Vol.14 2016.8.4
国連への働きかけ(1)――「ハンセン病と人権」をグローバルな議論のテーブルに
ハンセン病はMDT(多剤併用療法)によって「治る病気」になったものの、世界各国の回復者たちは未だに、「社会から受け入れてもらえない」という厳しい現実を突きつけられています。私は常々、ハンセン病の対策は「医療的措置」と「差別の撤廃」を車の両輪として回していかなければならない、ということを国内外で訴えてきました。
ハンセン病患者や回復者の人権問題は、人類の歴史始まって以来の、古く根強い問題です。だからこそ、日本国内だけでなく、グローバルな議論として取り上げることが欠かせません。そのために、まずは世界の施政者や有識者にこの問題を理解してもらい、その影響力を通してより多くの人々に広めていくことが有効だと考えています。
私が最初に国際舞台でハンセン病をとりまく人権問題について発言したのは、2001年10月にチェコのプラハで開催された「フォーラム2000」でのことでした。この国際会議は、地域紛争や人口問題、環境問題など人類共通の課題について解決策を模索するもの。ここで私は、「健康と人権」と題してハンセン病にかかわる人権問題について基調報告をしました。
この報告は、会議の出席者に強い衝撃を与えたようでした。「身近にこのような重要な問題があったとはまったく知らなかった。帰国後さっそく調査する」と言ってくれた当時の東ティモール外務大臣、ノーベル平和賞受賞者のジョゼ・ラモス=ホルタ氏をはじめ多くの各国要人に、ハンセン病を世界的な人権問題として意識してもらうことができました。
実際に、東ティモールは2010年にハンセン病の制圧(患者数が人口1万人あたり1人未満)を達成。それを祝う式典には私も招待され、大統領になっていたホルタ氏と喜びを共にしたものです。
フォーラム2000で手応えを得た私は、さらに国連人権委員会に働きかけることにしました。それまで、ハンセン病は医療問題としてWHOで扱われてきたものの、患者が治療を受けるために名乗り出ることができない、回復しても社会が受け入れてくれないといった差別の問題は、WHOの守備範囲を超えています。そこで、ハンセン病を人権問題として国連に訴えることにしたのです。
しかし、国連の人権委員会は、設立から50年以上たっていた当時まで、ハンセン病の人権問題を一度も取り上げたことがありませんでした。そうした状況で、私のような一民間人が国連へ直訴するのは、「針の穴にラクダを通す」ように、非常に困難なことだろうと覚悟しました。
2003年7月、まずジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を訪れました。ここでは、事務所の職員を集めて説明会を開く機会を与えられましたが、蓋を開けてみると出席者はわずか5人ほど。この準備のために寝食を忘れてビデオを作成した日本財団職員の努力を思うとまことに残念な結果でした。
それでも落胆せず、ひと月後の国連人権促進・保護小委員会の委員を対象とするセミナーの準備を進めました。当日は職員の一人である写真家の富永夏子が、重い荷物をホテルから会場まで汗をかいて運び、会場の入口に写真やポスターを展示。一人でも多くの人に説明を聞いてほしいと、テーブルに軽食を積み上げ、職員たちが委員を呼び止めて案内しました。しかし、ほとんどの人が興味を示さずに、軽食だけ持って立ち去ってしまうのです。
人権小委員会でのセミナーはそれから3〜4年のあいだ、毎回6〜15人ぐらいしか参加者がいないという惨状を極めましたが、諦めずに継続しました。パレデナシオン(国際連合欧州本部)のロビーをうろうろする私たちは、きっと好奇の目で見られていたことでしょう。
予想していたとおり、国際社会にハンセン病という人権問題を訴えていくには、厚い壁が立ちはだかっていたのです。しかし、国際活動における私のモットーは「あふれる情熱、どんな困難をも乗り越える忍耐力、成果が出るまでがんばり通す継続性」。これくらいでへこたれるわけにはいきません。さらなる国連への働きかけを粘り強く進めていきました。