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People / ハンセン病に向き合う人びと

藤原 登喜夫(神山復生病院入所者)

「島の外の世界を見たい」一心で長島愛生園から脱走したときから、藤原登喜夫の世界放浪が始まった。
神山復生病院でキリスト教の精神に触れ、国立療養所にはない自由な環境と励ましを追い風に、
聖フランシスコ・ザべリオの足跡を負ってアジアと世界を旅した。
バックパックを背負って、ヒッピーのようにインドとネパールを回った。
いまでは数少なくなった神山復生園の入所者の一人である藤原さんの人生の道のりは驚くべき冒険心に満ちていた。

Profile

藤原登喜夫氏
(ふじわら ときお)

1933(昭和8)年、岡山県玉野市に生まれる。9歳のときにハンセン病を発症し、1945(昭和20)年5月に長島愛生園に入所。すぐに栄養失調になり結核に感染。1954(昭和29)年3月より、神山復生病院に入所し現在に至る。

愛生園から全生園、そして復生病院へ
信仰のきっかけ--「結核」と「ハンセン病」

「藤原登喜夫」さんの名前はご本名ですか。それとも院内名を使っていますか。

  • 創建時(1897年)の姿に復元され、2016年11月26日よりリニューアルオープンした復生記念館。

  • 病院の南側には茶畑、西には「かえでの森」。病院の広大な敷地は美しく豊かな自然に恵まれている。

  • ハンセン病療養所として使われていた旧病棟は解体され、2002年より療養・ホスピス病棟と一般外来も受け付ける病院として再スタートした。

  • 聖堂は病院の理念を象徴する場所。2002年に新病棟とともに新しく建て替えられた。

本名です。私は復生病院の死者名簿を管理しています。名簿を調べてみたら、ここで大正時代に亡くなった人は4、5人なんですが、みんな本名でした。昭和に入ると名前を変える人も出てきます。復生病院で亡くなった方のなかには、国立の療養所から移ってきた人もわりとたくさんいるんではないかなと思います。多いときは150人もの患者が集まったこともありましたね。今年、2人亡くなって、今は5人になってしまいました(2016年12月)。5人にはなってしまいましたが、生きているあいだに記念館が完成してくれたのは嬉しいですね。私たちは故郷から逃げるようにしてここにやってきた者たちです。ひと昔前であれば、お墓を持つこともできなかった。この世に生きていた証を持つことができなかった。死んだら忘れ去られてしまっていたと思うんです。でも、記念館ができることになって、私たちが生きていた証を示すことができます。ありがたいですね。

生きていた証を残したいという思いもあって、いま語り部としてお話しされているんですね。

いえいえ、語り部ということもありませんけどね。お客さんが来て、話をしてくれと言われたらできるだけ話をするようにはしています。

藤原さんも国立の療養所から移ってきた方の一人ですよね。もともとは長島愛生園にいたと聞きました。

愛生園にいました。昭和20年5月に12歳で入所して、復生病院には昭和29年の3月頃に来ました。12歳のときから島の療養所に入っているとね、外がどうなっているのかが知りたくなるんですよ。陸地の療養所の、とくに全生園は憧れの地でした。だからはじめは全生園に行くつもりで愛生園を出ました。ただ、国立から国立の療養所に移るのはなかなか難しいことなんです。島や地方の療養所から全生園に行きたいという人はたくさんいたと思うので、それをすべて全生園で受け入れるわけにもいきませんよね。しかも、私の場合は脱走だった(笑)。全生園はダメだったんですが、国立から私立へは比較的に移りやすかった。私立の場合は患者を受け入れなければいけないという義務はないんですけどね。復生病院のことは脱走する前に情報を仕入れていました。療養所にいると、どこがどうなっているかということはだいたいわかるんです。

長島愛生園の悪口を言うわけではありませんが、愛生園に入ったときは社会の外に追い出された感じがしました。でも復生病院に来たときは、社会に帰ってきたと感じることができました。外への出入りも自由でしたからね。今、時之栖(ときのすみか)というレストランやホテルがあるあたりに、かつて県の畜産試験場があったんですが、そこも当然のように自由に出入りして、牛の乳を搾っているのを見たり、犬が羊を追っていく姿を見たりしていましたね。

ここでは、病院が一つの家族のような共同体のようになっていて、たとえば燃料が必要なときには患者が木を伐りにいきます。伐った木は薪小屋に持って行く。薪は炊事場であろうが、診療所であろうが、必要なところに持っていくのが当然のことでした。患者が伐ったから患者の木だとか、そんなことは考えません。いつもみんなのためにやるのが普通のことなんですね。だから、昔は生活は厳しかったけれども、自由もあったし、とても暮らしやすかった。今、記念館に展示されているかどうかわかりませんが、最初の日本人院長の岩下壮一は、患者を率先して箱根に連れて行ってくれました。本当はダメなんですよ。たぶん違法だと思う(笑)。

