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【連載】学生が見た「THINK NOWハンセン病」#6:「にんげん金泰九」と出会ったことで、私の世界、夢が広がった。

Topics 2019.5.30

p190529_1p190529_2p190529_3p190529_4p190529_5p190529_6p190529_7p190529_8p190529_9p190529_10p190529_11thinknowlogo日本財団は、一人でも多くの人がハンセン病への理解を深め、偏見や差別について考える機会をつくるための運動「THINK NOW ハンセン病」を行っています。キャンペーンは、ハンセン病についての正しい理解を促進し、企画者・参加者が共に学びの機会を得られる活動であればロゴを使用するだけで、どなたでも参加できます。

今回は、盈進高等学校3年(当時)の後藤泉稀さんの活動をご紹介します。

盈進高等学校3年(当時) 後藤泉稀

1. こんにちは 金泰九さん / 映画ができる
私は、中学1年から岡山県の(ハンセン病)療養所・長島愛生園を中心にハンセン病問題を学び続けている。この問題は、私のいのちに生きる養分を補給する母胎だ。回復者とつながるほど、私の心は洗われていく。
金泰九さん。私は彼のいのちを受け継いでいる。中学1年の時、彼からの学びを作文にして法務大臣賞をいただいた。それをもとに、教育映画「こんにちは 金泰九さん~ハンセン病問題から学んだこと~」が完成。主演は金泰九さん、「助演女優」が私である。ありがたいことに、金さんの生前の貴重な映像は、全国各地の人権集会などで上映されている。
金さんは、「らい予防法」(予防法)の絶対隔離政策により、妻の死に目に会えなかった無念を胸に、「正しく知って正しく行動する」ことが、人権確立の軸となると訴え続けた。この教えは、私の行動指針となっている。

出会い
中学1年の初夏、先輩方に連れられ、愛生園の金さんの部屋を訪れた。金さんが「よく来たな〜」と温かく迎えてくださった。先輩方から聞いていた通り、「優しくて笑顔が素敵な人」だった。私はすぐに虜になった。
金さんは耳と目が不自由だった。自分の顔がよく見えるよう、金さんの顔の近くまで行き、声がよく聞こえるよう、耳元で大きな声で話をした。初対面の人と、そんな風に話をするのは初めてで緊張した。ハンセン病の後遺症で唇の筋力が弱っており、よだれが垂れてしまう回復者がたくさんいる。金さんもその1人だった。お話の途中、よだれが垂れた。すかさず、先輩がタオルでそれを拭った。その時、私は「自分には出来ない」と一歩引いてしまった。自分の内なる差別に向き合った瞬間だった。
頭では、差別はダメだと分かっていても、心が追いつかなかった。悔しくて仕方なかった。どうして先輩はとっさによだれを拭うことが出来たのだろうか。それは、何度も金さんのもとに通い、回復者と来園者ではなく、人と人という関係でつながっているからだと思った。自分の中の「嫌な自分」を何とかしたいと思って、私も金泰九さんのもとに繰り返し通った。

交流
金さんとの交流から、自分の弱さや醜さを見つめ、差別がどれだけ人を苦しめるか、差別の連鎖を絶つには市民連帯がどれだけ重要かなど、多くを学ばせていただいた。なかでも、私にとって最大の学びは、「苦しみを生き抜いてきた人こそ、誰にでも優しく接することができる」という“人間観の方程式”だ。金さんは、回復者であり、在日コリアンでもあるということで二重の差別を余儀なくされたが、人を恨んだり、憎んだりする人生を送らなかった。誰にでも優しく平等に受け容れる。これが金さんの生き方だった。「自分が幸せだと思う人は、人を貶めたり、憎んだりしない。そして、人を幸せにすることができる」。このことばに、金さんの人柄が映っている。「みんなが会いに来てくれるから幸せだよ」。金さんはいつもそう言ってくださった。その優しさや温かさに触れるたび、私たちはいつも幸せな気持ちになった。私も、自分の幸せに気付ける、そして、誰かをそっと幸せにできる人になりたいと思う。
今になってふと気になったことがある。そういえば、金さんはいつも補聴器をつけるのを避けていた。これにはどんな意味があったのだろう。機械を通した声ではなく、私たちの生の声を聞くことにこだわってくださっていたのだろうか。そう考えるととても嬉しい。やっぱり金さんは金さんだと感じる。
金さんの老いは急速に進んでいた。話しかけても、出会った頃のような返答が返ってこなくなった。私たちのことも認識されていたか分からない。でも私は、金さんと会えるだけで幸せだった。会うたびに私は金さんのことが大好きになっていった。

