ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

People / ハンセン病に向き合う人びと

山口 和子(笹川記念保健協力財団 元理事)

ハンセン病の問題に取り組む世界各地の研究者や専門家と親密なネットワークを築き、
当事者たちへのインスパイアをし続けてきた山口和子さん。
変わりゆく世界のハンセン病の状況にどのように向き合ってきたのか、山口さんのこれまでの体験や仕事をうかがうとともに、
ハンセン病の歴史をどのように残し継承していくべきなのか、当サイトの未来のためにもヒントをいただきました。

Profile

山口 和子氏
(やまぐち かずこ)

1937年神戸生まれ。国際基督教大学卒業後、東京都民生局勤務、社会福祉主事として、大田区、墨田区等の福祉行政の現場で働く。1980年から笹川記念保健協力財団でハンセン病国際協力事業に従事。保健・社会・人間・歴史と拡がり深まり続ける世界のハンセン病問題の展開の中で、理事、常務理事、顧問を歴任。2016年3月末退職。

福祉の最前線から見えなかった
ハンセン病の問題

山口さんは、どうしてハンセン病の仕事にかかわることになられたんですか。

偶然だったと言っていいかと思います。笹川記念保健協力財団の仕事は私にとって第二の人生なんです。その前は、東京都民生局で地方公務員として、生活保護法とか児童福祉法などの福祉六法にかかわる仕事をやっていました。下町や山の手の福祉事務所で地域担当のケースワーカーとして働きました。

私が大学を出たころは女性が働きつづけることのできる仕事は限られていましたからね。学校の先生になるか、看護師か、公務員くらいしか選択肢がなかった時代でしたから。そんな時代でしたけど、生涯働こうということと、漠然とでしたけど、現場に近いところで働きつづけたいとおもっていました。でも、主人の仕事の関係で中断せざるをえなかったりして。

ちょうどそのころ、大学の同窓会のネットワークを通じて、笹川記念保健協力財団(以下、保健協力財団)で国際協力の仕事のために英語ができる人を探しているという話が来たんです。ハンセン病とのかかわりはそこからです。1980年ごろのことです。

ハンセン病のことはご存じだったんですか。

まったく知りませんでした。今にして思えば、福祉事業の最前線にいて、貧困の問題とか、アルコール中毒や結核による家族崩壊の問題にもかかわっていたのに、ハンセン病とはまったく接点がありませんでしたね。ハンセン病が原因で家族が崩壊した人たちもいたはずだったのに。ハンセン病対策は国の直轄事業でしたから、地方自治体の現場には情報は降りて来なかったんですね。「ハンセン病って何だろう」って、インターネットのない時代ですから、まずブリタニカの百科事典で調べるところから始まりました。

保健協力財団の主導でMDT(多剤併用療法)を世界中に広めていく活動が活発になって
いった時期ですよね。

  • モロカイ島のカラウパパ療養所(カラワオ側)にて、ヘンリー・ナライエルア氏と(1996年)。
    背景に、「隔離の地」を象徴する断崖絶壁が見える。

  • インド・ラクノウ市で、インド・ナショナルフォーラム(回復者組織)の皆さん、タミル・ナドウ州のリーダー、プラカサム氏(右他)と(2009年)

ちょうど私が財団に入ったころは、「奇蹟」と言われていたサルフォン剤に薬剤耐性が出て、MDTへの切り替えが急がれていた時代でした。アジアの国を対象に薬剤処方の組み合わせの研究やMDT実施のためのフィールドでの研修がある一方で、MDTの三つの薬を蔓延国に提供する、しかも治療の中断を起こさないように継続的に送るなど、「治る時代」の勢いが感じられる時期でした。

石館守三先生(註)も犀川一夫先生(註)もまだまだお元気で、石館先生は、つねに「科学的アプローチ」をということを強調されていましたね。ここに湯浅洋先生(註)が加わりました。三人ともクリスチャンでした。それぞれが、それぞれの思いで追究されてきたことが、保健協力財団という場で一つの方向に収斂されていったといって良いんじゃないかと思いますね。

