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ハンセン病に向き合う人々

【People+】近藤宏一と青い鳥楽団 佐々木松雄さんの思い出とともに

ハーモニカバンド「青い鳥」が長島愛生園で産声をあげたのは、
1953(昭和28)年の秋のこと。
発足時のメンバーは13名、このうち11名が全盲または弱視の視力障がい者、
また晴眼者も含めてほとんどのメンバーが手や足の不自由を抱えていた。
メンバーのなかで唯一“楽譜がわかる”ためにリーダーとなった近藤宏一氏も
同じように重いハンディキャップを背負っていたが、
努力によって培った点字譜による編曲・作曲と、すぐれた音楽センスによって、
「青い鳥」を大きく羽ばたかせ、日本各地に自分たちの音楽を伝えていった。
かつて「青い鳥」と活動をともにし、いまも近藤氏を「人生の師」と慕う佐々木松雄さんの話を交えながら、
みずから運命の扉を開いていった近藤宏一氏と「青い鳥」の軌跡を紹介する。

楽団「青い鳥」結成と近藤宏一の指導法
 ――「ドレミ」と「調和」を求めて

  • 演奏会で指揮棒を振る近藤宏一氏(写真提供:佐々木松雄氏)

  • 「文化をみんなのものに―第1回障害者文化祭」で演奏する近藤氏と「青い鳥」楽団(1975年 岡山市役所/写真提供:長島愛生園歴史館)

近藤宏一の自叙伝『ハーモニカの歌』に、「青い鳥」結成の経緯がくわしく記されている。それによると、特効薬プロミンの普及によって病気が治るという希望が与えられながらも、「らい予防法」によって隔離生活を強いられていた当時の入所者のあいだに、「心のささえや生活の目標が欲しい」という思いが募っていた。とりわけ手足や視力に重い障がいをもつ不自由者たちは強い渇望感を抱えていた。その渇望感が、不自由者たちによる楽団の結成につながっていった。

近藤宏一は、10歳のときにハンセン病を発症、やはりハンセン病を患っていた母を失い、1938(昭和13)年、11歳のときに長島愛生園に入園した。19歳のとき患者作業として赤痢病棟の付き添いをさせられて赤痢に感染し、重態に陥った。一命はとりとめたものの、「治まっていた“らい菌”が暴れ出し、治療のために打ったプロミン注射によって今度は6年ものあいだ高熱に苦しんだ」という。あげくに手指を欠損し、視力を失った。このころのことを「苦しみのどん底」で「命を絶つ方法を模索」したと近藤は記している。不自由者として生きることになった近藤は、キリスト教に救いを求めていった。教会に通うことだけが唯一のいきがいになった。

そこへもたらされた、同じ不自由者たちの「楽団をつくりたい」という思いに対して、近藤は胸を揺さぶられながらも、はじめは懐疑的だったようだ。重い障がいをもつ者たちが扱える楽器といえばごく限られてしまう。実際にも手元にあるのはおのおのが持ち寄った使い古しのハーモニカが4、5本、おまけにそれらは「複音ハーモニカ」で移調ができないうえに、イ調・ハ調などの「調」もバラバラでそのままでは合奏できない。

それでもメンバーはあきらめず、近藤も次第にその熱心さに焚き付けられていった。みんなで園内作業で得た給金をはたいてハーモニカを新調した。手指が侵されていない者は新品のギターを入手した。知恵を出し合い、砂糖袋や鍋蓋や盲人用の杖などの廃品を駆使してドラムセットをつくった。また園内の友人や晴眼者の楽団からトライアングルや譜面台を譲り受けた。

こうして「青い鳥」は、計10人の第一ハーモニカと第二ハーモニカ、それにギターとドラムの伴奏、さらにトライアングルを加えた編成でスタートをきった。「単純で可愛い音楽グループ」だったが、果敢に練習に励んだ。音楽経験の乏しいメンバーばかりとあって、最初のころはパート練習でも総合練習でも、音とリズムが氾濫するかなり騒然とした状態だったようだが、近藤は根気強く熱心に指導し続けた。

