ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

ハンセン病に向き合う人々

杉野桂子(菊池恵楓園入所者 / 自治会菊池野編集長)

病気の発覚、同じ入所者であるお母さんとの離れ離れの療養所生活、プロミン治療反応による神経痛。ハンセン病患者・回復者としての苦しみを抱えながらも、高校への進学を果たし、文学への憧れを持ち続けた青春時代。現在、菊池恵楓園の自治会機関誌「菊池野」の編集長をつとめる杉野桂子さんに、50年以上にもおよぶ療養所での日々や現在の仕事について話をうかがいました。

Profile

杉野桂子氏

1941(昭和16)年生まれ。熊本県出身。中学を卒業した15歳の秋、ハンセン病療養所菊池恵楓園に入所。1957年、16歳の春、岡山の長島愛生園にある邑久高等学校新良田教室に入学。1961年春に卒業、恵楓園に帰り、「菊池野」編集部に勤める。1970年、杉野芳武氏と所内結婚。福岡県小竹町に、杉野夫妻が使っていた生活用具や書籍などを展示する私設資料館「虫の家」がある(運営は高石伸人氏)。2010年、夫婦でエッセイ集『連理の枝』(熊日情報文化センター)を出版。

母のいた療養所に入り、あきらめかけていた高校進学が実現した

杉野さんは何歳のときからここ恵楓園で暮らしているんですか。

昭和31年です。中学校を卒業してから来ました。私の母がここ恵楓園にすでに入っていたので、よく面会で来ていたんです。そのうちに私も母と同じ病気ではないかという兆候が出てきた。胸の下に小さな斑紋が出て、冬になると手がかじかんで指が伸ばせない。夏の暑さに当たったり、運動会で走ったりすると顔が真っ赤になって、熱中症みたいになってしまい、しばらく涼まないとそれが引かない。汗も異常に出る。

自分でも、たぶんそうではないかと思っていましたが、母の面会に来たときに診察を受けたらやはりハンセン病でした。それで、中学を卒業してから入所したんです。

療養所では、お母様といっしょに暮らせたんですか。

療養所はどこでも、親子・きょうだいは一緒には住めないんですよ。子どもは中学を卒業するまで少年少女舎というところに入るんです。そこには「お父さん・お母さん」と呼ばれる大人たちがいて、子どもたちの世話をしてくれるんです。でも本当の親子はいっしょには住めない。昔から一般寮のことを「家族舎」なんて呼んでいましたが、住むのは実際の家族ではない。夫婦になると夫婦部屋に入れてくれましたけどね。

私が入って来た時は中学を上がっていましたので、最初から一般舎に入りました。少年少女舎にいる小さな子どもたちが、よく学校のない日にお母さんを訪ねてきたりしていましたよ。「こんなにたくさん子どもが入所しているんだなあ」と思ったものです。私もしょっちゅう別な寮に暮らす母に会いに行きました。それはさびしかったですよ。療養所に入れば母娘いっしょに住めるもんだと思っていましたから。

でも、私はここに来て高校に進学する夢が叶いました。岡山の邑久高等学校の分校「新良田教室」が長島にあって、そこに第3期生として行くことができたんです。

「新良田教室」は全国の療養所で唯一の高校だったそうですね。

でも受験をする必要があったのでしょう。

そのために、一生懸命勉強しましたよ。私の家は農家でしたし裕福ではありませんので、中学校を卒業したら家の手伝いをしなければいかんかなあと思っていたんです。でもどうしても高校に行きたかった。療養所に入ることになって、進学の夢は完全に断たれたと思っていたのに、患者でも行ける高校があるって聞いたので、なんとしてでも行きたかった。

でも母は進学に反対でした。私は入所してすぐにプロミン注射の治療を始めたんですが、反応が強く出てしまって、ひどい神経痛になってしまったんです。後になって、療養所に来た基本治療科の先生から「あなたの体力ではこの薬の量は多すぎる」と言われました。そのころは大人も子どもも、5グラムずつ使っていたんです。薬はたくさん使ったほうが治るとみんな思い込んでいた。プロミンを打ってもらうために二度も列に並ぶ人もいたそうです。私は2グラムで十分と言われました。

