Vol.09 2016.1.12
ハンセン病の薬(3)――差別を恐れて名乗り出ない人々
ハンセン病の標準治療法MDT(多剤併用療法)の薬は、全世界で無償配布されています。けれども、薬を受け取ることで、周囲の人たちにハンセン病であることがわかってしまうのではないかと恐れ、あえて名乗り出ない人たちもいます。社会の差別が、患者さんを自ら隠してしまうのです。私が以前、ブラジルのアマゾン奥地に訪ねた家庭でも、そんな理不尽な事実を目の当たりにしました。
その家族は、ブラジル北部を流れるアマゾン川の支流、ネグロ川沿いの一軒家に住んでいました。私たち一行は前日、アマゾン川中流域の都市マナウスから2時間ほどのイランドウバ市に宿泊しましたが、そこからさらにボートで2時間近くかかる秘境です。抜けるような青空に浮かぶ分厚い入道雲、広い水路のあちこちに顔を出すマングローブ、エンジン音の止まった水面に流れる水の音と、圧倒的な美しい自然が今も印象に残っています。
訪問したお宅には、回復者の夫婦と息子夫婦、そしてその子どもたちが住んでいました。この夫婦は、ジャングルで取った木材から、肉や魚の調理用の木串を作って生計を立てているそうです。10秒で1本を削り、1日に4千本を制作。40本で30円なので、1日で約3千円程度の収入になる計算になります。もちろん、毎日同じ額の収入が得られるとは限らないでしょうが、台所も寝室も綺麗に整えられているし、自家発電による家電も揃っており、暮らし向きは悪いものではあるまいと思えました。
ところが、迎えてくれたお父さんのシャツはボロボロで脇の下が裂けており、お母さんも同じ服ばかりを着ている様子でした。収入や生活レベルと、二人の服装のギャップに違和感を覚えながら話を聞いて、さらに驚きつつ、合点がいきました。一家は、ハンセン病への差別によって、周囲のコミュニティーから完全に孤立していたのです。夫婦が身なりに構わなくなっていたのも、近所付き合いがないことの表れだったのでしょう。
最初にハンセン病と診断された父親は、地域巡回の看護師から定期的に薬を受け取って治療をしたそうです。しかし、次に発病した母親は、同じように治療を受けることが可能であったにもかかわらず、そうはしませんでした。名前を隠して、遠く離れたマナウスの病院で治療を受けることを選択したのです。その後娘さんも発病し、母親と同じ選択をしたとのことでした。滞在中、この娘さんは最後まで私たちに会おうとはしませんでした。こんな人里離れた奥地にも差別があり、人々は病気を隠して生きねばならない――その厳然たる事実に、私は衝撃を受けました。
アマゾンの奥地のハンセン病診療所にもMDT治療薬が行き渡り、患者の家庭を訪問する医師や看護師もいる。このことは、ブラジル連邦政府がハンセン病制圧に本腰を入れている証でしょう。にもかかわらず、私が会った家族のように、表立って治療を受け入れることのできない人たちがいることも、紛れもない事実です。どんなによく効く薬があり、無料でもらえるシステムができていても、患者さんがそれを受け取り、飲んでくれなければ効き目はゼロ。社会の差別や偏見のまなざしが、せっかくの医療体制を無力化しているとすれば、あまりにも残念なことと言わざるを得ません。