People / ハンセン病に向き合う人びと
ハンセン病制圧大使・笹川陽平氏と同行し、
ドキュメンタリーのレポーターとして世界各国のハンセン病患者・回復者との対話を重ねる華恵さん。
取材者として辛い話を「聞き出す」ことにとまどいながら、
相手との心の一線を飛び越えた先に、彼女が見たものとは――。
Profile
華恵氏
(はなえ)
エッセイスト。1991年アメリカ生まれ。6歳から日本に住む。10歳からファッション誌でモデルとして活動。2001年、全国小・中学校作文コンクール文部科学大臣賞を受賞。2014年、東京藝術大学音楽学部楽理科卒業。著書に『小学生日記』『本を読むわたし』『ひとりの時間』『キモチのかけら』『寄りみちこみち』『たまごボーロのように』『華恵、山へ行く。』がある。
「病名を聞いたことはあるような……」という程度で、どういう病気なのかはまったく知りませんでした。レポーターをやることが決まってからネットで検索してみましたが、ドキュメンタリーでは、あまり調べすぎないほうがいい場合もあります。レポーターとして「知らなかった私」が、取材を通して現場で「知っていく過程」をカメラの前で出していく。視聴者が映像を見て初めて知っていくのと同じようなスタンスで、その場でどう感じたか、それを素直に出すことに意味があるかなと思いました。
どの程度調べたらいいのかディレクターに相談すると、「病気自体のことより、これから行く国や地域がどういうところで、いま何が起こっているのか知っておいた方がいいよね」と言われて。たとえば、最初に向かったフィリピンは、6,000人もの死者を出した2013年の台風の後、どんどん復興が進んでいるのに、ハンセン病療養所のあるクリオン島だけが取り残されていたのです。そういうハンセン病をめぐる国ごとの状況を把握することに重点を置きました。
個人的には、ハンセン病の人たち固有の芸術や文化を知りたいと思っていました。というのも、当時私は大学4年生で、生まれ故郷であるアメリカのニューオーリンズの葬送音楽を研究テーマにしていたのです。ブラスバンド・フューネラルとかジャズ・フューネラルと呼ばれるもので、とても明るい音楽です。これは「死者は天国に行って現世の苦役から解放された」と考える黒人奴隷の死生観が現れていると言われるものです。
ハンセン病の人たちも閉じられた世界で苦しい境遇にあっただろうな、と漠然と思っていたので、その中でどんな文化があるのだろうと興味を持ちました。病気に対する抵抗感や、療養所へ行くのが怖いといった感情は、全然ありませんでした。
じつは、どこの療養所にも固有の歌や絵などは見当たらないのです。それがなぜなのか、未だに不思議で、はっきりと理解しているわけではありません。ただ、ハンセン病の場合、病気が見つかった人は家族から引き離されて療養所に隔離されることが多かったので、故郷や家に帰りたいという思いが強く、その地で文化を築くという気にはならなかったのかな、と考えたりもします。
インド・デリーのコロニーで出会ったデヴィさん。ハンセン病は完治しているが、手足が不自由で、眼は見えず、耳もほとんど聞こえない。(「ハンセン病の現場にレンズを向けて—インド・デリー篇」より)
高齢の回復者35名が暮らすスペインのフォンティーイエス療養所での取材(「ハンセン病の現場にレンズを向けて—ポルトガル・スペイン篇」より)
ルーマニアのティキレシュティ療養所で出会った回復者のドミトルさん。(「ハンセン病の現場にレンズを向けて—ルーマニア篇」より)
これまで私が経験してきたインタビューは、過去の歴史や現在の華々しい活躍について聞くものばかりです。ところがハンセン病の場合は、いま回復者として生きている方に、辛い思いをしてきた話、語りたくない部分を聞くわけです。そして、それを自分なりに言語化して伝える――。そういうのは、初めてだったのでとまどいました。
始めは「どうしたらうまく話を引き出せるだろう」とハウツーばかり考えていました。でも次第に、私がやるべきことは、カメラが回っていようといまいと、ただただ話を聞いて相手に寄り添うこと、時間を共有することなんだなと分かった。それまでに、1年ぐらいかかりましたね。
「聞き出さなければ」と思っているあいだは、「私がこの人を見ている」という一方通行の視点しか持っていなかったのですけれども、じつは相手からも私は「この人に、自分のどこまでを語ることができるだろう」って見られている。徐々に、そういうことにも気づくようになりました。
