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イベントレポート/THINK NOW ハンセン病 キャンペーン 2016 TOKYO

ハンセン病の歴史を語る人類遺産世界会議
特別講演 「全生園で出会ったこと」

1月28日から30日の3日間、人類遺産世界会議が開催されました。人類遺産世界会議には、急速に失われつつあるハンセン病の歴史遺産、人びとの記憶などを残していくため、世界約20カ国から当事者、政府機関、NGO、研究者などが参加。初日の28日には多磨全生園(東京都・東村山市)の近くに長年住み、映画『もののけ姫』ではハンセン病患者の姿を描いた宮崎駿監督が特別講演をおこないました。

日時
2016年1月28日(木) 9:45〜11:00
場所
笹川平和財団ビル11階 国際会議場
登壇者
宮崎駿(映画監督)

講演は「引っ越しのためトラックに所帯道具を積んで所沢街道を走っていたときに初めて多磨全生園を目にしました。右手に全生園の立派な生け垣があり、その角を曲がって新居へと向かったんです。今から50年前です」という宮崎監督自身と全生園との出会いからスタート。ハンセン病については総合誌などで読んである程度のことは知っていたものの、仕事に追われ、とくに関わりをもつことなく20年以上が過ぎたこと、映画『もののけ姫』の企画を考えるため、20年以上前の冬の日、全生園に初めて足を踏み入れたことなどを語りました。

「当時作りたいと思っていたのは日本を舞台とした時代劇、それも刀を差した侍ではなく、本当の民衆を描いた時代劇でした。そんなとき出会ったのが一遍上人絵伝です。そこにはありとあらゆる職業の人たち、高下駄を履いた得体の知れない人たちなどが描かれていて、ハンセン病患者と思われる人たちの姿もありました。この人たちが登場する映画を作れないか、というアイディアがのちに『もののけ姫』という映画になりました」

現在も「全生園まで急いで歩けば15分」の場所に住んでいる宮崎監督は、こうして多磨全生園を定期的に訪れるようになったとのこと。資料室で初めて展示品を見た際には大量の生活雑器、ブリキやプラスチックで作られた園内用貨幣などから大きな衝撃を受け、「おろそかに生きてはいけない。作品で描くのなら無難な線を狙うのではなく、真っ正面からきちんとやらなければと強く感じた」というエピソードも披露。一方で佐川修さん(現・全生園自治会長)、平沢保治さん(現・国立ハンセン病資料館運営委員)など全生園の友人には、映画でハンセン病患者を描くことに関して一切相談しなかったことも語りました。「事前に相談などしませんでしたから、佐川さんたちに映画を観てもらうのはとても怖かった。彼らがとても喜んでくれたことで肩の荷が下りた気がしましたが、同時にこれで安心してしまっていいのだろうか、という複雑な思いをもったことも事実です」と、当時を振り返りました。

全生園の納骨堂にお参りする際には「納骨堂に眠っておられる4千人の入所者の皆さんに始まり、両親、恩人、亡くなった友人、飼っていた犬などのことも一緒に拝んでいます。だからとても長い時間がかかるんですね」とにこやかに語った宮崎監督。昭和初期の宿舎「山吹舎」の復元運動にも支援をおこない、歴史遺産保存にも積極的に関わっているとのこと。現在進められている多磨全生園の保存運動『人権の森構想』についても「山吹舎は復元されましたが、その他の古い建物もなんとかして残したい。全生園はぼくの散歩道であり、知り合いがいて、お墓があるところ。最初はなかなか近づけなかったけれども長い年月のあとに入っていっていろんなものを発見して、人と出会った場所です。その歴史保存に少しでもお役に立てるなら、こんなにうれしいことはありません」と語りました。

