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屋猛司(邑久光明園 自治会会長)

運送業の仕事をするかたわら、相撲や柔道にも打ち込んだ青年時代。
強面(こわもて)の風貌、反骨心あふれる物言い。
そんな屋さんは、光明園にやってきてからも
異端の存在として知られていたという。
それから30有余年。「異端者」は、療養所の自治会長となった。
その間に、いったいどのような変化があったのだろうか。

Profile

屋猛司氏
(おく たけし)

1942(昭和17)年1月5日、奄美大島生まれ。1974(昭和49)年、32歳のときに大阪大学でハンセン病と診断され邑久光明園に入所。その後1993(平成5)年に選挙管理委員となり自治会活動に関わるようになる。1999(平成11)年に自治会副会長、2006(平成18)年から現職。

偽名も宗教も必要ない。
32歳でやってきた邑久光明園

屋さんが光明園に入園されたのは1970年代だとうかがいました。

  • 入所時には葬儀のために所属する宗教団体を決めるというのが通例だった。屋さんは偽名、宗教ともいらないと宣言、以来そのままを通している(写真は邑久光明園納骨堂)

  • 2016年10月12日にあらたにオープンした邑久光明園「社会交流館」。前身である外島保養院時代からの歴史資料を展示している

1974(昭和49)年にやってきました。当時32歳。現在75歳です。光明園の入所者は私が来た当時で約700人いました。今は107人しかおりません。現時点における平均年齢は86歳(※2017年8月時点)です。

私の場合、30代というかなり遅くになってからの入所ですが、それまで病気だということがわからなかったからね。阪大(大阪大学)へも2回検査に行きましたが、2回ともなんの病気かわからなかったんだ。

どんな症状だったのですか。

目が充血して、お腹のあたりに斑紋が出てました。それで阪大で3回目の診察を受ける前に大阪府の衛生担当官のところへ相談しに行ったんですよ。担当官が言うには「これはハンセン病に間違いない」ということで、そのあと阪大に行って、ようやくハンセン病と診断されたんです。ハンセン病のことは、それまでまったく知りませんでした。

光明園に来たとき「偽名にしますか」と訊かれたけれども、「私は何も悪いことはしていないから本名のままでいい」と答えました。次に「宗教はどうするか」と訊かれましたが、ここまできて宗教もないやろということで、以来43年間そのままです。別に神仏に手を合わすのがいやとか、そういうわけじゃなくて、途中から入るというのがいやだったんかな。だから亡くなったときは「献花だけでいいよ」と身内にも言ってあるんだけどね。

1974(昭和49)年当時の光明園は、どんな様子だったのでしょう。

当時はまだ大部屋でしたよ。最初、独身寮の早苗寮というところに入ったんですが、ひとつの寮に15畳の部屋が4つあった。私は15畳の部屋にひとりきりでしたけど、昔は一部屋にもっとたくさんの人が暮らしていたんですよ。

1970年代後半になると、生活はだいぶ改善されましたが、社会復帰はまだできなかった。許されるのは長期の帰省だけ。用紙に名前を書いて判子を押して、もっていく。私も盆と正月は長期帰省という形で家に帰ってました。といっても当時長島には橋がありませんでしたから、手漕ぎの船で瀬溝を渡って、さらに駅までタクシーで行かないといけない。帰省もけっこう大変だったんですよ。

屋さんは、生まれはどちらなんですか。

奄美大島です。お袋がお産で実家のある奄美大島に帰って、そこで生まれました。うちは親父も奄美大島なんだ。きょうだいのなかで私だけ奄美大島生まれなんですよ。その後、大阪に帰ってきて小学校、中学校は大阪。中学校を卒業してから関西電力の学校に3年間行って、それから火力発電所に勤務しました。

そのあとは実家でやっていた運送業、人入れ稼業の手伝い。これは1964(昭和39)年から74年まで10年間やりました。名古屋へ銑鉄を運んだり、千葉へ行ったり、電話一本でどこでも行くわけ。鳥取、島根あたりもよく行ったね。ダンプのほかにタンクローリーも2台あった。