湯浅先生にはイギリスの救らいミッション(TLM)出身というバックラウンドがありましたから、世界のハンセン病の専門家と、走り出したばかりの日本のNGOが一緒に仕事をするという時代でした。世界のハンセン病対策に貢献できるという可能性を感じましたね。

当時私自身は子どももいましたし、海外の現場に出ることはほとんどありませんでした。いまは若い女性スタッフもどんどん海外に出て活躍していますけど、当時は海外に出ることが特権であったような時代で、女性が海外で仕事をするという環境はなかったですね。ですから初期のころの私の仕事はもっぱら湯浅先生のアシスタントでした。おかげで毎日実践的な英語の勉強をさせていただきましたし、ミシェル・ルシャ(註)やスタンレー・ブラウン(註)など、1950年代からアフリカのコンゴやナイジェリアなどで働いて、世界のハンセン病の歴史を塗り替えて来たと言ってもいい方々とも接する機会がありました。

MDTが確立してからも、薬が世界中のハンセン病の現場に届くようにするまでは、
いろんな苦労があったと聞きます。やはり笹川陽平さんの決断によって、95年から
日本財団がWHOに5000万ドルを提供し、薬が無料提供されるようになったことが
大きかったんでしょうか。

  • 「Elimination of Leprosy」は2003年から発行されている、WHOハンセン病大使・笹川陽平氏のニュースレター。

まちがいなく大きかったと思います。ただ、よく勘違いされるんですが、それまでは薬が有料だったから治療が広まらなかったということではないんです。保健協力財団は1974年の設立当初から日本船舶振興会(現日本財団)の資金を受けていろんな国々の現場に治療薬を提供していました。薬はチバガイギー社(現ノバルティス社)などから購入して送っていました。他の国際NGOも自分たちが支援しているところには薬を無償で提供をしていましたから。

日本財団の5000万ドルの提供によって、WHOを通して薬が提供されるシステムができた、ということが画期だったのです。WHOがかかわることによって、どこそこのNGOの病院に行けばハンセン病の薬があるという状態から、一国の保健政策の一環としてハンセン病対策ができるようになったわけです。特別な専門病院だけで診断・治療が受けられるというのではなく、最も患者さんに近い地域の保健所で治療が受けられるようになって初めてハンセン病対策は成功する、というのが湯浅さんの持論でしたし、財団のヴィジョンでしたから。笹川陽平さんの決断がなければ、これは実現しなかったでしょう。

笹川さんは変化の兆しを読み取る感度がとても高い方で、世界のハンセン病問題を大きな図で戦略的に捉えられています。この30年間でハンセン病問題は大きく変わりましたけど、笹川さんの問題意識は、われわれが模索してきた方向と合っていたように思いますね。これは大変幸いなことで、私たちは自信をもって仕事を進められました。2003年からずっと隔月に発行されているWHO特別大使ニュースレターがありますが、その巻頭言には、世界のハンセン病問題の変遷と笹川さんの問題意識がよく反映されているとおもいます。

註)湯浅洋氏:元笹川記念保健協力財団常務理事・医療部長。長年にわたり世界のハンセン病対策活動の第一線で活躍。インタビューもご覧ください。

註)石館守三氏:笹川記念保健協力財団初代理事長。日本薬学界のパイオニアであり、プロミンの合成により日本のハンセン病治療に多大な貢献を果たした。

註)犀川一夫氏:笹川記念保健協力財団創設時から2007年まで理事。WHO西太平洋地域事務局の専門家や沖縄愛楽園園長を務め、ハンセン病の外来治療を推進した。

註)ミシェル・ルシャ(1927-2014) :ベルギー人。医師、疫学専門家・教授。国際ハンセン病学会会長を歴任。1951-1959年、ベルギー領コンゴの赤道直下のヨンダ・ハンセン病施設に医師として勤務。ヨンダには英国人作家グレアム・グリーンが一時滞在し、後の小説『燃え尽きた人』の舞台となった。