インドだったか、辛い食べものが苦手な私の様子をおもしろがって相手が吹き出したとき、心がちょっと近付いた気がしたことがありました。ハンセン病の話を聞くには、人間同士として関わらないと、心からの声に触れることはできないと感じますね。ディレクターに「相手から『話してよかった』と思ってもらえることがゴールだよ」と言われたことも印象に残っています。
現地には、1回につき1〜2週間は滞在します。他の旅番組などとは違い、行った先でどんな人に巡り会えるかによって撮影内容がかなり変わってくるので、スタッフ間で「明日は何を撮ろうか」と、ものすごく議論します。こちらから「私はこれを見たい」ということも言いますし、カメラマンが「あの人はこういう撮り方をしてあげたほうが、心に寄り添えるのではないか」と意見を出すこともあります。1日の撮影が終わってホテルに戻ってご飯を食べた後まで、和気あいあいどころか言い合いになることも。
通常の撮影は、映像を撮る人、音声を取る人、レポートする人……と役割がはっきりしていて、ディレクターがあらかじめロケハンに行って台本を書いておく。でも、ハンセン病のロケでは、皆、現場で見ているものが違うので、意見を擦り合わせながら撮っていくやり方です。台本の大枠は同じでも結論に到達する道筋が変わったり、場合によっては方向性自体がまったく変わることもあります。
インドのコロニー(ハンセン病回復者の暮らす集落)で出会ったおじいさんの撮影です。この療養所では多くの人たちが、仕事に就くことができずに、川辺で物乞いをしていました。道行く人に手を差し出す姿はどこから見ても「身体の不自由な物乞い」ですけれども、物乞いを終えて帰るときには、動くのもままならないはずの人がスタスタと歩いている。コロニーに帰宅した後も、指のない手で器用に道具を使って料理したりしているのです。なんじゃこれは、と思いました。
その中の一人のおじいさんに密着取材をすることになったのですが、最初のうち、いくら話しかけてもまったく無視されてしまいました。長い時間をかけて少しずつ打ち解けてくれて、ようやくたくさん話をしてくれるようになったとき、思い切って聞いてみたのです。「物乞いをしているときの哀れみを誘う表情と、私を無視したときの表情、そしていま楽しく話をしているときの表情。こんなに違うのはなぜですか?」と。
そうしたら、おじいさんは怒ってこう言いました。「自分はハンセン病のせいで、物乞い以外の道がなかった。いくら仲良くなっても、もし明日、物乞いをしているときにあなたが目の前を通ったら、哀れな顔で手を差し出すよ。そういうものなんだ」と。あまりの剣幕にちょっと驚いたのですが、本当にそうなのか、この目で確かめたいと思いました。
物乞いをしているおじいさんの前を歩きたい――。私の発言がきっかけで、スタッフのあいだで大変な議論になりました。スタッフの中には、おじいさんを傷つけるようなことをするべきではない、という考えの人もいました。撮り方にしても、「カメラを意識させないように、遠くから望遠で撮ろう」「いや、そんな隠し撮りのようなことをせずに正々堂々とカメラを持って近付こう」などと、意見がぶつかって。
結局、遠くにカメラを置いて私がおじいさんの前を歩くところを撮ることになりました。ただ道を歩くだけなのに、ものすごく緊張しました。すると、手前に座っていた女性の物乞いが私に「ナマステ(こんにちは)」と声を掛けてくれたのです。よく見ると、コロニーで親切にしてくれた女性でした。それが皮切りとなって、彼女の周囲の人も次々と挨拶してくれました。皆、コロニーで顔見知りになった回復者たちでした。
「ナマステ」「ナマステ」と、ナマステのウェーブが伝わって行った先に、おじいさんがいました。私と目が合った瞬間、彼も「ナマステ」と言ってくれたのです。皆、笑顔で、物乞いの表情ではなくなっていました。私は高揚して、思わず涙があふれました。彼らの人間らしさを肌で感じ、「大丈夫、分かり合える」と思えたのです。
精力的に療養所やコロニーを視察してまわる笹川さんとともに、華恵さんも撮影チームも長時間にわたる移動をしつづける。(「ハンセン病の現場にレンズを向けて—ルーマニア篇」より)
過酷な人生をうかがわせる回復者の手。(ブラジルのペルナンブーコ州にある療養所で、華恵さんが撮影)
