ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

世界のハンセン病療養所

ウズアコリ療養所(当時はセツルメントとよばれていた)は、1931年、英領ナイジェリア植民地政府の意向を受けた英国メソジスト教会がキニア・ブラウン医師を派遣して東部オウェリ州のハンセン病対策を始めたのがその出発点であった。ウズアコリの街の中心から5キロほど離れたところに、水に恵まれ、建築資材となる木材など自給自足の集落形成に欠かせない条件に恵まれた肥沃な土地を入手して、翌1932年ウズアコリ療養所の歴史が始まった。

当時、世界で最もハンセン病蔓延率が高いと言われていたオウェリ州に、ハンセン病に特化した療養所ができたことで地域の人々の治療への期待が高まり、それまで隠れ住んでいた患者たちが治療を求めて押し寄せる結果となった。

1936年から2代目の所長として20年余り務めたフランク・デイヴィ医師の時代、ウズアコリ療養所は大きく発展した。着任当時、療養所の敷地内には800人の患者が集落を作り、農業をはじめいろいろな作業で自立生活を送っていた。その数は2年後には1000人を数えたが、その5倍以上もの入所希望患者を断らざるを得ない状況であった。

ウズアコリ療養所だけでは対応しきれない患者の要請に応えるため、オウェリ州内の部族ごとの居住地にサテライト(衛星)患者村をつくり、それぞれの村に診療所を設けて治療する方式をとった。つまり患者たちは自分の部族の居住地の中に自発的隔離村を作って居住する形であった。1939年の時点でウズアコリ療養所の周辺には8カ所の診療所があり、毎週3000人が大風子油の治療を受け、年間延べ20万人にのぼった。1940年代には新たに11か所の診療所を加え、毎週11000人以上の患者が治療をうけるまでになった。

開設当初から唯一の治療は大風子油(皮下及び皮内注射)であり、一定の成果を上げてはきたが、1940年代サルフォン剤による治療が導入されたことにより、ウズアコリ療養所はハンセン病の治療に大きな足跡を残すことになった。

1944年、BELRA(大英帝国ハンセン病協会)から派遣されたジョン・ロウ医師のもとウズアコリ療養所にハンセン病研究センターが開設され、デイヴィ所長とともにサルフォン剤DDSの経口投与による治療が開始された。すでに療養所周辺の患者集落と診療所のネットワークが形成されていたウズアコリでは、DDSの経口投与による大規模な外来治療の展開が可能であった。1950年、ウズアコリ療養所には5000人近い患者と家族が定着し、周辺地域には2万人近い住民がサテライト患者村に住んでいた。研究センターでは疫学的調査の他に薬剤効果の測定、副作用、耐性等各種の臨床研究とデータの収集が行われ、その結果は世界のハンセン病の研究と治療の場で発表され国際的に注目された。

1959年フランク・デイヴィ医師の後任としてスタンレー・G・ブラウン医師がナイジェリア政府の招きで着任した。その当時ウズアコリ療養所の管轄下には111か所の診療所があった。ここでブラウン博士が手掛けたのは複数の新薬の有効性の治験であった。なかでもB663(クロファジミン)のハンセン病治療への試用は世界初であり、B663とDDSの併用も世界初であった。これは後にWHOが推奨することになったMDT・多剤併用療法(第3番目の薬としてリファンピシンを加えた)につながる重要な成果であった。ウズアコリ研究センターの試みは、診療所のネットワークを基礎に、ハンセン病治療を通常の保健医療サービスの一環として行うという点で、その後の世界のハンセン病対策につながる研究成果を残した。

ウズアコリ ハンセン病療養所

http://leprosyhistory.org/geographical_region/site/uzuakoli

ナイジェリア
設立年
1871年
http://www.nhcp.org.uk/projects.php#uzuakoli3
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  • 1400年代から

