People / ハンセン病に向き合う人びと
2002年、全生園の平沢保治氏を取材したドキュメンタリー番組を手掛け、
2014年からはハンセン病制圧大使・笹川陽平氏に同行して、世界のハンセン病の現場を取材しつづけている浅野直広さん。
「人間を撮ることがドキュメンタリー監督の仕事」と言い切る浅野さんは、差別や偏見に苦しみ、
社会的な困難に置かれたハンセン病の患者や回復者たちの姿や言葉をカメラで撮るということに、何を感じ、何を考えてきたのか。
Profile
浅野 直広氏
(あさの なおひろ)
1971年大阪生まれ。1996年テレビマンユニオン参加。2000年ETV特集「写真が手話で語りかけてきた…」でデビュー。2002年BSフジ「終の棲家を求めて 〜ハンセン病元患者・平沢保治・75歳〜」を演出。ほかに「カルテットという名の青春」(第49回ギャラクシー賞選奨、第29回ATP賞ドキュメンタリー部門優秀賞)、「小澤征爾さんと音楽で語った日」(第67回文化庁芸術祭参加作品)、「木村伊兵衛の13万コマ」、「テオ・オン・テオ」(映画監督テオ・アンゲロプロスのドキュメンタリー映画、国際映画祭参加多数)など、アートをテーマとする作品を多く手掛けてきた。
整然とした浅野さんの編集デスク。左に置かれているのが、当サイトの「ドキュメンタリー」の構成台本
聾者で写真家の井上孝治という人を取り上げたものです。といっても、自分が企画したものではなかったし、とくに手話とかマイノリティに関心があるわけでもなかった。
でも自分が撮ることになって、手話というものを初めて見たら、これがとてもおもしろかった。手話というのはそもそも表情をともなう言語で、そのために表現としてすごく豊かになるんですよ。聾者の方々と接していて楽しかった。それで、話し言葉とは異なる、手話と写真という「言語表現」をテーマにしました。
ETV特集は当時45分枠の番組でしたが、カルチャースペシャルという特別な1時間枠でやらせてもらいました。ラッキーなデビューでしたね。そんな大きな番組を最初からやらせてもらえるなんてことはなかなかない。
テレビマンユニオンに入って、AD(アシスタントディレクター)として1年目は討論番組を半年と「ウルルン滞在記」を半年ほどやって、2年目から是枝さんの映画「ワンダフルライフ」の助監督をやりました。準備から撮影、その後の仕上げまで、1年以上にわたって是枝さんの仕事に付き合った。その経験がすごく大きかった。自分のやりたいことをやろうという思いが強くなってしまって、3年目にしばらくのあいだ出社拒否をしてしまったくらい(笑)。
そのあとADとしての仕事を1本やり、「写真が手話で語りかけてきた…」のディレクターとして声がかかった。そういう意味では、AD経験はすごく短かった。いまになって、もっとアシスタントの経験を積むべきだったとすごく思いますけどね。
是枝さんとは、ぼくがディレクターになってからも、一緒に番組をつくったり、仕事以外の面でも、けっこう付き合ったり付き合ってもらったりしました。
2本目のディレクターの仕事が終わったあと、しばらくテレビ番組のコーナーディレクターの仕事をやっていたんですが、自分のなかでは「こんなことをやっていていいんだろうか」という思いがずっとあった。是枝さんからも「企画書を書け」と言われ続けていた。ちょうどそのころ、「らい予防法」のことがニュースで騒がれていたので、ハンセン病をテーマにやってみようかなと考えて、一気に企画書を書きあげたんです。それで、是枝さんといっしょにBSフジにプレゼンに行ったら、すんなりと通った。
ぼくは、是枝さんがプロデューサーをやってくれると思い込んでいたんですが、3本目の映画の準備に入るからできないと言われて、仕方なく自分でプロデューサーも兼ねました。プロデューサーというのがどういう仕事をするのかも、編集室にいったいいくら払えばいいのかとか、そういうこともわかっていなかったのに(笑)。いま思うと、ユニオンはよくやらせてくれたなと思います。
2014年12月、笹川陽平さんとの対談収録のため、平沢さんご夫妻と再会
徹底的に一人の人物に1年くらい密着取材しようと考えていたので、そうなると予算面から考えても東京の療養所にいる人がいいだろうと。そこでまず当時全生園の自治会長だった平沢さんに、どなたに取材すればよいか相談に行ったんです。でも、断られました。当時まだハンセン病回復者に1年間も密着取材する番組はなかったですし、全生園もそこまで徹底する取材を受け入れたことがなかったんですかね。でもあきらめずに、平沢さんに手紙を書いたり会いに行ったりするうちに、だんだん平沢さんを取材したいと思うようになったんです。
あのころ一時的にハンセン病のことが注目されてましたが、きっと潮が引いたようにまた世の中から忘れられていくだろうということは眼に見えていた。それで、一人の入所者に密着することで、療養所に置かれている個人の視点から世の中をしっかり見据えようと。果たして1年後、社会は変わるのか、変わらないのか。平沢さんは、長いあいだ療養所に暮らしていたけど、決して内向きじゃなく、社会に対して開かれた眼を持っているひとなんですね。そういう社会や状況の変化に敏感なことからも、適任じゃないかと思った。阪神ファンだということも気に入った(笑)。