楽団結成後まもない1954(昭和29)年の1月には、愛生園の「盲人新春総会」で、ゴセック作曲の「ガボット」、唱歌「ふるさと」や童謡「月の砂漠」、歌謡曲「いとしあの星」、それに北の「ソーラン節」から南の「鹿児島おはら節」まで日本を縦断する「民謡組曲」を披露し、大歓声を受けた。

「青い鳥」を楽団として成り立たせるために、近藤が当初から重視し、メンバーに実践させていたことがあった。そのひとつは、どんな曲であっても、耳から入ってくる「音」によって覚えるのではなく、「ドレミ」の音名で覚えてマスターするということである。「ドレミ」になじみのないメンバーにはかなりの負担を強いることになったが、数多くの曲を覚えながら正しく合奏をしていくためには欠かせないことだと、近藤はいっさい妥協しなかった。

もうひとつは、「調和」である。ハーモニカのように単純な楽器では、演奏者それぞれの性格がそのままあらわれてしまいがちだが、近藤は、メロディー、リズム、ハーモニーのことごとくが、団員同士の結びついた心の表現でなければならないと考えていた。またそれを表現するためにも、合奏においては個々の自己主張を慎むように要求した。

近藤には音楽についての確固とした理想があった。それは西洋のクラシック音楽への憧憬からくるものだった。「青い鳥」結成とほぼ同じころ、不自由者棟にラジオが設置され、近藤はNHKのクラシック音楽番組をかじりつくようにして聞いていた。そのうちに音楽をなりたたせている「コード」に関心をもち、和声学(西洋音楽の理論)を独学した。その知識をもとに、クラシックから唱歌、シャンソン、アメリカ民謡にいたるまで、多様な曲を「青い鳥」のために編曲し、またみずから作曲もしていった。

大阪厚生会館文化ホール「らいを聞く夕べ」で、「青い鳥」の伴奏でソロボーカルをつとめる佐々木松雄氏(1968年/写真提供:佐々木松雄氏)

医者も職員も入所者も一つになって――佐々木松雄さんが打たれた「青い鳥」の演奏会

  • 演奏会場での近藤氏と佐々木氏

近藤の奮闘によって「青い鳥」は次第に演奏技術を磨いていった。編成も拡大し、ハーモニカにはソプラノシングルやアルトシングルが、また新たにコントラバスやアコーディオンやチューブラーベルも加わった。廃品ドラムも新しい大小のドラムに買い換えられた。これらは、楽団の活動に感銘を受けた人びとからの寄附や寄贈によるものだった。

園内での定期演奏会では、新良田教室(1955年に愛生園内につくられた全国療養所唯一の高等学校)の学生たちや看護学校の生徒たちがコーラスに加わった。「青い鳥」の伴奏で医師や職員たちが歌を披露することもあった。観客たちも手拍子だけではあきたらず、ついには全員での大合唱になることもあった。

近藤を「人生の師」としていまも熱烈な思いをもって慕い続けている佐々木松雄さんは、1961年、愛生園で「青い鳥」の定期演奏会を初めて見て、感銘を受けたという。佐々木さんが、東北新生園から新良田教室に進学してきたばかりのことだった。医者も看護師も職員も入所者も一つになって音楽を奏で、歌い、楽しんでいる光景に驚いた。とりわけ、そのまんなかで懸命になって指揮棒を振っている近藤の姿に惹きつけられた。

――近藤さんも楽団の皆さんも、みんな目が悪かった。目が悪いだけじゃなくて、手の感覚もなかった。だから、なんであんなふうに演奏できるんだろうと思った。近藤さんは演奏も指揮もしていた。目が見えないのに一生懸命指揮をしていたんだ。(新良田の)高校生たちは笑っていたけど、かっこよかったよ。本当にかっこよかったんだ。オレ、近藤さんにすっかり惚れちゃったんだ。