    ヨーロッパとの交易が始まり、ナイジェリア南部大西洋沿岸は「奴隷海岸」とよばれた。

  • 1807年

    大英帝国が奴隷貿易を禁止。1861年に大英帝国による植民地化がはじまる。

  • 1914年

    英領ナイジェリア共和国成立。

  • 1928年

    国際連盟による世界のハンセン病蔓延状況調査実施。アーネスト・ミュア(Ernest Muir)他がナイジェリアのハンセン病蔓延状況を調査。

  • 1928年

    東部ナイジェリア最初のハンセン病施設が、スコットランド宣教会(長老派教会)により、クロスリバー州のイトゥに開設された。

  • 1932年

    ウズアコリ療養所(セツルメント)がメソジスト宣教会と地元のオウェリ州当局との共同企画で開設された。

  • 1936年

    フランク・デイヴィー医師が所長として着任。

  • 1945年

    ウズアコリ療養所の研究所を政府に移管。医療は政府管轄となる。

  • 1948年

    DDS経口投与による治療開始。

  • 1959年

    スタンレー・ブラウン医師が、フランク・デイヴィ医師の後任として着任。B663(クロファジミン)治験開始。

  • 1960年

    ナイジェリア独立(「アフリカの年」)。北部・西部・東部州の連邦国家として独立。

  • 1967-1970年

    ビアフラ戦争(東部州がビアフラ共和国として分離独立を宣言)。ウズアコリ療養所も戦闘地となり、戦火を避けて住民は森に逃げ、餓死に直面した。

  • 1989年

    ナイジェリア政府保健省による結核・ハンセン病対策開始。

  • 1991年-2012年

    政府保健省のハンセン病対策で111,788人の患者がMDT治療を受けた。

  • 1992年

    英国メソジスト派NGO NHCP(Nigeria Health Care Project ナイジェリア保健プロジェクト)が発足。

  • 2000年

    ナイジェリア国はハンセン病制圧基準(人口一万あたり患者一人未満)達成を発表。

ウズアコリのモデル フリー・チャーチ・ハンセン病コロニー

アフリカ大陸最大の人口(1.8億)を抱えるナイジェリア連邦共和国。近年ハンセン病は年間約3000人前後の新患者数で推移し、公衆衛生上の重要な問題ではなくなってはいるが、かつては患者数の多さとともにその悲惨な状況も数多く報告されており、英国のキリスト教宣教会と植民地政府にとって放置できない問題であった。

同国のハンセン病状況を調査したBELRA(大英帝国救らい協会)の事務局長であったE.ミュアーは、ナイジェリアの患者数を少なくとも20万人と推定(1936年)。当時の推定人口が1900万人であったということを考えると、患者の比率は極めて高い。地域によっては住民500人中100人が患者であったという現地の報告もある。

1920年代からキリスト教宣教会及びBELRA(大英帝国救らい協会)による対策がはじまったが、いずれも強制的な隔離では患者が隠れてしまい、結果的には病状が悪化するという認識を共有していた。大風子油が唯一の治療で感染予防には隔離の他に有効手段がなかった時代であったが、隔離は患者を収容し閉じ込めるのではなく、家族や一般住民から切り離し、患者たちだけの集落を作り、そこで自立生活をめざすというセツルメント型の治療・療養形態が編み出されていった。

ナイジェリアにおける最初のハンセン病施設は、スコットランド・ミッションが1928年に南東部のイトゥ(イボ州アクア)に開いたフリー・チャーチ・ハンセン病コロニーで、後のウズアコリのモデルともなった。

『世界のハンセン病現代史』(トニー・グールド著)には、イトゥのラムゼー医師などによる、次のような記録が紹介されている。

全ての患者は、自主的な入居者だ。彼らの行動に何の制限もなく、みんな自由に出て行ったり戻ってきたりできる。患者数は3500人。ベッド数80床の病院には100床の別館が追加された。乳児院、学校、教会、作業場、裁判所、市場、農地農園、外国人職員の住宅もあった。あまりは遠くないところにタウンと呼ばれる集落が5つ、運河と道路網でつながっていた。働けるものはみな働く。金銭のためばかりでなく、医療上、精神上、社会上の理由でも働くことが奨励された。作業は自尊心を高め、筋肉を鍛え、仲間意識をはぐくみ、共同体全体の福利に貢献するので治療上有効とみなされた。川や運河で釣りをしたり、合唱団で歌い、ブラスバンドで演奏した。患者自身がコロニーの治安管理に当たった。アフリカのどこにでもある共同体と同じように。