三度くらい足を運んで、平沢さんを取材したいという話をして、最終的にOKしてもらいました。でも、最初のころはなかなかオープンには撮らせてくれなかった。家にも上がらせてもらえなかった。なかなか距離が縮まらないので参りましたね。
どうしたものかと思いながら3~4カ月ほど撮り続けてたある日、どこかの講演会へいっしょに行くために電車を待っているとき、突然、「浅野さん」とぼくの名前を呼んでくれたんです。それまでは「撮影さん」と呼ばれてたんですが、「浅野さん、結婚してるの」みたいなプライベートなことを聞かれた。これは「もう少し踏み込んでもいいよ」という合図なのかなと思いました。そのときから、平沢さんの態度が変わっていきました。ライフストーリーも、それまでがモノトーンの話だったとすれば、もう少し彩りあざやかな話をしてくれるようになった。
全生園のほうからも、最初のうちはあまりあちこち撮らないでほしいと言われてましたが、仲良くなってだんだん言われなくなったので、入所者が集まってくるお祭りのときなど、好き放題にカメラを廻させていただきました。
そうですね。当時の自分としては精いっぱいやったと思います。もちろんこういう仕事は満足しきるということはありませんし、もっとこうすればよかったと思うことはいろいろあります。でも少なくとも平沢さんに顔向けできるものにはできたと思います。
平沢さんは自治会長として、顔を写してはいけない方の映像が番組に入っていないかどうかチェックをする立場でもあったので、放映前に一度だけ映像を見てもらいました。あえて感想を聞いたりはしなかったんですが、すごく照れくさそうに「よかったよ」なんて言ってくれました。ちょっとだけうるっとされてたみたいでした。
去年、12年ぶりに笹川陽平さんとの対談の撮影のために平沢さんにお会いしたんですが、平沢さんの環境もだいぶん変わったなと思いました。昔はぜったいに撮らせてもらえなかった奥さんも撮らせてもらえた。なんかうれしかったですね。
インドネシア・ビアク島での撮影。独りで暮らすルンビアックさんを笹川さんが訪問
ハンセン病のために長年にわたり孤独を強いられてきたルンビアックさん
これほど長く一つのテーマでやらせてもらえることになるとは思ってませんでした。でも、ハンセン病というテーマには決して終わりはない。もちろん永遠に取材し続けるわけにはいきませんし、今まで撮りためてきたものをまとめていかなければなりません。でも、どこの国に行っても、以前行った国に再び行っても、つねに新たなことに気づいてしまう。驚くような人生に出会うし、病気をめぐる過酷な状況を見てしまう。本当に奥深いテーマだと思います。いっしょに行くスタッフ全員がそう感じているようです。いまも取材先では一日の終わりに喧々諤々の議論になるんですよ。ときにケンカにもなる。それだけみんなも思い入れをもって取り組んでいる題材です。
やはり初めてのロケで行ったインドネシアですね。とくにルンビアックさんとの出会い(*註)。ルンビアックさんが置かれていた村八分というような状況は、いまの日本ではなかなか見ないですよね。ルンビアックさんの場合は、自分から村を離れたんですが、でもそうやって村を出て一人きりで生きている人がいる、ハンセン病にかかった人がそういう状況に置かれているということに、衝撃を受けました。
なんといっても、あのルンビアックさんの顔ですね。諦念だなんて一言ではとても表せられない。あのすべてを超えてしまったかのような表情。頭ではわかったつもりでいても、こういうことになるんだ、ハンセン病というのはこういうことなんだと、生々しく感じさせられた。
ロケハンに行ったときに現地で聞いたんです。でも取材はしてほしくないと言われた。そこを何とか交渉して、本番のときは笹川さん以外の人はシャットアウトして撮影しました。現地の役人が、その様子をチェックしに来ていましたよ。じつはあのあと、ルンビアックさんを本人にも家族にも無断で、強引に強制入院させたそうです。その後はまた元に戻られたそうですが。
この取材は、やはりロケハンのときの情報収集がものすごく大事です。ロケハンと言いつつ、それだけでは済まないんですよ。
ドキュメンタリーというのは、予定調和なことだけでは意味がないですからね。ハンセン病の問題を深堀りするとともに、できるだけいい表情を撮りたい。笹川陽平さんという人間を炙り出していくためには、そういう仕掛けも必要なんです。なぜあそこまでの闘いをし続けているのか。笹川さんが言葉にしうること以上のものを撮りたいですからね。もちろん、それぞれの国とWHOや財団との関係もありますから、慎重に慎重を重ねてやっています。
どの現場でも、いかに早くぼくたちに協力的な人物と出会うことができるか、ハンセン病が置かれている状況を真剣に考えている人と出会うことができるか、それが欠かせません。ただ、撮影に協力的な現地の役人ほど、組織内では疎まれているということもあるんですよ。政権が変わると取材できなくなってしまうこともある。逆に、政権が変わらないと取材できないこともありますけどね。
