Vol.16 2016.8.22
国連への働きかけ(3)――回復者たち自らを壇上へ
国連への働きかけを進めるなかで、私には一つ気がかりなことがありました。それは「ハンセン病と人権」の問題が、「健康と人権」という大きなカテゴリーのなかの1テーマとして呑み込まれてしまうのではないか、という危惧でした。
2003年に初めて国連人権高等弁務官事務所に相談に行き、紹介されたのは人権委員会の「健康と人権」特別報告者である英国・エセックス大学のポール・ハント教授でした。さっそく会って話をすると、ハント教授は「この問題は『健康と人権』というカテゴリーで扱うのがよい」とアドバイスしてくれました。
当時、人権委員会は「女性と人権」「子どもと人権」「貧困と人権」など、普遍的なテーマに強い関心を抱いていたからです。ハンド教授は、ハンセン病の問題を他の病気と一体的に扱い、「病気による差別をなくす」という切り口で活動を展開すべきだ、という考えでした。
しかし私には、ハンセン病の長きにわたる「負」の歴史を思えば、他のテーマとは同一視できない、独立したカテゴリーとして扱うべきだ、という強い思いがありました。
2005年、前年に続き国連人権小委員会でオーラルステイトメントをする機会がめぐってきました。与えられた時間はまたしても3分という短いものです。会場には、同じように3分間のチャンスを与えられたさまざまなNGOの代表たちがひしめいています。膨大な数のプレゼンテーションのなかで、「なんとかして各国の代表者たちに耳を傾けさせたい」という強烈な思いが、私の胸に募ってきました。
まもなく順番がくるというまぎわになって、私は急遽、あることを思いついたのです。それは、私と一緒に会場に来ていたインド、ガーナ、ネパールの4人の回復者たちに発言させるというアイデアでした。
国際会議で発言した経験が何度もあるゴパール博士以外は、このような場に出てくることなど一生涯ありえないと思っていた人たちです。私が突然「今日はあなたたちが主役です。あなたたちが30秒ずつ発言してください」と言い出したので、彼らは驚きと恐怖心でブルブルと震えだしました。
いよいよそのときがきました。私が発言席のマイクで「これからハンセン病の回復者の人たちに発言してもらいます」と告げると、静かな総会場の空気が一変。「おおっ」というどよめきが起こり、それまで前方を向いて座っていた各国代表者たちがいっせいにうしろを振り返りました。中には立ち上がって回復者の顔を見ようとする人もいたほどです。私自身もいまだに忘れられない一種異様な光景でした。これがハンセン病という人権問題の包み隠さぬありようなのです。
しかし、回復者たちは立派でした。緊張しながらも、それぞれが自分の体験を堂々と話したのです。インドから来たネヴィス・マリーさんという若い女性の回復者などは、涙ながらに自らの生い立ちを話してくれました。彼らにとってはいっときの試練だったかもしれませんが、話を終えた彼らの顔は満足感にあふれていました。いまでも私は、このことはハンセン病の歴史に大きな一歩を刻むできごとだったと思っています。
その甲斐あってか、国連人権小委員会の会期中に専門委員を招待した夕食会では、ようやく私が主張し続けた「ハンセン病と人権」というテーマの重大さが理解され始めた手応えを感じました。
ところが、いよいよ次は国連人権委員会の総会での決議に向かえる――そう思った矢先に、大事件が起こったのです。このことは、次回にお話しましょう。