Miyako Nanseien
宮古南静園
沖縄県
Leprosy Sanatoriums & Resource center in Japan / 日本のハンセン病療養所・資料館
Miyako Nanseien
沖縄県
差別的な政策による隔離と
空襲による壊滅的被害
二重の困難の歴史をいまに伝える
宮古島の北端近くの海岸添いに位置する宮古南静園は、1931(昭和6)年、平屋三棟による「県立宮古保養院」として開院した。当初の入所者は15人。1933(昭和8)年に「臨時国立宮古療養所」となり、1941(昭和16)年に「国立療養所宮古南静園」と改称。
太平洋戦争末期、宮古島は米軍上陸を食い止める「水際作戦」の前線地となり、島内各地に日本軍の軍事施設がつくられ、3万人の軍隊が配備された。1944(昭和19)年の「十・十空襲」(10月10日)をかわきりに宮古島および諸島が散発的な空襲に見舞われ、南静園も壊滅的な被害を受けた。南静園の職員は全員職場放棄をし、取り残された入所者たちは海岸付近の自然壕に避難したが、病気の悪化や極度な栄養失調や赤痢、マラリアに苦しみ、1945(昭和20)年、その年においてだけでも110名あまりが命を落とした。園内および近辺には、日本軍が築いた機関銃壕や、銃弾跡、また入所者たちが避難していた海岸の自然壕「ぬすとぅぬガマ」などがいまも残っている。なお、戦時中に日本軍による強制収容が行われた結果、南静園には400人を超える入所者がいたとの証言もある。
終戦後、南静園は沖縄愛楽園とともに米軍政下に置かれ、再び患者の収容が強化された結果、1950(昭和25)年には入所者数は338人に増大した。当時、本土の療養所から戻った入所者の影響によって人権意識や自治意識が高まり、1948(昭和23)年に自治組織「相愛会」が発足している。1972(昭和47)年、沖縄の本土復帰にともない、愛楽園とともに管轄が厚生省に移管。
1983(昭和58)年からは、皮膚科を中心に地域住民の外来治療を受け入れるなど、「開かれた療養所」への取り組みが進められた。「らい予防法」が廃止された1996年(平成8)年には、市の老人クラブ連合会に園の老人クラブの加入が認められるなど、入所者と退所者と地域住民の交流も盛んに行われてきた。現在、人権啓発交流センター(ハンセン病歴史資料館)の設置が、入園者および「ハンセン病と人権市民ネットワーク宮古」のボランティアによって準備中、すでにプレオープンを終え、2017年度中の本オープンを目指している。
「県立宮古保養院」として開院
「国立療養所宮古南静園」と改称
宮古島初空襲、以降翌年3月まで南静園も空襲を受け施設がほぼ壊滅状態となる
太平洋戦争終結、沖縄愛楽園とともに米軍政下に置かれる
沖縄の本土復帰にともない、愛楽園とともに管轄が厚生省に移管
一般外来診療開始
国立療養所 宮古南静園
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/hansen/miyako/welcome.html
〒906-0003
沖縄県宮古島市平良字島尻888
Tel. 0980-72-5321 Fax. 0980-72-5859
アクセス:
View Points
View Points of Miyako Nanseien
学び舎の碑
国の誤った政策や地域の偏見差別などによって、学校教育を受けることができなかった入園者のために初代園長が「八重菱学園」を開設し、年齢に関係なく寺子屋式で読み書きを教えました。1937(昭和12)年には17歳未満の義務教育を受けられなかった青少年のために、普通学校と同じ授業科目で学校を再編。1944(昭和19)年の宮古島空襲によって中断、戦後まもなく再開され、1952(昭和27)年には琉球政府立の小中学校として認可され、名称は「稲沖小中学校」となりました。この「学び舎」の碑は園内に学び舎があったことを伝え、ハンセン病隔離政策の過ちを繰り返さないために卒業生や関係者によって建立されました。
見張り所(監視所)跡
多田景義園長の時代に入園者に対する監視が強化され、鉄条網や監禁室が設置されました。見張り所は1942(昭和17)年に、園を一望できる高台に造られたもので、「双眼鏡を持った看守が交替制で見張っていた」との証言があります。いまも草木に覆われた監視所の基礎部分が残され、当時のハンセン病患者の絶対隔離を示す象徴的な建物であったと言えます。
貯水タンク・水汲み場跡
南静園がつくられた当初から、園に上水道が引かれる1965(昭和40)年まで入園者は飲み水の確保に苦労を強いられました。園内には井戸がありましたが塩水が混ざり飲料水には向かず、泥岩から浸み出る水をタンクに貯めて、それを桶などに汲み、天秤棒で運んで使っていました。多くの入園者はそのような作業で手足の傷を悪化させていきました。貯水タンクと水汲み場跡からは手足の不自由な入園者たちが足場の悪い坂道を昇り降りし、命の水の確保に苦労した過酷な暮らしぶりがうかがえます。
日本軍の機銃陣地跡
1944(昭和19)年戦時中の宮古島には、米・英軍の上陸に備えておおよそ3万人の日本軍が配備されました。南静園の周囲にも日本軍によって数カ所の壕がつくられ、園の敷地北側の浜の崖には、内部がU字型に掘り込まれた機銃陣地跡が残されています。入園者は、日本軍によって園内の壕からも追い出され、付近の自然壕や雑木林で過酷な避難生活を強いられることになりました。
銃弾跡
戦争中の銃弾跡が、職員宿舎の塀にいまも残されています。1944(昭和19)年の10月10日、宮古島にアメリカ軍による初めての空襲があり、南静園では、作業船「南静丸」が海上で機銃掃射を受ける被害がありました。翌年1945(昭和20)年3月26日以降、空襲は連日のように繰り返され宮古島全域が大きな被害を受けました。南静園の施設も度重なる空襲によって壊滅状態となりました。園長や職員は職場放棄し、入園者は近くの海岸線の自然壕、周辺の雑木林などに避難しました。入園者が日本の敗戦、戦争の終結を知らされ避難壕から園に戻り始めたのは9月に入ってからのことでした。
ぬすとぅぬガマ(避難壕)
「ぬすとぅぬガマ」の名で呼ばれた、南静園の北海岸の崖の中腹にある自然壕。戦時中、入園者は日本軍によって園内の壕からも追い出され、この自然壕やその付近の雑木林などで過酷な避難生活を送りました。治療を受けることができず、食料もなく、110人もの入園者が極度な栄養失調や赤痢、マラリア等で亡くなりました。「ぬすとぅぬガマ」は、国策によるハンセン病隔離被害と戦争被害という、入園者が受けた二重の苦しみ、筆舌に尽くしがたい苦難の歴史を知る場所でもあります。