やはりロケハンのときにできるだけ仲よくなって、撮らせてもらっています。もちろん、カメラを向けるのを嫌がる人もいますし、OKしてくれたのに撮り始めるとあまりしゃべってくれない人もいます。苦労も多いですが、個人史は、ある種のアーカイブをつくるというつもりでやっています。悲惨な体験をする人はだんだん減っていくし、どんどん過去のことになってしまう。できるだけ時間を確保して収録するようにしていますよ。
個人史を聞いていくというのはしんどいことなんですが、極限状況に置かれた人びとなので、人間そのもの、人間が生きるということを、ものすごく鮮やかに感じさせてくれる。だからいくら聞いていっても飽きるということがないですね。もっと聞きたくなってくる。
註)アビア・ルンビアックさんは、インドネシア・パプア州の離れ小島ビアク島に暮らすハンセン病回復者。当サイト「ドキュメンタリー」のインドネシア編で紹介されている。
ルーマニアのティキレシュティ療養所に暮らす、回復者のドミトルさんの自宅でのロケ。
ネパールのコカナ療養所でのロケ(笹川陽平さんと華恵さんの対話を収録中)
ものすごく感じます。外の社会から訪ねていった者たちに無条件のやさしさを示してくれる。治安の悪い地域でも、コロニーの中だけは安全で、モノを取られたりする心配がまったくないですしね。
でもいまは、逆に、その奥にある“ずるさ”のほうにより惹かれるんですよ。“ずるさ”のほうが人間的だし魅力的に思える。ようするに、したたかなんです。たとえば、コロニーのリーダーのなかには、会うたびに身なりがよくなっていくような人がいる。明らかにリーダーには金銭的な役得があるわけです。厳密に言えばそれは汚いこと、やましいことかもしれませんが、彼らはそんなことをしても嫌われないくらい、コロニーのために尽くしています。持ちつ持たれつでうまくやっているわけです。それが社会というものでしょう。
そういうことを目にしても、ぼくは見て見ないフリはしないし、「あれ、最近、髪染めたんですか」なんて平気で言っちゃう。彼らもニヤニヤして喜んでますよ。ぼくたちがキレイごとを撮りに来ているんじゃないってことを、わかってくれるんでしょうね。
幸い、まったく怖れはないです。見た目にどんなひどい症状であっても、傷口が膿んだりしてひどい匂いがしていても、ハンセン病の患者たちに対して引いてしまうということはなかったです。もちろんこれは個人差があるようで、スタッフのなかには、正直に「嫌悪感」を抱いてしまったという人もいます。
誤解してほしくないですが、ぼくにはそういった嫌悪感や差別意識がないということではないんです。人間というのは差別するものでしょう。ぼくのなかにもそういうものはあります。
むしろ、「見た目」ではないところで、つい差別をしてしまっているかもしれない。それは撮影するときにずっと気にしています。彼らはそういうことにすごく敏感だろうと思う。
ごく単純な例でいえば、出してくれたお茶や食べ物にちゃんと手をつけるとか、彼らが「いいでしょう」と言ったものを嫌悪しないとか。これは文化の違いとか、衛生観念の違いの話かもしれませんが、彼らは差別意識からくる拒否をさんざん受けてきた人たちでしょう。だから、どんなに「困ったなあ」と思うようなものでも、「飲め」と言われれば、いただくようにしています。
日本のような恵まれた環境で生まれ育ったぼくのような人間は、つい上からの目線で、「汚いな」「貧しいな」と優越感を持って見てしまう。でもそういうことは絶対に出してはいけないし、悟られてはいけないことだと思う。もしそういう態度が出てしまったときは、素直に認めて謝ることも必要です。ぼくは決して立派な人間じゃないから、もしそういう態度をとってしまったら叱ってくれてかまわない。そこまで腹を割って、こちらもさらけだすようにしないとだめだと思うんです。
カメラというのは一種の暴力装置のようなものでしょう。その前で、つらい過去を話してほしいなんて、自分の腹を斬れと言っているようなものですよ。それだけの覚悟をして話をしてくれるんですから、その覚悟に対して自分がどれくらいの人間でいられるか。「こいつの前でなら腹を斬ってもいいや」と思われるくらいにならないと、個人史なんて語ってもらえませんからね。
知られたくなかったでしょうね。でもああいうことはいっぱいあります。現実と理想があまりにも乖離していることを知りながら、彼らは理想を語っていかざるをえない。そのために自分を痛めつけて現実のなかで生きている。辛いですよね。でもそれを撮るのがぼくたちの仕事でもある。相手が傷ついていようが、撮らないといけないものは撮る。だからこそ、「こいつになら傷つけられてもいい」という信頼関係ができているかどうかが大きいんです。それがなければカメラを向けてはいけない。
サランさんもきっとそこをわかってくれたんだと思います。誰にも知られたくなかったはずの物乞いのことを、話してくれましたからね。
註)浅野氏による『テレビマンユニオン・ニュース』の原稿「ハンセン病を撮る」は、当サイトのTopics(2015年10月30日)に全文が掲載されている。
取材・編集:太田香保 / 写真:長津孝輔