Hoshizuka Keiaien
星塚敬愛園
鹿児島県
Leprosy Sanatoriums & Resource center in Japan / 日本のハンセン病療養所・資料館
Hoshizuka Keiaien
鹿児島県
有刺鉄線に囲まれた地から始まった、
人権獲得と生活改善のための自治活動
星塚敬愛園は、鹿屋市街地より南へ8km、かつて地元住民が「星塚っ原」と呼んでいた平原に位置し、37万平方キロメートルの広大な敷地をもつ。「敬愛」の名称は、西郷隆盛が好んだ言葉「敬天愛人」に由来する。
開園は1935(昭和10)年10月28日、大姶良村出身の代議士・永田良吉(のちに鹿屋市長)が、地元住民の反対を押し切って誘致した。当初は檜垣と有刺鉄線で囲まれた約5万坪の敷地内に病床300床が用意され、鹿児島県・福岡県・宮崎県から23名が入園、その後沖縄県や鹿児島県下の大島各島からも次々と患者が収容された。1943(昭和18)年には患者数最多の1347名を数えるまでになり、戦時中の物資食糧不足の影響もあいまって、入所者は過酷な患者作業をともなう耐乏生活を強いられた。
戦後の1946(昭和21)年、いちはやく患者自治会が発足、県や市に対する陳情や生活保護金獲得、文化施設の助成など先進的な活動によって全国に知られた。また全国療養所の自治会に団結を働きかけ、1947(昭和22)年には5療養所の患者連盟を発足、入所者の生活改善を求めて衆参両院、関係省庁への陳情活動を展開した。この活動が元となって、1951(昭和26)年に「全国らい療養所患者協議会」(全患協)が発足するに至った。
2014(平成26)年、社会交流会館がリニューアルオープン、以降、入所者の苦難の歴史を伝える展示を通して、ハンセン病に関する知識の普及と啓発を行っている。2017年1月現在の入所者は146人、平均年齢は86.1歳となっている。
開園、初代園長は林文雄氏。
入所者が1347名となる(最多)。
入園者による入園者のための組織を目指し患者自治会発足。
らい予防法廃止、星塚自治会結成50周年記念式典開催。
社会交流会館がリニューアルオープン。
国立療養所 星塚敬愛園
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/hansen/keiaien/index.html
〒893-0041
鹿児島県鹿屋市星塚町4204番地
Tel. 0994-49-2500 Fax. 0994-49-2542
アクセス:
View Points
View Points of Hoshizuka Keiaien
初代納骨堂
初代納骨堂は、かつての入園者地帯の東の端の谷あいの静かな林のなかに残されています。1939(昭和14)年、西本願寺鹿児島別院を中心とした県下の同派の各寺院からの寄付金と、入園患者の奉仕作業によって建設されました。小松山を背後にした半地下式の設計で、この形状は、初代園長である林文雄氏が鹿屋市吾平の吾平山上稜(あひらのやまのえのみささぎ)を模したものと言われています。敬愛園の敷地中央に位置する現在3代目の納骨堂は、1997(平成9)年に建てられたものです。
初代火葬場跡
1935(昭和10)年につくられ、1949(昭和24)年まで使われた火葬場跡。日本の敗戦の年である1945(昭和20)年には、食料不足などが原因で143人もの入園者が亡くなり、火葬場を酷使し煙突が崩れてしまったため、遺体を土手焼きや庭焼きにするということもありました。園内には1983(昭和58)年から2002(平成14)年まで使われていた3代目火葬場跡も残されています。このようなハンセン病療養所の敷地内にある火葬場の遺構は、偏見や差別によって入園者や回復者の亡骸を外部の火葬場で焼くことのできなかった時代を象徴するものです。
敬愛橋
敬愛橋は、入園者の奉仕作業によって、3年の歳月をかけて1943(昭和18)年に完成しました。ハンセン病療養所ではどこでも、入園者たちは自分たちが生きるために必要な労働を負担しなければなりませんでした。敬愛園では軽症者のみならず手足の不自由な入園者たちも、月に最低3回の奉仕作業が義務づけられました。
御歌碑
「つれづれの友となりても慰めよ ゆきことかたきわれに代わりて」。1932(昭和7)年、当時皇太后となっていた貞明皇后が「癩患者を慰めて」の兼題で詠まれた御歌です。「救癩事業」に尽くしたことでも知られる貞明皇后の御歌の石碑は、全国のハンセン病療養所に建てられています。敬愛園の御歌碑は、園内でもっとも眺望のいい丘の上に1939(昭和14)年に職員、入園者合同の奉仕作業によって建てられたものです。この場所は、入園者たちがそこから自分の故郷を偲んでいたことから、「望郷の丘」とも呼ばれています。
収容門
いまは門柱を残すのみとなっている「収容門」は、かつて観音開きの鉄の扉があり、この門を通って数多くの入所者が強制収容されてきました。この門はまた「帰省門」とも呼ばれました。親族の危篤や死亡などの事情がある者だけが、この門から出て帰省することが許されたことにちなみます。もっとも、敬愛園は桧垣があるほかは強固な壁や塀がなかったため、入園者たちはどこからでもいつでも、巡視職員の目を盗んで脱け出すことができたとも言われます。「収容門」の鉄の扉は戦後まもなく取り除かれました。