――近藤さんは、練習のときもいつも本気だった。あんまり本気になって長いあいだ手拍子を打ち続けるから、とうとう手が腫れ上がっちゃった。それで手が痛くなって診察を受けたら「何をやったんですか」ってお医者さんに言われたんだって(笑)。

練習中に手拍子を打ちすぎて診察を受けた話は、近藤の『ハーモニカの歌』にも記されている。慣れないラテンリズムの曲に初めて挑戦することになり、バスドラムと小太鼓のリズムが合うまで何度も何度もやり直しをさせ、長時間におよぶ練習した翌朝、両手がゴムまりのように腫れ上がってしまったという。手の感覚がなく目の見えない近藤は、無我夢中になりすぎて、体を痛めるほどの無理をしていることに気が付かなかったのだ。

精神科医として長らく愛生園にかかわった神谷美恵子も、近藤宏一と「青い鳥」の練習風景には胸打たれていたようだ。愛生園で見聞したハンセン病者たちの姿や言葉が随所に紹介されている代表作『生きがいについて』のなかに、次のような一文がある。神谷が本書に結実させた思索において、近藤から触発されたことがいかに大きかったかが伝わってくる文章である。

(近藤が記している“よろこび”が)真の生の充実感から湧き上がっているものであることは、この楽団の練習をこっそりとのぞいてみればわかる。指揮者の、必死と形容するほかないような、烈しく、きびしい指導のもとに全員が力をふりしぼって創り出す協和音。これほどすばらしい生命の燃焼の光景を筆者はあまりみたことがない。

  • 近藤氏作詞作曲による「鶴島哀歌」の楽譜(『ハーモニカの歌』より)

  • 佐々木氏の部屋のキャビネットに並ぶ陶製のトトロ

  • 佐々木氏による、ユニークな陶製の白ブタの楽団

そんな近藤から、佐々木さんは、学校で学ぶよりも多くのことを学んだという。多くの時間をともに過ごし、近藤とともに教会にも通い、「青い鳥」の活動を支える奉仕活動もした。ボーカルとして「青い鳥」の演奏会の舞台に何度も立ち、演奏旅行にも同行した。

佐々木さんがメインボーカルをつとめた演奏会の録音を聞かせてもらった。看護学校の女性コーラスをバックに、佐々木さんの朗々とした美声が響く。聴くものの心を揺さぶる表現力である。佐々木さんには「役者になりたい」という夢があった。部員が少なく停滞していた新良田教室の演劇部が佐々木さんの入部でおおいに活性化した。その演劇部のために音楽の相談をしたことをきっかけに、佐々木さんは近藤と親交をもつようになった。

近藤も、佐々木さんの表現力にすぐに気が付いたのだろう。長島からほど近い瀬戸内の鶴島にまつわるキリシタン弾圧の話に触発され、「鶴島哀歌」という歌を作曲し、その主旋律のソロパートを佐々木さんに受け持たせたという話が『ハーモニカの歌』に綴られている。佐々木さんが聞かせてくれたのは、この「鶴島哀歌」の録音である。佐々木さんのたっての願いで、近藤は「鶴島哀歌」をセリフ入りの歌に仕上げた。

――近藤さんは音楽も歌も絶対にドレミで覚えなさいって言ってた。でも覚えの悪い人もいるから、大変だった。オレも一生懸命努力したけど、あれはきつかったな。近藤さんは怒るときも本気になって怒るから。ぼくはいつも誉められていたけどね(笑)。

――近藤さんからは、文章を書くことも教えてもらった。オレが書いた文章を読んで聞いてもらうんだ。近藤さんは聞いたことをなんでもすぐに憶えてしまう。ものすごく記憶力がいいんだ。聖書のことはほとんど全部アタマに入っていた。「なんでそんなにアタマに入るんだ」って聞いたら「みんな楽譜みたいに聞こえるんだよ」って言ってた。でも「黒板と同じで、新しいことを聞いたら、前に聞いたことは全部消えちゃうんだ」って。

