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People / ハンセン病に向き合う人びと

遠藤 邦江(菊池恵楓園入所者)

2002年、熊本市現代美術館の開館記念展覧会で、ひときわ来場者の目を引いた展示があった。
子どもをもつことが許されなかったハンセン病療養所で、夫婦が我が子のようにいつくしんできた人形「太郎」である。
いまも太郎ちゃんとなかむつまじく暮らす遠藤邦江さんの住まいを訪ねて、
療養所での暮らし、故郷への思いなど、さまざまなお話をうかがった。

Profile

遠藤邦江氏
(えんどう くにえ)

1939(昭和14)年、長崎県生まれ。1953年5月4日、菊池恵楓園に入所。園内の分校で中学を修了。公民科(中学卒業者が在籍)で一般的な教科とともに、洋裁や編み物を学ぶ。公民科に在籍中に夫となる男性と出会い、20歳のときに所内結婚。大島紬を織る内職に従事した後、自治会事務所に務め、このとき療養所の歴史などを学ぶ。1998年、「子ども」をテーマにした第4回お茶の間論文コンクール(九州電力熊本支店・熊日共催)に応募した「太郎の年齢」が優秀作に選ばれた。現在は「新聞や書籍を読んだりして過ごしている」日々とのこと。

隠し事を抱えた母と娘、
そして兄とともに療養所へ

遠藤さんは、外見ではハンセン病の後遺症が
まったくないように見受けられますね。

  • 1929(昭和4)年、入所者の脱走防止のためにつくられたコンクリートの壁。隔離の時代をものがたる歴史的遺物としていまもその一部が残されている。

でも、手と足が悪いんですよ。右手が部分的に麻痺しているんです。足のほうがもっと悪くてね。感覚がないから歩くと足裏に血豆ができるんです。それで足を固定する手術を受けました。

ここにいる職員さんたちも、手足が麻痺しているという感覚がどうしてもわからないって言いますね。そりゃわからないでしょう。健康な人にはね。石に当たっても痛みがない。自分で足首を持ち上げることもできない。麻痺しているほうの右足だけ筋肉もやせて細くなっちゃってるから、こうしてスボンばっかり履いてるの。

最近、電動車を買ったんですよ。そうしたら皆さんから「自分で歩かんようになったらよけい足が悪くなる」って心配されて。「あんまり機械に頼ったらいかんよ」って。

ここ恵楓園にはいつ来られたんですか。

昭和28年、13歳のときです。その1年前に、先に兄が入りました。私は8人きょうだいの末っ子で、上の兄や姉たちはもうみんな結婚して家を出ていたので、母と兄と私の三人で暮らしていたんです。兄は重症だったので、県から勧められてここへ来ました。本当は、私も兄と同じ年にここに来ることになっていたんですが、母が「二人いっしょに行かれてはつらすぎる」というので、小学校を卒業してから1年間は家にいて、翌年に入所しました。

病気のことに気付いたのはいつごろでしたか。

6歳のとき、足のふとももに斑紋がでてきたんです。自分で気づいて「母ちゃん、ここになんかできてる」って言いました。母も私もそのことは人に知られてはいけないと思っていました。それがつらかったですよ。小学校4年生になると顔にも出るようになってしまった。

いまも忘れられないことがありましてね。学校で女の子同士、縄跳びをして遊んでいたとき、「一人だけ参加できない人をジャンケンで決めよう」っていう話になったんです。「私を除け者にしたいんだな」とすぐ思いました。だから絶対にジャンケンに負けたくなかったのに、運悪く負けて、はずされてしまって。心に隠しごとがあるから、ほっとした反面、とても悔しかった。そのことは母にも言いませんでした。

でも、兄の病気をすでに知っていた近所の人たちからも、そんなに嫌な目に合わされたことはなかったんですけどね。

ハンセン病というのは、人によってぜんぜん出方が違うんです。兄は熱コブができて、しこりになって、それがはじけて化膿して、ひどかった。原子爆弾にやられたみたいに皮膚がひきつってしまって。でもここに来て、ひさしぶりに兄に会ったら、傷が治ってたんです。ひきつってはいたけど、熱コブがなくなって傷が消えていた。プロミンのおかげでね。

遠藤さんもプロミンで治したんですか。

プロミン注射を打ったら、蕁麻疹が出てしまって、あまりにかゆくてたまらないからやめたんです。プロミンは結節型には効くんですが、私みたいな神経型にはあまり効かないらしくて。そのあとDDS(ダプソン)を少し飲んだんですが、医師は「あなたのような型は自然治癒することもある」と言ってました。だからあまり長くは薬を使わずに済んだんです。

