ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination

People / ハンセン病に向き合う人びと

佐渡 裟智子(朗読ボランティア)

ハンセン病の治療法がいまだ確立していない時代、手足の不自由ばかりか、視力を奪われてしまう人が数多くいました。
かつて隔離政策下にあったハンセン病療養所において、盲いた人びとは、さらに閉ざされた過酷な境遇を強いられましたが、
生きることの意味を模索しながら、文芸などの活動で才能を開花させた人もいました。
そのように、暗闇のなかで光を求める人びとのために、
50年もの長きにわたり音訳と朗読の奉仕活動を続けてきた一人の女性がいます。
晴れやかな声と明晰な音読を全国各地の療養所に届けながら、
耳を開いて社会とつながろうとする人びとにこころを寄り添わせてきたのです。
――佐渡裟智子さんの稀有な生き方と出会いについて、話をうかがいました。

Profile

佐渡 裟智子氏
(さわたり さちこ)

1933(昭和8)年大阪生まれ。1966年、日本ライトハウスで音訳の講座を受講し、以来音訳の録音作業や、朗読ボランティアを行ってきた。奈良県視覚障害者のガイドヘルパー。FIWC関西、回復者とともにあゆむ会などに所属。藤楓協会から表彰、キワニスクラブから社会公益賞、ゲーテの詩朗読コンクール特別賞等を受けている。奈良市在住。

音読の仕事と出会い
草津の楽泉園で別世界に踏み込んだ

佐渡さんはハンセン病の後遺障がいで目が見えなくなった方たちのために、長いあいだ音
訳や朗読のボランティアをされてきたとのことですが、どういうきっかけでそのような活
動を始められたんですか。

50年ほど昔のことになりますが、大阪の「日本ライトハウス」(註)で音訳の講座を受けたことがきっかけでした。そこで1年の訓練を受けて、初めて音訳の録音をさせていただいたのが、栗生楽泉園(草津)入所者の加藤三郎さんの『草津の墓碑銘』という作品だったのです。作品を下読みして、加藤さんがいかに過酷な状況を乗り越えて来られたか、またそういう方が今も生きておられるということに驚きました。

送られてきた作品に加藤さんのハガキがはさんであったので、録音する前に、ぜひ作者ご本人にお会いしたい、療養所も知っておきたいと思い、草津まで出かけて行ったんですね。いまのように交通機関が発達していないころですから、長い時間バスに乗っていきました。ちょうどゴールデンウィーク中だったんですが、道の両脇に雪が3メートルほども積もって壁のようになっていましたよ。

そもそもなぜ音訳のボランティアに関心を持ったんですか。

  • 栗生楽泉園の入口

私の家は、母親が早くに亡くなり、父親は私が中学2年のとき脳梗塞と高血圧症で倒れて10年間寝たきりになりました。それで家計を助けるために、中学卒業と同時に武田薬品に就職して、現場で働きました。その後、同居していた祖母と父が相次いで亡くなり、姉が結婚し、弟と二人の生活になりました。それまで自分の小遣いは一銭もなかったのですが、ようやく自分の収入をぜんぶ自由に使えるようになったのです。それで着るもの、食べるもの、少しは楽しんで人並みの贅沢をしてみようとしたのですが、地の底を這うような暮らしを続けてきたので、わずかの贅沢も身につかなかったのです。何か物足りない、自分が求めているものは何だろうと考えあぐねているとき、ライトハウスの音訳講座の募集を知りました。視覚障がいの方とともに勉強できると知って、「求めていたのはこれだったのだ」と思いました。

もともと音訳や朗読に興味をもつような素養も、きっとあったのでしょう。

それもあったかもしれません。小学生のときよく先生から朗読をさせられたり、女学校では演劇部に入るように勧誘されました。職場では場内放送を担当しました。そのときは、社内の皆さんに伝える放送ですから、関西弁ではいけないと思い、標準語の講座を受けました。それでなんとか標準語もどきで読めるようになったのです。

初めて草津の楽泉園を訪問されたときは、どうでしたか。どんな出会いがあったんですか。

私は個人で加藤さんをお訪ねしたつもりだったのですが、盲人会では「ライトハウスから来る」と思われていたらしく、会員の大勢の方々に歓迎されて、一介の小娘に丁寧なご挨拶をしてくださるのでびっくりしました。俗世間では触れることのない謙虚なお人柄の方ばかり、奥深い人格の方たちに接して、まるで別世界に踏み込んだように思いました。