仕事以外では相撲、柔道。相撲はちょうど初代若乃花の時代で、花籠部屋の連中ともよく一緒に相撲とってました。柔道は大正区にある大川道場というところに通って、近くにある大正警察の連中と柔道してました。警察の連中が練習に来るとなると、道場主から「ちょっと来てくれ」って呼ばれるんだ。私も若くて荒っぽかったから、相手にちょうどいいと思われとったんかな(笑)。

園内の異端者「オクやん」、
光明園の自治会役員になる

治療ではB663(※クロファジミン=ランプレン、B663と呼ばれる化学療法剤。71年から用いられた)という薬を飲みました。ところが顔面神経痛が起こったのですぐやめて、半年くらいしてからまた同じB663を試したんです。このときも手足に神経痛が出て服用中止。3回目でやっとなじんで病状改善しました。当時はまだ多剤併用療法はなかったからね。

無菌状態(※症状が落ち着いた状態)になってからは園内作業でタクシー(※園内で運行されるタクシー)の運転手をしたり、豚舎の残飯運びをやりました。免許が失効していたので、大阪へ行って免許を取り直したりもしたね。そのときに大型特殊免許も一緒に取った。

その後、重機の免許も取って、いろいろ園内作業をやりました。1982(昭和57)〜83年頃はコンクリート工事のダンプに乗ったり、土方したり。だから当時は自治会のことなんて、まったく知らんわけですよ。邑久長島大橋の架橋運動とか、私が入所する前の1970年代はじめくらいからやってたはずなんだけど、こっちは仕事終わったら酒飲んで、ひっくり返っとったから(笑)。

そんな感じで過ごしてたから、最初はなかなか友達ができなかった。ずっと「異端者」みたいな感じでね。まわりの人からしてみれば、ごっつい柄の悪いやつがきたな、と思ってたんじゃないですか。まあ、私も反抗的だったからね。

社会復帰されたことはあったんですか。

1980年代なかばから後半にかけて7年ほど大阪で生活してました。長期帰省という名目で許可を取るんです。許可といっても、もうそんなに厳しいことは言われなかったですよ。ちょっと具合がおかしいなと思ったら、こっちに戻ってきて薬をもらったり。そんな感じで過ごしてました。

1987(昭和62)〜88年頃に足底潰瘍(※いわゆる足裏傷)がひどくなったので帰ってきて、最終的には右足を切断しました。以降ずっと光明園です。神経痛もひどかったからね。傷み始めると3日くらい寝られない。それが年に3回くらいくるんだ。右足を切断したあとも幻肢痛(げんしつう)といって、ない足が痛む。親指が痛んだり、かかとが痛んだりね。足を切断して30年以上になるけど、それは今でもあるね。

「自治会のことはまったく知らなかった」とおっしゃってましたが、そんな屋さんがなぜ自
治会の活動に関わるようになったんですか。

  • 2009年、外島保養院創立100周年を記念して刊行された邑久光明園百周年記念誌「隔離から解放へ」。外島時代からの貴重な写真記録が収録されている

1993(平成5)年だったかな。私が世話になっとった人がやってきて「オクやん、選管(選挙管理委員会)の委員、ちょっと頼むわ」と言われたんです。義理もあることだしと思って、「はい」と答えたんですけど、そしたら翌日の朝もその人がやってきて「どうせなら選管の委員長をやってくれへんか」と言うわけ。それで委員も委員長もたいして変わらんだろうと思って受けたんだ。そのときも自治会の事務所がどこにあるかすら知らなかった。

選管が終わって1994(平成6)年から96年までが非常勤の執行委員。1996(平成8)年の7月から執行部に入って生活委員長。副会長も1999(平成11)年から2年間やりました。そのあと生活委員長に戻って2006(平成18)年からはずっと自治会長です。

自治会に関わるようになってから「邑久光明園80年史」を始めとして、資料文献は何度も読みました。執行部に入ったときにもだいぶ勉強したし、歴史についてもかなり調べましたよ。啓発活動に行って人前で話をするようになってくると、やはり諸先輩方がやってきたことを勉強せなあかんという気持ちに、自然となってくるものなんですね。

