People / ハンセン病に向き合う人びと
国立第2号のハンセン病療養所として1932年、群馬県の草津に開設した「栗生楽泉園」。
当初は強制隔離政策の受け皿だったこの施設も、「らい予防法」が廃止された今は開かれた施設となり、
高齢になった回復者たちが穏やかに暮している。
終戦の直前に19歳で入所し、長年にわたり自治会長を務めている藤田三四郎さんと、
小学生の頃から人生の大半をここで過ごしてきた岸従一さん。
お二人に、楽泉園の今と昔のことなどを語っていただいた。
Profile
藤田 三四郎氏
(ふじた さんしろう)
栗生楽泉園入所者自治会長。1926年茨城県で生まれる。1945年に同園に入所し、翌年にふさ夫人と結婚。1958年から自治会役員を務め、ハンセン病患者・回復者の人権回復や療養生活向上などの運動をしてきた。現在も、高齢化の進む入所者が安心して療養生活を送れるよう、各所への働きかけを続けている。一方、私生活では川柳や詩の同人としても活躍。2001年に茨城新聞「詩壇」後期賞受賞。2002年に群馬県から県功労賞を受賞。座右の銘は「一生青春・一生勉強」。2020年、享年94歳にて逝去。
岸 従一氏
(きし よりいち)
栗生楽泉園入所者自治会厚生常任執行委員。1939年埼玉県で生まれる。1949年に11歳で同園に入所。園内で大人の患者が教師を務める「望学園」で学ぶ。21歳のとき、千恵子夫人と結婚。現在は自治会活動の一環として、ゲートボールクラブを率いている。
藤田 尋常小学校を卒業してすぐ、少年航空兵として陸軍に入隊しました。宇都宮の大中隊に配属されて戦闘機の整備に従事していたのです。1944年、沖縄戦に行くために舞鶴へ向かうことになっていましたが、輸送船が攻撃を受けてだめになり、宇都宮へ帰っていました。中島飛行機の工場で、特攻隊の飛行機を作っていたのです。
終戦の年になり、春先に手にやけどをして軍医の診察を受けました。すると宇都宮陸軍病院に行くように言われ、そこですぐ伝染病棟に入れられました。後からわかったことですが、このときの軍医は栗生楽泉園から招集されたハンセン病の専門医だったのです。その軍医が見習い士官に「あの患者はレプラだ」と言っているのが聞こえましたが、それがいったいどんなものか、知る由もありません。
7月に「兵役免除に処する」と申し渡されたときも不思議でした。もし法定伝染病であれば兵役免除ではなく、感染拡大を防ぐために中隊全部が外部との接触を遮断されるはずで、私一人が兵役免除というのはおかしい。わけもわからず、護送されることになりました。衛生兵に付き添われてトラックで宇都宮駅に着き、電車に乗り換える。白衣を着た私の歩く後を係が付いてきて消毒するので、お年寄りや女の人たちの視線を浴びてね。郵便車に乗るように促され、見ると「癩患者護送中」と看板がかかっていました。それで癩病、つまりハンセン病だとわかったのです。あのときの気持ちは、どう表していいか、何とも言いがたいですね。血の気が引きました。
栃木の小山あたりでグラマン戦闘機がバラバラと機関銃を撃ってきました。「退避しなさい」と言われたけれど、私は「ここで死ねば本懐だ」と逃げなかった。ところが、それがよかったのです。退避した人は銃弾に当たってバタバタと倒れていたけれども、私と衛生兵は列車の中でじっとして無事でした。高崎でも同じ目に遭ったものの、やはり退避せずにやり過ごし、なんとか軽井沢に着きました。ホームの割れ目に、月見草の黄色い花が咲いていたのを覚えています。軽井沢からチンチン電車に乗って約40キロ、2度脱線しながらようやく草津へ着きました。
岸 私は1949年、11歳のときにここに来ました。家に突然、保健所職員がやってきて家族を検査したら、父と私が感染していることがわかったのです。父は私の体に石を巻き付けて、二人で近所の池に飛び込もうとした。でも、大声で泣き叫ぶ声を聞きつけた母が止めに入って助かった。それで、私だけ栗生楽泉園に入ることになりました。
草津駅で電車を降りたはいいが、子どもだからどこへ行けばいいかわからない。駅員に聞こうとすると、「君は楽泉園へ行きなさい」と言われて園に連絡してくれました。目立った病変はなかったけど、手などを見て、ハンセン病だとわかったんだと思います。楽泉園の職員が迎えに来てくれて、無事に園にたどり着くことができました。