プロミンを使ったあとは、一晩中泣き続けるくらい神経痛がつらくてね。私は出なかったんですが、熱コブが出る人もいました。たった一晩で手が曲がった、足が動かなくなったという人もいた。それくらい反応が強かった。

そんなこともあって、私が長島に行くことを、母は心配していました。

「新良田教室」には何人くらい生徒がいたんですか。

  • いまも長島愛生園に保存されている岡山県立邑久高等学校「新良田教室」の校舎。1955(昭和30)年、全国で唯一、ハンセン病患者を対象に設置された高校。

昼間定時制で4年制、1学年が30人でしたから、120人ですね。私は3期生ですから、入学したときは全部で90人、そのうち女子は14人で、3期生のうち6人が女子でした。その後、だんだん女子生徒の数が増えて6期生は女子が12人いました。

私は16歳で入学しましたが、中には30歳すぎた人もいましたよ。それくらいの大人たちも受験を勝ち抜いて入学していたんです。

おもしろい話がありましてね。同窓会のときにお会いした数学の先生に、「先生の授業は難しかったし、黒板にいっぱい数式を書くから大変だったわ」なんてお話をしたんですよ。そうしたら「あのころは生徒たちが恐ろしかったんだよ」っておっしゃってました。とくに1期生や2期生たちは、「今日はどんな質問をされるだろう」と先生がびくびくするくらい目をらんらんとさせていたそうです。大学を出たばかりの先生だと自分より年上の生徒を相手にしないといけないし、先生のほうが予習・復習をしっかりやらないと許されない雰囲気があったって。試験のたびに、岡山の教育委員会から「下駄を履かせているんじゃないか」って疑われるほど、成績もよかったそうです。

では、高校に行ってからも猛勉強の毎日だったんですか。

いいえ。神経痛で休むことが多く、出席日数が足りず、補習授業を受けました。試験のときには徹夜で勉強した事もありましたけど、でも、楽しかったですよ。若い人たちが多いから活気もありました。スポーツも盛んで、バレーボールや野球では、園内の大人チームと職員チームと高校生チームの交流試合もしょっちゅうありました。若いぶん、高校生チームが強かったですよ。お隣の光明園ともよく遠征試合をしましたし、体育祭とか文化祭があると、愛生園の皆さんもいっぱい来てくれてね。みんな楽しみにしていました。

それに、恵楓園から行った高校の先輩や、恵楓園・九州出身の皆さんたちがとても親切にしてくれました。よく寮舎に遊びに行ったり、夜食を食べさせてもらったりしました。

じつは湯浅洋先生(笹川記念保健協力財団・元常務理事・医療部長)と、

伊波敏男さん(回復者)からも、新良田高校の話をうかがいましたよ

ああ、湯浅先生ですか。とっても美男子だったから、よく覚えていますよ。ふふふ(笑)。英語を教えていらしたんです。伊波さんは私の後輩です。最初は後遺症がひどくて無理だろうと落とされたらしいけど、がんばって入れてもらった方ですよね。

「新良田教室」でのことは本当に忘れられない思い出がいっぱいです。同窓会も今まで欠かすことなく行ってます。

新良田教室は、1987(昭和62)年、最後の卒業生を送り出すまで、307人が卒業した。卒業生のなかには社会復帰を果たした人も多い。

壺井栄への憧れと活版印刷の魅力?「菊池野」編集にたずさわる

恵楓園と愛生園の雰囲気はかなり違いましたか。

お話をうかがっていると、島である愛生園のほうが開放的だったようにも聞こえますが。

島であるからか、どちらかというと愛生園のほうが閉鎖的だったかもしれません。でも人情が篤くて、皆さんやさしかったですね。恵楓園は開放的だったけど、人間関係はあっさりしていたかもしれない。