屋さんは自治会長としては若手と言われていますね。

全療協も森会長が77歳、事務局長の藤崎さんは私よりひとつ下だから74歳。一番若いのは青森(松丘保養園)の石川会長(62歳)で、その次が沖縄愛楽園の金城会長(63歳)。支部長でも70代は4人くらいしかいないからね。

光明園にも60代はひとりしかいません。69歳がひとり。あとは70代が22人。対して80代は47人、90代は37人います。私も副会長も70代だから園内では若い方だけど、あと3年したら副会長も80歳になるし、私も78歳だ。このあたりでちょっと考えないといかんなと思ってるんですけどね。

進みつつある光明園の前身、
外島保養院の歴史保存

屋さんは邑久光明園の前身である、外島保養院の歴史保存にも関わっていらっしゃいます
ね。

  • 2017年2月にはハンセン病回復者支援センター/外島保養院の歴史をのこす会編集による冊子「大阪にあったハンセン病療養所 ──外島保養院」も刊行された

「外島保養院の歴史をのこす会」の共同代表もしていますので、年に数回、大阪まで行って会議に参加しています。邑久光明園の青木(美憲)園長、私、ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会 会長の宮良(正吉)さん、三宅美千子さん、この4人で共同代表をやっています。今年の2月には外島保養院の歴史を収めた冊子(大阪にあったハンセン病療養所──外島保養院 大阪市保健所感染症対策課発行)も出しました。

外島保養院は1909(明治42)年から1934(昭和9)年までの25年間、大阪にあった療養所です。神崎川河口、海抜ゼロメートルの中州にあって、1934(昭和9)年の室戸台風で洪水被害に遭いました。全入所者597名のうち173名が犠牲となり、職員、職員家族、工事関係者なども合わせると196名が亡くなっています。生活にまったく適さない土地に療養所を建てたことが原因ですね。

室戸台風が来たのが9月21日。それに合わせて毎年9月の最終金曜日に追悼式典をやっています。外島保養院跡地は、今は堤防がきっちりできてるんですよ。その跡地に1997(平成9)年に、4平米の土地を借り受けて石碑を建てました。今は5年ごとの契約更新という形ですけど、これも将来的に永続化していきたいと思っています。これから先、我々がおらんようになっても外島保養院が「記憶遺産」として残っていくようにね。

光明園には外島保養院時代を知る方はいらっしゃるんですか。

おひとりだけご存命です。現在101歳。そのほかの方は全員亡くなってしまいました。ひとり残った方も認知症が進んで話を聞いたりすることはできない状態です。今年になって外島保養院からやってきた女性がひとり亡くなりましたけども、この方も101歳でしたね。

光明園の納骨堂に収められているお骨は3198柱(※2017年取材当日)。このなかに外島保養院で亡くなった方のお骨は含まれていません。台風でみんな流されてしまったので、お骨が残っていないんです。委託療養時代に(※生き残った416名は邑久光明園が開園するまで全国6ヵ所の療養所に分散して暮らした)各地の療養所で亡くなった方のお骨も帰ってきたのはわずかだと思います。浄財を集めて初代の納骨堂ができたのが1942(昭和17)年。

納骨堂に眠る方々のうち、本名の方というのは、ごくわずかなんですね。つい一昨日亡くなった方も偽名のままでした。それはいまだに変わっていません。遺言で本名に戻して納骨してほしいとか、そういう申し出があって当然だと思うんですよ。でもそういう方はほとんどいない。それくらい、いまだに偏見差別が厳しいんです。

私にしても妹の婿にハンセン病だったと告白できたのは、2年くらい前のことだからね。それまで家族のいる大阪では、絶対に講演とか啓発活動はしなかった。妹の婿に話したら「兄貴、もうそんなことはええやないか」と言ってくれたので、いまも付き合いがあるんだけどね。

日本では1931(昭和6)年、「癩予防法」ができたときに強制収容があった。そして死ぬまで出ることはできない、子孫を残すことも許さないという撲滅政策をとった。だから日本の場合、入所者の子孫というのは、ほとんどおりません。

