ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

世界のハンセン病療養所

庭園都市型の新しい療養所モデルから、歴史保存の新モデル「公園遺跡構想」へ

スンゲイブロー療養所の構想は、1922年に植民地政府医務官として着任した英国人医師トラバース(EAO Travers)の提案に始まった。監獄同様の過密なセタパク療養所(アヘン吸引、アルコ-ル密造、貨幣・紙幣の偽造など犯罪の温床と化していた)から、壁も鉄条網もない、人間的な環境と自主独立の地域共同体への転換がトラバースの構想する新しい「庭園都市型療養所」であった。

新たな療養所建設の地として首都クアラルンプールの西北25キロ、562エーカー(約70万坪)の緑ゆたかな土地が選ばれ、初代の所長となったゴードン・ライリー医師を中心に建設計画が進む。1928年には西部地区(管理棟、不自由者病棟)と東部地区(一般患者居住棟)が完成して入所が始まり、1930年8月15日、「海峡植民地らい患者定着村(セツルメント)」として正式にオープンした。

既存の施設からの転入が相次いだこともあり入所者は増え続け、当初の900人から1942年1月の日本軍の占領時には戦前のピーク2400人に達していた。しかし占領中の食糧難や脱走、帰郷のため、終戦直後の1945年9月には640人まで減少。戦後再び増加に転じ、1953年には最大の2440人となった。

1948年に開始されたサルフォン剤による治療の効果は大きく、1969年、政府はハンセン病対策の基本を外来治療に転換、隔離の時代は終わった。スンゲイブロー療養所の名称も国立ハンセン病対策センター(NLCC)となった。1969年時点で2410人であった入所者数は年々減少し、1978年には1619人、2004年には342人(中国系300、マレー系33、インド系9)、そして2017年5月現在126人となった。

スンゲイブロー ハンセン病療養所

http://leprosyhistory.org/geographical_region/site/sungai-buloh

マレーシア
設立年
1930年
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庭園都市スンゲイブロー療養所(東部地区)。空中撮影1930年(写真提供 Joyce Wong)

スンゲイブロー療養所のあゆみ

  • 1786年―1874年

    初期英領時代。貧民病院が建立され、収容された浮浪患者のなかにハンセン病患者も含まれていた。

  • 1824年

    英領マラッカ誕生。

  • 1828年代

    ペナン島の浮浪ハンセン病患者をジャレジャック島に隔離する政府提案。

  • 1849年

    シンガポール島のタントックセン病院にハンセン患者収容。

  • 1860年

    マラッカ沖のセリンブン島がハンセン病患者隔離島とされた。1862年21人が隔離されていた。

  • 1867年

    英領海峡植民地成立。(Straits Settlements)

  • 1871年

    ペナン島沖のジャレジャック島に療養所が正式開所。ここに海峡植民地の全患者を収容するという案もあったが、強制隔離を認める法律がないため実施されなかった。その間、シンガポール、ジョホールには刑務所や精神病院に付随した病棟にハンセン病患者が収容されていく実態があった。

  • 1892年

    クアラルンプールらい患者救護所(通称セタパク・キャンプ)開設。トラバース医師が責任者として着任(1897年まで)、環境を改善していった。

  • 1897年

    「らい患者法令 Lepers Ordinance」成立。浮浪患者の収容が基本。

  • 1903年

    パンコール ラウト島救護所(パンコール州)開設。

  • 1919年

    ジョホール救護所(ジョホール州)開設。

  • 1922年―1927年

    一旦英国に戻っていたトラバース医師が、クアラフンプール救護所の責任者として帰任。荒廃していた施設の管理を立て直した。

  • 1926年

    「らい患者条例 Lepers Enactment」成立。(療養所内に監禁所設置を認可)
    海峡植民地(シンガポール含む)全体のハンセン病登録患者数は930。

  • 1927年

    タンポイ療養所(ジョホールバル ジョホール州)開設。川沿いに独立家屋と病棟をブロックごとに配置し、中央調理室や農地も備えた療養所計画であった。ただし医療、教育などの配慮は十分ではなかった。

  • 1930年

    スンゲイブロー療養所開設。各地の療養所から患者が移転した。

  • 1933年

    タンパ救護所(クラタン州)開設。第二次大戦で離散、閉鎖。

  • 1935年

    スンゲイブロー療養所の所内通貨(紙幣)発行。しかし1938年に廃止。流通していた紙幣にらい菌が認められなかったため、不要と判断された。

  • 1946年

    患者評議会(Patients’ Council) 結成。

  • 1948年

    サルフォン剤による治療開始。

  • 1953年

    入所者数2440人。最高をマーク。(1969年2410人)

