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ハンセン病に向き合う人々

【People+】駿河療養所 フィールドワークとハンセン病文学読書会

ハンセン病に関心をもつ若い世代が駿河療養所に集まり、かつてここで暮した作家の作品を読む会を定期的に開いている。彼らのモチベーションは何なのか。読書会を続けることでどのような化学反応が起こっているのか。全国の療養所で入所者の高齢化が進むなか、ハンセン病者によって書かれた文学作品は、当時の患者心理や療養所内のようす、社会からの眼差しなどを知る手がかりとして重要性を増している。読書会に参加してみて、こうした作品を読み継ぐことの意義や可能性が見えてきた。

被害者としての側面だけではない入所者たちの生き方を読み解く

  • 読書会を主宰する佐藤健太さんは、ハンセン病史やハンセン病文学に詳しいエディター

  • 読書会メンバーと小鹿美佐雄さん(駿河療養所入所者自治会長)

「入所者たちは、ただ隔絶した世界に閉じ込められ、被害者としての立場だけで生きていたわけではありません。そこには外の社会と同じように、生きる喜びも人生の苦悩もあった。小説を読み解き、それを参加者全員で共有するのが楽しいし、意見を出し合うことで、ハンセン病問題に対する理解がそれぞれに深まってきていると感じます」。ハンセン病文学読書会を主宰する佐藤健太さんは、療養所入所者自身が書いた文学作品を取り上げる読書会の意義をそう語る。

2015年秋、静岡県御殿場市にある国立駿河療養所で開催された読書会に、取材スタッフも参加した。初日の午後、参加メンバーが東京や静岡、名古屋などから三々五々集まってきた。読書会のコアメンバーは6人ほど。職業がさまざまなら、年齢も20歳代から70歳代と幅広い。若い世代が多く、なかには子ども連れの家族もいる。読書会は2日目の午前中に開かれた。

今回取り上げられた作品は、小泉孝之の「朝鮮の子」。1956年、群馬県吾妻郡草津町にある国立療養所栗生楽泉園の機関誌「高原」の特別募集創作欄に掲載された短編小説だ。まず佐藤さんが、作者と作品について紹介した。

小泉孝之は1917年、群馬県に生まれた。在営中に発病し1938年、栗生楽泉園に入園。多磨全生園に転園したのち、機関誌『山櫻』の編集に携わる。そのころから大衆小説を書き始め、いったんは療養所を出たものの、戦後に病状が悪化したことから、ハンセン病専門医・高島重孝が所長をつとめる駿河療養所へ再入所。所内の小中学校の教師をつとめた時期もある。その後、長年にわたりハンセン病療養所入園者による組織である全患協(現在の国立ハンセン病療養所入所者協議会)の会長をつとめるとともに文芸同人誌『山椒』を主宰し、1999年に逝去した。

次に、佐藤さんは「朝鮮の子」について解説。この小説が、1953年に熊本で実際に起こった龍田寮事件を題材にしていること。ハンセン病療養所入園者の子ども(未感染児童)の通学に対してPTAの猛反対があったため事態は紛糾、この事実のなかで小泉はとくに朝鮮人児童に対する差別を柱として物語を構成したこと。この作品のほかにも、療養所における朝鮮人差別を題材にした作品を書いていること。さらには、患者運動の座り込み現場でひとり冷めた目で見ている男や、皆が嫌がる火葬係の患者作業を好んで引き受ける男など、小泉作品には療養所内のアウトサイダーを主人公にしたものが多いことなどだ。

解説がすむと、各自が事前に読んで意味のわからなかったところや言葉を質問し、佐藤さんや読書会コアメンバーの高野弘之さんが答える。高野さんはハンセン病アーカイブスの活用に強い関心をもっており、ハンセン病問題全般にも詳しい。ふたりは、全員の共通理解のベースづくりのために、よきアドバイザーとなっている。