講演の後半には佐川修さん、平沢保治さんも登壇。佐川さんは「全生園の建物と森を歴史遺産として永久保存する『人権の森構想』は、宮崎監督の発言がきっかけで生まれたもの。空き家となっていた21舎を取り壊した跡も花の記念公園にしようと計画中です」と語り、平沢さんも「怨念を怨念で返してはいけない。許す心があるからこそ人は仲間になれる。前にも進んでいける。このお話を私は宮崎監督から聞きました。そのことばを今も子供たちに伝えつづけています」と、それぞれのエピソードを語りました。

特別講演のあとおこなわれた記者会見では、宮崎監督が講演で話した内容、全生園の人たちとの関わりあいなどについて質疑応答がおこなわれました。

Q:宮崎監督が初めてハンセン病を知ったのは、どういったきっかけだったのでしょうか。

戦後の頃はハンセン病のことも総合誌などに出ていた記憶があります。『世界』とかそういった雑誌も真面目に読んでいましたから、ハンセン病のことは知識としては知っていた。しかしぼくは同心円上----昔は半径3メートル以内と言っていて、その距離は30メートル、300メートルと次第に言い換えてきたんですが----というか、自分のそばにあることでないと、そこにいかない人間なんですね。世界の各地にある問題を探して遠くへ行くというようなバイタリティーは、ぼくにはないんです。

全生園に足を踏み入れたのは、たまたま近くに引っ越したから、ご近所でそこにいる人と知り合いになったからぼくにとってご当地であり、散歩コースだったということです。

Q:監督は「人権の森構想」など全生園の保存活動にも積極的に関わっておられますが、全生園はどのように保存されるべきだとお考えでしょうか。

ぼくはこのまま残っていってほしいと思っています。いい散歩の場所でもあるし、いろんな人が知恵を出し合って考えるべきことなのではないでしょうか。

全生園の一角にできた花さき保育園(2012年設立)も、子どもたちに差別や隔離の歴史を知ってほしいと考えてあの場所に作られたわけですが、子どもたちというのはそういった大人の考えを超えていくものです。単なる教育の場ではなく、市民や東村山市にとっても大切な緑地としていろいろな使われ方をしていくことがよいと思っています。

Q:隔離政策を推進した光田健輔氏(国立ハンセン病療養所・長島愛生園初代園長)について、どのような人だという印象をお持ちですか。

患者治療に専念した方であると同時に、ハンセン病患者のために国家にお金を出させた。一方でかたくなに隔離政策を貫いた人でもある。佐川さん、平沢さんと話していても光田健輔という人に対して、とても複雑な感情をもっている。それはすごくよくわかります。

しかし、悪役を決めればいいというものではないんです。光田健輔個人を責めるより、どんな立派な人でも過ちを犯す、それも何度も繰り返すものなんだということを、自戒も込めて我々は記憶していくべきなんだと僕はうけとめています。

強制隔離政策はたしかに悪い面もあったと思いますが、それだけではなかった。療養所という施設に患者を収容したことで行き倒れて亡くなる人を救ったという面もあったでしょう。まだまだわかっていないことも多く、ケリがついていないことも多い。ぼくはこうだと言えるだけの知識をもっていません。

人は「絶対に間違えない」と思っていても間違えるものなんです。だからこそ謙虚でなければいけない。そう思います。

Q:『もののけ姫』でハンセン病患者を登場させることについて、迷いはありませんでしたか。

主人公の少年には、タタリ神によって生きた痣ができます。それはコントロールできないもので、同時に少年の身体を蝕んでいく非常に非合理なものを抱え込んでいる。そういう運命を主人公に与えたわけです。この痣はハンセン病とまったく同じです。そういう主人公を作りながら、ハンセン病を描かないわけにはいかないと思いました。本当にためらいました。講演でもお話したように、どう描くかは佐川さんや平沢さんには相談しませんでした。彼らの反応がとても恐ろしかった。結果的に2人ともとてもよろこんでくれましたが。