  • 1959年

    入所者の活動拠点「コミュニティ・ホール」完成。当時の入所者リーダー(Joshua Rhagavar)氏の努力で、外部から資金調達。
    マレーシア救らい協会(MaLRA)設立。

  • 1965年

    正式名称スンゲイブロー療養所となる。

  • 1969年

    ジャレジャック島療養所閉鎖 最後の315人がスンゲイブローに移転。
    診断即収容の隔離政策は廃止(Auto admission abolished)。外来治療開始。
    正式名称、国立ハンセン病対策センター(NLCC)となる。

  • 1975年

    スンゲイブロー療養所内の学校が閉鎖された。外来治療が主流となり、児童患者が減少したため。

  • 1976年

    スンゲイブローの研究室。世界初の耐性菌による感染発症事例をマウスの足踵接種により確認した。

  • 1988年

    多剤併用化学療法(MDT)完全実施。

  • 1991年

    A. Joshua-Raghavar著 「Leprosy in Malaysia Past, Present and Future」発行。

  • 2005年

    スンゲイブロー療養所の隣接地に、620床の国立スンゲイブロー総合病院がオープン。

  • 2007年

    政府のスンゲイブロー療養所縮小計画が公表され、入所者評議会と市民団体、研究者等による「希望の谷」保存運動が起きた。結果的に25%の建物は取り壊され療養所は縮小されたが、歴史保存地区の認定を受けた結果、大規模破壊はまぬかれた。

  • 2011年

    第二世代による、「スンゲイブロー(第一世代に)感謝の会」開催。

  • 2015年

    スンゲイブロー療養所85周年記念式典(病院当局と入所者評議会共催)と病院当局の企画による博物館が公開された。

  • 2016年

    入所者評議会と支援者による「ストーリー博物館・あなたが英雄」企画とクラウドファンディングによる募金活動。必要資金の調達にほぼ成功。

  • 2017年

    「コミュニティホール」の改築と、ストーリー博物館の建設が進んでいる。入所者数126人。(2017年5月)

※参考:1925年、サラワク州/西マレーシアに、ラジャ・チャールス・ブルック(ハンセン病)病院開設。サラワク州は、1946年までラジャの称号をもつブルック氏(英国人)が統治する藩王国で、英領海峡植民地ではなかった。

スンゲイブロー療養所開設の背景―マレー半島のハンセン病政策

マレー半島のハンセン病の記録は、16世紀ポルトガルによるマラッカ占領の時期にさかのぼるとされている。しかし保健問題として認識され始めたのは、19世紀にペナン、マラッカ、シンガポールを対象とする英領の海峡植民地が成立し、中国やインドから大量の移民労働者が流入したことによる。流入する労働者の多くは貧しく衛生状態も悪く、到着した街々で浮浪者・物乞いがあふれた。東西通商のルートであるマラッカ海峡を通る船の中には、病気の労働者や浮浪者を集めてシンガポールに「不法投棄」するという事態もあった。

マレー半島のハンセン病対策は、浮浪貧民患者の取り締まりという警察業務の対象であったため拘束期間にも限度(1ヵ月)があり、長期に収容することは出来なかった。路上にたむろする浮浪患者の中にハンセン病患者も含まれていたことから、住民の不満がつのり、当局は既存の浮浪者取り締まり法を適用しつつ、ハンセン病患者を「隔離島」に収容するという方策を生みだす。その結果、マラッカから7キロ沖のセリンボン島(1860年)とペナン島に隣接するジャレジャック島(1871年)が隔離のための島とされ、これに続いて同様の目的で次々に隔離島・施設が生まれていった。

1850年代以降、浮浪者・患者投棄禁止令、検疫法、警察条例、疾病予防法などでハンセン病患者の隔離などを行ってきたが、患者の増加と社会の批判の高まりを受けて、1897年、らい患者を特定した「らい患者法令」が制定された。これに先立つ1873年にはノルウェイのハンセンによるらい菌の発見があり、ハンセン病が感染症であることが確認されていた。らい患者法令制定の3ヵ月後にベルリンで開かれた第一回国際らい会議が隔離を唯一の有効な予防手段であるとしたため、同法令による厳しい隔離対策が肯定される結果となった。

「らい患者法令」は当初浮浪患者のみを収容の対象としたが、その後の改定により食品を扱う職種、散髪、仕立て、使用人、看護、車引きなどを含め他人との接触があると思われる職業への従事を禁じ、次第に収容対象を拡大していった。1926年の改定では警察官の権限が拡張され、一般からの通報が信頼できるものと判断された場合には、令状なしで対象者を療養所に送る権限が与えられた。