各自の感想を紹介する前に、ここで「朝鮮の子」のあらすじを紹介しておこう。ある地方に、ハンセン病療養所入園者の子どもを収容する「竜口寮」があった。子どもたちは健康であることから、父母は地元の小学校に通わせたいと希望するものの、PTAが猛反対し、事態は膠着。そこへ、ある大学教授が「数人を引き取って自宅から学校へ通わせたい」と申し出る。朝鮮人の夫に捨てられ、私怨を抱く寮母の山田は、児童7人のうち朝鮮人の3人を追い出し、日本人4人を教授に託そうと画策。朝鮮人の児童1人は父親に押しつけ、1人は感化院(現在の児童自立支援施設)へ送ることに成功。山田は残った女児福分の兄を呼び出し、妹の引き取りを迫るが、やってきた兄は一筋縄ではいかない気配を漂わせていた――。

佐藤さんの進行で、メンバーが思い思いの感想を語り合う読書会。

「人権」や「差別」などの“用語”を使わずに感想を述べ合う

  • 小鹿さんの何気ないひと言が、ハンセン病を理解するために欠かせない

「寮母の朝鮮人に対する感情が露骨で、わかりやす過ぎる」「もう少しスマートな復讐を描いてほしかった」「セリフで感情を説明するのは、小説としてはあまりうまい表現方法ではない」――。読書会メンバーからは、小泉の作品「朝鮮の子」に対する手厳しい批評が飛び出す。一方で、「ハンセン病をめぐる親同士の対立の裏には、それぞれに子どもを思う親心があり、一概にどちらが正しいと言えない。寮母の山田にしても、朝鮮の子どもに対するあからさまな悪感情の裏に、自分が受けた深い心の傷があった。何事も表面に現れたことだけで判断できないと考えさせられた」といった意見も出された。

読書会の場には、作品を読み、感じたことを率直に話し合える雰囲気がある。コアメンバーのひとり黒田暁子さんは「どこまでが事実でどこからがフィクションか区別がつかない面もありますが、解釈は読者に委ねられているのが小説のおもしろいところ。他の参加者の意見を聞いてなるほどと思うことも多くあります」と話す。黒田さんの夫・宮崎学さんも「小説を読めば、作者の考えを想像することができる。入所者への聞き取りとはまた別のアプローチ方法だと思います」と評する。

もっとも、読書会が始まった当初は、メンバーの誰もが、「ハンセン病者自身の書いた作品に否定的な評価を下すことにためらいがあった」という。「入所者は長年の隔離政策下を生き延びてきた人たち、作品に対しても敬意をもって読まなければ、と思っていたのです。もちろんその気持ちはわからないわけではありませんが、ともすれば作品の読み方を制限することにもつながる危険がある」と佐藤さんは話す。そこで、つまらないと思ったなら率直にそう言おう、と呼びかけた。

もうひとつ、佐藤さんが提案したルールがある。それは、感想を述べる際に「人権」「差別」「偏見」という用語を使わないことだ。「ハンセン病を語る際に頻繁に使われるこれらの言葉を安易に持ち出せば、それだけで何か大切なことを言った気になってしまう。誤読の可能性も生じるでしょう」と佐藤さん。その口ぶりに、一面的な見方を徹底的に排除し、本質を見極めようとする姿勢がうかがえる。

小説の舞台で、当時を知る人と共に読むことでイメージが膨らむ

  • 家族で参加している谷岡美穂さん、聖史さん

  • 佐藤さんと谷岡さんが編集した冊子『ハンセン病文学読書会のすすめ』(2015年発行)入手希望などの問い合わせは、佐藤さん(sbenzo.jokyouju■gmail.com)へ。(問い合わせ時は、URLの■を@に変換して送信してください)

