ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

ハンセン病に向き合う人々

森元 美代治(NGO IDEA ジャパン代表)

もし学校や会社でいじめられたら、いじめた人のことを許せるだろうか。
もし周りの人から大反対されても、自分の信念を貫けるだろうか。
IDEAジャパンの代表として、世界を股にかけハンセン病の啓蒙活動を展開する
森元美代治さんのバイタリティの奥には、傷つきながらも逆境に立ち向かいつづけた過去があった。
勉強に明け暮れた療養所での日々、将来を期待された銀行員時代、
そして現在の活動に至るまでの葛藤と転機などをお話しいただきました。

Profile

森元 美代治氏

NGO IDEAジャパン代表。1938年鹿児島県奄美大島生まれ。中学3年でハンセン病と診断され、国立奄美和光園に入所。大学進学のため東京多磨全生園に転園し、慶應義塾大学に入学。卒業後、都内金融機関に就職するが、ハンセン病の再発により全生園に再入園。96年にインタビュー集『証言・日本人の過ち』を刊行し、日本で初めてハンセン病患者として実名でカミングアウト。99年、東京地裁ハンセン病訴訟原告団事務局長となる。2001年には当時厚生大臣を務めていた菅直人氏に頼まれ、参院選に出馬を果たす。04年、ハンセン病患者・回復者・支援者の国際ネットワークIDEAの日本支部として、IDEAジャパン設立。

身体に生じる違和感
奄美和光園で地獄を見た

森元さんは奄美大島の喜界島で生まれ育ち、小学5年生の時にハンセン病の症状がでた
そうですね。

奄美は暖かいので、子どものころは一年中パンツとランニングだけで砂だらけになるまで遊んでいました。家に帰っても風呂がないんですよ。貧しい農村だったので風呂がある家が珍しかった。どうするかというと学校の裏に綺麗な小川があって、みんなそこに行ってからだを洗うんです。あるとき足のかかとにひび割れができて、そこに入った汚れがどうしても落ちない。友だちが「美代治の足は汚いな、もっと丁寧に洗えよ」と言うから、小石でゴシゴシ洗っていると、やり過ぎて真っ赤な血が流れていくんだけど、まったく痛くない。それで初めて違和感を覚えたんです。

中学1年生のときには、水たまりに落ちて両膝にかすり傷を負ったんですが、10日ぐらいたっても治らないんです。そのうち500円玉ぐらいの丸い傷になった。ある日の朝、母が私の足の傷のかさぶたをネズミがかじっているのを見つけました。私はまったく気づかず寝ていた。これはおかしいということで医者に連れて行かれたんですが、2年近く原因は分からず、そういう傷がどんどん増えていくばかりでした。

どのようにしてハンセン病だと判明したんですか。

体育の授業で野球をやっていたとき、クラスメイトに「美代治、顔が真っ赤だぞ。鬼みたいだ」と言われ、鏡で見ると顔が赤まだらになっていた。体温が上がると菌に侵されたところに赤い斑点が出るんです。急いで水で冷やしたけど、一向に収まらない。ちょうど医者が校医として来ていたので診察してもらったんですが、その日の夕方、医者が家に来て、両親に私がハンセン病であることを告げたんです。母は「それは何かのまちがいだ」と医者に食ってかかった。医者が「この子はまだ病気も軽いから奄美の療養所に1年間治療すればすぐに治りますよ」と言うと、母はその場で泣き崩れました。これは大変な病気になったんだなと子どもながらに思いましたね。これからどうなるのかと不安でしょうがなかった。

診断をうけてから1週間後、昭和27(1952)年に国立奄美和光園に入所されますね。
少年の目から見た療養所はどのようなところでしたか。

想像していた以上に地獄でした。両親に連れられ和光園に行くと、杖をついた髪の長いおじいさんに話しかけられたんです。よく見ると両脚がブリキの義足で、手を見たら指がない。その手に輪ゴムを使って杖を挟んでいる。ぞっとしました。それが初めて出会ったハンセン病患者でした。

