ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination

WHO Ambassador's Column

コラム

WHOハンセン病制圧大使:笹川陽平活動記

Vol.06 2015.3.25

ハンセン病と文学―小説家・北條民雄

いのちの初夜_撮影日本のハンセン病療養所は、国立13ヵ所と私立1ヵ所、合計14ヵ所です。2015年1月末現在の入所者数は1744名(国立のみ)で、平均年齢は83.6歳(2014年5月)となっています。

かつて、ハンセン病にかかった人びとは「法律」によって強制隔離され、いったん療養所に入所すると病気が回復しても社会復帰が許されませんでした。大多数の入所者は一生涯を療養所で過ごすことになってしまったのです。

そのような厳しい環境のもとではありましたが、一方、詩歌や文学、書画、焼き物などの芸術活動が盛んだったことは、日本のハンセン病療養所の誇るべき特徴です。なかでも20歳で東京にある多磨全生園に入所した北條民雄は、『いのちの初夜』という小説で一躍その存在が知られるようになりました。今もこの作品が日本人に読み続けられている背景には、じつはノーベル文学賞を受賞した川端康成の協力があったのです。

当時、ハンセン病はとても怖い病気と考えられていたため、患者からの郵便物は療養所の管理者によって消毒されてから配達されていました。それでも感染を恐れる人が文学者のなかにも多かったのですが、川端康成は、北條民雄からの手紙を読み、幾度もやりとりしながら小説の指導をしたうえ、発表する雑誌社への手配まで支援しました。

川端康成は、ハンセン病の制圧に尽力した私の父・笹川良一と同じ村の出身で、小学校時代は同級生、仲の良い友達でした。川端が転居してしばらく交流がとだえましたが、第二次世界大戦後に再会して旧交を温めました。その頃、父はすでにハンセン病の制圧活動をライフワークにしていましたので、おそらく、川端と父はハンセン病や患者の置かれている境遇について話し合う機会もあったのではないかと思います。

療養所では、故郷の家族に迷惑をかけないよう、入所者たちは全員、仮名を使うことが当然とされていました。北條民雄も例外ではありません。昨年、生誕100周年を記念し、やっとその本名が七條晃司であることが、残された遺族の了解のもとに発表されました。このエピソードは、ハンセン病に対する偏見や差別がいかに根深いものであるかを如実に物語っています。

DSC_0431今年の1月27日、私たちが過去9年間続けてきたハンセン病患者、回復者とその家族への差別撤廃のグローバル・アピールを、10回目の記念事業として、国際看護師協会と世界53カ国の看護師協会に賛同いただき、東京から世界に向けて発表しました。そのサイドイベントとして、1月30日には「文芸でみるハンセン病 川端康成に支えられた作家北條民雄について語る」を開催しました。

 北條民雄の生涯を追った作品『火花』の著者である髙山文彦さんの講演、北條民雄を生んだ阿南市の岩浅市長や私も加わってのパネルディスカッションとともに、とりわけ俳優の原田大二郎氏による『いのちの初夜』の朗読が、満員の来場者の皆さんに大きな感動を与えたようです。

 下記はその『いのちの初夜』の一節です。
「誰でも癩になった刹那(せつな)に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。(中略)けれど、僕等は不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復(か)へるのです。復活さう復活です。ぴくぴくと生きてゐる生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。」

 北條民雄は、ハンセン病者としてのみならず、才能あふれるひとりの作家としても語り継がれていくべき人です。そしてまた、『いのちの初夜』がいつまでも読み継がれていくことを、願ってやみません。