初代所長のライリー医師とその夫人の送別行事。1935年8月13日。制服の学生たちが前列に、その後ろはライリー夫妻をはさんで入所者たち、最後列は入所者の守衛と警官たちが並んだ。(「The Valley of Hope 希望の谷」より)

スンゲイブロー療養所の暮らしと治療

スンゲイブロー療養所は、開所からまもなく各地の療養所からの転院患者で手狭になったため、中央の丘陵地帯と東部地区に居住棟を建設した。さらに入所者の生計自立につながるゴム林や椰子林、果樹園、養鶏場、木材・金属加工作業場などを整備していった。なかでも特徴的なのは「シャレー」とよばれた「洋風」の戸建ての軽症者住居(長屋形式含む)であった。不自由者棟がベッドのならぶ病棟様式であるのに対し、シャレーは比較的軽症の単身者グループ(2人~6人)用と夫婦を対象とした住宅で、広い園内の中央部にブロックに分かれて整然と並んでいた。ブロックごとに水洗トイレがあり、シャワーは共用、電気も短時間ながら供給されており、療養所全体に下水道、汚水浄化槽、排水処理場、焼却炉も整備され、英領植民地の中で最も近代的なハンセン病療養所といわれる施設であった。

病棟入所者の食事は調理して供与されていたが、シャレーの居住者はそれぞれが調理することになっていて、食材は毎朝、炊事用の燃料は毎週ブロック毎に配布され、食材の調達、配布もすべて入所者チームの手によって運営されていた。イスラム教徒用の特別調理室も整備されていた。

療養所の運営は、療養所長(医師)に次ぐ地位の総監督も警備主任も入所者が務め、看護、医療補助、所内事務、整備、清掃など、療養所の運営に必要な作業はほとんどすべて入所者が担当した。多い時には600名近い人々が早朝7時から作業につき、それぞれ業務に合わせて少額の手当てが支給されていた。

治療は当初大風子油の皮内注射であった。患者たちは所内にある大風子の実から種を取り出して直接食べることもあった。1948年にサルフォン剤ダプソンが導入されると療養所の状況は大きく変わっていった。1950年代には手足の後遺症に対する形成外科手術も盛んにおこなわれ、リハビリテーションも重視された。療養所内での実際の医療や患者の介護には訓練を受けた入所者もかかわり、それぞれの業務に応じて若干の給与が支給されていた。中には資格試験に合格して正規の医療補助職に就くものもあった。菌検査の結果、一定期間「無菌」となった患者には積極的に社会復帰が奨励された。

とはいえ、退所に際して支給されたのは郷里や職場に戻るための交通費とハンセン病の治癒証明書だけであったため、職場復帰が可能な幸運な人は別として、子ども時代から療養所以外の生活を知らない人々にとっては、療養所に残る以外の選択肢はないのが現実であった。

シャレ―とよばれる戸建て住宅(一棟2家族用)(写真提供 Lim Yong Long)

食料品、日用品等の配布のためのホール(写真提供 Eannee Tan)

列をつくる患者たちに薬を飲ませる医療助手。1930年代(「The Valley of Hope 希望の谷」より)

スンゲイブロー療養所の子どもたち

スンゲイブローには1930年の開設当初から児童患者のための学校があった。モデル療養所構想の生みの親であったトラバース医師の名前をとってトラバース・スクールと名付けられていて、小・中・高の過程があり、子どもたちは全国基準の中学・高校卒業の資格に挑戦するほか、縫製、溶接、木工、飼育などの生活技能を習得して将来の自立に備えた。

子どもたちは性別、年齢別の寄宿舎(24人用が10棟)で患者の寮父・寮母のもとで生活習慣を身に着けていった。1950年には在学生の数は200人を超えていたが、1969年の隔離廃止により子どもの数は少なくなり、1975年には学校は閉鎖された。療養所内の学校で学んだ子どもたちの多くが社会復帰したが、成長の一時期をスンゲイブローで共有したという繋がり意識は強く、年一回の同窓会には遠くカナダから参加する人もいる。「スンゲイブローにいた過去を隠している仲間もいる。夫婦の間でも秘密にしている人もいるのも事実なんだ」というフィリップ・ヨン氏(トラバース・スクール卒業生で現在入所者評議会副書記)の言葉も現実であることは忘れてはならない。