読書会は、10年前からメンバーと入所者とのあいだで続く交流の中から生まれた活動だ。
きっかけは、2006年にハンセン病市民学会青年・学生部会が開催した「ハンセン病問題を知りたい青年交流会in駿河」だった。準備に関わったメンバーはその後も療養所に定期的に集まるようになり、何人かの入所者を訪ねて親交を深めたり、療養所内を歩き回ってガイドマップをつくったりと取り組みを続けてきた。新しい活動を模索するなかで、佐藤さんが提案したのが、現在だけでなく過去のことも学ぶ読書会だった。

「私はもともと小説が好きで、ハンセン病文学にすばらしい作品が多いことを知っていました。けれども、皆さんに聞いてみると、ほとんど読んだことがないという。そこで、まずは駿河療養所で同人誌をつくっていた小泉孝之の作品を読んでみないかと提案したのです」と佐藤さんは振り返る。2012年にスタートし、すでに15回以上開催してきた。

療養所のなかで読書会を開催することには、大きなメリットがある。入所者とともに小説を読み、作品が書かれた時代のようすを直に聞くことができるからだ。毎回読書会に参加する入所者自治会長の小鹿美佐雄さんは、まさに療養所の歴史の証人である。実際にも、子どものころ小泉孝之の授業を受けた経験があり、その後も自治会活動などを通して交流があった。ただし読書会参加以前に彼の小説を読んだことは一度もなかったという。

読書会に初回から参加しているソーシャルワーカーの鶉領太郎さんは「療養所の現場で読むことで、小説の時代や背景を思い浮かべてイメージを膨らませやすくなります。主人公を“患者”ではなく個人として捉え、その人の目線で考えられるところがいい」と感想を述べる。

新聞記者の谷岡聖史さんは、「『国策の被害者』という結論が先にあると、もっと多様な横顔を知る機会をみずから閉ざすことになる。作品を読んでみると、小説を書いて発表していた人たちには『おもしろいものを書いてやろう』という野心家の一面も強く感じられ、一般的な被害者像とは印象がまったく違います。小説をきっかけとして、小鹿さんから個別具体的な事実を教えてもらうことができて幸運でした」と話す。

聖史さんと夫婦で参加しているソーシャルワーカーの谷岡美穂さんは「小説には、ハンセン病者自身を表すのに、ふだん私が使わないような言葉が出てきて驚くことがあります。療養所内外の人の目に触れる小説の中で、みずから体験したハンセン病を差別的に表現するというのは、どういう気持ちからだったのだろうかと思います」と発言。これを聞いた小鹿さんは「皆さんが差別語だと感じて驚いている言葉が、自分たちにとっては普通の言葉だったりする。自分たちのほうが人権に鈍感になっているのかもしれないね」とつぶやいた。読書会参加者との対話は、小鹿さんにも気づきをもたらしているようだ。

駿河療養所では、昭和のピーク時に470人を超えた入所者も今は70人を下回り、平均年齢は80歳を超えている。これまでのように、講演会や療養所案内を通じてみずからの体験を伝えることのできる人は、今後ますます減っていくだろう。佐藤さんはメンバーとともに2015年春、それまでの活動を元にした冊子『ハンセン病文学読書会のすすめ』を発行。「非当事者にできる活動のひとつとして、読書会という方法を提示していきたい」と力を込める。

読書会の前日のおこなわれたフィールドワーク。後方の建物は療養所付属准看学校跡につくられた駿河ふれあいセンター

読書会の前日のおこなわれたフィールドワーク。後方の建物は療養所付属准看学校跡につくられた駿河ふれあいセンター

ハンセン病を発症した傷痍軍人の治療のために開設した療養所

  • 佐藤さんも編集にかかわった「駿河療養所ガイドマップ」。駿河療養所入所者、自治会、駿河ふれあいセンターで無料配布している

読書会前日の午後には、佐藤さんとメンバーの小堀智恵子さんが中心となって制作した「駿河療養所ガイドマップ」を手に、療養所内のポイントをめぐった。新しい参加者がいるときには、こうしたフィールドワークと読書会を一緒に行うことがあるのも特徴だ。

