ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

People / ハンセン病に向き合う人びと

森山 一隆(ハンセン病文庫友の会代表)

サンゴ礁に囲まれ、島内に亜熱帯の原生林が多く残る奄美大島。
その中心地である名瀬市のはずれにつくられた和光園は、
現在、全国13の国立ハンセン病療養所のなかで、もっとも入所者数が少ない療養所となっている。
退所者の立場から、「ハンセン病文庫」創設など、
独自にハンセン病啓発活動を展開している森山一隆さんに、
入所していたころの話や、退所後の生活や活動について、話をうかがいました。

Profile

森山一隆氏
(もりやま かずたか)

1948年、奄美生まれ。1968(昭和43)年、奄美和光園に入所、自治会長や全国ハンセン病療養所入所者協議会役員をつとめ、「らい予防法意見国家賠償請求訴訟」では奄美原告団リーダーとしてかかわった。2005(平成11)年、和光園を退所し、2008年、みずからの蔵書を寄贈し「ハンセン病文庫」を創設(現在は鹿児島県立奄美図書館)。さらに2009年、「ハンセン病文庫友の会」を創設、社会に対するハンセン病啓発活動に取り組んでいる。

病気が治っても
退院できない「病院」だった

森山さんが奄美和光園に入所したのはいつ、何歳のときでしたか。

忘れもしない、昭和43(1968)年7月26日、ちょうど20歳のときです。私には誕生日が二つあるんですよ。ひとつは自分が生まれた昭和23(1948)年7月5日、もうひとつは療養所に入園した日。ハンセン病の患者というのは、入園した日のことは絶対に忘れないからね。自分にとって、もうひとつの誕生日みたいなものだね。

病気を発症したときはすぐにハンセン病だということがわかったんですか。

具合が悪くなってから、あちこちの病院で見てもらったけど、なかなかわからなかった。最終的に鹿児島大学病院で診てもらってハンセン病だということがわかった。「島に療養所がある」と言われて、紹介状を持って奄美和光園に行ったら、診察後に病棟に案内されて、即入院だった。だいぶん体が弱っていたからね。でもそれは「らい予防法」のせいだった。「通院治療でよかったのではないか」と後の園長から言われたんですよ。

だいぶん元気になってきたから、そろそろ退院できるだろうと思ったら、「ここはハンセン病療養所だから、いったん入ったら出られない」と先輩から聞かされた。「そんなばかなことがあるものか、こんなに元気なのに外に出られないなんて」と、それからは反抗期の毎日だったね(笑)。

ハンセン病がどういう病気か、ご存知なかったんですか。

よく知らなかったし、療養所のことだって普通の病院だろうと思っていた。「この病気はすぐには治らない、退院できない」と聞かされてから、初めていろんな本を読んで勉強した。差別や人権に関する本もずいぶん読んだよ。一生懸命勉強して、職員にも対等にモノが言えるようになろうと思った。

入所したときに、園名に変えさせられたりしましたか。

入ったその日に、受付で「名前を変えてください」と言われた。「なんで?」と聞いたら、「そういうしきたりです」って。急にそんなこと言われても困るでしょう。それで紙とペンを借りて、いろいろ考えて、本名をちょっとだけ変えた「森田隆二」にしておいた。この名前で自治会や国賠訴訟の活動をしていたから、本名よりもよく知られているよ。

森山さんのホームページには、2005年11月に社会復帰をしたと書かれていましたが、
20歳のときから40年近くも、療養所生活を送られたんですか。

  • 取材班に奄美の案内をしながら、愛用のCANONで撮影も楽しむ森山さん

  • 森山さん行きつけのカラオケバーで、得意の奄美ゆかりの歌を聞かせてくれた

実際には、社会復帰する前から外で仕事をしていた。一番長かったのが建築の仕事だね。そうやってドカタ仕事や建築の仕事を外でする人はけっこう多かったし、園も黙認していた。会社勤めはさすがにまずいけど。最初はそんなこともわからなかったので、堂々と就職して接客の仕事をしていたこともあったけど、和光園の入所者であることを患者から密告されて、やめさせられた。そうやって元気な人たちが外に出て仕事して給料もらうのを、おもしろく思わない人たちがいるんだよ。ここ(園)に帰ってきて“タダ飯”を食っている連中だと言ってね(笑)。