いま全生園で暮らしている佐々木さんの部屋には、大きなキャビネットが置かれていて、なかには小さな陶製の「トトロ」がいっぱいに飾られている。キャビネットの上には、黒いサングラスをかけハーモニカやコントラバスを持った陶製の白ブタたちが並んでいる。こちらは「青い鳥」の見立てなのだろう。指揮棒をもった近藤らしきブタもいる。いずれも佐々木さんが、全生園の陶芸室でつくったものだという。

佐々木さんは、新良田高校を卒業後、東北新生園に戻ったが、熱烈な恋をして駆け落ちしてしまったのだそうだ。奥様の敏子さんと二人、しばらく錦糸町の近くの教会で活動をしていたという。教会にはたくさんの子どもたちが通ってきた。病気を気にしてのことだろう、子どもをもつことをあきらめていた二人にとって、子どもたちと触れ合う日々は、願ってもいない贈り物のように思えたようだ。その子どもたちが大好きなキャラクターが、トトロだったという。

その後、敏子さんは若くしてガンに罹り、ほどなくして亡くなってしまったが、佐々木さんにとって敏子さんと二人で社会に出て暮らした日々のことは、いまも甘やかでせつない思い出として息づいているという。佐々木さんのキャビネットのトトロたち、白ブタたちは、敏子さんと近藤、またその二人との出会いから広がったさまざまな人びととの思い出につながっているものなのだろう。

障がいが重い楽団メンバーのために近藤が試行錯誤してつくったハーモニカ組立器。重さは978gにもなる。これによって「青い鳥」のレパートリーが広がった。(ハーモニカ組立器の所蔵は国立ハンセン病資料館)

血に染まった点字とハーモニカ組立器――「青い鳥」の音楽を生み出すために

  • 佐々木氏の部屋に飾られている近藤氏の写真

  • 青い鳥楽団による愛生園での演奏風景(写真提供:佐々木氏)

近藤宏一のすぐれた指導力の基盤には、文字通り血のにじむ努力をして獲得した、「舌読」と「点字譜」の技術があった。「青い鳥」結成まもないころ、愛生園に「盲人会」が組織され、「点字講習会」が行われた。近藤ははじめ聖書を読みたい一心で、この講習会に参加した。指先に感覚はなくとも、唇と舌をつかって点字を読む方法があることを、すでに知っていた。全12名の受講生のうち、近藤とともにもう一人の楽団メンバーが、この技術の修得に励んだ。

起きてから寝るまで、食事と治療と楽団の練習時間以外は、すべての時間を、点字の練習にあてた。点字は6つの点ですべての文字と数字をあらわす。その点を唇と舌でまさぐっていく。あまりに集中しすぎて、唇の皮膚が破け舌先がただれて、点字本が血で染まってしまうほどだった。三カ月も過ぎたころには、点字本を一冊(森鴎外の『高瀬舟』だった)、読破することができるまでになっていた。萎えた指に天筆を包帯でくくりつけて、文字を打つこともできるようになった。

近藤にとって幸運が重なった。園内で点訳奉仕をしていた志樹逸馬氏(愛生園入所者・詩人)の奥様から、『点字楽譜の書き方』という本を贈られたのだ。五線譜のすべての記号が点字化されたものである。この点字楽譜をマスターしたことによって、三重奏、四重奏の和音をアレンジすることができるようになり、「青い鳥」のための編曲や作曲は格段に進化した。

近藤は、膨大な点字楽譜を来る日も来る日も打ち続けた。演奏したい楽曲の譜面を、晴眼のメンバーに読んでもらい、それを各パートごとに点字楽譜に変換していく。もちろん、楽団メンバーの技量や個性もふまえて、さまざまにアレンジも加えていく。この作業は大変ではあったが、近藤には楽しく、やりがいのあるものだった。

メロディー、リズム、ハーモニー、それぞれの楽器の特色や、全体の曲想など、どのようにして楽団員にわりあてていくか――(中略)楽団員一人一人の癖や、息づかいや、その表情までが私の目の前にうかんできて、一点一点牛の歩みにも等しい、私の点字楽譜はこうして編まれてゆくのだった。点字は私のものとなった。そして点字楽譜は完全に楽団のものとなった。(『ハーモニカの歌』より)