療養所では少年寮の世話役を「おとうさん」と呼ぶんですね。私の「おとうさん」は20代の青年でしたが、病気のせいで眉毛も髪の毛もなく老人に見えました。その「おとうさん」がみんなの料理を作るんですが、食べるときは私以外全員フォークを使う。みんな手に障がいがあって箸を持てないんです。そんなようすを見たらご飯なんか喉を通りませんよ。最初のころは母に頼んで手作りのおにぎりを持ってきてもらいました。

そのことは今でも後悔しています。同じ病気なのに、症状が軽い人が重い人を差別する。私も同じことをしていたんだと思いますね。ただ大学に合格して和光園に報告しに行ったとき、一番喜んでくれたのはその「おとうさん」だった。もう亡くなりましたが、天国に行ったらまっさきに「おとうさん」に謝ろうと思ってます。

園での生活にはなかなか慣れませんでしたが、青年団の野球部があることを知り、一緒に交じって野球をやり始めてから変わっていきました。あまりに熱中していたので、当時の職員は「美代治の思い出は野球しかない」というくらいですよ(笑)。それから療養所には楽器が何でもあった。興味をもって片っぱしから鳴らしたりしましたよ。そうやって次第に園の生活に馴染んでいきました。

高校、大学進学を決意
A君、B君に「ざまあみろ」と言いたくて

昭和30(1955)年に岡山県の長島愛生園に邑久高等学校新良田教室が新設され、
森元さんは一期生として入学されましたね。大変な競争倍率だったとお聞きしました。

  • 森元さん通っていた当時の岡山県立邑久高等学校新良田教室のグラウンド風景。

  • 高校時代の野球着姿。「療養所での辛い思いも、野球をしているあいだは忘れることができた」と語る。

  • 大学の同級生たちと森元さん(一番左)。当時はハンセン病であることを周りに隠していた。

昭和28(1953)年に奄美が本土復帰したので、私たちにも受験資格が与えられたんです。和光園に入ったときは高校に行くことは諦めていましたからチャンスだと思った。9時消灯が決まりでしたが、私だけ別の部屋を借りて夜中までひたすら問題集、参考書とにらめっこする毎日でした。『全国高校入試問題集』を買って難関校の問題を中心に片っぱしからマスターしていった。だから受験が終わった直後には、合格を確信していましたよ。それくらい問題が易しかった。試験中、嬉しすぎて手が震えました(笑)。やるんだという決意を持っていたので、病気は苦にならなかったですね。

そこまで高校の受験勉強に向かわせた原動力は一体何だったんでしょうか。

和光園に入所するまで、ずっといじめられていました。病院に通ってばかりいるもんだから、村の中で変な病いに罹っているという噂が立っていたんですよ。私がみんなのところに行くと、すぐにパッと解散するんです。まだ中学生でしたし、大変傷つきましたね。
あるとき、近所の子どもがやってきて、「美代治は変な病気に罹っているから遊ばないように言われた」と言うんです。誰が言ったのかと問い詰めると、A君とB君だと言う。それを知った母は激怒して、私を連れてふたりの家に抗議しにいきました。しかし向こうの親は「美代治くんの話はしたことはありません」の一点張り。結局泣き寝入りでした。
高校受験の資格があるとわかったとき、まっさきに頭に思い浮かべたのはそのA君とB君のことでした。おそらく、ふたりは大学には行かない。だったらふたりにできないことをやって、「ざまあみろ」と言ってやろうと思った。それで一生懸命勉強して高校に行ったんです。この考え方がまちがっていたと気づくのは、ずいぶんあとのことでした。

高校からさらに大学を目指したのもそういう思いがあったからなんですね。

高校を卒業して和光園に戻り、しばらくして多磨全生園に行った同級生から手紙が届きました。「奄美の教育環境だと絶対に大学に行けない。東京に来て一緒に勉強しよう」と誘われたんです。それでまず転園を決意しました。転園は相当な理由がないとなかなか認められなかったのですが、同級生が自治会に掛け合ってくれて、すぐに許可が下りました。

