ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination

People / ハンセン病に向き合う人びと

志村 康(国立療養所菊池恵楓園入所者自治会会長 全療協菊池支部長)

現在自治会長をつとめる志村康さん。
菊池恵楓園にやってきたのは戦後まもない1948年、志村さんはまだ10代半ばだった。
療養所内での待遇改善を求めるための運動、音楽部での恩師との出会い、夢中になったヨーロッパ映画。
当時の恵楓園の様子、入所者の生き生きとした暮らしぶりについて語っていただきました。

Profile

志村康氏
(しむら やすし)

1933年、佐賀県出身。1948年3月、旧制中学3年生のときに菊池恵楓園に入所する。1962年に菌陰性と認められ1965年に社会復帰。以来30年近く養鶏場を営むものの、後遺症治療のために1993年に再入所する。1998年のハンセン病国賠訴訟では第一次原告団副団長を務めた(2001年、熊本地裁で原告勝訴が確定)。2014年より現職。

志村さんは10代半ばで、ここ菊池楓風園にやってきた

「瀬戸の小島に強制隔離」と聞かされた
旧制中学での授業

志村さんが菊池恵楓園にこられたのは、
いつのことだったのでしょうか。

1948年の3月です。前の年、夏の暑い盛りに学校のグラウンドで草取りをしていたら担任の教師が「ほっぺたが赤いが、どうしたんだ」というんですね。それで洗面所に行って鏡で見てみると、たしかに頬のところが浮いたような赤い色になっている。これはなんだろうということで佐賀県立病院へ診察してもらいに行きました。当時私は旧制中学の2年生でした。

県立病院ではどのような診察を受けたのですか。

血液検査をしたところワッセルマン反応が陽性だったので、梅毒だろうと言われました。当時は赤線、いわゆる公娼がまだあった頃で、青年たちのなかには夜になるとそういうところへ遊びに行く者がけっこういたんですよ。それで瓶に入った水薬を毎日飲むようにいわれ、週に1回カルシウム注射を打ったんですが、一向によくならない。そこで紹介状を書いてもらい、佐賀県で有名だった専門医に診てもらいました。そこでも「ワッセルマン反応が陽性なら、99%梅毒だ」と言われて、梅毒の本格的治療を始めることになったわけです。

当時の梅毒治療薬といえば606号、サンバルサンです。通称66(ロクロク)とも呼ばれていて、戦時中の軍隊でもよく使われていたそうです。これを長い時間かけて注射するんですが、打つとガタガタ震えがきて、20分くらいすると今度は汗が滝のように出てくる。血管から漏れたら化膿すると言われてましたから、かなりの劇薬です。初号から六号まであって、週1日注射を打って7週目に血液検査をする。

ところが私の場合はサンバルサンの注射を打ち続けても抗体反応の数値が一向によくならなかった。そこで今度は九州大学の皮膚科を紹介されました。あとで調べてみたら、兵庫の女性の方で出産前に血液検査をしたらワッセルマン反応で陽性反応が出たというケースがあったそうです。健康な人でも出ることがあったらしい。実際は99%ではなく、確度はもっと低かったんじゃないでしょうか。

九州大学の診察室に行くと教授と学生さんがいて、私の肘のあたりにあった米粒大の赤いできものからサンプルを採りました。それで顕微鏡を診ながら教授が学生たちに何か話をしているわけです。そのとき「レプラ」ということばが聞こえてきて、私はあれっと思いました。しばらくするとまた教授がたしかにレプラと言っている。自分はハンセン病にかかっているのかと愕然としました。

私がなぜレプラということばを知っていたかというと、旧制中学の生物の授業で伝染病のことを勉強したからです。教師が「中学を受験するなら伝染病の30や50種類は知っていなければいけない」ということで暗記していたんですね。それで端から順番に知っている伝染病を言わせていった。コレラ、ペスト、ジフテリア、ジステンパーと、ひとりずつ答えていって2列半くらいまでいったとき、岡島というやつがレプラと言ったんですね。まわりの生徒はレプラが何かわからなかったので、きょとんとしている。すると教師が「もしレプラにかかったら瀬戸の小島に強制収容だぞ」と言うわけです。「しかも男子は断種される」という。旧制中学の男子校でしたから、教室のなかは騒然となりました。