患者である子どもたちとは別に、患者である両親から療養所内で生まれた子どもたちがいた。乳幼児期に長期にわたって患者と接する環境では感染の可能性があるとされていたため、療養所内での男女の関係は開設時から厳しく禁じられ、違反者には罰則として監禁や労働が課せられていた。初代所長のゴードン・ライリーは1932年の文書のなかで「そのほかの選択肢としては男性患者の断種があるが、これもまた非現実的だ」と記している。

しかし現実的には規則や罰則で男女の分離を貫徹することは不可能であった。当局は療養所生活の安定のために、次第に結婚を容認するようになり、夫婦にシャレーでの生活を認めるようになっていった。その結果1945年から1982年の間に1147人の子どもが療養所の中で生まれている。

療養所の病院には分娩室があり、新生児は母親の腕に抱かれることもないままに、所内の東の端にあったベビーホームに移された。子どもへの感染を防ぐためとされていた。生後6か月が経つと子どもの行き先を決めなくてはならなかったが、家族や親せきに預けられない場合は、乳児院を経て養子縁組を受け入れるほかに道はなかった。1980年代に入ると、治療を完了している親からの感染の恐れはないという判断で、子どもは療養所の中で両親と生活を共にする道が開けたが、その間多くの子どもたちが出自を隠して養子として育てられた。中にはオーストラリア、ニュージーランドなど海を越えた養子縁組もあった。近年、成人した子どもたちの自らのルーツを知りたいという動きと、高齢になった生みの親たちの一目成人した娘・息子の姿を見たいという願いを受けて、抹消された絆の復元という困難な作業がボランティアたちの手で模索されている。すでに親子ばかりでなく、数組の兄弟・姉妹の確認に至った例がうまれている。

子どもの患者と所内で患者の両親から生まれた子供たちの他に、第3のグループの子どもたちがいた。子どもを養子に出すことを良しとせず、自分の手で育てる道を選んだ夫婦は、療養所から脱走して近くの民有地の農場の長屋に転がり込む。農場にある二棟の長屋には小さな部屋が19あり、療養所から出てきた家族が肩を寄せ合って住んでいて、療養所に残る人々とも密接な関係を保ちながら、お互いに助け合って生きる独特の社会ができていた。そこから村の公立学校に通学することになる我が子に、まず親が教えることは「絶対にスンゲイブローのことは口にしない」という鉄則であった。子どもたちはその教えを守って卒業し、過去を伏せたまま社会に出ていった。しかし両親や入所者たちの苦難をまぢかに見て育ったこのグループから、スンゲイブローを記録しよう、生き抜いた両親や入所者たちを隠れた存在として歴史を終わらせたくない、という動きが生まれ、記録集「Valley of Hope」(2006年英・中)の出版や一般公開の「スンゲイブロー感謝の会」が行われたことは特筆すべきであろう。

女子寮に生活した女の子たちと世話係の女性。1940年代(「The Valley of Hope 希望の谷」より)

トラバース・スクールの中学生たち。1967年(「The Valley of Hope 希望の谷」より)

トラバース・スクール。1930年代(「The Valley of Hope 希望の谷」より)

ベビーホームのシスターに手渡される新生児(「The Valley of Hope 希望の谷」より)

親子を隔てるガラス窓

研究棟

スンゲイブロー療養所はハンセン病研究の分野でも大きな足跡を残している。敷地内には実験動物舎を併設した研究棟があり、初期には大風子油の代替治療の研究を、1951年からはロンドンの英国医学研究所と連携してDDS(サルフォン剤ダプソン)をはじめとする治らい薬の臨床研究が1981年まで続いた。この間1964/65年、リース博士(Dr. RJW Rees) の時代にスンゲイブロー入所者の中から3名のDDS耐性症例が発見されて世界に警鐘をならした。ついでウォータース博士(Dr. MFW Waters)が研究室長であった1976年、世界で最初のDDS耐性菌による感染・発症の事例がマウスの足蹠接種で確認された。これは30年近く続いたDDS単一治療へ深刻な問題提起であり、DDS単一療法に替わる処方の開発が急務であることを全世界が認識するきっかけとなった。

実験動物装置のある研究棟でスタッフたちと。
前列左から3人目リース博士、4人目ウオータース博士。1972年
(「The Valley of Hope 希望の谷」より)