別れ
2016年11月19日、金さんは90年と1ヶ月の人生を閉じられた。突然、訪れた別れだった。今でも寂しい。そして会いたい。もっとお話したかった。もっとあの萎えた手を握りたかった。
お通夜に参加させてもらった。その日は、愛生園への道のりが、いつもとは違って重かった。「金さんと対面したら、こう言おう、ああ言おう」と思っていた。でも、いざとなると、言葉が出なかった。金さんの手に自分の手を伸ばし、繰り返し握った。もうこれが最期なのだと思うと涙が溢れて仕方なかった。

2.人間自身の手になるもの
2001年5月11日、「らい予防法」違憲国賠訴訟(国賠訴訟)における熊本地裁判決は、絶対隔離政策を規定した予防法を断罪した。原告勝訴後、問題の全面解決を目指して組織されたハンセン病市民学会教育部会には毎年参加した。同学会共同代表で、国賠訴訟西日本弁護団代表徳田靖之さんにも出会い、人間観や差別社会の洞察など、尊い学びを得てきた。
「ハンセン病はなくなることがあっても どのような別の“悲しき病”に  人間は見舞われるかもしれない だが “悲しき政策”はなくすことができなくてはならない それは  人間自身の手になるものであるからである」。長島愛生園の故・島田等さんのことばだ。国が作った差別。見抜けなかった私たち市民。作られた差別を作り直す連帯の輪に私も加わり、活動を続けると決意している。

3.人生被害
ハンセン病となった人たちは何を奪われたか。自由、平等、家族、古里、子どもを作る権利(断種、堕胎)、名前、健康、人格、希望、いのち。そして、「人生」という時間。熊本判決は、これを「人生被害」と表現した。
その家族も、大切な肉親を奪われ、拡大した差別・偏見から、その存在をひた隠しにすることを強いられた。明かせば、愛する者が去って行った。
全国のハンセン病療養所(国立13園、私立1園)では、入所者の高齢化と減少が進む。認知症などの身体の不自由さも増している。18年5月現在、入所者は計1333人(熊本判決当時は4375人)。平均年齢85.5歳である。時間がない。
医療・介護の体制維持は極めて切実な課題だ。例えば、日常の買い物のサポートから終末医療まで、入居者の暮らしといのちの問題が喫緊の課題として横たわっている。