中国地方に斐伊川(島根県)という川がありますが、これは製鉄を生業とするタタラ衆が砂鉄をとって土砂を流した結果、天井川になってしまったという歴史をもっています。いまはとても美しい川ですが、人間が作り換えてしまった自然のシンボルです。映画のなかではそこまで描くことはできませんでしたが、こうしたことも単純にいい、悪いではケリがつけられない問題です。

いい、悪いに関係なく、そこで人は生きていかざるを得ない。もっと深い知恵、多くの知識がないと継続可能な国土、人生というものはつくれないんだと思います。『もののけ姫』でも主人公は物語の最後、その痣とともにタタラ場で矛盾を抱えたまま生きていくことを選びます。映画は全部難しいままで終わってしまいましたが、それは我々にとっての課題でもあるんです。

Q:ハンセン病の記録を残し、語り継いでいくことは大きな課題であるとよく言われます。どのように進めていくべきだと思われますか。

ぼくは全生園のことしか知りませんが、国立ハンセン病資料館に学芸員が赴任して以来、展示のやり方がだいぶ変わってきたと感じています。今までは出したくないと言って展示しないままになっていた記録や映像が、すいぶん出てくるようになりました。学芸員の方々は非常によく努力されていると思います。

たとえば写真集があれば、そこに収められている写真が彼らの歴史や思いを一番よく物語ってくれるんです。資料館でも定期的に企画展などをやっていますが、そういうものの中にも胸を打たれるようなものがいくつもあります。一般論として語るより、そういった展示があって(資料館に)行けば誰でもそれを見ることができる、その環境が大事だと思います。ぼくも展示が変わるたびに(資料館に展示を)見に行ってます。そうやってだんだん開かれていくというのがいいんじゃないでしょうか。

プロミンが使われるようになって以降、社会復帰した方もたくさんおられますが、今はそうした方々が人生を終える時期になっています。彼らが社会復帰してどのように暮らしてきたか。本当に感動的な話がいくつもあるんですね。と同時に「生きるのが苦しかった」というのは、世の中に生きる我々すべてに共通する悩みでもあると思います。回復者の方々が味わった苦労というのは、都市に集まってきてそこで暮らさなければならなかった若者たち、彼らが味わった孤独感、無力感、そういったものとそっくりですから。それは私生活というもののなかにある暗い穴のようなもので、ぼく自身も青春の時期に感じていたことです。

Q:全生園を歴史遺産として残していくためには、今後も国への働きかけなどをおこなっていく必要があると聞いています。宮崎監督ご自身は、どのように取りくんでいくべきとお考えですか。

これは国に対して働きかけを粘り強くやっていくしかないんです。全生園は国有地ですから、最後の入所者の方が亡くなったら国は有効活用活用したいと考えるのが当たり前で、放っておけばそうなってしまうでしょう。東村山市は歴史建造物、緑地、森、こうしたものをできるだけこのまま残していきたいと考えているし、ぼくもその方がいいと考える人間です。

Q:講演のなかで何度も「おろそかに生きてはいけない」ということばを繰り返しおっしゃっていましたが、一方で世の中は「負の歴史」「負の遺産」には蓋をしてしまいがちです。こうした問題について、どう考えていけばいいのでしょう。

これは手分けするしかないんです。たとえば、ぼくは原発はなくなった方がいいと思ってますけど、仕事をほっぽり出して署名集めにはいけません。ハンセン病についてもそうです。佐川さん、平沢さんは自分たちに残された時間を賭けてこの問題に取り組んでいますが、ぼくはその先頭に立ってやることはできません。なんでもかんでも自分でやるとか、この世にある問題すべてに関わるのは不可能なんです。

「おそろかに生きてはいけない」というのは自分が与えられたフィールド、チャンスについて、おろそかに生きてはいけないという意味なんですね。それはぼくの場合は映画をつくることです。そう言うと、家庭生活は入っていないのかと家内に文句を言われそうですが(笑)。