それまで盲人会の皆さんは、周囲の人や職員に文字を読んでもらっておられたのですが、私のような初心者でもいちおう訓練を経てますから聞きやすかったのでしょう。自治会が毎月発行する機関誌「高原」を音読録音させていただくことになりました。練習のために自分から「そうさせてほしい」とお願いしたかもしれません。それがなんと園内放送されて園内の皆さんにお聴きいただけたばかりでなく、ダビングが全国13園にも送られたのです。そうして、他の園からも音読録音の依頼をいただくようになりました。

でも訪問者としてできることは、こんなわずかな繋がりをもつことしかできません。それで園の職員になることを希望しましたが実現しませんでした。そのころはまだ個人で再生機をもっている人がなく、皆さん盲人会館に行ってテープを聞いているという話だったので、ボーナスをもらうと弟とレコーダーを購入して贈っていましたよ。関西と関東では周波数が違うことを知らずに送り続けて、しまいに「高崎まで交換に行かねばならないから、堪忍してくれ」と言われたことがありました。

註)「日本ライトハウス」は、視覚障がい者のための支援・福祉活動を幅広く展開している社会福祉法人。創業者である岩橋武夫とヘレン・ケラーの出会いによってつくられた。

奈良の「むすびの家」に集った回復者たちを前に、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を朗読する佐渡さん

速報を届けたい一心で、
違憲国家賠償訴訟の判決文全文を読んだ

自治会誌ともなると、医療情報もあれば俳句も短歌もある。ありとあらゆる情報や文芸
が載っていますよね。そのすべてを音訳したんですか。

  • 栗生楽泉園園内に置かれた村越化石の句碑

それは大変でしたよ。なにしろ学問がないので読み方がわからないところがある。音読を依頼される文章には、アルファベットで書かれた箇所もあります。それがドイツ語か、英語か、フランス語かわからない。地名、人名、歴史、法律、宗教用語は読み方が特殊ですし、俳句、短歌、文芸作品を音声化するのは誠に骨の折れる作業です。私ごときが安易に取り組んだことは僭越であったと思い知らされました。でもお聴きくださる方は私の間違いを訂正してちゃんと理解してくださってたんですね。

私は専門家に教えていただいたり、辞書を引いて調べるというところへ自分を追い込みました。とくに俳句は門外漢ですので季語や植物の読み方がわからなくて、楽泉園の有名な俳人の村越化石さん(註)から歳時記をいただき、いろろなことを教えていただきました。

テープを録音するときはスタジオか何かでされるんですか。

  • 現在の佐渡さんのご自宅の音読・録音風景

  • 療養所には、ハンセン病の後遺障がいを抱えながら道具を工夫し、努力を重ねて、囲碁・将棋で段をとる人が多かった。

最初はライトハウスのスタジオに通っていたのですが、奈良に来てからは通うのが大変になって、自宅に録音室をつくりました。防音室に録音機械一式、高速ダビング機も揃えましたが、その後引っ越しをしたので録音室はなくなりました。それでも機材はあるので録音はできます。

ただ自分の家のマイクに向かって読むだけでは、やはり物足りない。とくに文芸作品の作者とは直に触れ合って少しでも近づきたいと思いました。それで、草津だけではなく長島や他の療養所の盲人会も訪ねて、交流を深めてきました。

ハンセン病療養所の、とくに盲人会の方々とばかり会ってこられたというのも貴重な経
験ですね。

体が不自由なうえに、目が見えないという困難を乗り越えて、生活の知恵や行動力、才能を発揮する人々に接すると、畏敬の念に打たれます。それと記憶力のすばらしいこと。私はなまじ見えるから何でも目に頼ってしまい、見ても見えていないことがたくさんあります。見えない方はすべてを聞き漏らすまいと神経を集中し、記憶に刻まれるんですね。

それから、お会いすると皆さん、過去の苦難や体験の話が尽きません。自分がくじけそうなとき、皆さんのお話しにどれほど勇気づけられたことでしょう。視覚がなく手指もなく、点字を触読できないので舌読を習得した人、将棋の駒や盤を舌で舐めて覚えて頭の中で対戦して有段者になる人もいます。こういう人びとがいることを知り、私だけでできること、読めることは限られているので、ハンセン病の方たちのためだけにしかできないと考えたのです。