その病気にかかったということですから、これはもう自分の人生は終わりだと思いました。瀬戸の小島といってもまったくイメージがわかないけれども、前に行ったことのある唐津の浜崎みたいなもんだろうから松の木くらいはあるんだろう。これはもう松の木にぶら下がる(=自殺する)しかないなと。

あのとき教師はなぜ「瀬戸の小島に強制収容」などと言ったのか。あとになって考えてみると、『小島の春(※小川正子著 1937年刊行のベストセラー。1940年には映画化もされ社会現象化した)』の本を読んだか、映画を観たんじゃないかと思います。でもそのときは中学の教師が言っているんだから本当のことだ、ハンセン病はとんでもない病気なんだと思ってしまった。

世話をしている盆栽。もっとも古いものは奥さまのお父さんから受け継いだ盆栽で150年ほど前のものだという

一念発起してあらゆる本を読む。
そこから始まった人権回復運動

九州大で診断されたあと、すぐに菊池恵楓園に行かれたのでしょうか。

九州大の先生からは「いまは画期的な薬ができているから大丈夫。今年の春にも皮膚科の学会で発表があったばかりだ」と励まされました。プロミンのことです。「熊本に専門の療養所があるが、あなたはまだ若いし病状も進行していない。一日も早く療養所へ行くといい」とおっしゃるんですね。善は急げというので翌々日さっそく恵楓園に行ってみると、満床で入れないという。「空きが出たら保健所を通じて連絡するので、それまで自宅で待機していてください」と言われたんです。これはいったいどういうことかと思いました。中学校の教師は強制収容されるくらい危険な病気と言っていたのに、しかも患者本人である私が入れてくださいとみずから足を運んでいるのに「いま満杯だから、空きが出るまで自宅で待っていてくれ」というんですからね。

それで家には絶対に帰らない、倉庫の隅でも構わないから置いてくれと言って座り込んだんです。すると受付の人が「念のため自治会に訊いてみます」と言って、どこかに連絡をとってくれた。またしても、これはどういうことかと思いました。ついさっき満床で入れないと言っていたのに、自治会に訊いてみるって何なのかと(笑)。結局、自治会に確認をとってもらったら1人分だけ空きがあることがわかって、その日のうちに入所することができました。それがたまたま菊池恵楓園の自治会副総代(※副会長のこと。恵楓園では会長を総代、副会長を副総代と呼ぶならわしがあった)をやっていた増重文(ます・しげふみ)さんという方の部屋だったんです。

増さんは奄美大島の出身で鹿児島七高の予科に在籍していたようです。当時としては大変なインテリです。恵楓園に来るときに荷物船の船倉に入れられたとかで、「人間を荷物扱いするなんて絶対におかしい」と怒っていました。その怒りがさまざまな運動へとつながる原点になっていたように思います。勉強もかなりされていました。

療養所側は満床だと言っていたのに、
なぜ増さんの部屋に1人分だけ空きがあったのでしょう。

じつは私が行くほんの少し前まで別の方がいて、そのときまでは本当に満床だったそうです。その人は左手が不自由な方でしたがハンセン病患者ではありませんでした。療養所から出たいと申し出ていたんですが「その手では(患者と間違われるから)退所を認めるわけにはいかない」と断られていた。そこでその人は左手を切断して、義手をつけて社会復帰されたのです。

押し入れの中には彼が残していったギターがありました。右手しか使えないけれども、ギターを弾くのが趣味だったんですね。どうやって弾いていたのかと増さんにたずねると、右手の人差し指で弦を押さえて親指で弾くんだと言っていました。それでメロディーを奏でていたというんです。すごい人がいるもんだと思いました。ともあれ、それで1人分だけ空きがあったんです。本当に偶然のことでした。