一方、「青い鳥」は、どうしても解決しなければならない問題も抱えていた。「青い鳥」では、合奏のために半音が出せる「シングルハーモニカ」を使うようになっていったが、メンバーのなかには、唇も手指も侵されているために、半音の出せない「復音ハーモニカ」しか吹けないメンバーもいた。「復音ハーモニカ」で合奏に参加するには、いろんな「調」のハーモニカを何本も持ち替える必要があるが、手指が不自由な者にはそれは不可能である。

近藤は試行錯誤し、2枚の板で4本または6本のハーモニカを挟み込む「ハーモニカ組立器」を考案した。一曲に必要な「調」のハーモニカをいっぺんに持ち、ハーモニカを組立器ごと回転させながら必要な音をすばやく出せるようにするというものである。もちろんこれを吹きこなすのはたやすいことではなかったが、ハンディキャップを負ったメンバーは唇に血をにじませながらも必死に取り組んだ。その結果、「青い鳥」はそれまで演奏できないでいた楽曲を、次々と新たなレパートリーに加えることができるようになった。

「青い鳥」のために血のにじむ努力を重ねていたのは、近藤だけではなかったのである。

愛生園で演奏する「青い鳥」と看護学校の皆さん。音楽に対する近藤氏の情熱と指導力は、園の人びとの心をつないだ(写真提供:長島愛生園歴史館)

長島から飛び出した青い鳥と「歓喜の歌」――近藤が熱くなった東京公演と第九

  • 1975年、東京第一生命ホール「愛と希望の音楽会」。花束を受けて、ラストナンバーを演奏する近藤氏(写真提供:長島愛生園歴史館)

  • 愛楽園のコンサートで指揮をする近藤氏(写真提供:佐々木氏)

  • インタビュー中、「かっこいいね」とつぶやきながら、近藤氏が演奏する映像に見入る佐々木氏

1967(昭和42)年の大阪府茨木市での「茨木病院訪問演奏会」をかわきりに、「青い鳥」は園外で演奏会をする機会が増えていった。当時、ハンセン病療養所の入所者たちが園外に出て演奏活動をするというのはかなり異例のことである。大阪の実業家で「盲人会のおかあさん」と慕われた北野資子氏、精神科医の高橋幸彦氏、愛生園の看護婦長で「青い鳥」のマネージャー役をつとめていた上田政子氏、関西FIWCの学生など、多くの支援者や協力者の尽力があった。

1975(昭和50)年には、念願かなって東京での演奏会が実現した。会場は有楽町の第一生命ホール、700名の会場には三笠宮寛仁殿下も臨席した。東北新生園に戻っていた佐々木さんも会場に駆け付けた。オープニングは近藤作曲の「あおいとり行進曲」、続いて大島青松園の楽団との合同演奏による「青松園園歌」、続いて近藤の編曲によるクラシックや民謡をもとにしたナンバーが披露された。第二部ではハーモニカの高度な合奏技術を要するシューベルト「軍隊行進曲」、ビゼー「ファランドール」に加え、神山復生園入所者のテナーを加えたシューベルト「アベ・マリア」、日本歌曲「波浮の港」など。ラストは近藤にとって思い入れの深い童謡「砂山」が各パートによって変奏曲のように紡がれ、全員合唱による唱歌「ふるさと」、そして別れを告げる「蛍の光」で締めくくられた。

司会からマイクを向けられた近藤は、口ごもりながらたった一言「生きていてよかったと思います」とだけ声に出した。「こらえていたものが急にこみあげてきて、瞼の裏が熱くなるのをどうすることもできなかった」と『ハーモニカの歌』に綴っている。

これほど多様な音楽を自在にものにしていった近藤は、人並み以上の努力家であるだけではなく、おそらく天性の音楽センスも備わっていたのだろう。佐々木さんは、近藤のハーモニカ演奏も、他のメンバーに較べて格段に巧かったと語る。