監禁棟

1926年制定の「Lepers Enactment らい患者条例」は、療養所長に規則違反を犯した入所者を処罰する権限を与えた。規則違反の例としては、逃亡、暴力・騒擾、アルコールの密造・販売などがあり、処罰としては罰金10ドルまたは14日以内の監禁であった。療養所長は毎朝の定例聴聞会で、処遇や任免などのさまざまな案件とならんで必要な司法措置の判断を行っていた。この他、外部の裁判所で刑を宣告された患者が療養所内の監禁棟で服役することもあった。
監禁棟は塀に囲まれた建物で、中に4つの監禁室があり、4人の入所者看守が12時間交代で24時間監視にあたった。看守の給与(月額170~180ドル/1974年)はクアラルンプール刑務所から支給されていた。

患者は監禁中も治療を受けることが出来た。また敷地内で庭仕事をすることが許されていたほか、手錠をつけて、看守と一緒に一般集会室で映画を見ることができた。服役中でも結構自由があり、看守に頼んでたばこや食品の購入を頼むものもいた。


写真左:監禁棟(2007年に取り壊された。)(「The Valley of Hope 希望の谷」より)
写真中:事務本館前で毎朝、所長が処罰を決めた。(「The Valley of Hope 希望の谷」より)
写真右:入所者が務めるガードマンが24時間体制で治安・防災の任務についていた。(「The Valley of Hope 希望の谷」より)

クラブ・カフェ・宗教

療養所内にはいろいろなクラブがあり、それぞれのクラブが集会所をもっていた。クラブは麻雀や玉突きなど娯楽の場であると同時に情報交換の場であった。民族別のクラブも多く、同胞仲間の相互扶助の役割も担っていた。なかには広範な互助会的クラブもあり、療養所当局の許可を受けて宝くじを販売し、入所者の福利厚生予算を捻出していた例もある。

クラブの集会所の近くには、入所者が経営するカフェがあって、早朝のうどんや蒸し饅頭から夜のコーヒーまで、テレビのない時代の人々のたまり場となっていた。また所内には入所者が経営する商店街が二ヵ所あり、美容院、仕立屋なども揃っていた。

スンゲイブローには中国、インド、マレー、ジャワ、シャム、西欧系の混血など多様な民族が混在し、それぞれに対応する宗教施設があった。英領植民地の影響で、カトリックをはじめ、英国国教会、メソジスト、福音館などキリスト教会が早くから建設されており、クリスマスは宗教を超えた療養所の最大のイベントであった。マレー系の患者のためのモスクも1934年には建てられ、ヒンドゥ教寺院は当初の小さな小屋から1971年に正式の寺院の形となった。仏教は当初、一軒家に手彫りの仏像を祀って始まったが、1959年有志の支援により仏教寺院が建設された。お釈迦様の祭りとして知られるウェサック祭りは、所内最大の祭り行事となって行った。


写真左:今も毎朝にぎわう公平コーヒーショップ。2010年(「The Valley of Hope 希望の谷」より)
写真中左:福音堂 Gospel Hall(「The Valley of Hope 希望の谷」より)
写真中右:モスクで祈るマレー系の人々。1971年(「The Valley of Hope 希望の谷」より)
写真右:華人同濟会の集会場。2012年(「The Valley of Hope 希望の谷」より)

People

ハンセン病療養所の新しいモデルを追求した海峡植民地医務官・療養所長たち

トラバース医師 Dr. Earnest Travers (1865-1934)

1887年、海峡植民地の医務官として赴任し、1892年―1897年と1922年―1927年の2度にわたりクアラルンプールらい患者救護所(通称セタパク)の責任者を務めた。1892年に開設したセタパク救護所は、それまでの過密で不衛生な収容所から大きく改善したものとなった。1897年異動し、その後当局との意見の相違から離任帰英した。トラバース不在の間セタパクの状況は「この世の地獄」と形容される環境に荒廃した。1922年セタパクに帰任したトラバースは施設運営の改善を図る傍ら、より人間的な生活環境と自立のコミュニティを基本とした新しい療養所構想を1923年の第5回極東熱帯病会議で報告提言して注目をあつめた。1930年に開設されたスンゲイブロー療養所はトラバースの構想を実現したもので、「世界で最も美しいらい患者のホーム」といわれた。なおスンゲイブロー療養所内の学校(小・中・高)は、彼の功績をたたえてトラバース学校と名付けられた。