キニア・ブラウン医師による報

1932年にウズアコリ・コロニーの歴史を拓いたキニア・ブラウン医師の報告には、次のような記述がある。

ここには渓流を挟んで両側に集落がある。片側は男性の集落、もう片方は女性用。尾根の先には本部の建物がある。成人のための夜学も始めた。読めるようになった人には聖書が贈られる。まず初めに患者たちに住まいを与えて、それぞれが自分の住まいをきれいにするようにした。当初は抵抗もあったが、次第にお互いに競争心も湧き、自分の庭先を手入れする人も出てきた。非感染児童用の宿舎もできた。発電機を設置し、教会堂を建て、畑・飼育場・農園、果樹園をつくり、ウズアコリ新聞を発行し、いろんな調査研究も手掛け、成果発表などもおこなった。

ウズアコリを物語るひとびと

イコリ・ハーコート・ホワイト Ikoli Harcourt Whyte(1905-1977)

写真中央

作曲家、教師、思想家 
南部、ポートハーコートに近い街に生まれ14才でハンセン病と診断され、ポートハーコート病院に入院。その後ウズアコリ療養所に移り住み、生涯をそこで終えた。 療養所の単調な生活の中で聖書に出会い、賛美歌を知り、教会の聖歌隊に加わり、後に聖歌隊の指揮者になった。その傍ら美しいハーモニーの賛美歌を現地語で制作した。生涯で200曲以上の讃美歌を作詞作曲することを通して、病むことの苦しみを、心に響くメロディと詩に昇華させた。土地の言葉で書かれた愛と慰めにあふれた賛美歌の数々は今日も歌い続けられており、YouTubeでも聞くことができる

ウズアコリで78年過ごした女性が歌っている。
この女性は、ハーコート・ホワイトの聖歌隊で歌っていたと紹介されている。

フランク・デイヴィー Frank Davey(1908-1983)

英国メソジスト宣教会医師
1936年ウズアコリ・セツルメント(療養所)に着任し、1959年まで所長を務めた。一大隔離収容施設という方式をとらず、部族単位にその部族の患者の隔離村をつくるという療養形態を作り上げた。 1939年から1944年の報告書には次のような言葉が見える。
「今年は驚くべき年だった。治療を受ける患者の数は2倍以上になり、この療養所のやり方が極めて大きな影響力を持つと云うことが明らかになり始めた。ウズアコリ療養所はもはや大規模隔離の療養所ではなくなった。療養所は、ちょうど車輪の中心軸のようにハブの役割を果たし、ここからあらゆる方向に放射状に仕事が展開していく」(1939年報告書)
「1942年は更なる拡大の年であった。新たに15カ所の診療所がオープンし、定期的な治療が44センターで行われ、11,000人以上の患者が治療を受けている。大風子油の不足という事態があったが、薬の量を減らして節約するのではなく、症状がなくなった患者、合計172人を解除して対応した」(1943年報告書)
「州全体のハンセン病対策を考えるとき、第一の原則は、問題の地方化である。ハンセン病の問題をそれぞれの部族の問題と位置付ける。部族というのは自然に組織された社会単位であり、自らの家族に関わる問題であれば自発的に支援をする。しかしそこに他部族出身者が混じることには強い抵抗を示す。だから部族単位でハンセン病対策を考える。部族外の人間は厳しく排除する一方で、部族内の家族の問題には全面的な協力を要請する」(1944年報告書)

デイヴィはまた、ウズアコリ療養所に学校を作り、教会を建て、母親を失った新生児の保育施設や非感染児童の施設を作った。療養所を当初のコロニーという名称から、より普通の村のコンセプトに近いセツルメントという名称に変更したのもデイヴィであった。

デイヴィの時代に、ウズアコリ研究所はDDSの経口投与を診療所のネットワークを通して実施し、大きな成果をあげたほか、各種条件下のDDSの治療効果の測定、DDSに替わりうる治療薬ESTIPの治験などにも取り組んだ。個人的に蝶の採集でも知られるほか、テニスをし、ピアノを弾き、ハーコート・ホワイトを中心とした聖歌隊を作り、聖歌隊が他県で演奏会を開くなどの企画をすすめた。
このほか現地語(イボ語)を習得してイボ語による祈祷書と賛美歌を制作した。英国に帰国後、ビアフラ戦争で破壊された教会の再建のために募金活動を行い、教会を再建させた。