志村さんの場合は、どんなことが自治会活動、
あるいは人権運動に参加していくきっかけになったのですか。

園長診察です。私の場合、九州大学の診断書と直談判でその日に入所してしまいましたが、通常であれば園長の診察を受けて、それから許可が出て入所というのが普通のパターンです。私の場合は順番が逆で、入所後1週間くらいしてから園長診察を受けることになったんです。すると当時の園長が私の顔を見るなり「キミは66(ロクロク)を打っただろう。この病気は66を打つともう取り返しがつかないんだ。なんて馬鹿なことをするんだ」と言ったんですよ。まだ中学3年生だった私は、園長に言い返すだけの知識も度胸もなかったので黙っていましたが、とにかく口惜しかった。この野郎と思いました。それで一念発起して勉強したんです。

どんな勉強をされたのですか。

最初は療養所内にある図書館の本を全部読むところから始めました。最初はとっつきやすい自然主義小説、川端康成、島崎藤村あたりから読み始めて、あとは手当たり次第です。図書館にあった本は2年半で1冊残らず読みました。

本に関してはとくにリーダーがいたわけじゃなくて、みんなで順番を決めて回し読むという感じでした。改造、世界、中央公論、婦人公論、文学界、文芸春秋、新潮、小説新潮といった評論、文芸雑誌、それから単行本。新刊が入ると雑誌は3日、単行本は1週間で読んで次の人に回すという決まりがありました。わからない単語が出てくると哲学用語辞典を買ったりして調べる。

当時の園内には法曹関係の患者の方がおられて、彼を中心にして運動が起こっていきました。園側にとっては「目の上のたんこぶ」みたいなものです。彼は「こういう運動は法律に基づいていないと話にならない」ともよく言っていました。そういったなかで「らい予防法はけしからん。憲法違反じゃないか」という声が自然と高まってきたんです。当時の療養所では重病患者のつきそいなども入所者がやっていたので「これでは療養所ではなく収容所じゃないか」「医師、医療を中心とした療養所の本来あるべき姿にもどすべきだ」という声もあがるようになりました。結核療養所と比べると、あまりにもひどい扱いだった。そこを主張したわけです。

「夫婦舎」をつくるための運動も、戦後まもなくここ菊池恵楓園から始まり、
それが全国に広がっていったと聞きました。
恵楓園がさまざまな運動のリーダー的な役割も果たしていたと言えるのではないですか。

そうだったと思います。一方で人権を回復するための運動をしていくためには憲法や法律を知らなければ成果が上がらない。それで大日本法規(加除式)も自治会にいれました。憲法からなにから、それを読んでいちから勉強したわけです。それと並行してマル=エン(※マルクス=エンゲルス。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの著作全般)の研究もずいぶんやりました。とくに資本論をやったのは大きかったです。

言っておきたいのは、法律の勉強、人権回復のための運動、どれもすべて治りたいという思いに突き動かされてやったことだったということです。病気を治すためには自分たちを取りまく環境を少しずつでも改善していかないといけない。そのために一生懸命勉強して闘った。みんな「治りたい」という一心から出たことでした。

園の東側にはかつて濠があった。現在では大半が埋まってしまい、当時のおもかげはない

音楽の楽しさを教えてくれた恩師
魅力的だったヨーロッパ映画

  • 今も残る当時の塀。建設会社が受注したが、作業は熊本刑務所の受刑者が行ったという

人権回復などの運動以外にもいろいろなことをやりました。たとえば音楽部。管弦楽団で私はヴァイオリンを担当していたんですよ(笑)。先生は元海軍の軍楽隊にいた方で塚本章先生といいました。上野の音楽学校でイタリア人の先生についてヴァイオリンを習ったという本格派で、声楽家・歌手の藤山一郎(ふじやま・いちろう)さんとも知り合いだったようです。藤山一郎さんのことは、いつも「とうやま」って呼んでました(笑)。