ピクニックの写真をみましたよ。まさか違法とは知りませんでしたが(笑)。

その写真は復生病院が不法なことをやったという証拠写真になりますね(笑)。ピクニックに行くにしても、県内は院長の許可でいけるんですが、県外はダメだったんです。でも、ここにいるとそれが悪いことだとはまったく思いませんでした。

ピクニックの写真の近くに、患者さんが馬に乗っている写真もありましたね。

昔はここも馬が2頭いたんですよ。馬がないと農業ができなかった。トラクターがない時代ですからね。ほとんどの農家は馬を持っていて、病院のすぐそばには馬を走らせて遊ぶ草競馬場もあったんです。患者が乗った馬も出て、たまに優勝していましたね。まあ、景品があったのかどうかはよく知りませんがね(笑)。私も木を伐りに行くときは馬に乗っていました。

「聖体行列」の写真はありませんでしたか。ここはカトリックの病院なのでね。病院内に飾りつけをして、御聖体をかざして歩くんです。私がこの病院に来たときは、今の駒門駐屯地の自衛隊が来て、その自衛隊の家族も一緒に行列に参加したり、聖体行列の上をヘリコプターが飛んでいたり、とても賑やかでした。代々、院長が外国人だったことも関係していると思いますが、米軍のキャンプからもいろいろ支援してもらいました。横須賀や座間、厚木のキャンプからはいまだにクリスマスプレゼントが届きます。若かったときには座間のクリスマスイブのミサに私たちから出向いていました。24日の23時頃から始まって、翌朝の午前3時くらいに朝帰りしたり。厚木でも独立記念日に呼んでもらっていました。

愛生園との違いにかなり驚かれたんじゃないですか。

  • 晴れた日は富士山を望むことができる。かつては薪を得るために富士山の麓まで患者自ら足を運んだ。

  • ハンセン病患者にとって天国のような場所だった復生病院に通じることから「天国橋」と呼ばれた。

私がここに来て最初に驚いたのは、病院の敷地内に丘のようなちょっと高いところがあって、そこに座っていたんですけどね。フラッと知らない人が隣に座って、話しかけてきたんですよ。病院の仲間にさっきの人は誰なんだと聞いたら、そばに住んでいる村の人だよって言うんです。あと、長島では虫明からのバスに絶対に乗せてくれなかった。でもここではいくらでもバスに乗れたし、バス停に立っていれば、車が停まってくれて、三島でも沼津でもどこでも行くことができました。

とは言っても、はじめはここに居ついてしまうつもりはなかったんです。ところが、私が長島愛生園に入った昭和20年は国中が飢えていた時代でした。ともかく食べ物がない。5月に入所してまもなく栄養失調になりました。全国で食糧難の時代でしたから仕方ありません。ただ、どうやらそのときに結核にかかっていたらしいんです。当時、日本で最も嫌われていた病気というのが2つあって、それが「ハンセン病」と「結核」でした。復生病院に来たときも吐血しました。この2つの日本で最も嫌われた病気を持っている私を真剣に看護してくれたのが外国から来たシスターたちでした。もう自分は死ぬだろうと思った。でも、もしも命を取り留めることができたら、この人たちの信仰を勉強してもいいかなと思いました。そのとき死んでいたら、どうして産んでくれたんだと親を恨んでいたと思います。

ここには、天国に通じる橋、「天国橋」という名の橋があったんです。復生病院ができた明治22年は、東海道線が全線開通した年でした。今の御殿場線が東海道線の頃ですね。その時代になると、大きな町にはキリスト教の学校や教会ができて、国立療養所がまだない時代なので、河原なんかで暮らしていたハンセン病患者たちがそこに物乞いに行くようになる。そのうちに復生病院のことを知るわけです。復生病院に通じる橋を渡る前までは、時には石を投げられながら生活していなければなりませんでした。ところが、橋を渡ると人の愛情を感じながら生活することができる。国立療養所みたいに隔離されることなく、いつもみんなが平等です。こういう天国のような場所に通ずる橋だということで「天国橋」と呼ばれるようになったんですね。これは病院や院長が名付けたわけではなく、患者たちが自然とそう呼ぶようになったんです。一般的には、療養所というと橋を渡ったら地獄だったと思われるかもしれませんが、ここはそうではないんですね。

昭和35年あたりになると、国からも社会復帰をする準備をしなさいと言われる時代になる。昭和30年代の終わり頃は、為替レートが1ドル360円で、360ccの軽自動車が全盛期の時代です。当時、病院の外の友人からハワイに行かないかと誘われました。もちろん、外国なんて行けるはずがないと思いました。でも物は試しだと思って、当時は県庁でしかパスポートを取ることができなかったので、まず県庁まで恐る恐る行ってみたんです。そしたら、担当者はすぐに私の手が不自由だとわかったらしくて、代わりに書類を用意してくれて、ローマ字でサインだけしてくれと言われて、簡単にパスポートが取れちゃったんです(笑)。でも海外に行くためには、行かなけれないけない場所がもう一つあります。私たちが最も行きたくない場所でした。それは医者のところなんです。当時、外国に出るときは天然痘の予防注射したことを証明するイエローカードが必要だったんです。こちらも恐る恐る行ってみると、もう、あっという間にやってくれました(笑)。でも、復生病院の院長にはパスポートのこともイエローカードのことも内緒にして、申請を全部終えてから、「ちょっとハワイに行ってきます」と伝えました。喜んで見送ってくれましたよ。ハワイには2回行きましたね。韓国は5、6回行きました。一番の長期滞在はインドとネパールに2ヶ月くらい。リュックサックを背負って放浪してきました(笑)。