駿河療養所は、全国13カ所の国立ハンセン病療養所の中で唯一、傷痍軍人ハンセン病患者を対象として1944年12月に設立された。「第二次世界大戦末期には、ハンセン病を発症して内地送還された軍人を少しでも早く戦場へ復帰させる必要があった。初代所長の高島重孝は『ハンセン病は治る』という信念をもっていて、治療に重点を置くことが想定されていました」。佐藤さんがそう説明してくれた。

ところが、翌年6月に名古屋陸軍病院から最初の患者が入所した直後に、日本は終戦を迎える。戦時中は資材も人手も不足していたことから、まだ建物も完成していなかった。そこで、他の療養所から「健康度の高い傷痍軍人」を建設部隊として募集。34人がこれに応募し、建設を手掛けたという。終戦からしばらくのあいだは食糧も少なく、患者も職員も脚気に苦しむなど、運営は多難をきわめた。戦後はおもに静岡、愛知、三重の東海3県と神奈川県、山梨県から一般患者を受け入れるようになった。また傷痍軍人療養所として設立されたため、男性患者しか受け入れ予定がなかったが、女性患者の受け入れもはじまった。

写真左)療養所敷地内に残る旧解剖室。1992年まで使用されていた。 写真右上)入所者によって建てられた木工部作業場 写真右下)フィールドワークの案内役は高野弘之さん

かつての療養所の名残をたどる

東京ドーム8個分にあたる約37万m2の広大な敷地に、各施設が点在する。病棟だけでなく、夫婦舎や独身寮、宗教施設や学校、作業場、グラウンドなどがあり、療養所の中で生活が完結できるようにさまざまな機能が揃えられていたことがうかがえる。もちろん今では病棟と入所者の生活の場は、現代的で快適な施設として整備されている。一方で、隔離政策時代の名残を留める施設のいくつかは、ほぼそのままの姿で保存され、外部からの見学者に療養所の歴史を伝えている。

他の療養所と同様、ここでもかつては患者たち自身による自給自足の生活が営まれていた。敷地内には、入所者に課された「患者作業」を行うための施設も残されている。布団の打ち直しなどを行った綿打ち工場、養豚のための豚舎跡、家具製作や家の修繕を手掛けた木工部の作業場などに、その片鱗が見える。「木工部には十数名の男性患者が所属し、なかにはプロの大工職人もいたようです」と高野さんは説明する。

ハンセン病の歴史の暗部を刻む施設もある。そのひとつが、胎児慰霊碑だ。駿河療養所では1950年から63年のあいだ、妊娠した女性には堕胎手術がおこなわれていた。2007年に、ホルマリンに漬けられ放置されていた10体の胎児にひとりずつ名前をつけ、遺骨を納骨堂に納めるとともに、慰霊碑が建てられた。亡くなった入所者の病理解剖をした解剖室も保存されている。1992年を最後に、その後は使われていないものの、解剖台や解剖道具などが置かれた光景が生々しく往時を伝えている。

敷地最奥の山中には火葬場跡がある。1947年に初めて駿河で入所者が亡くなったときは、他の療養所と異なり火葬場がなかったため、深良村の火葬場で荼毘に付された。2人目からは三島市の火葬場が引き受け、以後は同所で火葬されてきた。ハンセン病患者の遺体を外部へ搬出するのは「らい予防法」上、不都合だという理由で、国はすべての療養所に火葬場を設ける方針を打ち出していた。駿河療養所でも1957年に火葬場が建設されたが、入所者たちの猛反対があり、国と施設側は当初から「建設しても使用しない」ことを告げていたという。今回訪れたときには、約束どおり一度も使用されていない焼き窯が、苔むしたレンガの肌を晒していた。

取材・執筆:三上美絵 / 写真:川本聖哉

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