註)スタンレー・ブラウン(1907-1986):イギリス人。医師。TLM(英国救らいミッション)宣教医。国際ハンセン病学会事務局長、名誉副会長を歴任。1936年から25年以上にわたりアフリカ(ベルギー領コンゴ、ナイジェリア他)でハンセン病治療に従事。サルフォン剤の適用で成功。滞在中のコンゴ河上流ヤスクのハンセン病施設は、オードリー・ヘップバーン主演の映画「尼僧物語」の舞台となった。

当事者と出会うこと、
当事者と当事者がつながっていくこと

その笹川さんが、山口さんのことを「ハンセン病の生き字引」とおっしゃっていました。
山口さんはハンセン病の歴史や世界の現状に詳しいばかりではなく、国内・海外のさまざまな
分野の研究者や関係者、またハンセン病の当事者たちとのネットワークをお持ちで、
しかもそういった方々のメンターのような存在ですよね。

  • 1994年、ベトナムのハノイで開かれた「ハンセン病制圧会議」に出席するため現地を訪れ視察する笹川氏と山口氏。この会議で日本財団によるMDTのための5000万ドルの提供が発表された。

正直言って、それは過大評価だと思いますけど、きっかけは、1993年8月にアメリカのオーランド市(フロリダ州)で開催された第14回国際ハンセン病学会でした。このとき、初めてハンセン病の当事者を招いて話を聞くというセッションが企画されたのです。そのころは、まだ当事者は「Patients」つまり「患者さん」であって、保健サービスの「受け手」であり、国際会議の場に「患者さん」が招かれ発言するということ自体、ハンセン病の世界では初めてのことでした。

その時、「日本からもぜひ誰か当事者の方に参加してほしい」という要請が保健協力財団にきたのです。ところが、私たちは一人も名前をあげることができませでした。自治会や全患協の存在は知っていましたけれど、ネットワークをもっていませんでしたし、ましてや個人として名前をあげることはできませんでした。

石館先生にしても湯浅先生にしても、当時は「患者さん」一人ひとりに向き合う立場ではなかったですし、それまで10年近く財団でハンセン病対策にかかわっていた私も、統計にある患者数の背景には一人ひとりの人間の人生があるなんて言ったり書いたりしていましたけれど、本当のところ理解してはいませんでしたね。「日本から当事者を」という要請を受けたとき、応えることができなかった、ということは今でも強く心に残っています。

結局、理事であった犀川先生の推薦で、奄美和光園の石原英一さんなら英語も判るからいいだろうということになって、お声をかけたところ、よろこんで引き受けてくださいました。

和光園の石原さんのことは、このあいだ奄美に行ったときに、退所者の森山一隆さんからも話を聞きました。牧師さんでもあって、自分で園内にプロテスタントの教会をつくられた方ですね(森山氏のインタビューはこちら)。

私は石原さんと一緒にオーランドの学会のセッションに参加したのですが、驚いたことに、石原さんは英語ができるというだけではなく、そのセッションに参加していた初対面の人に「あなたはハワイのプニカイアさんですね。7歳のときに両親の元から離されてカラウパパの療養所に入られたんですよね」って話しかけたのです。もう、びっくりしました。インターネットもない時代に、手に入れた英語の文献から情報を収集して、記憶されていたんですね。

石原さんはスピーチでも「われわれは、つねにpatients(患者)という集合名詞でのみ扱われるべきではない」と訴えたのです。この発言は私の心に突き刺さりました。このセッションは、その後の世界の当事者運動の始まりであり、保健協力財団がハンセン病当事者の問題、個人と組織の支援に大きく舵を切るきっかけとなりました。あのセッションは、当事者として歴史をつくって来た人たち――ブラジルのフランシスコ・ヌーネス(バクラウ)、インドのゴパール、韓国の鄭相権、ハワイのバーナード・プニカイア――が初めて顔をそろえた場となったのです。

このオーランドでの第14回ハンセン病学会は、私個人にとってもそうですが、ハンセン病問題にかかわる人々にとっても一つの“事件”でした。世界の「当事者」が、公の場でその存在を宣言したのですから。第一「当事者」とか「回復者」という言葉もまだなくて、どう呼ぶべきかが議論になったくらいです。