藤田 着いた晩は、ふとんの中でノミ、シラミ、南京虫がどんどこ攻めてきて眠れませんでした。仕方なく早朝に散歩に出ると、草津は高原だから、朝は素晴らしくて、天国に来たように感じました。それまで3カ月、暗い病室にいましたからね。でも、部屋へ戻ってみると、同室の人たちの症状が重くてびっくり。朝食が喉を通らなかったほどです。入所手続きに行くと、「ここでは名前を変えなさい」と言われ、夏目漱石の「三四郎」から取って「藤田三四郎」と名乗ることにしました。
当時、園内の仕事はほとんど入所者自らの手で行っていました。軽症だった私は、義務看護を命じられ、全盲の人の手助けや気管切開を受けた人の痰の吸引、顔が潰瘍でドロドロになった人に軟膏を塗るなどの作業をしました。もっともきつかったのは「炭背負い」です。六合(くに)村の炭倉庫まで10kmほどの距離を歩いて行き、1俵の炭を背負って帰ってくる。夕立に遭ったときは大変でした。けもの道ですから、雨が降ると土砂がザーッと流れ出す。石黒さんというおばあさんと一緒だったので、その人の分も炭俵を背負い、びしょぬれになってやっと帰って来ることができました。あのときのことは忘れられません。
戦後になって人権闘争が始まり、「重監房」と呼ばれた特別病室の撤廃、プロミン(ハンセン病の特効薬)の獲得運動などが起こり、私も患者仲間とともに活動に参加しました。こうして園内作業は職員の仕事となり、やっと療養に専念できる環境になったのです。
岸 私が入所したのは、ちょうどプロミンが出始めたころでした。療養所では「プロミンは子ども優先」ということで、すぐ治療をしてもらえました。でも人によって副作用があるんですよ。「熱瘤(ねつこぶ)」といっておできのようなものができる人や神経痛が出る人、なんでもない人、いろいろでした。私は熱瘤のたちで、ポコッと瘤ができるときに39度ぐらいの熱が出る。プロミン注射をやめるとすーっと熱が引いて、しばらくして注射を打つとまた熱瘤ができる。その繰り返しでした。
藤田 最初はプロミンの配付も十分ではなかったから、まず児童を優先し、残りは抽選だったんですよ。重症者で外れた人が煙突に登って抗議したり、軽症で当たった人が重症者に譲ったりすることもありましたね。
岸 学校は園内の「望学園」に通いました。ハンセン病患者の自治地区となっていた湯之澤集落にあった「望小学校」を移築したもので、楽泉園ができる前に宣教師のコンウォール・リーが建てた施設です。教師の役割は、入所者の大人が務めていました。そこに毎日通うんだけど、治療のときは授業を抜けていいことになっていた。「先生、ちょっと治療に行ってきます」「おう、行ってこい」なんて言って、そのまま街へ遊びに出掛けたり(笑)。楽泉園には柵や垣根はなかったし、自治会に届けを出せば外出もできた。でも、子どもだからかまわず出て行っちゃう。門衛が追いかけて来たけどね。
草津町の人たちから、面と向かって差別されるということはありませんでした。昔から湯之澤集落とのつながりがあったからだろうね。草津の人が園内に団子を売りに来ることもあったし、園では鶏を飼っていたので卵を買いにくる人もいました。ただ、一度だけ、夏祭りの日にラーメンを食べに入った店で断られたことがあった。映画館にもよく行きましたよ。看護師さんにいっしょに行ってもらって、切符を買ってもらって、目立たないように中に入ったりしてね。
岸 吾妻郡の大会では1位か2位になったけれど、たいしたことありません(笑)。群馬県下にはもっと強いチームもあるし、ハンセン病療養所で強豪といえば、熊本の菊池恵楓園ですよ。全国大会で何度も優勝しています。
1984年に楽泉園のゲートボールクラブができて、最初のうちは120人ぐらい会員がいたかな。もともとリハビリ科の運動の一環として取り入れられたのです。そのうち他園との親善交流が始まり、東北新生園(宮城県)の人たちを招いたときにゲートボール場をつくった。これをきっかけに本格化して、クラブ活動になりました。みんな若かったから、午前中の作業を終えて、夕方から練習を始めてね。暗くなって、赤い球か白い球か見分けがつかなくなるぐらいまで熱中したものです。クルマをすぐそばまでもってきて、ライトで照らしたりしてね(笑)。審判員の資格を取った人も4人いました。