日本へ来て母の実家のある福島で暮し始めましたが、当時はまだ私のようなハーフの子どもは珍しく、日本語がまったく話せなかったこともあって、周囲からは浮いていました。それでとにかく「私は日本人になろう」と心に決めたのです。いまから思えば自意識過剰だったのでしょうけれど、その後、東京で暮すようになってからも、何かと人と違うことが気になって仕方ありませんでした。
そんな私を見て母が、人と違うことが自分の長所と思えるようにと、モデル事務所に私の写真を送って応募したのです。もともとアメリカにいた頃は、人から見られるのが大好きな子どもで、将来は女優になりたいと言ったりしていたので、母は「そういう機会を与えれば昔のように明るくなれる」と考えたのだと思います。
実際、さまざまなオーディションを受けるうちに、採用されるかどうかは、役柄のイメージに合うか合わないかなんだと分かり、気が楽になりました。イメージに合えば、周りの子にないものを持っていることが有利にもなる。いい、悪いではなく、人との違いは私のパーソナリティーの一部なのだと肯定できるようになったのです。
2015年1月のグローバルアピール関連イベント会場で、日本の療養所の歴史に触れる。(「ハンセン病の現場にレンズを向けて—日本篇」より)
10歳からモデルをやっていた関係で、ファッション誌にエッセイを連載することになり、それがまとまって『小学生日記』という本になりました。モデル事務所に所属していたので、テレビCMや教育番組の小さなコーナーなど、映像にも細々と出演していたものの、文章を書くことに比べると、カメラの前でしゃべるのは苦手でした。
転機になったのは、大学生のときに松岡正剛さんと世界遺産の番組(註)に出演させてもらったことです。紀元前から現代に至る世界史の流れを松岡さんが独自の視点で解説し、その史実にまつわる世界遺産を私が訪れてレポートするというものでした。この番組を通じて、初めてのものを見たときに、自分の中からどんな言葉が出るのか――古い時代に思いをはせることがとても楽しくて、考えているうちに自分でも思ってもいなかった言葉が飛び出したりするので、客観的に面白いなと思うようになりました。
ただ、世界遺産の中には、クロアチアのプリトヴィツェ湖群国立公園のように、悲惨な戦争の舞台となった場所もあります。ユーゴスラビア紛争の体験者の話を直に聞いた私は、目の前に広がる美しい風景とのあまりのギャップに、思考停止に陥ってしまいました。悲しいとか美しいとか、思ったことを簡単な言葉にしても、どれも違和感がある。苦しんだ人々が今も生きているとなると、言葉選びが一気に難しくなったのだとも思います。それからずっと課題だったことに、いま、ハンセン病の取材で取り組んでいる気がします。
註)2011年に放映されたNHK BSプレミアム「世界遺産 一万年の叙事詩」
私から見た笹川さんは、「頭と気持ちが両方同時に動いている人」。百戦錬磨で洞察力がすごい方です。各国のコロニーを一緒に回っていると「あなたがここの人だったらどう?」などと、意地悪な質問をされたりする(笑)。最初は内心で「そんなこと言われても、いまの自分の生活とは比較なんてできない」と思っていました。
でも、回を重ねるうちに「『気の毒に』と他人事として捉えるのではなく、『自分だったらどうだろうか』という視点で考えなさい」という意味だと気づきました。とてもシンプルなことです。
コロニーの人たちは、ハンセン病回復者である以前に、人として自分と同じ。後遺障害で身体が不自由だとか差別を受けていることより、いまは娘が嫁に行ってしまうことの方が悲しい、という人もいる。相手の立場になって話を聞き始めると、「ハンセン病回復者だからどう接したらいいだろう」という一線を飛び越えられるのです。逆に、いままで無意識に引いていたその一線こそが、差別につながっていたのだと実感できます。
指のない手で握手を求められたとき、とっさに「この手をどう握れば失礼にあたらないのだろうか」と、迷ったこともありました。でも、「この人に会えてよかった」と心から思えば、そんなことを考えるより前に、差し出された手を自然に握っている。笹川さんからはよく「あなたは頭が良すぎる」という言い方で叱られましたが、心で向き合うよりも頭でっかちになっていたのだと思います。
こうした気づきを個人的な経験に留めておくのではなく、このサイトでドキュメンタリーを観た人に、私を通して追体験してもらうこと――。それが、私に与えられた役割なのだろうな、と思っています。
*華恵さんがレポートするハンセン病ドキュメンタリーもご覧ください。
取材・編集:三上美絵/写真:川本聖哉