その翌年、ブラジルで再び各国の当事者が集って、IDEA(ハンセン病回復者国際ネットワーク)が立ち上がったのです。その動きに触発されて、2年後に、中国でも自分たちのネットワークをつくろうという動きが生まれました。中国にはハンセン病の療養所や患者村が全国に600カ所以上あると言われています。96年3月25日、広州で漢達(ハンダ/中国IDEA)の設立集会が開催されることなり、再び石原さんと、それに今度は多磨の平沢保治(註)さん夫妻も加わって一緒に参加しました。

  • 多磨のハンセン病資料館前でアンウェイ・ロウ氏、ゴパール氏を迎えた折の記念写真(1996年3月19日・撮影は山口氏)。左から佐川修氏、平沢保治氏、紀伊國献三氏、大谷藤郎氏、ゴパール氏、ロウ氏。

これに先立って、IDEAの設立に尽力したアメリカのアンウェイ・ロウさんとインドのゴパールさん(回復者でIDEAの中心人物の一人)が、中国の集会に参加する途中の3月19日から数日、東京に立ち寄りました。多磨のハンセン病資料館に二人を迎えて、日本の全患協(96年4月以降は全療協)や全生園自治会の幹部の皆さんとの懇談が行われました。私が高瀬重二郎さん、神美知宏さん、平沢保治さんなど会ったのは、このときが初めてでした。

ホスト役をつとめられたのは、当時資料館の館長をされていた大谷藤郎さん(註)です。大谷先生は『らい予防法廃止の歴史』という著書のなかで、このときのアンウェイさんとゴパールさんの来訪を「天からの使者」と書いて、21世紀はすべての人が「共に生きる社会」をめざしてほしい、とハンセン病の当事者たちにも呼びかけられています。

その直後の4月1日に、「らい予防法」が廃止されていますね。

そうです。私と平沢さんは、広州のホテルで中国テレビ放送がそれを伝えたニュースを見たんですよ。平沢さんは予防法廃止の瞬間は、仲間のみなさんと分かち合いたかったと思うんですが、それ以上に「世界を知りたい」「海外の当事者と交流したい」という思いのほうが強かったのでしょうね。

実は、その翌年(1997)の9月、全療協、IDEA、藤楓協会の共催で、厚生省、笹川記念保健協力財団等が後援して、「ハンセン病回復者の国際会議――らい予防法廃止を記念してー」を開催しています。当時の全療協会長の曽我野一美(註)氏の報告に続いて、中国、インド、ブラジル、エチオピア、ハワイ、フィリピンから参加した回復者たちが現状を報告しました。会場の砂防会館は東京と近県からの入所者の方々で一杯でした。来賓祝辞は時の厚生大臣だった小泉純一郎氏で、全療協事務局長だった神美知宏さんが東京宣言を読み上げる、といった会でした。その後、国賠訴訟が起こりますが、みなさんの海外の「療友」への思いは続いていて、2001年5月の勝訴の後、曽我野さんが大島青松園の入所者の有志をまとめられて、「インドの療友へ」と200万円の寄付をいただいたこともあります。これをもとに南インドの当事者家族の子どもたちの奨学金プログラムをつくりました。

  • 「中国交流の旅」の参加者たちの記念写真(2004年3月14日、桂林)

その数年後、日本の療養所の方々に海外のハンセン病の状況を知っていただき、海外の当事者たちと交流して欲しいと考えて、2003年から2005年までの3年連続で「中国交流の旅」を企画しました。ちょうどNHKで桂林が特集された頃だったので、桂林観光も組み合わせたところ大人気でしたよ(笑)。考えてみればみなさんまだ60代後半から70代。一度は海外へ出てみたいという思いがあったのでしょう。旅費は全額自己負担の旅でしたが、自治会のリーダーの方もふくめて延べ54人の参加者がありました。中には2回、3回と繰り返し参加された方もありましたね。星塚敬愛園の小牧義美さんもその一人で、この旅を人生の一大転機とした方です。中国の麻風村(ハンセン病は麻風とよばれていた)の人々のために、と多額の寄付を下さったばかりでなく、中国で出会った原田燎太郎君と意気投合して、ついに75才で恵楓園を出て中国に移住してしまったのですよ(註)。