転園から2年経ち病気も落ち着いたので、本格的に勉強しようと思い、大塚の武蔵予備校に1年通いました。職員にバレないように園を脱走するんです。見つかって連れ戻されて荷物をすべて没収されたこともあった。3回も捕まりましたよ。それでも何とか堪えて勉強して、志望校だった慶応大学の法学部に合格しました。当時は定員400人のところ競争倍率は16倍くらいだったと聞いています。

ところが、主治医に退園のお願いしに行ったら、進学を大反対されたんです。「もし慶應大生に病気をうつしたりでもしたらどうする。お前と同じ目に合わす気か」と言われました。それで退園をあきらめ、療養所から逃げる決意をしました。いわゆる逃走患者になった。療養所では正式な退院証明書がもらえないことが多く、昭和30年代にはそういう人が割と多かったんです。

では園を逃走して、自活しながら大学で学んだんですか。

本郷にある鹿児島県の学生寮に入れてもらったんです。入寮試験も相当な倍率でしたよ。格安の好条件でしたから寮に入るのもひと苦労でした。入ってからも困ったことに寮の仲間から毎日のように飲みに誘われる。それが半年も続いて、しまいにノイローゼ状態になりましたね。

これはたまらないなと思い、仲間の何人かと一緒に退寮して自活しはじめ、池袋の幼稚園を借りて中学生・高校生対象の塾を始めました。私は文系の担当でした。それが、やっているうちに評判になって、200人ぐらいの子どもたちが集まる塾になったんですよ。当時の家庭教師の数倍のバイト料を貰っていました(笑)。

病の再発により再入所、初めての講演で転機が訪れる

たくましいですね(笑)。大学を卒業後はそのまま信用金庫に就職されましたね。
銀行員としてどんな仕事をされていたのですか。

大学で民法の債権法を専門にしていたこともあり、本店の管理課に配属され、不渡り手形や不動産の処理、株などの不良債権を回収する業務を行いました。これは大抜擢だったんですよ。仕事をしながらもずっと本を読んで銀行業務のことを勉強していました。その甲斐あってか、係長の昇進試験を受けたところ、2回ともトップの成績でした。いよいよ順風満帆な銀行員生活を送っていけると考えていたやさきに、背中に赤い斑紋が出てきた。病気が再発したんです。

全生園の医者に相談したら「一刻も早く全生園に戻らないといけない」と言われました。「ここまで来てそれは無理だ」と断り、自分でDDS(ダプソン)という薬を飲んで治療しようとしました。ところが耐性ができていたせいで効果がなく、症状がますます悪化した。さすがに体力の限界がおとずれ、泣く泣く休職をすることに決めました。そうして上司に休職願いを出そうとしたんですが、なかなか聞きいれてくれない。押し問答の末、とうとう自分がハンセン病だということを打ち明けました。それでやっと納得してもらい、休職扱いで多磨全生園に再入所することになったのですが、病気を知られた時点で職場に戻ることはきっぱりと諦めました。

入所してからいろいろな薬を投与され、今では週1錠で済むリファンピシンという劇薬を、毎日3錠も飲まされました。それが激しい反応を起こしたんです。3年のあいだに手の感覚マヒが増え、右目は視神経をやられ失明しました。私のこの右目は義眼です。左目もボヤッとしか見えない。のちに私を診た医者から謝罪されましたが、まだ医者にも十分な情報が行きわたっていない時代でしたからね。「昔のことは気にしないでください」と言いましたよ。

その後、多磨全生園の自治会に入り、平成5(1993)年には自治会の会長に就任。
やはり能力のある方はどこでも頭角をあらわすんですね。現在までに数多くの講演もされ
ていますが、そういう活動に熱心に取り組むようになったきっかけがあったのですか。

  • 森元美代治・美恵子夫妻のインタビュー本『証言・日本人の過ち』『証言・自分が変わる 社会を変える』(1996年、2001年、人間と歴史社)