それでも、「家に帰ってもいいよ」とは言われなかったんですか。

言われませんでしたね。足がここまで悪くなければ、ずっとここで暮らす必要はなかったのかもしれません。母親も「帰ってらっしゃい」って言ってくれたかもしれない。

アルバムに貼られている新婚時代の遠藤さん夫妻の写真(昭和34年)。

友達に祝われた結婚、
精魂こめた大島紬の仕事

入所してからはどんな毎日でしたか。

最初に少年少女舎というところに入りました。部屋が10ほどあって、小さい子、中くらいの子、大きな子を3~4人、組み合わせて同じ部屋に置いてくれるんです。すぐにきょうだいみたいに仲よくなりました。そこに「お父さん・お母さん」がいるんです。私のころは二組のご夫婦が、70人もの子どもたちを見ていたわね。そこから、園内にある中学校の分校に通うんです。

中学を卒業すると、「公民科」というところに移って、まあ高校みたいなところですね。入所者と職員たちが先生をしてくれて、勉強したい人たちの面倒をみてくれるんです。女性は洋裁とかミシンの使い方とかも教えてもらいました。中学3年のとき、自治会からサッカー生地(夏服に使われる綿生地)が配られて、自分たちでワンピースなんかをつくりましたよ。

邑久高校(長島の新良田教室)の試験を受けるために公民科で勉強する人もいました。杉野桂子さんには昨日会われましたよね。桂子さんもそうやって勉強して長島に行きましたよ。私も行きたかったんですけど、園長先生から「あなたのその足では長島での生活は大変すぎる。あきらめなさい」と言われてしまった。受け持ちの先生といっしょに涙顔になったもんですよ。

「邦江」という名前は、やはり園名(*註)ですか。

本名です。結婚して遠藤姓になりましたが、その前は松尾邦江っていいました。来たばかりのころは悲しいばかりで、名前のことはよくわからなかったんですが、私は本名のままでずっときましたよ。私を連れてきた母と三男の兄が「本名でいい」と言ったんだと思います。

先に入所していた兄は、その後、鹿児島(星塚敬愛園)に移って、いまは風見治っていうペンネームで通ってます。『鼻の周辺』という本を書いたりしました。よく小説などでハンセン病のことを書くときに、「鼻が崩れ落ちた」って表現をしているでしょう。兄はまさにそれだったんですよ。鼻がなくなってしまった。その体験をもとにした小説です。もうひとり、べつの兄は新聞社につとめていたんですが、うちの兄弟はどうもものを書くことが好きみたいですね。

結婚はいくつのときにされたんですか。

  • 昭和30年代のハンセン病療養所では、このように若々しく輝いている男女であっても、社会に出ることが公的には許されていなかった。

20歳のときでした。主人は9つ年上でね。私、甘えん坊だったから、なんか頼りがいがあったというか。大人っぽいところに惹かれたんでしょうね。

男性寮の十何畳ほどある広い部屋に、私と主人のお友達やお付き合いのある人に集まってもらって、お祝いしました。結婚式のことを「ゼンザイ」って言っていましたよ。そういうごちそうをつくってお祝いすることを言うのね。私のときはそんなごちそうなんてなかったけど、紅白のナマスをつくったのを覚えてます。そのころの写真、お見せしましょうか(アルバムを見せてくれる)。この写真、結婚したばかりのお正月に撮ってもらったの。ちょうどカラー写真の出はじめのころにね。それまでは写真と言えば白黒しかなかった。

結婚すると夫婦舎に行くんだけど、私たちのときは空きがなくてね。あのころはね、夫婦舎の人が亡くなると新婚の者は喜んだものでしたよ(笑)。「今度、ひと部屋空くらしいわよ」なんて噂してね。残されたつれあいは独身舎に移るから。

写真を拝見していると、
若いころの遠藤さん、着物姿が多いですね。

まだそういう時代だったんですよ。長崎の姉たちもよく和服を着ていたものです。

そうそう私ね、大島紬を織ってたんです。入所者の身内の方が、奄美で紬織の工場をしていたの。そこの人から教わって、女性たち何人かで大島を織る仕事をさせてもらったんです。

それはそれは根気のいる仕事でね。経糸と横糸で細かい模様を出していくから、一本ずつ揃えていくのが大変でした。機に糸を張るときがまた一苦労で、旦那さんたちにも手伝ってもらって4人がかりでしたよ。高級品ともなると織りあげるまで何カ月もかかったけど、そのぶん織り賃も高かったですよ。ここにいると障害者年金ももらえるし給食もあるけれど、やっぱり電気製品も買いたい、洋服も買いたい、おいしいものも買いたい、外出もしたいというので、そうやって自分たちでできる仕事があれば喜んでしたものですよ。