「中国交流の旅」では広東省のハンセン病療養所や村々を訪問して交流しました。有名な桂林の川下りは中国の回復者にとっても憧れの地なのですから、日本の参加者のご協力もいただいて、中国の方々も招いて、日中合同の桂林の船旅にしました。
日本から参加された皆さんは、中国の麻風村の貧しさ、回復者たちの生活の困難を目の当たりにして、「50年以上前のわれわれの生活と同じだなあ」という感想もありました。後日、何人もの方から「中国のハンセン病回復者のために使ってほしい」と寄付をいただきました。駿河療養所の自治会長だった西村時夫さん(2004年没)もその一人です。村人が市場に野菜を売りに行くときの近道を整備するためにと寄付をいただいて、西村道路と名前を付けた近道ができたというようなこともありました。

「予防法が廃止されたいま、もっと自分の世界を広げていきたい、社会の役に立ちたい」というみなさんの強い思いを感じましたね。単に「かわいそうだから」ということではなく、「療友」として、苦しみを理解し応援したいという思いが伝わってきました。

註)平沢保治氏 1927年生まれ。13歳から多磨全生園に入所。ハンセン病回復者・患者および障害者運動に携わり、ハンセン病資料館設立や全生園「人権の森」構想に尽力。笹川陽平氏との対談もご覧ください。

註)曽我野一美氏 1947年、大島青松園に入所。全国ハンセン病療養所入所者協議会会長をつとめ、ハンセン病違憲国家賠償訴訟では、全国原告団協議会長として闘争のリーダーをつとめた。2012年逝去。

註)神美知宏氏 福岡に生まれ、17歳で大島青松園に入所。全国ハンセン病療養所入所者協議会事務局長、同会長をつとめ、全国療養所の将来構想を推進した。2014年逝去。

註)大谷藤郎氏 厚生省官僚としてハンセン病療養所政策の改善に尽力、藤楓協会理事長、高松宮記念ハンセン病資料館館長などを歴任。「らい予防法」違憲国賠訴訟では大谷氏の証言が患者勝訴の原動力になった。

註)原田燎太郎氏 2003年に中国リンホウ村に移住、翌年中国のNPO「家-JIA-」を設立し、ハンセン病快復村のための活動を推進。原田氏のインタビューもご覧ください。

註)小牧義美氏の中国移住のエピソードについては、朝日新聞記者の高木智子氏『隔離の記憶』で詳しく紹介されている。

自分たちの遺産として、
ハンセン病の歴史を残していくために

今年1月、保健協力財団の主催で行われた「人類遺産世界会議」では、ハンセン病の記憶
と記録の保存について、さまざまな話が交わされましたね。ハンセン病の歴史を残すという
仕事が、これからの財団の仕事の大きな柱になるのでしょうか。

そうなってほしいと願っています。これは「時間との競争」ですし、世界もそれを実感しています。実は、歴史保存には、すでに1996年頃から取り組んでいたんです。治る病気になって、早期発見・早期治療が基準となって、世界中で療養所の様相がどんどん変わっていく。このままいくとハンセン病の歴史を語る物も人も失われていく、ということは当時から気付いていました。とはいえ、いったい何から手をつけていいのかわからない、手探り状態でした。

初めて手ごたえを感じたのは、1998年に北京で第15回国際ハンセン病学会が開かれたとき、主催者である中国政府当局が自国のハンセン病の歴史を語る展示を出されたことでした。「患者船」に住んでいる人々の日々や、患者の集団殺戮の場面といった写真も展示されていて、南京の皮膚病研究所の江澄医師が長年資料の蒐集をしているということも知りました。

2001年からはオックスフォード大学のウェルカム財団医療史研究室に委託して、オーストラリアのハンセン病史の研究者、Jo Robertson博士が中心となって、世界のハンセン病歴史データベースの作成を始め、2003年にはデータベースが立ち上がりました。しかし、なんといっても当時のIT技術ですから、研究者には意味ある情報でしたが、一般の関心をよぶような魅力的なサイトにすることはできませんでした。そこで、昨年からこのサイトのリニューアルを計画して、今年の1月には生まれ変ったサイトを披露しました。ぜひアクセスして、世界のハンセン病の歴史の魅力を発見していただきたいです。(leprosyhistory.org