奄美からは国賠訴訟後15人が社会復帰したけど、そのほとんどが、もともとすでに外に出ていた人たちだね。自分もその一人。だから、そのとき初めて社会に出たというよりも、正式に退所の手続きをしたという感じだった。

それでも、60歳近くなってから正式に退所して、
社会で生きて行くのは大変だったでしょう。

そうです。退所前に整形外科医院などで足や腕の手術を何回も受けて、いまも手に少し麻痺が残っているからね。でも「全療協」(全国ハンセン病療養所入所者協議会)の仕事のために東京で独り暮らししていたこともあるし、炊事も洗濯もべつに苦にならない。妻は園に残りたがったから別れることになったけど、自分はずっと園のなかにはいられない性分だからね。

退所するときには県の福祉課に頼んで県営住宅を探してもらった。部屋が3つあってなかなか広い、いいところだよ。経済的なことや医療的なことは、退所するためにちゃんと調べて手も打っていたから、心配もなかった。そういうところは人よりちょっと頭が働くほうなんでね(笑)。

やりたいことはいっぱいあるよ。いまは写真に凝っていて、「キャノンフォトクラブ」に入って作品を投稿したりしてるし、合唱団にも入っているし、新民謡も習ってるし。車椅子の障がい者たちとの交流ボランティアもやっているし、やりたいときだけ運転手のアルバイトもしているよ。時間がいくらあっても足りないくらいだね。

森山さんが自治会長のときにつくった和光園内の公園。奄美にいちはやく春を告げる寒緋桜が満開だった

和光園で生まれた子どもたちと、
ハンセン病文庫

園内に親しかった人はいらっしゃるんですか。

  • 石原氏がつくった園内のプロテスタント教会

  • 教会に残っている石原氏愛用のオルガン

石原英一先生という牧師さんにかわいがってもらった。石原先生は島の人じゃなかった。すごい切れ者だった。ちょっと切れ者すぎるところがあった。愛生園の長島聖書学舎を出た牧師さんでね。夫人の春代さんも同じ聖書学舎の一期生で、夫人のほうが伝道のために先に愛生園から和光園に転園してきた。そうして、好善社(*註)の予算で和光園にこの教会(このインタビューは園内のプロテスタント教会で行っている)をつくった。和光園にはカトリックの教会しかなかったからね。

自分もここの教会の門をたたいて、石原先生に弟子入りしたんだよ。石原先生は、日野原(重明)さんとか、交流関係がものすごく広かった。いろんな人がここへ訪ねてくるから、すごく勉強になったし、石原先生には大きな影響を受けたよ。いまはもう春代夫人は亡くなって、先生は不自由者棟(ゆらいの郷)で療養中だけど、毎週名瀬教会の牧師がここで説教しています。

自治会の仕事もいろいろとされたんですか。

10年くらい自治会の仕事をしたよ。石原先生と二人で、会長と副会長を交代交代でやった。まあ、自分は石原先生の用心棒みたいな存在だったからね(笑)。ものすごい口うるさい役員だったと思う。国からくる患者予算(患者のために使われるべき予算)が、ちゃんと患者のために使われているかどうか予算書をチェックしたり、そういう仕事ができるように自治会にパソコンを導入したり。パソコンのエクセルとワード2級の資格ももっているよ。

職員総出で園内の草刈りをする日を決めてやってもらったこともあった。事務長にまで鎌を持って草刈してもらったりした。もちろん私も先頭に立って草を刈ったよ。当時の事務長とは、よく話をしながら一緒にお茶を飲んだりしたものですよ。いまの和光園はどうなんだろうね。

