ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

About Yohei Sasakawa

WHOハンセン病制圧大使

笹川陽平について

 1939年1月8日、妾腹の私生児として生を受ける。幼少期は浅草に母と2人の兄と暮らしていた。父は笹川良一。父親を知らずに、戦中の貧しい時代を過ごした。第二次世界大戦中の1945年3月10日、6歳のとき、一夜にして10万人以上が犠牲となった東京大空襲を経験。母と2人で火の海を逃げ回り、奇跡的に助かった。このとき目の当たりにした戦争の悲惨さ、見知らぬ人々から受けた優しさが、その後の人道活動の原点となる。

ネパール・コカナ国立療養所を訪れる笹川良一(昭和58年)

 大学卒業後は、次兄が経営する会社でビジネスを手がける一方、良一の海外支援活動に随行し、韓国やインドネシアなど各国を訪問。1965年、父とともに訪れた韓国のハンセン病療養所で、手足や顔の変形した患者、人生に絶望しきった彼らの様子に驚き、その苦しみを今まで知らずにいた自分自身にも愕然とした。このとき、まったく臆することなく、一人ひとりの手を握って患者を激励する良一の姿を見て、「これこそが自分が終生をかけて手掛ける仕事だ」「この人たちのために、自分の人生をかけていきたい」と確信するに至る。

 1981年、活動分野をビジネスの場から国内外の人道的支援活動へ完全に移すことを決断し、良一が創設した日本財団の理事となる。1989年には理事長に就任し、良一をサポート。これまでに培ったビジネス・スキルを応用しながら、良一の多彩なアイデアを具現化するために腕を振るった。1995年、良一の没後は、作家でありながら国際NGOを運営する曽野綾子氏が、日本財団の会長に就任、そのもとで国内外における様々なプロジェクトを形にするなど、実行力を発揮した。
 2005年、曽野会長の任期満了に伴い会長に就任、良一の時代から築いてきた長年の経験や知見、ネットワークの蓄積を活かし、財団の活動を新たな分野に広げている。

回復者と話す笹川陽平ハンセン病制圧大使

回復者と談笑するWHOハンセン病制圧大使・笹川陽平

 ハンセン病制圧活動(※制圧とはWHOが定める基準で人口1万人あたりの患者数が1人未満であることを意味する)は、約40年以上にわたって続けており、世界中の療養所やコロニーを訪問、患者を見舞ってきた。その一方で、国家元首やメディアともたびたび面会、ハンセン病制圧対策の強化や、病気に関する正しい知識の普及などについても訴え続けている。また、日本財団は1995年からの5年間、ハンセン病治療(多剤併用療法=MDT)に必要な薬剤、5000万ドル相当を蔓延国で無料配布した。

 MDTによって1980年代から現在までに治癒した患者数は、1600万人を超える。ハンセン病蔓延国も激減し、122カ国あった未制圧国は、ブラジル1カ国を残すまでになった。しかし、ハンセン病が治る病気となった現在も、患者・回復者やその家族は、社会からの根強い偏見により、差別を受け続けている。

 この状況を次なる問題として捉え、ハンセン病を取り巻く差別問題を提起するため、国連機関に働きかけることを決意。粘り強く訴え続けた結果、2004年には、国連人権委員会本会議で各国政府・国連機関などに対する現状改善の勧告決議が採択、次いで2008年には、国連人権理事会で差別撤廃決議が採択された。これらの流れを受け、2010年国連総会本会議において参加192カ国の全会一致で採択されたのが、「ハンセン病差別撤廃決議」である。

 現在、WHOハンセン病制圧大使、日本政府ハンセン病人権啓発大使。近著に自らの生い立ちと、ハンセン病活動の歴史などを語った自叙伝、『残心(ざんしん)』(2014年5月・幻冬舎刊)などがある。ハンセン病の制圧、および病気を取り巻く差別撤廃を訴えるため、今もなお、世界各地に足を運んでいる。

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