National Sanatorium Suruga
駿河療養所
静岡県
Leprosy Sanatoriums & Resource center in Japan / 日本のハンセン病療養所・資料館
National Sanatorium Suruga
静岡県
ハンセン病傷痍軍人のためにつくられた、
東海北陸地区唯一の療養所
全国に13カ所ある国立ハンセン病療養所のなかでもっとも新しく、ハンセン病傷痍軍人のための療養所として開所。日中戦争のさなか、ハンセン病のために内地に送還される傷痍軍人が増加、その処遇が問題になっていた。1944(昭和17)年に管制告示され、翌年初めての患者が入所したが、戦時中の資材・人材不足の影響もあり建物は未完成だった。
敗戦後、全国のハンセン病療養所の傷痍軍人が療養所建設部隊として募集され、ようやく建設が着工された。その後、おもに東海三県(静岡・愛知・三重)および神奈川・山梨県などの一般患者も入所。入所者数は開所以来のべ1300名、1956(昭和31)年には470名を超える入所者がいたが、その後減少を続け、2015年現在は約60人となっている。
富士山を仰ぐ箱根外輪山の中腹に位置し、四季折々の景観が楽しめる一方、敷地は急峻な起伏が多く、開所期の入所者の苦労もしのばれる。見学では綿打ちや木工の作業場、少年少女舎跡、貯水槽と井戸、火葬場跡、解剖室跡、監房跡などをめぐることができる。
国立療養所 駿河療養所
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/hansen/suruga/index.html
〒412-8512 静岡県御殿場市神山1915
Tel. 0550-87-1711 / Fax.0550-87-1921
アクセス:
JR御殿場線岩波駅から車で10分(ただし正門まで。正門からふれあいセンターや自治会まで、さらに車で5分)
View Points
View Points of National Sanatorium Suruga
旧火葬場跡
かつて駿河療養所内で亡くなった方は、三島市の火葬場で火葬されていました。1957(昭和32)年、国と施設側は「火葬場は全療養所に設置すべき予定建築物である」として、駿河療養所敷地内の山の中腹に建設しました。ところが入所者から猛反対が出たため、建設当初からこの火葬場は完成しても使用しないということが取り決めされ、実際に一度も使われることはありませんでした。
木工部作業場
木工部は男性入所者の患者作業で、療養所内で使用する生活道具をつくっていました。亡くなった入所者のための棺桶などもつくり、園内の住宅の修繕なども行っていました。材料となる木材は敷地内から伐採し製材するなど、重労働を伴いました。この作業場は1953(昭和28)年に入所者の手によって建てられたもので、木工部には大工職人も含めて十数人がかかわっていました。
恩賜公園と藤楓庵
1950(昭和25)年、貞明皇太后(大正天皇の皇后)が駿河療養所を訪問された際、出迎えた入所者たちに花の種を贈りました。その種を蒔いた公園を、以降「恩賜公園」と呼ぶようになりました。1955(昭和30)年には、貞明皇太后による「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたき我にかわりて」を刻んだ御歌碑の除幕式が行われました。公園内に建つ茶室は、1963(昭和38)年、木工部が藤楓協会からの配布金をもとに建てたもので、当初は「藤楓亭」と呼ばれていましたが、2004(平成16)年の建て替えにともない「藤楓庵」となりました。
駿河神社
駿河神社は療養所敷地内の小高い静かな山の中にあって、厳かな雰囲気を湛えています。本殿は、1958(昭和33)年、伊勢神宮の末の社が式年遷宮で解体されて運ばれ、この地に建てられたものです。毎年10月に行われる例大祭は、入所者有志が神輿を担いで園内を練り歩くなど、にぎやかなものでしたが、入所者が減少し高齢化が進んだ近年は、職員や地元のお囃子愛好会によって維持されています。
ハンセン病について、「正しい知識と理解をもつこと」「そして私達とふれあうこと」を目的に、2006(平成18)年、国立駿河療養所准看護学校の建物を活用して開館。その1階に、駿河療養所の歴史と入所者の暮らしなどを紹介する展示室がある。ほかに、会議・研修のための講義室、宿泊施設がある。
資料展示室(駿河ふれあいセンター)
アクセス、連絡先は国立駿河療養所(上記)に同じ