近藤には、誰か理想とする音楽家がいたのだろうか。佐々木さんに聞いてみた。

――ベートーヴェンをいつも聞いていた。ベートーヴェンの曲ならみんな知っていた。大阪城ホールで年末に「1万人の第九」をやるでしょう。近藤さんはあれを「聞きたい、聞きたい」って言って、とうとう行った。オレもいっしょに行った。なんてすごい音楽だろうって思った。そのときに近藤さんが言ったんだ。「俺はオーケストラの指揮者になりたかったな」って。確かにそう言った。

近藤のベートーヴェンへの思いも、大阪に「第九」を聞きにいったときの話も、著書『闇を光に』(みすず書房)に収められている。近藤は戦争中、一次帰省の許可を得て故郷に戻り、大阪市内の軍需工場で働いていたことがあった。ある宿直の夜、若い係長が近藤に一枚のレコードを聴かせてくれた。それがベートーヴェンの第五交響曲「運命」だった。「これが本当の音楽だ」と、若い近藤はしびれるほどの感動に震えたという。

「青い鳥」を結成しラジオにかじりついてクラシック番組を聞いていたころも、知れば知るほどベートーヴェンが好きになっていった。音楽家として致命的な聾者となって、苦難の道のりを歩みながらも「深々と思考して人生論的に音楽を表現した」ベートーヴェンに、近藤はみずからの境涯を重ねていたのかもしれない。

『闇を光に』には、近藤が大阪城ホールで第九を聴く前夜、和泉市でひらかれた「よみがえる青い鳥楽団」というささやかな演奏会のことにも触れている。近藤のハーモニカ演奏を伴奏に、佐々木さんが詩の朗読をしたらしい。その翌日、二人は初めて第九をまのあたりにした。指揮は佐渡裕だった。近藤の見えない目に、佐渡がすっくと指揮台に立った姿や、きらりと光る指揮棒がはっきりと映っていたという。「歓喜の歌」に包まれた感動を次のように綴っている。

私は萎えた手にペンライトを振り続けながら、込み上げてくるものをどうすることもできなかった。この感動、この喜び、この涙、これはいったい何だろう。療養生活六十六年、あのかなしみはどこへ行った、あの痛みはどこへ消えた。今ここにいる私とは、いったい何だろう。いつまでも消えてほしくないこの第九。(『闇を光に』)

佐々木氏のアルバムには、「人生の師」としていまも慕い続けている近藤氏とのツーショットも納められている

夜空の無数の星座を仰ぐ――近藤宏一が心眼で見つめ続けたもの

  • 佐々木氏が執筆・発行した、近藤氏の授賞式の「随行記」(2008年)

  • 佐々木氏がマザーテレサと会ったときの「Asahi Evening News」の記事(1997年9月13日、左端はIDEAジャパン代表の森元美代治氏)

2007年、近藤宏一はウェルズリー・ベイリー賞を受賞し、授賞式に出席するために6月にスイスに向って岡山空港を飛び立った。近藤にとって初めての空の旅だった。「ウェルズリー・ベイリー賞」は、国際ハンセン病ミッション(The Leprosy Mission International:TLM)の創始者ウェルズリー・ベイリー氏を記念し、ハンセン病の当事者として世界的に卓越した足跡を残した人に贈られるものである。

近藤の同行者は、長年同じ愛生園で暮らしてきた妹の山下よし子さん、友人で回復者の松本金子さん、愛生園職員の田村朋久さん(現在、長島愛生園歴史館学芸員)、笹川記念保健協力財団の岡本澄子さん、そして佐々木松雄さん。

佐々木さんはその前年に両足の膝を痛め、外科病棟に入院していた。「もう歩けないかもしれない」と意気消沈しているところに、近藤から受賞の報告と、スイスへの同行を依頼する連絡があった。佐々木さんは、それからの数カ月、懸命にリハビリをし、杖がなくても歩けるまでに快復した。