「らい予防法」の違憲国家賠償訴訟のときはいかがでしたか。音訳を頼まれるものには
裁判に関係するものもかなりあったことでしょう。

  • 栗生楽泉園の重監房跡

裁判のときは、ありとあらゆるものを音読しました。原告を募る呼びかけや、陳述、各園の園長の証言、それから判決文は全文読みました。しかもこれらは速報しなければなりませんでした。それで35年続けた「高原」の音訳ができなくなったのですが、それでも裁判に関するものは一刻も早く皆さんにお届けしたかったのです。

療養所の中で原告になると、ものすごく非難されたそうです。だから原告であることを隠す人もいました。でも遠くから訪ねてきてくださる弁護士さんや支援者の熱心さに触れて、勇気を出して原告になることを決意する人もありました。私は支援に参加しながら速報を読んでいろんなことを知りましたが、あの裁判はしなければならないものだったと思います。勝訴に続いて、国が控訴断念をしたときには涙が止まりませんでしたよ。

それまでにも入所者の方々は、文芸でさまざまなことを訴えてきましたが、それでは限られた人にしか通じません。裁判は報道され、記録され、歴史に残る。法律に則ってみんなで差別をしたことも、病気が消滅してしまえば忘れられていくでしょう。同じようなことが繰り返されないためにも、あの裁判は必要だったと思います。

最近は多磨と草津に国立の資料館がつくられ、各地の療養所でも記録や歴史を保存する
活動が展開していますね。

  • 長島愛生園では、回春寮とともに入所者を消毒した風呂の様子を見学することができる

いまの資料館は学術的で立派ですね。見学者への説明も意義深いものだと思います。以前は日常で使われていたさまざまな物が集められ、ほこりを被ったまま並べられていました。でも当時を生きた人の説明をうかがいながら見ると、過酷な実態が生々しく胸に迫ってきたものです。

いまは草津の重監房も、あの藪の生い茂るなかで拘禁された人々が味わった恐怖を肌で感じることはもうできなくなりました。時代がよくなり居室も新しくきれいになって、木造の建物やクレゾールの臭いなど、昔を想像できるものもなくなりました。そのようななか、長島愛生園では、かつて入所する人が最初に入れられた収容室(回春寮)の建物とともに、消毒風呂やベッドがそのまま残されているのは、貴重だと思います。

註)村越化石:俳人の大野林火の「濱」の同人となり、プロミンの副作用から全盲となりながらも句作に打ち込み、角川俳句賞、俳人協会賞、蛇笏賞、山本健吉文学賞、紫綬褒章などを受賞。2014年、91歳で没。

佐渡さんが音読のためにさまざまな書き込みをした「首」の原稿

盲いた人びとの「目」となり、
魂の叫びを伝える「口」となる

ハンセン病の関係者だけではなく、いろんなところから文芸作品の朗読を頼まれること
もあるのでしょう。

  • アサコムホール「魂の叫び・ハンセン病の詩」で朗読を披露(2000年ごろ)

  • 2001年9月13日、国際奉仕団体キワニスクラブから社会公益賞を受賞

そうですね。私が文芸の朗読を依頼されたときには、「これを読ませてほしい」と私からお願いしている作品があります。『首』という作品です。いつもたいへん好評をいただいて、何度もリクエストされるんですよ。

この作品は東京の中野に住んでいた重岡静枝さんという方が書いたもので、私がお会いしたときは90歳を越えていたと思います。大分の文芸作品のコンクールに出すために書いたそうで、「これは芥川龍之介の作品か」と審査員が称賛したそうです。重岡さんはもともと八幡製鉄所の下請けの鉄工所の奥さんだったんですが、不景気になって東京にきて、近所の主婦を集めて袋物をつくらせて百貨店に卸すような仕事をされていました。九州にいるときに文芸を教わっていた先生が、酒に酔って話された物語をもとに重岡さんが40枚の作品にしたのだそうです。

残念なことに、そのコンクールは、最後に応募者が大分まで行って、自分で朗読をして審査を受けなければいけなかった。重岡さんはそのとき、足が悪くて大分まで出かけることができず、失格になってしまったんです。でも、このまま世に出ないのは悔しくてならない。それで、この作品を私に託されたんです。一人でも多くの人に読んで聞かせてほしいと。それで重岡さんとの約束を守って、いままであちこちで朗読してきました。