療養所にいた人たちの子孫がいない。厳しい法律で強制収容されて断種や中絶、嬰児殺害もあった。そういう意味では日本は世界的に見ても異例ですよ。1953(昭和28)年に「らい予防法」が改正されたときも、見直されるどころか、さらに厳しくなったんだから。当時、参議院の厚生委員会で「この法律は近い将来、見直さなければならない」という付帯事項があったんです。でも、1996(平成8)年の「らい予防法廃止」までには結局43年もかかった。まったく「近い将来」じゃなかったんだ。

地元地域の交流、理解なくして
瀬戸内3園の世界遺産登録はあり得ない

  • 2000年末まで使われていた火葬場跡には1500名以上の残骨を納めた亀甲状の納骨堂と慰霊碑、胎児慰霊のための石碑が建つ。現在は「しのびづか公園」として整備され、毎年慰霊祭がおこなわれている

  • 人権啓発のためのイベントなども定期的に開催。屋さんも会場に出向き、展示解説や邑久光明園のオリジナルキャラクター「こみょたん」グッズ販売などをおこなっている

現在、瀬戸内3園を世界遺産として登録しようというプロジェクトが動いてますが、こういうものは、やっぱり地域の人を巻き込まないといけないんですね。病気のこと、歴史のこと、いろんなことをまずは地域の人たちに知ってもらう。これが大事だと思います。地域の協力がなかったら、世界遺産登録なんて絶対に実現できないんですよ。

療養所から遠いところというのは、啓発活動でも比較的理解を得やすい。でも療養所に近いところ、とくに地元はそうはいかないんです。結果的に啓発がもっとも遅れてしまう。これはどの療養所もそうだと思います。

入所者の家族も被害を被っているわけで、そのあたりも含めてわかってもらえるようになるには、もっと時間がかかるでしょう。我々がおらんようになってずっと経ってから「昔、こんなことがあったんか」と、ようやくわかるものなのかもしれないですよ。

しかし、それではあまりに遅すぎるという気がします。

そうなんですよ。全国にある療養所を人権教育の場として残すというのは、だからこそ意味がある。ボランティアの人や学芸員の人たちにも、しっかりあとを引き継いでもらわないといかん。愛生園歴史館の田村君(※田村朋久氏。長島愛生園歴史館 学芸員)にも常々そう言ってるんです。我々がいなくなったあともしっかり語り継いでいってくれ、とね。

私は瀬戸内3園がたとえ世界遺産にならなくても、基盤作りをして、みなさんに知ってもらうということが大事だと思ってるんだ。その過程でハンセン病に対する理解が進んだら、とてもいいことですからね。できる、できないは別として動くことが大事。どういう意味があったかは、あとの世代が決めていくことでね。我々が生きているうちには決まらないと思う。

2016(平成28)年2月には光明園のなかに特別養護老人ホーム「せとの夢」もオープンしました。これは以前から将来構想として掲げてきたもので、国有地に民間の特養が建つというのは全国でも初。「せとの夢」との交流も進んでいます。「せとの夢」の前田計子理事長という方が開けた方でね、納涼大会に河内家菊水丸を呼んでくださったりして、ものすごく積極的なんですよ。

「せとの夢」が行事をやるときには、こちらからも出かけていくし、光明園が夏の納涼大会、カラオケ大会をやるときには「せとの夢」入居者の皆さんを招待しています。そんな感じで交流も順調に進んでいます。立地も素晴らしいですよ。天気がいい日には目の前に小豆島も見えるしね。

こないだは福島の避難者家族の子どもたちが一時保養にやってきました。もう今年で6回目になるんかな。今回の参加者は大人が6人、子どもが10人、合計16名。6泊7日の日程で毎年やってます。光明園と真宗大谷派が共同で開催して、うちが宿泊所(かえで会館)を提供する。歓迎セレモニーしたり、ボランティアが中心になって流しそうめんやったり、望遠鏡もってきて天体観測したりね。そういう取り組みも続けていきたいと思ってるんですよ。

取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