世界の各地のハンセン病の歴史保存と研究の成果、ハンセン病を生きた人々の証言や芸術作品なども将来的にはこのサイトから見られるようになればと期待しています。

歴史を残すには、誰の視点によって、誰のためにやるのかによって、まったくアプローチ
も表現も変わってくると思うのですが、山口さんはその点についてどのようにお考えですか。

  • 国立フィリピン歴史委員会がまとめた「Hidden Lives: Concealed Narratives — History of Leprosy in the Philippines」

じつは、最近フィリピンでこういう本が出版されました(写真)。「Hidden Lives: Concealed Narratives ― History of Leprosy in the Philippines」。出版したのはNational Historical Commission of the Philippines (NHCP:国立フィリピン歴史委員会)で、このNHCPの働きかけで、12人の若手研究者たちが共同作業で完成させました。NHCPは国の機関です。植民地下の歴史が長かった国ですから、自分たちの歴史を残していくという意欲が強いのです。そういう国が、ハンセン病の歴史を自国の歴史の一部として取り上げた。私はこの取り組みを非常に高く評価しています。

ハンセン病の歴史は、たんなる病気の歴史ではありません。でもお医者さんの立場から書くと、どうしても病気の歴史になってしまう。そうではなく、もっと別の視角でとらえるために、2012年と2014年に、海外の歴史研究者や公文書館、保健省や遺跡の保存にかかわる省庁の人などなどを日本に招いて、国立ハンセン病資料館でワークショップを開催しました。ハンセン病の歴史を、国としてこれほど包括的に取り上げている資料館は世界に類がないですし、そもそも資料館の創設には、多磨の松本薫さん、佐川修さん、山下道輔さん、平沢さんといった当事者がかかわり、今もその運営に関わっているというところも他に例がないでしょう。ですから、この2回のワークショップには、ハンセン病の歴史保存を考える時、この病気を生きた当事者の目線を忘れてはならない、という基本のところを感じとってほしいという狙いがありました。先に述べたフィリピンでの出版は、第1回のワークショップに参加した方が、ぜひ自国のハンセン病史を自国のイニシアチブで、と企画したものです。こういう動きが広がっていって欲しいと思っています。

よくハンセン病は「負の遺産」という言われ方もしますが、そういう考え方とも違うんですね。

「負の遺産」とよんでしまうことには抵抗があります。この病気を生きた人々は、世界中どこでも言葉で言い表せないほどの深い苦難の中を生き抜いていますよね。その強さを思うとき、「負」という一言でくくってはならないと思います。英語でハンセン病の当事者をあらわすとき‘Victim’という言葉が使われることがあるのですが、そうではないと思うのですよ。あえていえば’Survivor’かなと。また、人類が再び過ちを起こさないために教訓として残す、というのもすこし違うのじゃないかなと思っています。人類が過ちをおかさないなんてことはありえないでしょう。

見る人、読む人が、いろんなことを汲み取っていけるような残し方がいいと思います。そこから学ぶものは、一人ひとり違っていていい。そこにあえて注釈を加える必要はないと思います。ハンセン病の歴史は、そういった個々人の探求に十分応えうるだけの大きさ、深さがあります。そのためにも、当事者たちの生きざまを、言葉を、語りをできるだけそのまま残していくことが大事だと思います。

明石海人(註)が残した「癩者の生活は我々がうたわなければうたう者がありません」「深海に生きる魚族のように自らが燃えなくては、何処にも光はない」という言葉が知られています。ここに言い尽くされているように、暗闇にたとえられる苦難、それを生き抜いた人々の歴史を「負」として片付けることは違うと思っています。むしろその暗闇を生き抜いた人々の強さに圧倒される思いです。創作活動の作品を残した人たちばかりでなく、たとえば、人知れず山奥の隔離村で、野菜を育て、鶏を飼い、火をおこして、60余年を生きぬいて、ついに最後の一人になってしまった中国の楊四妹さんのような人たちもそうです。この人は両脚も手指も失っているのですが、自分の意思で生き抜いて来たのですよね。すごいと思います。