群馬県ゲートボール協会にも楽泉園から3チームが加盟していたのです。ところが、さらに3チームを登録しようとしたら、「ハンセン病の人がいると大会の出場者が減る」と言われて不承認になってしまった。県に陳情しても、私設の団体だから管轄外ということで何もできない。県の職員が気の毒がって、何度か一緒に遊んでくれたものでした。再加入できたのは、12年もたってからでした。
藤田 県大会の予選に参加できるというので、喜んで20人ぐらいのメンバーで会場に行ったら、「会則が変わってハンセン病の人は出場できない」と言われてそのまま帰ったこともあったね。1996年にやっと「らい予防法」が廃止されて、「もういいだろう」と交渉して、やっと2000年からだね、県の大会に出場できるようになったのは。それ以降は交流試合もできるようになりました。
岸 春と秋にはいろいろな試合があって、毎年出場しました。みんな何十年もここに住んでいる人たちだから、お互いに気心も知れているし、技量もわかる。だから、チームワークがいいんだろうね。身体が不自由でも、うまい人はうまい。なかには「障がいがあるからだめだ」と言う人もいるけど、「やるからには上達しよう」と考える人はなんでもうまくなるんですよ。
試合では、身体が不自由かどうかなんて関係ない。ゲートボールって頭脳戦ですからね。意地悪なゲームですよ(笑)。相手の球をみんな外に出しちゃうんだから。でも、そこがおもしろいんだ。ルールは紅白5人ずつに分かれて、各自が順番に自分の球を打っていく。球がゲートをくぐったら1点、3つのゲートをくぐって最後にゴールポールに当てれば5点。勝負を決めるのは、自分のボールをゴールに持っていくことより、いかに相手チームの邪魔をするか。敵のボールをアウトにして、味方を手助けする。それには作戦が必要で、いつも同じメンバーで一緒に練習しているから、ぼくたちはうまくできるんだね。
今は入所者もみんな歳とって、会員も減って、残っているのは10人ぐらい。親睦を兼ねて、月に1回ぐらいは「やるべえ」って言って集まるけどね。藤田さんも最初のころは参加していたよね。
藤田 10年間ぐらいはやったよ。私は球より速いんだよ(笑)。協会主催の大会に出場できなくなってからは、近接町村を招き、楽泉園の中で園長杯ゲートボール大会を開いていました。これは昨年まで15年間続けましたよ。
栗生楽泉園納骨堂の傍らにつくられた堕胎児の供養碑
藤田 らい予防法の廃止後、熊本の入所者が違憲を訴えて国家賠償を求めた裁判は、2001年に原告側の全面勝訴に終わりました。国は被害回復を約束し、年金給付と生涯保障(入所者が希望すれば最期まで療養所にいることができる)を約束してくれた。真相究明にも乗り出し、その過程で全国の療養所や研究所にホルマリン漬けの堕胎児が全部で114体も保存されていることがわかったのです。ハンセン病患者は、かつて断種・堕胎が強制されていましたから。このうち1体は楽泉園入所者の子どもでした。その他、入所者自身の申し出によれば、26人の堕胎児がいたことになります。2007年、私たちは慰霊祭を行い、納骨堂の隣に「命カエシテ」の文字を刻んだ供養碑を建てました。
こうした問題が決着して、残っているのは差別や偏見の問題だけです。これについては、まだまだやらなければならないことがあります。
岸 1944年に1,335人いた楽泉園の入所者も、今(2015年6月現在)では91人に減っています。3分の1ぐらいの人は元気で、認知症の人も少ない。他の療養所と違って、不自由者棟でも食堂に集まっておしゃべりしながら食事をしたりお茶を飲んだりしているのがいいのかもしれないね。
国は「最後の一人まで責任を持って面倒を見る」と言っているけれど、何をどのように支援してくれるかははっきりしません。同年代が集まると「誰が最後に残るかな」なんていう話になるけど、やっぱり不安もあります。
藤田 楽泉園の将来構想として私たちは、園内の病院外来を地域に開放すること、ハンセン病回復者だけでなく、障がいをもつ人、高齢者などを広く受け入れる公共施設とすることを要望しています。楽泉園は現代的な施設に建て替えてありますから、群馬県内の老朽化した障害者施設の人に利用してもらえばいい。国がそういう方向へ動いてくれれば、と思っています。
私はいま89歳。ハンセン病になってから70年生きています。まさかこんなに長生きできるとは思いませんでした。生きていること、生かされていることが最高の喜びです。衣食住が満ち足りて、本当に感謝の毎日ですよ。
取材・編集:三上美絵 / 写真:川本聖哉