インドとネパール
どこに行っても出会うハンセン病

インドやネパールはずっと行きたいと思っていた場所なんですか。

インドに行く前の年、フランシスコ・ザベリオの遺跡を訪ねようと話していたんです。マレーシアのマラッカ海峡のところに、最初にフランシスコ・ザべリオが埋葬された教会があるんです。それ以前にヨーロッパに行ったり、韓国に行ったりはしていましたが、東南アジアへ行くとなると、たいがい体を壊しますよね。病院も心配するかなと思って、横浜の方に1ヶ月間行ってきますと言って、そのまま内緒でタイ、マレーシア、シンガポールに行ってきました(笑)。でも、帰ってきたら、頬はこけてるし、肌は黒くなっているし、かなり疑われましたね。有名な遺跡とかの石が欲しいという友人がいて、タイだったら映画「戦場にかける橋」に出てくるクワイ川の河川敷の石とか、その人にお土産として各地の石を持って行ってあげるようにしていたんですが、そのお土産の石とか荷物を自分の部屋で整理している最中に院長が入って来ちゃった。最初は「山に行ってきたのか」と言われて、「はい」と言っていたんですが、いつまでも隠しているわけにもいかないので、「実を言うと、タイ、マレーシア、シンガポールに行ってきました」と正直に言いました。「そんなものを隠す必要はない。堂々と行ってきなさい」と言われて、「では、次はインドとネパールに2ヶ月間行ってきます」と(笑)。

インドは精神的にキツかったですね。ハンセン病の患者もたくさんいて、どこに行っても出会うんですよ。インドに行って、ものの考え方が変わりましたね。それまで当然と思っていたことが当然ではないと知りました。ある程度の立派な住まいがあって、寒いときは温かい布団にくるまることができて、小遣いだってある。これ全部が当然のことではないんですね。

当時は健常者でもインドを放浪する人はまだ多くなかったと思うんですが、怖くはなかったですか。

自分がハンセン病ということで、インドで2回ヒヤッとしたことがありました。一つは、インド第二の都市ムンバイでのことなんですが、YMCAの宿に泊まったんです。そしたら、その入口に物乞いをするハンセン病の患者がいたんです。なんとか振り切って、受付を済ませたあとロビーで休んでいたら、松葉杖をついた女性がしきりに私に話しかけてくるんですよ。友達に通訳してもらったら、「あなたはどこから来たのか」って言うんです。「日本から来た」と答えたら、「日本から来られるのか」と。「今はハンセン病を治す薬があるからどこでも自由にいくことができる」という話をしました。すると、「実を言うと私のおばあちゃんがハンセン病なんだ。いい薬があるんだったら助けてほしい」と涙流しながら訴えきて……。つらかったですね。

もう一つは、ブッダガヤに行ったとき、日本語ベラベラのガイドがいたんですが、そのガイドが「お前の体はどうしたんだ」と話しかけてくるんですね。そんなことを初対面の人に説明する必要はないと思って黙っていたら、「子どものときからそうなのか」と聞いてきた。面倒臭くなって「そうだ」と答えたら「それだったらいい」と。「実はインドにはあなたと同じような方がたくさんいて、その人たちを見る目が非常に厳しいんだ」と言われました。

ネパールのカトマンズに有名な広場があるんですが、そのときのことも忘れられません。安宿に泊まって旅行している人はたいてい貧乏です。たとえば、「インドを出る前に何々を買えば、ネパールではどこどこで高く売れる」とか、そいう情報をもとになんとか生きている感じです。それでもネパールの人にとっては欧米系の白人は金持ちに見える。だから、白人のところに行って物乞いをする。こっちに来たらいくらかでもあげるから来い来いと思っていたんですが、見向きもしないんですね。仕方がないからこちらから行って、いくらかお金をあげました。お金を手にすると、ゴミ捨て場で野菜や果物のクズを漁って、どこかへ消えましたよ。

インドにも療養所のようなところはあるんですが、療養所にいるよりも物乞いをした方が収入があるらしいんです。だから物乞いする人が減らないという話です。その点、日本にいる私は本当に恵まれています。でも、インドはおもしろかったな。また行きたいな。この年齢だと、バックパック放浪はキツいので、ちゃんとしたツアーじゃないともう無理だけどね(笑)。

取材・編集:金宗代 / 撮影:川本聖哉