これまで山口さんが出会った方たちのなかで、もっとも印象深い人をたった一人あげると
すれば、どなたですか。

  • 中国のハンセン病会議で談笑する馬海徳氏と山口氏(1987年・昆明)

  • エドガー・A・ポーター著『毛沢東の同志 アメリカ人医師・馬海徳(ジョージ・ハテム)先生』。

そうですねぇ。当事者の皆さんは、どなたも、例外なく、印象的です。たった一人とりあげるのは、これは不可能です。

「こんな人がいるのか」と驚いたという意味では、中国でハンセン病に取り組んだ馬海徳(マァ・ハイデ)博士をあげてもいいかもしれません。レバノン移民を両親にもつアメリカ人の皮膚科医ですが、20代だった1933年、スイスの医学部を卒業してシベリア鉄道で帰国の途上で中国を訪れ、そのまま65年間中国で生きた人です。日中戦争、中国革命の時代を生き抜いて、中華人民共和国となってから帰化を認められた第一号でした。実は、皮膚科医として中国のハンセン病対策を指導されたので、70才半ばの1984年から保健協力財団とつながりが出来ました。一緒に中国のハンセン病療養所を訪ねましたが、いつも患者さんたちのことを気遣っていて、炊事場に直行しては、「みんな、食べているかね?」とまっさきに尋ねていたことが印象的でした。馬海徳さんが変形した指を診ようと手をとったある患者さんは、「他人に素手で触れられたことは、初めてです」と言って涙と笑顔を見せました。80年代の中国はそういう時代だったのです。

馬海徳さんの遺志は、愛弟子の楊理合医師(2011年没)が引き継いで1996年のハンダ創設につながっています。馬さんは数奇な運命を生きた方ですが、エドガー・ポーターという人が書いた英語の評伝があったので、友だちの翻訳チームに頼んで日本語訳を出版しました(『毛沢東の同志 馬海徳先生』海竜社)。

最後に、山口さんは今年(2016年)3月末をもって財団顧問を退任されるんですよね。でも山口さんの知識やセンスをまだまだ必要とする人たちがいると思いますし、私たちもそうです。これからもどうぞよろしくお願いします。

実は、私、もうとっくに通常の業務はリタイアしているんですよ(笑)。事務所にでる日数は少ないですから。でも、今はインターネットやフェイスブックの時代ですから、どこにいても情報は入ってきますよね。世界のあちこちで、毎日新しいストーリーが生まれていることにも驚かされます。私の個人的な関心が拾い上げて来るのかもしれませんが、とくに、世界の各地で従来のハンセン病問題の「聴衆」とはちがう、新しい「聴衆」が生まれ、その人々のかかわりが増えているように感じていて、これは大歓迎です。

ハンセン病って本当に深いテーマだといまさらのように思いますね。塔和子(註)さんの詩に「かかわらなければ」というのがありますが、このテーマは知れば知るほど、自分に問いかけて来るものがありますし、自分を問いただすものもあります。新しくかかわり始めた人々が、そういった発見をしているように思えてとても楽しみです。

不思議な感覚なのですが、ハンセン病とは違う新たなテーマに出会った時に、自分の意識の底層にハンセン病からの学びがあることを感じます。自然に、自分の立ち位置を意識することも、ハンセン病へのかかわりから学んだものだと思います。最後はかかわれたことへの感謝で終わることができて幸せです。

註)明石海人:1901(明治34)生まれ。長島愛生園で療養生活を送りながら、歌人として活躍。1914年に歌集『白描』を出版し絶賛されながら、同年39歳の若さで死去。

註)塔和子:1929年(昭和4年)生まれ。14歳から83歳で病没するまで大島青松園で暮らしながら、数多くの詩を発表。15冊目の詩集『記憶の川で』で高見順賞を受賞。2003年のドキュメンタリー映画「風の舞〜闇を拓く光の詩〜」が話題となった。

取材・編集:太田香保 / 撮影:長津孝輔