見えないから、どうしたもんかと思うけど、原稿にまとめさえすれば清書するって言ってくれる人もおる。やっぱり書いておきたいね。

取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉

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