※写真:提供 Lim Yong Long

ライリー所長 Dr. GA Ryrie 在任1930-1943

スンゲイブロー療養所の初代所長として13年間勤務した。その間、トラバースの構想をもとに、562エーカー(約70万坪)に及ぶ土地に、農業を基本に自立の生活が営める理想のモデル療養所の実現に努力した。1942年1月の日本軍侵攻時にも療養所にとどまったが、後に捕らわれてシンガポールのチャンギ収容所に送られた。1945年8月解放直後にスンゲイブローに戻り、療養所の荒廃を目にして「病棟は空っぽだった。亡霊のように不安げな目をした患者たちがそれぞれの家から出てきて、解放者を出迎えた」と回想している。1942年には2000人であった入所者は、解放時点で600人であった。ライリーは自身、獄中でマラリアや赤痢で健康を害していたため帰英した。1947年英国保健省の顧問となり、同時に大英帝国救らい協会の理事となった。 スンゲイブローの聖者として尊敬されている。

※写真:「スター誌」より

レディー所長 Dr. KM Reddy 在任1957-1961

スンゲイブローのリハビリテーションの父。あらゆる種類のリハビリテーションを導入したが、なかでも植物栽培を提案、指導・奨励したことは、入所者の生活を大きく変えた。Dr. レディの時代、療養所内で栽培した野菜等の外部への販売が認められた。また、各人のシャレ―の前庭で小規模に行われていた観葉植物や花の栽培は次第に拡大し、販路がひろがり入所者の生計を潤した。スンゲイブローは、良質な観葉植物が安くに買える場所としてマレーシア全土に知られるようになった。入所者の中には優れた植物を育てて「薔薇王」や「ライムツリー王」とよばれる人も生まれた。シンガポールにも輸出され、週末には街から家族ずれが車で植物を求めて訪れる場所となっていった。

※写真:「The Valley of Hope 希望の谷」より

入所者・支援グループ

A.ジョシュア ラガヴァール Mr. A. Joshua-Raghavar (1911-1993)

今やマレーシアのハンセン病史研究の古典となった「Leprosy in Malaysia ― マレーシアのらい 過去・現在・未来」(英文261ページ 1983年)の著者。
1911年南インドに生まれ、ゴム産業に職を得た父とともに幼少時にマレーシアに移民。優れた成績でペナンのカレッジの哲学科に在籍の時(1932)に発病。現ミャンマーのマンダレイのミッション病院で治療を受け、マレーシアに戻り、ジャーナリスト兼中学教師となったが再発。1950年スンゲイブローに入所。療養所内の学校(トラバース学校)の教師として歴史、商業、保健、地理、芸術(絵画と彫刻)を教え、多くの若者を社会復帰させた。ジョシュア氏の活動は療養所内にとどまらず、マレーシア教育協会を創設し運営委員となり、マレーシア大学のセミナー等にも参加、国内・国際会議でも知られた存在であった。スンゲイブロー療養所の入所者自治会にも各種の役職で関わったが、最大の功績として語り継がれるのは、1957年、自治会の名誉事務局長であったとき、宝くじ協会に依頼して、学生たちの集団旅行用のバスと入所者用の集会場建設の確約を得たことであった。1959年に完成した入所者集会場(コミュニティーホール)は、映画、スポーツ、文化活動など広く入所者の活動の拠点となり、現在もボランティアや学生団体など外部からの訪問者も利用できる集会場として有効に使われている。ジョシュア氏は1993年2月82才で永眠。生涯単身であった。

※写真:トラバース・スクールの中高生とジョシュア・ラガヴァール氏。1953年(「The Valley of Hope 希望の谷」より)

スンゲイブロー療養所入所者評議会 Sungai Buloh Settlement Council

入所者評議会が発足したのは1946年。以来70年、マレー系やインド系など民族別代表にも配慮を加えつつ評議員を選出してきた。主として福利厚生を目的とした当初の立場から、その後は入所者の権利擁護も含め療養所当局との交渉に当たってきた。2007年に療養所の大幅な縮小が保健省当局から提案された時には、研究者や法律家を中心とする支援者たちと連帯して入所者の権利の擁護とスンゲイブローの歴史的価値と存続を訴える運動を呼びかけ、縮小案を一定の範囲に限定することに成功した。2014年、入所者評議会は会の歴史で初めて非入所者から評議員を二人選出した。一人は第二世代のジョイス・ウォンであり、今一人は10年来の支援者組織の代表エニー・タンであった。入所者の減少と高齢化、不自由度が増す中で生活の質を確保し、療養所の縮小、閉鎖の脅威に立ち向かい、外部にも積極的に発信して社会の理解と支援を確保し、将来の歴史公園構想やストーリー歴史館の実現など、自らの尊厳の回復という最後の課題に取り組むために、新しい視点と活力を評議員会に受け入れるという選択をした。写真は現評議会メンバー(2014年選出)。