4.私のいのちが問われている~終わっていない~
「妊娠7ヶ月で取り出された赤子を看護婦が別室に…後にホルマリン標本の我が子を見ました」。鹿児島県の星塚敬愛園に暮らした故・玉城シゲさんの証言だ。許せない。
国賠訴訟原告副団長の志村康さんは、熊本県の菊池恵楓園で私に語った。「人権とはいのち。それは母胎に宿ったときから成立する」。
国は、ハンセン病は「恐ろしい伝染病」と宣伝。予防法は、「無らい県運動」と相まって機能した。県が競って患者を地域からあぶり出す官民一体のこの措置のもと、強制収容が市民の密告によって徹底された。国の責任は明確だ。だが、それだけか。国に加担し、患者や家族を地域から直接、排除したのは、紛れもなく私たち市民だった。
療養所では、結婚の条件として、男性には断種、女性には堕胎を強いた。「国辱」たる患者の撲滅政策だった。国家による人権侵害、殺人である。
徳田弁護士は、なぜ療養所で断種や堕胎が継続したかをこう説明する。「私は救う側、患者は『かわいそう』で救われる側という固定観念にこそ差別性が潜む。救う意識が強いほど、その人のために、よかれと思ってやっている自分が正しいと思い込んでいる。特に、絶対隔離政策という大きな枠内では、立場の逆転はなく、重大な過ちが見過ごされていた」。
見過ごしたのは誰か。玉城さんへの強制堕胎。させたのは狂気か。いや、異常が通常だった。普通の看護師が普通にやったのだ。であるなら、看護師は私だったかもしれない。
あなたに起きることは私にも起きる。どんな人も平等。そして対等。この問題は、私たち市民のいのちを問うている。ハンセン病問題は終わっていない。

5.人間回復の橋
金泰九さんが暮らした長島愛生園。長島にはもう一つ、邑久光明園という療養所がある。2018年5月9日、長島に隔離の必要のない証としての「人間回復の橋」が架かって30年を迎えた。この橋は、長島2園の入所者が17年間の闘いの末、自らの自由と平等のために、国から勝ち取ったものだ。
その日、私は金さんの遺影と、この日を契機に仲間と作成した「手と手から~わたしたちの長島愛生園ガイドマップ」を手に、橋に立った。「マップ」は小中学生を対象とし、園内に残る歴史的施設の絵に、易しい言葉で説明を添えた。
その日、地元テレビ局が特集番組に、私を生出演させてくれた。30年前、(すなわち人間回復の橋架橋の時)入所者は歓喜にわいた。私には、金さんの声も混じって、その声が聞こえてきた。
元長島愛生園自治会長の石田雅男さんが、こんな話をしてくださった。「『人間回復の橋』は、私たちの期待に応えて長島に来てくれた。多くの人が、この橋を渡って長島を訪れる。だから、私たち入所者が人間としてどう生きるか、それが問われる。橋は私たちを裏切らなかった。だから、私たちも橋を裏切ってはいけない」。
「人間回復の橋」は、私たち市民が、「人としてどう生きるか」「どんな社会をつくるか」を問うている。

6.夢~「いのちの証」を~
私には夢がある。「全国の療養所の納骨堂に眠るお骨16650柱を家族と古里に帰す。骨壺の偽名を本名に戻し、その法名を永遠に刻銘する」という夢だ。これは、すべてのハンセン病回復者とご家族の願いだ、と私は考えている。家族、古里、名前は「いのちの証」だ。
故・谺雄二さん。群馬県の栗生楽泉園に暮らした回復者。詩人であり、人権闘争のリーダーだった。国賠訴訟の原告団長を務め、精神的・理論的支柱を担った。私は彼の「いのちの文学」に触れ、震えた。「人権とは侵しても侵されてもならぬもの/きっとたたかいとる/いかに生きたか/人間の尊厳そのいのちの証」(「いのちの証」『死ぬふりだけでやめとけや』谺雄二詩文集)。私の夢は、沖縄の「平和の礎」を見た彼が描いた夢と同じだ。夢は、私が引き継ぐと決めた。
夢の達成は困難を極めるだろう。私に何ができるんだ。そう思い、迷った日もあった。でも今、私は真正面から自分と向き合い、すべての人の人権が大切にされ、「共に生きる」平和な世界をつくるために努力すると決意する。
私は、まだはっきりお話できる金さんと出会い、老いていく姿を見て、別れを経験し、伝えるという使命までいただいた。これは奇跡でしかない。これからも私は出会合った人と手と手から、人と人としてつながり続ける。夢を追う私を、金泰九さんはいつも見守ってくださると信じている。

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日本財団「THINK NOW ハンセン病」 キャンペーン
監修:日本財団 特別事業運営チーム 日高将博
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