1959年帰国後はメソジスト医療宣教会の中心的医師として、アジア、アフリカのハンセン病治療の向上に努力した。中でも1968年から5年間、南インドのヴィクトリア病院に赴任、同病院の再建に力を尽くしたことでも知られている。

スタンレー・ブラウン Stanley G. Browne (1907-1986)

前列左から二人目

英国バプティスト宣教会医師
1936年から1958年まで、ベルギー領コンゴのヤクスで熱帯寄生虫症(河川盲目症ふくむ)やハンセン病対策に取り組んだ。ヤクス郊外のヤリソンボ療養所を拠点として、大風子油からサルフォン剤への移行期に、広く地域住民を対象にしたハンセン病診断・治療活動で成果をあげた。
1959年、ナイジェリア政府の招へいでウズアコリ療養所の第3代所長に就任し、1965年の退任までに、DDSに代わりうる新薬、とくにB663(クロファジミン)のハンセン病への効果の証明で成果を上げた。クロファジミンは1981年にWHOが推奨したMDT複合化学療法の中の一薬として今日も使用されている。
英国に帰国後も世界の各地のハンセン病対策の指導、国際ハンセン病学会の事務局長などを歴任。1980年に出版されたフィリス・トンプソンによる伝記「ミスター・レプロシー」に倣ってミスター・レプロシーと呼ばれている。晩年には笹川記念保健協力財団の顧問としてアジアのハンセン病対策に貢献した。

ウズアコリの今とこれから

ハンセン病は在宅、外来治療が基本となり、ウズアコリ療養所の敷地はナイジェリアのメソジスト教会に返還され、あたらしく一般病院に改装された。患者が故郷を離れてウズアコリに住む必要がなくなった今日、残された問題の一つは、かつて故郷を離れて隔離のための集落に定住した人々の「復帰」の問題であった。故郷には戻れるのか、または新しい土地で生活を立て直す道を探ることは可能なのか、人々は選択をせまられた。さらに最後に残る課題は高齢で障がいを持ち、もはや帰るべき故郷を持たない人々の今後である。

1992年に設立されたメソジスト教会を中心とするNGO、NHCP(ナイジェリア・ヘルスケア・プロジェクト)のナイジェリアと英国双方のグループとドイツ救らい協会が、この問題に取り組んだ。新たに生計を立てる人々ための技能習得の機会を提供するほか、故郷の村などへの定着も支援している(インテグレーションプロジェクト)。自立も不可能で終生の保護を必要とする20人弱の人々については、NHCPの努力で新しい住居の建設と水道設備の改善が図られ、生活保障の目途もたった。ウズアコリ療養所の最後の姿が見えてきた。残された課題はハンセン病とウズアコリの90年に近い歴史、地域社会と病者と医師たちの記憶と記録は誰がどのように保存するのだろうか。療養所と現地に生きた人々の日々の営みの記録は、ウズアコリ療養所のかつての病院の古い建物の一室に無造作に放置され朽ち果てつつあるという報告もある。

ナイジェリアのハンセン病

2000年にハンセン病の制圧宣言(人口1万人あたりの登録患者数1人未満)をしたナイジェリアでは、新患は年間3000人前後で推移しており、もはや保健対策上の重要な疾患ではなくなっている。しかしながら、新しくハンセン病と診断される患者の12%は発見の遅れからすでに障がいを伴っており、しかも新患の10%が15才未満であると報告されている。子どもが依然として発症しており、診断が早期にできていないという現状は、ハンセン病対策はこのまま放置されてはならないというシグナルであるが、政府の関心はより患者数が多く致死率も高い疾患に集まり、ハンセン病は予算的にも人材的にも後回しになる。ナイジェリアはまさにその状況に直面しており、ハンセン病対策部門では新しく問題視されつつある熱帯感染症対策と組み合わせてハンセン病の早期発見を強化する努力も模索されている。