※写真:前列左から:Philip Yong氏(副書記)、Leon Chee Kuang氏(書記長)、Tan Hing氏(会長)、Lee Chor Seng氏(副会長)、Laura Chongさん、Sin Toh Han氏(すでに故人)。後列左から:Yeoh Chooi Chye氏、Abdul Rauf Ibrahim氏、Eddie Khoo氏(会計)、Joyce Wongさん、Tan Ean Nee さん。
現副会長のリー・チョルセン(李初成)氏は1970年代の軽快者退所の強要に対する抗議行動の中心的活動家。スンゲイブローの歴史に精通し、語り部として歴史保存に意欲的。(写真提供 Eannee Tan)

支援者たち

英領時代のモデル療養所として85年の歴史をもつスンゲイブロー療養所の支援者には、大きく分けて次の三つのグループがある。

ジョイス・ウォン(Joyce Wong)を中心とする第二世代。

ハンセン病療養所への一般社会の理解を求め、入所者である親世代の名誉回復に取り組む。
ジョイス・ウォンさんが第2世代の仲間たちに向けたメッセージ(2015)から:

自分が実はハンセン病患者の子どもであることを世間に知られることを恐れている人がまだまだいます。
社会一般がまだハンセン病について無知だった頃、第2世代を差別から庇護するために秘密保持が必要であったことは理解しています。でも今はもう21世紀。もはや庇ってもらう必要はありません。それなのになぜ、あなた方はまだ隠れているの? 長い間隠し続けて来た自分の一部を突然さらけ出すのは、はじめは違和感を覚えることがあるかもしれない。だからといって、まるでなにもなかったようなふりをし続ける理由にはならない。それは、自分自身が誰なのか、あなたの両親が誰なのか、そして両親たちがどんな人生を生き抜いて来たのかを否定することになると思う。私たちが沈黙し続けることで無知を持続させるべきか、それとも、誤解をただすために明らかにして、歴史が繰り返すことのないようにすべきか。 
私たち自身が動かなくて誰にこれができるでしょうか。親たちは失った尊厳を取り戻して当然だと思う。隠していては尊厳を取り戻すことはできない。(中略)自分を見下しているのは、自分自身なのだ。

リム・ヨンロン(Lim Yong Long)(マレーシア工科大学建築環境学部上級講師)を中心とする歴史的建築・景観保存、社会史等を専門とする研究者たち。

近代社会の住環境と人間社会の形成の研究が専門。庭園都市構想を基盤としたスンゲイブロー療養所の成立と展開を研究。2005/6年に政府による同療養所の縮小計画に対して展開された当事者・市民・研究者たちの連帯「Save Valley of Hope -希望の谷を救おう」に参加し、合意形成(2007)の実現に寄与した。ハンセン病関連施設のもつ歴史的な意義を専門家の立場から発言を続けるほか、マレーシアのハンセン病施設・遺跡のユネスコ文化遺産認定の可能性を探る。しかし、ハンセン病関連遺跡の破壊は跡をたたず、2016年にはスンゲイブロ-療養所の更なる縮小、2017年にはジャレジャック島療養所跡地の民間開発が発覚し、専門家、市民、メディアの連携で保存活動を展開中。

※写真:提供 Lim Yong Long

エニー・タン(Eannee Tan)を中心とするケア・アンド・シェアサークル(Care & Share Circle )。

スンゲイブロー入所者のほぼ全員ときめ細かな信頼関係を築き、親族の絆の回復や聞き書きを記録する等の活動をとおして、ハンセン病問題をマレーシアの人々、特に若い層の人々が自らの問題として理解するための努力を続けている。2007年のスンゲイブロー療養所縮小案に対抗した保存運動を中国系TVメディアの記者として取材し報道したのがエニー・タンのハンセン病との出会いであった。その歴史とスンゲイブローに生きる人々に強く惹かれたエニー・タンは、テレビ局を退職してより深く問題を追及する道を選び、ケア・アンド・シェアサークルを結成して入所者の聞き取りを行い、2011年『回家 我が家へ』(中国語 250ページ)を刊行した(共著)。同時にインターネット上に『バーチャル歴史館 我が家へ』(http://www.thewayhome.my/Leprosy.html)を公開。次いで隔離政策の結果である親子の断絶の問題に取り組み、公的記録の調査からDNAテストを含むプロセスを経て、子を探す親(入所者)と自らの出自を探す子世代の繋がりを修復する運動を展開する。その経過を『墓地での再会』『姉妹』の2冊の著作とDVD(マレー語・英語)にまとめて出版。結果的には数組の親子・親族関係の確認(親没後の確認も含む)と50年間不明であった姉妹の血縁確認が実現した。とくに姉妹の場合は、中国系の入所者両親から生まれた姉妹が、マレー系の家族とニュージーランド人の家族の養女となり、国籍と宗教をこえて姉妹関係を確認するというドラマを生んだ。
サークルが手掛けた入所者たちの聞き書をもとに、「語りの歴史博物館 ストーリー・ミュージアム」の実現に向けて精力的な活動が続いている。
https://www.youtube.com/watch?v=IYIf31rCaKs