私が入所したころの恵楓園には、まだ厚い壁はありましたが、外出も黙認されていましたし、けっこう皆さん出歩いていたんですよ。長島はそれができないし、外出許可をもらうのも一苦労でした。「新良田教室」ができたとき、恵楓園の自治会長さんたちが開校式に行ったのに、長島に入るのを拒否されるということもあったそうです。それで、大島(青松園)に一度行って、大島の人たちといっしょに船で長島に入ったそうです。そういう点でも、愛生園はよその療養所とはちょっと違ったところがあったようです。

でも、なんといっても景色がいいでしょう。恵楓園は平地でまわりは畑ばかり、外に行かないと景色も楽しめないけれど、長島は療養所にいながら海や自然を楽しめますからね。よく自分たちでボートを漕いで、島の突端に行ってキャンプファイヤーをしたり、無人島に行ってお弁当を食べたりして遊んだものでした。

恵楓園の自治会機関誌「菊池野」の編集にかかわるきっかけはどのように?

長島にいるときに、「菊池野」の編集長だった大山さんという方から手紙をいただいたんです。「卒業して帰ってきたら、編集部で仕事をしませんか」って。私はよく作文を書いていましたので、それが大山さんの眼にとまったようです。

高校の国語の先生が、よく宿題を出す先生でしてね。短歌を習えば短歌、詩を習えば詩というふうに、必ず作品を書かされました。それで自分でも書くことが好きになって、全国の療養所の文芸特集に応募して、入選したこともあります。

長島の目の前に小豆島が見えるんですが、その小豆島に生まれた壺井栄さんに憧れて、筑摩書房から出ている壺井さんの作品集を、毎月先生に買ってきてもらって読んでいました。こんなふうにやさしくて温かい文章を書けるようになりたい、こういう作家になれたらいいなと思っていた時期もありました。『二十四の瞳』も好きでしたが、『母のない子と子のない母と』という作品がありましてね。なんだか自分たち母娘を見るみたいに身につまされることがいろいろあって。そんなこともあって、壺井さんの作品はずっと読んでいました。

詩もよく書きました。長島に詩人のグループがあって、誘われたりしましてね。長島の詩の選者には、永瀬清子さんという方がおられて、私はお会いしたことはありませんでしたが、恵楓園に戻ってから「ああ、すごい詩人なんだ」って知ったんです。それからは永瀬さんの選で佳作くらい取れたらいいなと思って、よく投稿したりしました。

最初から編集の仕事もやらせてもらえたんですか。

編集長といっしょにね。私が入ったときは編集長1人と、編集部員2人の計3人で、ぜんぶ一から教えてもらいながら仕事を覚えました。

「菊池野」はそのころは恵楓園のなかにある活版印刷所でつくっていたんです。毎月校正のたびにその印刷所に行くのがとても楽しみでした。いままで読んでいた本が、こんなふうに活字をひとつずつ拾いながらつくられているんだって知って驚きました。10人くらいの入所者が働いていましたが、なかには社会で印刷工の経験を積んだ方もいた。すごい人になると、どこの棚にどの活字があるかをぜんぶ覚えてらして、さっとすばやく拾ってあっというまに植字していくんですよ。ときどき「桂ちゃん、あの字を取ってきてよ」なんて頼まれると、活字の場所がぜんぜんわからないんだけど、それがまた楽しくて(笑)。

私が編集の仕事を好きになったのは、活版印刷所がここにあったからですよ。自治会にいると、会長さんが代わるたびに、文化部とか渉外部とか、いくつか役割を新たに頼まれることがあるんです。いままで3回ほどそうやって別な仕事をしたことがありますが、それ以外はずっと「菊池野」にかかわってきました。平成元年から編集長になりました。

1951(昭和26)年に創刊された菊池恵楓園入所者自治会の機関誌「菊池野」。それぞれの時代の療養所のようすや入所者たちの活動がわかる貴重な歴史資料でもある。

聞き書きと座談会によって、入所者たちの話を残していく

杉野さんが編集長になられてからは、どんな方針でやってこられたんですか。

以前は、医療にしても福祉にしても療養所内にいろんな問題を抱えていましたので、熱心な書き手が大勢いたんですが、いまはそういった問題もだいぶん落ち着いて、入所者の皆さんもすっかり歳を取られて、書ける人が少なくなっているんですね。手が悪くなり、眼も悪くなり、物覚えも悪くなる。原稿用紙1枚を書くのがつらいという人が増えてきた。それで、聞き書きで記事にするということが多くなりました。座談会をやることもありますよ。座談の場ではお互いにいろんな記憶が蘇ってくるようで、記事もおもしろかったって評判がいいんです。

