The Documentary / ハンセン病の現場にレンズを向けて
vol.6
Japan
日本の国立ハンセン病療養所で暮らす回復者は1718人。平均年齢は83.9歳。
年々その数は減り、悲劇の歴史が忘れ去られつつあります。
そんな日本で、ハンセン病への正しい理解を広めるイベント「グローバル・アピール2015」が開催されました。
“今、日本でハンセン病を考えること”の意味を、レンズを通し見つめました。
本編 34分11秒
かつては治療法がなかったため、不治の病と恐れられたハンセン病。日本では“ハンセン病の根絶”が国策として掲げられ、患者は社会から強制的に隔離、子どもを作れないよう断種と中絶を強要されてきました。そのため、ほとんどの回復者に子どもはいません。またハンセン病への差別意識は今も社会に色濃く残り、多くの人が療養所での生活を余儀なくされています。他の病気と異なり、ハンセン病の患者は完治してもなお、社会的差別に苦しめられるのです。
「ハンセン病を考えることは、人間を考えること」
その歴史や現状を見つめれば見つめるほど、ハンセン病は私たちに“人間の尊厳”という問題を突きつけます。
平沢保治さん(回復者)
茨城で生まれ育った平沢さんは、14才でハンセン病を発症。「1年で治るから」と医者に勧められ、東京にある療養所、多磨全生園に入りました。しかしそこは監獄や火葬場、納骨堂がある隔離施設。ひとたび足を踏み入れたら、二度と外へ出ることができないところでした。社会や家族から見捨てられた暮らしの中、平沢さんの救いとなったのは母親でした。時間を見つけては、茨城から東京の療養所まで好物のソバを茹でて持って来てくれました。とは言え、刑務所同然の面会所では言葉を交わすことしかできません。一緒にソバを食べることはできませんでしたが、平沢さんにとってはとても大切な時間でした。母親は94歳で他界。平沢さんは死に目に立ち会うことはできませんでした。母親は「ごめんなさい」と言い遺して息を引き取ったそうです。「お前みたいなハンセン病の子を産んで『ごめんなさい』と母は自分を責めていたのかもしれない」と平沢さんは言います。
現在平沢さんは、ハンセン病の歴史と人間の尊厳を伝える“語り部”として全国の学校を回っています。しかし、故郷・茨城の学校を訪問しても、実家に立ち寄ることはできません。平沢さんの存在が周囲に知れると、今でも家族に差別が及ぶことがあるからです。母親の眠るお墓にも、まだ手を合わせることができていません。
故 北條民雄(作家・患者)
『いのちの初夜』が発表されたのは1936年(昭和11年)。ハンセン病に対する差別が今よりも酷く、患者が書いた原稿に触れると感染すると言われた時代でした。にもかかわらず、北條民雄の才能に惚れ込んだ川端康成は原稿の管理から雑誌の掲載に至るまで、あらゆる面倒をみました。川端は「らい菌の感染力は極めて弱い」ことを知っていたのです。しかし文壇にデビューする際は、北條や家族が差別を受けないよう一切のプロフィールを伏せました。“北條民雄”という名前もペンネーム。(本名が公表されたのは2014年)『いのちの初夜』が芥川賞候補になった時も、川端は選考委員でしたがこの作品に票を入れませんでした。受賞すると、北條の出自が白日の下に晒されるからです。
日本では、北條のみならず数多くの患者が文学を志しました。多くの療養所で、俳句や短歌、小説の同人誌を制作。ハンセン病のために視力や指先の感覚を失った人は、点字を指で読むことができず、“舌”で読みました。本に何度も舌をこすりつけ、口の中が血まみれになってもなお、言葉を欲したのです。家族から棄てられ、社会とのつながりも一切絶たれ、生きている意味を見出せない。そうした恐怖や不安の中、多くの患者が文学にすがりついたのです。
北條は、日記にこう記しています。「文壇なんて、なんという幸福な連中ばかりなんだろう。何しろあの人達の体は腐って行かないのだからなあ」(昭和10年12月20日)
総合演出:浅野直広 / ディレクター:石井永二 / プロデューサー:浅野直広、富田朋子 / GP:田中直人 / 海外プロデューサー:津田環
AD:奥田円、松山紀惠 / 撮影:西徹、君野史幸 / VE:岩佐治彦、藤枝孝幸 / 音効:細見浩三 / EED:米山滋 / MA:轉石裕治
リポーター・日本語版ナレーター:華恵
制作:テレビマンユニオン
vol.7
50年に渡り、約70か国のハンセン病の専門病院や療養所を訪ね歩いたWHOハンセン病制圧大使の笹川陽平さん。笹川さんには毎年通う“もうひとつの現場”があります。それは、数多くの国際機関が集まるスイス・ジュネーヴ。世界各国の保健大臣やWHO関係者が集まる外交都市で...
vol.5
ルーマニアではこの20年間、ハンセン病を発症した人は一人もいません。人々の間では過去の病気として認識され、病気そのものを知らない人も少なくありません。しかし現状とは裏腹に、陽の当たらない場所で、長年差別に苦しむ回復者たちがこの国には存在していました。ルーマニア...