10年くらいも続けたかしらね。私、いまこんなに足腰が悪いのは、あのとき機織りで無理しすぎたせいじゃないかとも思うんですけどね。

註)日本の療養所の入所者は、厳しい偏見と差別から身を隠し家族を護るために「園名」を使うことが奨励され、大半の入所者は固有の名前を捨て、偽名で生きた。

夫婦のもとにやってきた、
秘密の子ども・太郎ちゃん

そして、さきほどから私たちの話をいっしょに聞いている、こちらが太郎ちゃんですね。
井上佳子さんの『孤高の桜』を読んで、ぜひ会いたいと思ってきました。

デパートの玩具売り場で見つけたのよ。売られていたときは女の子だったと思うんだけど、私が男の子にしちゃった。男の子が好きだったから。ここに連れてきたのが昭和43年だから、もう47歳くらいになるのかな。でもずっと子どものままね(笑)。

この洋服は、赤ちゃん用の洋服を買ってきて自分で補正して着せているんですよ。もう何着そうやってつくってあげたことか。このくまモンのバッジは、熊本市現代美術館の館長をしてらした南嶌宏先生が付けてくださったの。南嶌先生は、美術館が開館するときに、太郎を貸してほしいと言われてね。太郎をブランコに載せて展示してくださったんですよ(*註)。

なんとも愛くるしい表情ですね。

お目目なんか本当に何かを見ているみたいでしょう。口元もかわいくて。私、この子のことはお人形さんとは思っていないですよ。本当の子どもだと思ってきましたもん。

こういう話をするとね、女性は皆さん共感してくださるんだけど、男性はあまり関心ないみたい。だから男性のお客さんが来るときは、太郎を隠しちゃうの(笑)。

ご存じのように、ここでは夫婦になっても子どもをもつことが許されなかったですからね。私も結婚後すぐに妊娠したんですが、中絶しました。産めないことは知っていたんですが、女性として妊娠はしたかった。私の勝手かもしれませんが、赤ちゃんを宿す体験だけでもできたから、それでいいと思った。でも、やっぱりね。子どもを堕ろすというのは、つらいことでしたよ。3カ月になったばかりのころでしたから、男の子だったのか、女の子だったのか、それもわからないままでした。

ご主人は、初めて太郎ちゃんを見たときなんておっしゃったんですか。

  • 昭和46年ごろの遠藤さんと太郎ちゃん。

「かわいい」って言ってくれましたよ。「女の子かな、男の子かな」と言うので、私が「男の子にする」と言ったら、「太郎」って名前を付けてくれたんです。そうして私たちだけの秘密の子どもになりました。だって、よその人から見ればやっぱりヘンに思うでしょう。実際にも、太郎よりも大きな人形をどこへでも連れていくご夫婦がいたんですが、いろいろ言われるのを聞いていましたから。

でも主人も本当の子どものようにかわいがってくれました。夜寝るときに私のふとんに入っていた太郎が、朝起きると主人のふとんで寝ているなんてこともありましたよ(笑)。

主人が昭和63年に亡くなってからは、ずっと太郎と二人暮らしですよ。

長崎に里帰りはされているんですか。

いまはね、各県の出身者ごとに「里帰りツアー」というものがあるんですよ。長崎県の出身者は元気な人が多いから、今年も10人くらいで平戸に行きました。楽しかったですよ。大きなホテルに泊まって、ごちそうをよばれて、カラオケして(笑)。

まだ長崎に身内の方はいらっしゃるんですか。

甥や姪がいます。東京にも姪がいて、みんなここに遊びに来てくれますよ。

母が生きているころはよく実家に帰りました。私が帰ると、その晩は姉たちもみんな帰ってきてくれて、いっしょにお酒を飲んだりしましたよ。それでも冠婚葬祭には呼ばれることはなかったですね。母より兄が先に亡くなったんですが、そのときはあとから母からの手紙で知らされました。母が亡くなったときも、「いま亡くなった」って電話をくれましたが、行くことはできませんでした。親戚やいろんな人が集まるところへは、やはり呼んではもらえませんでしたね。

でも、私にも「家族を守ってあげないかん」という気持ちがあるんですよ。よく実家に行けるようにしてあげるというボランティアの方がいるんですが、私はあれには反対です。ちゃんと考えがあって家には帰らないようにしている人もいるんですよ。私のほうに偏見や差別があるからかもしれませんけど、本人が「いらない」と思っていることはしてほしくないんです。

私たちも、あともう10年も生きられないかもしれないわけですし、いまさら家族に負担はかけたくないですよ。それに、いまはここにいるお友達がきょうだいみたいなものですからね。

註)太郎ちゃんは、熊本現代美術館開館記念展「熊本国際美術展:ATTITUDE 2002-心の中の、たったひとつの真実のために」で、内外のアーティスト作品とともに展示された。

取材・編集:太田香保 / 写真:近藤さくら