どういうお話なんですか。ぜひうかがいたいです。

今日は原稿をもって来ませんでしたので、朗読はできませんが、これは中国の話になっていましてね。昔、たいへんな権勢を誇った皇帝が原因不明の病気になり、どんな医者も治せず薬も効かず、どんどん衰弱していきます。そこへ、身なりのいやしいひとりの男が皇帝に会いにやってきます。そうしてただ「私を信じますか」とだけ繰り返し聞くのです。皇帝が「病を治してくれれば、皇帝の地位も財宝も与えてよい」と言うと、男はしばらく考え、白い粉が握り手についた一本の棒を渡して、それを毎日振り回すように言いました。その通りにやってみたところ、皇帝の病気が本当に治りました。男が「褒美はいりません。ただこのまま皇帝の健康のお守りをさせてください」と言うので、皇帝も男のことをすっかり信頼し、自分のそばにいつも付き添わせるようになりました。

ところが、それをおもしろく思わない重臣が、男のことについて、あれこれと皇帝に吹き込んだのです。「あの男は皇帝の地位を狙っていますよ」「命を狙っていますよ」と。皇帝は次第に男に対して疑念を持ちはじめ、とうとう男がひた隠しにしていた、たった一つの持ち物を暴いて責め立てます。それは一冊の本でした。男がなおも本のことを隠そうとするため、皇帝は男を斬首することにしました。男は、最後の願いを申し出ます。「私の首を刎ねたあと、この白い粉のうえに首を乗せてください。そうすれば15分だけ、本のことを説明します」。

皇帝は言われたとおりに、処刑した男の首を白い粉の上に置きました。すると首が皇帝に、本を自分の手で開くようにと命じます。首が「次をめくってください。次をめくってください」と言うのにあわせて、王様は指を舐めながら本をめくるのですが、いくらめくっても本は白紙なのです。そのうち15分がたち、首は何も言わなくなりました。すると王様は本に顔を伏せ、そのままこと切れてしまったのです。

あの白い粉は、棒に塗られて指から吸収されたときは「薬」だったのですが、本をめくる指から口に入り消化されると「毒」になってしまったのですね。こうして皇帝は、人を信じることで得た命を、人を疑ったことで失ってしまったのです。

と、こういうお話です。

ストーリーを聞いただけでぞくぞくっとしました。信じることで得た命を、疑うことに
よって失ってしまうという話は、とても奥深いですね。

おもしろいでしょう。じつは、この作品を楽泉園の盲人会で読んだときに、会長の沢田五郎さん(註)という方が、「これは『千夜一夜物語』にある話が元になっていますね」っておっしゃったんです。私、もう、びっくりしました。というのも、重岡さんから「この物語は自分が文芸の先生から聞いたことを元にしているけどぜひその出典を知りたい、調べてくれ」と頼まれていたんですが、なかなか探せないでいたのです。それを、沢田さんはいっぺん聞いただけで、ぱっと言い当てた。

その後、ある方から『千夜一夜物語』の該当するところをコピーでいただいたのですが、もとはごくごく短いお話しでした。それを40枚もの作品にした重岡さんもすごいですが、それをすぐに当てた沢田さんもすごい方ですよね。

私はこの仕事を通して、いろんな才能ある方々との出会いに恵まれました。本当に感謝していますよ。

朗読や音訳のお仕事はこれからもまだまだ続けていかれるんですか。

  • 佐渡さんは、FIWC関西のメンバーとして、長らく「むすびの家」の活動にも携わってきた

私は82歳になりますが、声が出るかぎり続けたいです。じつは60歳のとき、胃がんで胃を全摘し、いまだに後遺症がありまして、最近では膠原病も抱えました。体はがたがた、献体しても骨粗しょう症の標本ぐらいにしか役にたたないでしょう(笑)。そんな私でも、少しでも人さまの役に立つことがあれば、生き甲斐になります。

老齢になり、障がいをもってみて気付くこともたくさんあります。それを音読に生かしたいと思います。朗読は、読み手と聞き手の共同作業です。著者の意図が正しく理解されて伝わったかを念頭において、上手な読み方よりも、自然ではっきり伝わるよう心がけています。でも、いまもまだまだ修行中です。

園の盲人会は会員が減り、音訳の要請もなくなりました。今までは皆さんの目となって情報を伝えてきましたが、これからは入園者の皆さんの口の代わりとなって、皆さんの訴えを、魂の叫びを、社会に対して伝えていきたいですね。

註)沢田五郎:栗生楽泉園入所者で歌人。盲人となる前に知った重監房の存在に衝撃を受け、園内での聞き取り調査などをもとに、重監房の不当性を訴える『とがなくてしす』を執筆、出版。2008年、78歳で没。

取材・編集:太田香保 / 撮影:長津孝輔