塚本先生のすごいところは、どんな楽器でも演奏できてしまうところでしたね。フルートで下のドが出ないというと、どれ貸してみろといって、その場で吹いてみせる。すると出すのが難しいはずなのに、朗々と低いドの音が出るんです。コルネットも同じで、「このフレーズができません」といって楽器を渡すと全部吹いて見せてくれました。ハンセン病患者が演奏している楽器をそのまま吹くなんて、当時としては考えられないことです。先生の専門はエスクラといってクラリネットの短いやつでしたが、どんなに速い曲でもスタッカートで見事に吹きました。ブリヂストン合唱団久留米の立ち上げにかかわったり、産業音楽祭を開催したり、音楽を心から愛する本当に素晴らしい方でした。

あとは映画です。恵楓園の東側にある濠のところを渡って、よく市内まで映画を観に行きました。当時は土手の上に小さい檜が生えていたので、それを掘り起こして濠の上に即席の橋を架けるんです。そんなこともよくやりました。

外出許可を取らずに夜、映画を観に行くわけですか。

  • 歴史資料館に保存展示されている「隔離の壁」

  • 入所者が外の世界を見たいと「隔離の壁」に空けた穴

新しい映画がきたときに声をかけると、集まってくる悪童がいたんですね。外には巡視がいますけど、彼らは公務員だから夕方5時になったら退庁してしまう。あとは当直が1人いるだけ。当直が見回りしたあとは、フリーパスみたいなもんです。身軽なやつは自転車ごと濠を飛び越えたりしてました。檜でつくった即席の橋も次の日には巡視に壊されてしまうんですが、次の映画がきた頃にまたつくるわけです。それくらいになると、ちょうどほどぼりも冷めているんだね。いろんな悪いことしました(笑)。

どんな映画を観に行ったのでしょう。

当時は鶴屋百貨店の西側に新世界という劇場があって、ここがヨーロッパ映画専門だったんです。よく観ていたのはフランス映画、イタリア映画、それからドイツ映画。ヴィットリオ・デシーカの作品はずいぶん観ました。アメリカ映画とチャンバラ映画はちょっと苦手だった。グレース・ケリーが好きで彼女が出たヒッチコックの作品もたくさん観ました。イングリッド・バーグマンは美人すぎてダメだったなあ。回数を一番観た映画ということでいえば、チャップリンの『ライムライト』。アメリカ映画だけどね。

ビッグバンドのスイングジャズも聴きに行きました。熊本で初のスイングジャズコンサートは松本文男、中村八大、江利チエミなどが出て、これは長い列つくって並んだ覚えがあります。ジャズってこういうもんかと、とにかく感心して聴いた覚えがあります。その頃私たちが演奏していたのは管弦楽と行進曲でしたから。

とてもいいお話ですが、そういった「課外活動」については、
いままであまり語られてこなかったようにも思います。

こんなこともありました。恵楓園の北側にはいまも「隔離の壁」と呼ばれるコンクリート塀が残されていますが、西側の端のところに小さな穴が開いているんです。これは何かというと、子どもたちが野球のボールを拾いにいくための通り道なんですね。昔あのあたりに少年少女舎の野球グラウンドがあって、西側の壁はちょうどグラウンドのライト側でした。ところがライト側の距離が短くて、ちょっと大きな当たりが飛ぶと塀の向こう側にボールが飛んでいってしまう。それを拾いにいくのはおもに低学年の子どもたちの仕事でした。

壁の穴は少年少女舎の子どもたちが自分たちで少しずつ開けたもので、夜になると巡視に見つからんように枝や草で隠しておくんです。見つかってコンクリートで塞がれてしまうこともありましたが、そうなったらまた穴を開ければいい。その繰り返しでした。西側の塀に残っている小さな穴は、その名残です。大人も子どもも、そんな感じで日々暮らしていたんですよ。

取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