Okinawa Airakuen
沖縄愛楽園
沖縄県
Leprosy Sanatoriums & Resource center in Japan / 日本のハンセン病療養所・資料館
Okinawa Airakuen
沖縄県
青木恵哉が苦難の末に開いた
古宇利島をのぞむ療養所
熊本・回春病院から派遣された青木恵哉が沖縄の地にやってきたのは1927年(昭和2年)のこと。みずからもハンセン病患者であった青木恵哉は回春病院長、ハンナ・リデルから託されたキリスト教伝道をおこなうかたわら、患者救済のための療養所開設を目指した。当時、沖縄におけるハンセン病療養所設置は県議会をはじめ各地で猛反対に遭っており、患者は放置されていた。
各地を追われ、焼き討ちなどにもあった青木恵哉は1935年(昭和10年)、羽地内海の無人島、ジャルマ島へと逃れるが、そこは風葬に使われていた、水も出ない無人島であった。その後、回春病院から送られてきた活動費で購入した屋我地島大堂原(やがじじま・うふどうばる)の土地へ、青木恵哉を含む15名が移住した。
1937年(昭和12年)、沖縄MTL(キリスト教者による救らい協会)が「沖縄MTL相談所」を同地に設立。これにともないあらたに患者40名が入所。翌1938年には沖縄MTL相談所の敷地建物を引き継ぐかたちで「臨時国立療養所」として「国頭愛楽園(くにがみあいらくえん)」が設立、1941年(昭和16年)には国に移管され、国立療養所となった。
敗戦後の1952年(昭和27年)に、設立した琉球政府の所管となり、名称も現在の「沖縄愛楽園」に改称。その後1972年の本土復帰によって厚生省の所管となり、ふたたび国立療養所となった。戦前の療養所建物は沖縄戦でほとんどが破壊されたが、園内にわずかに残った当時の壁、水タンクなどにはいまも米軍による砲撃のあとを見ることができる。
国立療養所 沖縄愛楽園
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/hansen/airakuen/site/index.html
〒905-1635
沖縄県名護市済井出1192
Tel. 0980-52-8331 / Fax. 0980-52-8967
アクセス:
View Points
View Points of Okinawa Airakuen
愛楽園発祥地の井戸跡
愛楽園の開設に深いかかわりをもつ青木恵哉(けいさい)は、熊本回春病院から派遣されて沖縄に来て、ハンセン病者を救済し伝道するために奔走しました。焼き打ち事件で屋部(現名護市)から追われ、ようやく安住の地を求めてたどりついたのが、現在の愛楽園の納骨堂のあたりの土地でした。当時掘られた井戸の跡がいまもその場所に残っています。またほかに、青木がしばしば籠もって瞑想したと伝えられるガマ(自然洞窟)も海岸に残っています。
青木恵哉頌徳碑
「青木恵哉頌徳碑」は、厳しい差別や迫害を受けながら、沖縄のハンセン病患者の救済と伝道に尽くした青木恵哉の徳を称えるもので、愛楽園発祥の地に建てられています。全国から寄付金が集められ、1971(昭和46)年建立されました。台座にのる青石は、青木の出身地である徳島県から寄贈されたもので、中央の石は青木を、左右の石が青木を支えた病者をイメージしてつくられました。
被弾した水タンク
1944(昭和19)年10月10日に南西諸島を襲った米軍による空襲は、那覇市のほとんどを焼き払い、多くの人びとが焼け出されました。沖縄戦の始まりでもあったこの「十・十空襲」のとき、愛楽園もまた空襲の被害を受けました。愛楽園が軍事施設ではないかという誤解を受けたのではないかとも言われています。その後もたびたび攻撃を受けました。幸い、空襲による死者はほとんどなかったのですが、愛楽園の主要な建物のほとんどが破壊されました。戦争中の空襲によって被弾した水タンクがいまも園内に残されて、当時の攻撃のすさまじさを物語っています。
被弾跡の壁
愛楽園の正門近くに、沖縄戦のときに被弾した壁が当時のまま残されています。戦時中の愛楽園は、沖縄に進駐してきた日本軍による強制収容によって、定員の2倍を超える900人以上もの入所者を抱えていました。施設も食糧も不足し、苦しい生活を強いられていたところへ、すさまじい空襲を受けたのです。軍による強制収容があったことと、戦争の攻撃対象になったということは、沖縄のハンセン病療養所が負わされた悲惨さを象徴する出来事だったと言えるでしょう。
早田壕
1944(昭和19)年に着任した早田晧園長は、沖縄戦への備えとして、入所者に横穴式の壕を掘らせました。壕堀りは末梢神経が麻痺している入所者には過酷な作業であり、傷口が化膿し手足を切断しなければならないほど悪化させてしまった入所者も多くいました。1944(昭和19)年の「十・十空襲」のときには、900人以上もの入所者がこの壕に避難することができましたが、その後の避難生活のなかで、栄養失調やマラリアによって300人近くが命を落としました。<br>
愛楽園における戦没者が「平和の礎」に刻銘されたのは2004年以降のことでした。
スコアブランド公園
スコアブランド医師は、愛楽園を民主的な園にするために尽力した人物です。1949(昭和24)年、アメリカ軍政府の公衆衛生福祉部長に就任し、戦火に巻き込まれて深刻な物資不足に陥っていた愛楽園のために、薬品や衛生物資や建築資材を大量に手配し、食糧の特別配給とプロミン治療も開始しました。「スコアブランド公園」に設置されている「希望と自信の鐘」は、スコアブランドが愛楽園の入所者が希望をもって生きていくことを願い、寄贈したものです。
ハンセン病に関する正しい知識の習得、沖縄における強制隔離政策の歴史を後世に伝えることなどを目的として2015年(平成27年)6月1日にグランドオープン。1階には常設展示室のほか130名を収容可能な講話室もあり、2階には様々な映像を見ることができる視聴覚室や企画展示室なども設けられている。常設展示はすべてボランティアによる手作り。家籠(やあぐまい。患者が家から離れて暮らすこと)に使われた茅葺き小屋や兵舎を改造した病棟なども再現されている。
沖縄愛楽園交流会館
〒905-1635
沖縄県名護市済井出1192
Tel/Fax. 0980-52-8453
アクセス:
「交流会館」としてプレオープン。新築による交流館施設は全国の国立ハンセン病療養所では初めて
グランドオープン