出発の1週間前になって、今度は近藤が右足首の腫れが原因で高熱を出し、入院してしまった。一時はスイス行きもあきらめたが、なんとか熱が下がり、予定通り佐々木さんや同行者たちとともに飛び立つことができた。

2013年に山陽放送(RSK)が放映したドキュメンタリー番組「生きがい~隔離の中の群像」に、近藤と「青い鳥」が取り上げられ、スイスの授賞式の様子も紹介されていた。近藤は車椅子に乗り黒いサングラスをかけ、手を震わせながらゴセックの「ガボット」を演奏した。楽団を結成したときからレパートリーとしてきた曲だが、緊張のせいなのか近藤らしくない演奏だったようだ。佐々木さんは「いつもはもっと上手なのに」と悔しい思いをしたという。

佐々木さんはそれまでに何度か海外旅行を体験していた。中国をはじめ、マザーテレサに会うためにインドに、さらにネパールにも行った。それでもやはり、近藤とのスイスへの旅が、いまも特別な思い出になっているようだ。近藤もチューリッヒやトゥーン湖畔の風景に向き合い、心から堪能していたらしい。

――近藤さんは、スイスに行ったときのことを、まるで自分の目で見てきたかのように書いているんだよ。見えるわけないのに。オレが見て近藤さんにしゃべったことを、見てきたように書いているんだよ。楽しかったな。よかったよ。本当に、行けてよかったよ。

近藤をウェルズリー・ベイリー賞に推薦し、スイス行きのための手配ごとなどで骨を折った山口和子さん(元笹川記念保健協力財団理事)は、近藤がパリにも行きたいと語っていたことを、いまも印象深く思っているという。

――「どうしてパリに」って聞いたら「ルーブルに行ってモナリザを見たい」っておっしゃったの。驚きました。目の見えない方が「モナリザを見たい」ということの意外さがとっさに消化できなくて。でも近藤さんには「モナリザ」のイメージがはっきりあったのでしょうね。

『ハーモニカの歌』のなかに、近藤が点字を夜空の星に譬えている美しい一文がある。

点字の点のことを星とよぶ人がある。私もすきだ。紙面にうかびでた一つの星は一番星に似ていると私は思う。点と点の結びつきが生み出す一つの形、その文字と文字のつながりが形成するさまざまな品詞の集団、それは漆黒の空をバックにした無数の星座と同じだと私は思いたい。

近藤はきっと、点字を通して、宇宙や自然と人間の織りなす美を見続けていたのだろう。音楽によって学んだ「調和」を、いつも求め続けていたのだろう。

佐々木さんは、近藤の『闇を光に』のあとがきを記し、そのなかで近藤のつくった一編の詩を紹介している。佐々木さんが常に口ずさむほど好きだった詩だという。

盲目十年

見えないという不思議
見えるという不思議
これは
まこと 神様の傑作……

――近藤さんはとても頭のいい人だった。近藤さんに会った人はみんな認めていた。“らい”になっていなかったら、きっとものすごく立派な仕事をしただろうって言われていた。でも、近藤さんはそんなふうに思っていなかったんだ。「いまの自分があるのは“らい”のおかげだよ」って言ってた。近藤さんの言葉を思い出すと、いまでも涙が出てきちゃうよ(佐々木さん談)。

国立ハンセン病資料館に展示されている佐々木氏作の大きなトトロ

参考文献:
近藤宏一『ハーモニカの歌』(大空社「盲人たちの自叙伝」28)
近藤宏一『闇を光に――ハンセン病を生きて』(みすず書房)
佐々木松雄『近藤宏一さんの授賞式随行記』
神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房)

注:本稿最後に紹介した近藤氏の詩「盲目十年」は、『闇に光に』の佐々木氏のあとがきにあるものではなく、佐々木氏と相談の上、近藤氏の元原稿を紹介してあります。

取材・編集:太田香保 撮影:長津孝輔・川本聖哉 協力:山口和子

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