ここ(園)は、夏になると草がおい茂ってハブも出没するし、たいへんなところだからね。いまでも本省からハブ対策予算が来ているんじゃないかな。ハブ対策費の話で、おもしろいことがあるよ。自分が自治会長をやっていたとき、本省の役員が視察に来ると聞いたので、すぐに職員に電話入れてハブセンター(市内の観光施設・ハブ専門店)で一番大きい生きたハブ一匹借りてくるように指示したんだ。そのハブを高倉前の公園に放しておいて、「ご覧ください。園内にはこのように毒蛇のハブが出ます。入所者は安心して散歩もできません。予算増額してください」と要望したんだよ(笑)。園のためになることなら自治会長として何だってやろうと思ってたからね。

退所してからも、用心棒みたいに外から園長や事務長にいろいろ意見したりしてきたよ。いまは入所者も減って(2016年3月現在、33名)、自治会がぜんぜん機能していないからね。旧納骨堂のあたりはもう行って見た? だいぶん草が茂っていたでしょう。自分がいたころはあんなままにはさせておかなかったよ。いまは園幹部が嫌うのであまり施設には行かないようにしているけどね。

和光園では、カトリックの神父やシスターたちが、
園内で生まれた子どもたちを育てていたそうですね。
森山さんが「日本ハンセン病学会誌」に発表された論文を拝見しました(註)。

  • マリア像が置かれた園内のカトリック教会の庭

「ハンセン病学会員」だから、ちゃんと研究活動して論文も出さないといけないからね。奄美で学会に入っているのは園長と自分くらいのものだよ(笑)。今朝もちょうど、島の教会のシスターたちに、そのテーマで講演してきたところです。ちゃんと自分でパワポ(パワーポイント)で資料をつくって、プロジェクターとスクリーンを用意してもらって、自分はプロテスタントだけど、「奄美のカトリックの神父さん、シスター達はすばらしい」って褒めまくってきたところ(笑)。

論文読んだなら知ってると思うけど、和光園では、松原若安(和光園初代事務局長)、パトリック神父、ゼローム神父の3人が中心になって、「神の子を殺してはならん」と言って、園内で生まれた子どもたちを引き取って育てたんです。乳児院として「天使園」がつくられて(1955年)、最終的にはそこから44人もの子どもが社会に巣だって行った。これは、ほかの療養所にはない歴史です。

昔、よく、親御さんを車に乗せて子どもたちとの面会に連れて行ったものだよ。親子の面会はいろいろと難しかったからね。子どもへの感染を恐れて、川を挟んで遠くからしか面会させない時代もあった。

森山さんがつくった「ハンセン病文庫」についても詳しくうかがいたいです。

  • 市民に開放されている「ハンセン病文庫」。左は県立図書館長の新宮領さん

自分が勉強してきたハンセン病の本を、社会のために役立てたいと思ってつくったのが「ハンセン病文庫」です。最初は名瀬の公民館に寄贈したけど、あまりちゃんとした管理をしてもらえなかった。人びとにハンセン病のことを理解してもらおうと思って寄贈した本なのに。それで、2014年の12月に県立図書館に移管した。いまでは「ハンセン病文庫コーナー」という棚があって、誰でも本を手に取って読むことができるようになってます。

いまでもしょっちゅう、図書館に本を持って行ってるよ。自宅の本棚がもういっぱいだしね(笑)。読みたい本があるとアマゾンですぐに買っちゃうから。便利な時代だね。

2009年には「ハンセン病文庫友の会」もつくりました。会員はいま120~30人くらい。 役員には、市会議員他元学校の先生もいるし、精神障がいの人たちのグループホームをつくっている人もいる。学歴で言えば、自分は他の役員より下だけど、ハンセン病については上ですよ。「ハンセン病の研究者」ですから(笑)。

現在、定期的にハンセン病のことを知ってもらうためのイベントをやったり、会報誌をつくったりしています。こういう活動をしつづけるには会費だけじゃ足りないし、資金集めは大変だけど、自分がやるしかないからね。