※写真:エニー・タンさん(左から2人目)Care & Share Circle の中心メンバーと一緒に(写真提供 Eannee Tan)

未来につながる保存のモデルに挑戦する

2015年8月、スンゲイブロー療養所は創立85周年を記念すべき企画で祝った。一つは療養所当局(政府保健省)が歴史保存をテーマとするシンポジウムの開催と歴史記念館の開館披露をしたことであり、そこには政府の保健局長に加えて遺跡保存関連部門の局長の参加があった。今一つは入所者評議会と支援グループ Care&Share Circle による『The Valley of Hope 希望の谷』(歴史写真集 英文270ページ)の発刊であった。さらに第二世代グループは一般参加者を対象に『スンゲイブロー歴史散歩』を企画し、療養所の生活のいろいろな場面を再現しつつ案内した。療養所の未来のあり方に深い関心を持つグループが、それぞれの立場での関わりを明らかにした新たな出発点となった。

スンゲイブロー療養所を取り巻く状況は、今もなお手放しで明るい未来像を描くことを許さない。広大な敷地は常に外部からの不法滞在者の進入に無防備で、2016年4月には保健省から唐突に居住者のいない家屋の全面撤去通告が出されるなど、その保存は常に脅威にさらされている。

しかしながら、2015年8月の療養所85周年に撒かれた種は一年後に二つの成果を生みだした。一つは、2016年7月、遺跡保存局(National Heritage Department)よりスンゲイブロー療養所を国の歴史的遺跡に指定するという意思が伝えられたという。今後の正式指定を待たなくてはならないが、国の遺跡指定は保存運動の前提条件であり、大きな一歩につながるものといえる。

今ひとつは、支援者グループと入所者評議会による「歴史物語館 ストーリーミュージアム」の企画で、コミュティホール(入所者評議会の集会場)に「あなたが英雄・You are the Hero」というテーマで、スンゲイブロー療養所に生きる/生きた人々の姿を写真と映像で展示するために、一般からの資金提供をクラウドファンディングで呼びかけている。募金目標達成を目指して、スンゲイブローを訪ねる会、写生会、演劇など多彩な活動が展開されているさまは、ハンセン病問題に新しい理解者・支援者が生まれる可能性を感じさせる。
「ストーリーミュージアム」と第二世代が提案した「歴史公園」の組み合わせは、ハンセン病療養所の将来のあり方の新しいモデルとなることは間違いない。なぜなら、そこには苦しく辛い過去の日々を生き抜いた人々への限りない敬愛の念と、この人々の人生から学ぶことの深さを十分に理解した次世代の人々の思いが込められているからである。

写真集「The Valley of Hope 希望の谷」

ジョシュア・ラガヴァール氏の努力で建てられたコミュニティホール。入所者評議会事務局もこの建物にある。1959年(写真提供 Eannee Tan)

ストーリーミュージアムの展示準備(写真提供 Eannee Tan)

歴史散歩の企画を終えて、「I Love Valley of Hope・希望の谷」の前に集まった第2世代とボランティアたち。2015年(写真提供 Joyce Wong)

参考資料:

  • Joshua-Raghavar A. (1991)
    Leprosy in Malaysia. Past, Present and Future
  • Wong Chau Yin Phang Siew Sia (2006)
    Valley of HOPE The Sungai Buloh National Leprosy Control Centre
  • Care&Share Circle (2015)
    THE VALLEY OF HOPE Pictorial History Book
  • Lim Yonglong
    Dr E.A.O. Travers and the Reformation of Kuala Lumpur Leper Asylum (unpublished paper)
  • Lim Yonglong
    The Development of Leprosy Segregation Policies in British Malaya, 1867-1936 (unpublished paper)
  • Eannee Tan
    Our Stories, Our Legacy, Presentation at 5th International Symposium on Hansen's Disease History as Heritage of Humanity, April 2017, Japan
  • Joyce Wong
    Sungai Buloh Leprosy Settlement, Malaysia, Presentation at 4th International Symposium on Hansen's Disease History as Heritage of Humanity, January 2017, Japan