戦前に入所された方がいま二十数人残っていらっしゃるので、そういう方たちにももっと話を聞きたいんですが、どんどん認知症が進んだり、あっというまに具合が悪くなって亡くなられたりしてしまう。「ああ、また聞きそこなってしまった」と思うことが最近は多いですね。

このあいだもある方のお通夜の晩に最後まで残って話をしていたら、気が付けばそこにいた方、皆さん管弦楽団のメンバーだったんです。そのときの思い出話がとってもおもしろかったので、その後にまた集まっていただいて座談会をしました。

恵楓園の管弦楽団は本格的なものだったそうですね。

塚本章先生という方が指導してくださって、昭和23年ごろに結成されたんです。先生はもともと海軍の軍楽隊にいらして、九州交響楽団から声がかかるほどの実力がおありなのに、恵楓園の福祉の職員としてこちらに来られたんです。楽器に触ったこともないような人たちに、オタマジャクシ(音符)の読み方から始めて、すべての楽器の演奏を指導されたそうです。楽器は、ハンナ・リデルさんの回春病院の楽団がつかっていたものなど、ずっと恵楓園の倉庫に眠っていたのを、塚本先生がぜんぶ使えるようにされたそうです。

春と秋には公会堂で演奏会をしていました。鹿児島や待労病院や菊池医療刑務所で演奏会をしたこともあります。当時はまだ熊本にはほかに管弦楽団がなかったそうですよ。

いまの自治会長の志村(康)さんも、主人の杉野も楽団メンバーですよ。主人はバイオリンとマンドリン担当でした。やはり塚本先生からすべて教わって、自分のパートの楽譜を書いたりもしていたそうです。

それはすごい。大人になってからバイオリンを習うのは大変だそうですよ。

ところで、杉野さん、ご主人とのなれ初めは?

なんといいますか。フィーリングが合ったといいますかね。ふふふ(笑)。あのころはね、療養所のなかでもダンスパーティとかが盛んだったんです。そういう出会いの機会がね、いろいろあったんですよ。

うらやましい(笑)。

でも療養所ではご夫婦にとってはつらいできごともあったのでしょう。

やはり子どもを持つことは許されなかったんですか。

妊娠したんですが、中絶しました。恵楓園は、胎児標本が残っていなかったので(*註)、堕胎児の慰霊祭も何もしていないんです。でも標本があったことは確かですし、調べてほしいとずっとお願いしているんですよ。志村会長さんたちとカルテ開示もお願いしましたが、志村さんたちの断種の記録は見つからないという返事でした。私のカルテには、中絶したということが確かに書かれていました。

わら半紙でガリ版の「手術同意書」を書かせられたのを覚えていますよ。優生保護法第何条にもとづき、堕胎と人工妊娠中絶に同意しますとかいう文面だった。私はからだが弱かったし、社会復帰して子どもを育てあげるなんてとても考えられなかったから、中絶は承諾したんです。でも不妊手術は同意しなかった。多くの人は、中絶とともに不妊手術も受けたようでしたが、私はそれだけはイヤだった。ハンセン病の女性でも子どもを産める時代がいつかは来るかもしれないという、希望だけはずっと持っていたかったから。

中絶したあと、寮に戻ってくると、母が赤飯を炊いて待ってたんですよ。「こんな悲しい思いをした日に、なんで赤飯ね」って言ったら、「産めなかったけど、赤ちゃんの命をもらった日だと思いましょう」って。そのときのことも、忘れられませんね。

註)2005年、日本全国のハンセン病療養所に計144体もの妊娠中絶・人工早産による胎児のホルマリン漬けが保管されていることが「ハンセン病問題に関する検証会議」の報告書で明らかになり、大きな社会問題となった。

取材・編集:太田香保 / 写真:近藤さくら

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