註)好善社は、1877年に教育宣教師ヤングマン女史らによって設立。ハンセン病療養所へのアメリカの支援物資を斡旋やキリスト教教会堂建設事業などを行った。現在は公益社団法人。

註)森山一隆、菊池一郎、石井則久「ハンセン病患者から生まれた子供たち―奄美大島における妊娠・出産・保育・養育のシステムと軌跡」(「日本ハンセン病学会雑誌」2009年9月発行)

奄美の入江の静かな海。森山さんお気に入りの撮影スポット。作品が入選したこともある

ハンセン病は、風邪と同じ、
普通の病気だと理解してほしい

国賠訴訟のときには、日本中の回復者リーダーたちと出会われたことと思います。
とくに印象深かった人はいますか。

  • 森山さん寄贈の『ハンセン病違憲国賠裁判全史』
    (「ハンセン病文庫」)

そうだねえ。谺雄二(註)さんかな。谺さんは理論家だったね。しっかりした人だった。

原告団に入った人たちは、園のなかで異端者扱いされていた部分があった。なんであんな騒ぎを起こすんだと思われていた。自分も「自治会長と原告団長の両方は困る」と言われたので、自治会長を降りて原告団に加わった。星塚敬愛園に集まって会合をしようとしたら、「昼間はあまり目立たないようにしてくれ」と言われるので、夜中に集まったりしていた。夜中じゅう議論して、そのまま朝になったら熊本地裁にみんなで行くんだよ(笑)。自分は原告団のなかでも若いほうだったから、行動力があった。総理官邸前の座り込みにも行った。

ハンセン病のことをあまり知らない人たちに、
どういうことをお伝えしたいですか。

ともかく、ハンセン病のことを勉強してほしい。ハンセン病は怖くないし、軽い病気だし、いまはよい治療薬もあって、普通の病院で治せるようになっています。昔のハンセン病のイメージをいまも持っている人がいたら、皆さんが風邪を引いたりするのと同じで、それと何も変わらない病気なんだ、特殊な病気じゃないんだ、というふうに、考え方を切り替えてほしい。

ハンセン病の治療は、ちょうど自分が入所した昭和43年ごろがボーダーラインだった。それ以降、ハンセン病は治る病気になった。自分のあとから発病した人は、通院治療で済むようになっているから、自分はちょうどその境界線に入って、長いあいだ療養所にいなければならなかった。もう少しあとで発病していたら、こうならずに済んだと思うね。

でも、あんまり難しいことは考えずに、ただ話し相手になるだけでいいから、いま療養所にいる人たちに対しても、訪ねて行ってあげてほしい。

これからの療養所はどうあるべきだとお考えですか。

いま全国の療養所で入所者が少なくなってみんな高齢化して、和光園は33人まで減ってしまった。でも、これだけの敷地があって、福祉専門の医療施設が整っているんだから、外来診療をもっと充実させて、もっとたくさんの人が来られるようにしてほしいと思います。

入所者が減ると、どうしてもいろんな建物や施設が使われなくなって、つぶされていく。どんどんさびしくなっていく。でもこの和光園にも医者や看護師や職員を合わせて100人以上もスタッフがいるんだよ。国だっていつまでもこんな状態にしておけないだろうし、もっと社会に開かれた地域医療の場にしていくほうがいいと思う。

自分は、これからは社会福祉の勉強をもっとやりたい。資格も取ろうと思ってるよ。この島にも、生活保護をもらいながらパチンコばっかりやっている人もいるけど、まじめに仕事をしているのに貧しくて大変な思いをしている人がたくさんいる。そういう人たちのために、国の制度で使えるものをもっと生かせるようにしてあげたい。自分たちもそうやってがんばってきたからね。

註)谺雄二 ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会(全原協)を発足、全原協会長、ハンセン病市民学会共同代表などを務めた。詩人としても知られ、『鬼の顔』などの詩集を出している。2014年、栗生楽泉園で死去。

取材・編集:太田香保 / 写真:川本聖哉・長津孝輔