平成3(1991)年に東村山の中学校で初めて講演したことがきっかけです。最初は無理だと言ったのですが、当時自治会会長だった平沢保治さんからのお願いだったので断りきれなかったんです。

生徒250人を前に、奄美での幼少時代の発病から現在にいたるまでの体験談を語りました。「自分をいじめたA君とB君を見返すことが、自分の勉強の原動力となった」という話をしていたときに、急にある言葉が自分の頭の中に降りてきた。「いまこんなふうに偉そうに話しているけど、もし私じゃなくてA君とB君がハンセン病だったら、私は差別しなかっただろうか。もしかしたらあのふたり以上にひどい差別をしたんじゃないか」と。まさしく天の声でした。血の気が引いた。そしてA君とB君を責めていた自分はまちがっていたんだということを正直に子どもたちに伝えたんです。そうしたら講演後、しばらくしてから子どもたちからのすばらしい感想文が届いてね。本当にびっくりした。

そこから自分の人生が一気に変わりました。まっとうな人間になろうと決意を新たにしました。人前で話すことにも自信がついて、講演の依頼もどんどん受けるようになった。おそらく講演回数でいえば回復者の中では一番じゃないかな。平成8(1996)年にはカミングアウトも決意して、本の出版やTVの出演、参院選への出馬と、メディアにもどんどん出ていった。そのことで家族の大反発を食らい、葛藤していた時期もありましたが、長い年月をかけて良好な家族関係を築くことができたと思います。

2004年にはNPO法人IDEAジャパンを設立し、世界にも活動の場を広げられてますね。

  • インド・ハイデラバード近郊にあるハンセン病村の子どもたちと。

  • ダミアン神父によって建立された教会(ハワイ・モロカイ島)で妻・美恵子さんと。

講演活動を続けるなかで、国内では平沢保治さんや神美知宏さんが頑張っていたので、ほかに自分にしかできないことは何かないかと考えていた。そんな折、1994年にIDEA(世界ハンセン病回復者国際ネットワーク)が発足されました。世界のハンセン病回復者が協力し社会に向かって差別や偏見をなくすことを提言していくことを目的にした組織です。そこで学生時代から得意だった英語を生かせる場としてIDEAの「日本支部」をつくろうと思いたったのが、IDEAジャパン設立のきっかけです。これまでに台湾、中国、フィリピン、インド、アメリカ、韓国と世界各国を訪問しスピーチや活動報告をしてきました。
学生のときに身につけた学力がここでも活きたわけです。きっと教育環境がままならない療養所で必死に独学したからこそ、学んだことが頭に焼き付いているんでしょうね。

実は10年前、高校生のときに森元さんが学校へ来て講演されたのを聞いていたんですよ。「いじめられてもいいけど、いじめる側の人間になるな」という言葉を聞いたときは、こんなに辛い思いをしてきたのに、そんなことを言えるのかと大変驚きました。

そうですか! 不思議な縁だね。私の話を聞いたそのときの高校生が、こうやってハンセン病の仕事をやってくれているんだから嬉しいですよ。いまでもそのメッセージを子どもたちに一貫して伝えていますよ。いじめる側の人間になっては、絶対後悔するからね。私はA君もB君も許すことができた。でも、いじめた方は一生罪を背負うことになる。私も和光園で同じ患者の人たちを差別したことは、一生消えない心の傷として残っているんです。みなさんにはそんな思いをしてほしくない。

あとは聖書にある「隣人」という言葉を講演では伝えています。「隣人」というのは友人以上の存在のこと。困っている人が近くにいても、普通は面倒だから関わりたくないと思うかもしれない。でも関わらなければただの他人、路傍の石と同じです。だから困った人たちを「隣人」だと思って優しく接してほしい。私の思いとしては、たくさんの人にハンセン病の「隣人」になってほしいんです。一時的な感情ではなく、もっと関わってもらって、もっとハンセン病のことを知ってもらいたいと心から思っています。

取材・編集:寺平賢司 / 写真:長津孝輔

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