People / ハンセン病に向き合う人びと
2002年に学生ボランティアとして中国の快復者村を訪れ、翌年には現地に住むことを決意したという原田さん。
そこで出会った仲間たちと2004年に立ち上げたのが、「家-JIA-」という名のNPOだった。
学生ボランティアによるワークキャンプ活動は、10年以上におよび、
今では快復村を訪れる学生の数は年間2000名に達する。
快復村で経験した忘れられない思い出、JIAの今後などについてうかがいました。
Profile
原田燎太郎氏
(はらだ りょうたろう)
1978年、神奈川県生まれ。早稲田大学卒業後、2003年4月に中国ハンセン病快復村リンホウ村(広東省潮州市)に移住。2004 年8月、ハンセン病快復村でのワークキャンプ(労働奉仕ボランティア)をコーディネートする中国のNPO「家-JIA-」を設立。日本だけでなく中国での講演実績も豊富で、その活動は内外から大きな評価を得ている。2009年、広州ボランティア協会(共産党青年団広州委員会所属協会)により外国籍の個人としては初となる「十大傑出志願者」にも選出された。
2004年 フオシャン村
母がクリスチャンだったので、子どものころ聖書に出てくる病気として知ったのが最初でした。その後、大学に入ってからフレンズ国際ワークキャンプ関東委員会という学生ボランティア団体に参加するようになり、講演会やワークキャンプに参加するようになったんです。2001年には多磨全生園で森元美代治(全生園自治会・元会長)さんの講演会がありましたが、そのときにもスタッフとして準備を手伝わせてもらいました。そのころハンセン病に抱いていたイメージは、「ひどい差別を受ける恐ろしい病気」という程度でしかなかったように思います。
当時ぼくは将来、新聞記者になりたいと思っていたんですが、それは子どものころからいじめられてきたという自分自身の体験が背景にありました。いじめや差別をなくすような記事を書く記者になりたかったんです。ところが実際に就職活動を始めるようになると、「じつは自分自身にも誰かを差別する心があるのではないか」ということが、ものすごくひっかかるようになってきたんです。これをクリアにしないことには就職活動にも臨めないし、新聞記者にだってなれないと思った。
そんなふうに悩んでいたころ、中国のハンセン病快復村でワークキャンプがあるという情報を聞き、参加してみようと思ったんです。快復者の人たちとワークキャンプという場で向き合えば、自分自身の中に誰かを差別する心があるのか、そうでないのか、見きわめることができるかもしれない。それで中国のワークキャンプに参加することにしました。2002年のことです。
2004年 リンホウ村
最初は怖くて快復者の人たちと握手することもできませんでした。片眼がなくなってしまった人、指が短くなってしまった人、義足の人。両手両足がない人もいました。そんなところばかりに目がいってしまって、とにかく怖いと思ってしまった。彼らが使っている義足はブリキでできていて、歩くとカチャカチャ音がする。その音がずっと耳について離れない。自分もやっぱり差別者だったんだとそのときつくづく思いました。でも不思議なことに、彼らの人となりがわかってくるにつれて、その恐怖感は徐々に薄らいでいったんです。
異質な他者と出会ったら、誰もがびっくりする。初めて快復村に行ったときの自分が、まさにそうだったと思います。でもワークキャンプのいいところは一緒に生活していくうちに快復者と学生がだんだん個人と個人の関係になっていくというところなんです。驚きや恐れはどんどん減っていくし、自然に共生できるようになっていく。差別問題をより深く考えるためのヒントもワークキャンプには含まれているんじゃないかと、そのとき感じました。
2004年 フオシャン村
2014年 ロンガン村
ごくまれに若い人もいますけど、基本的には70代、80代の方です。快復村は政府がつくった隔離病院が元になっていて、当時は300人、500人という単位で人がいたそうです。今ではかなり人も減り、平均すると村人の数は20人くらいでしょうか。そういった村が中国全土で600カ所くらいあると言われています。村があるのは山奥や孤島が多く、結婚が禁じられていたので、基本的に子どももいません。
日本の療養所と中国の快復村の環境は、医療、生活環境、何から何までまったく違います。後遺症をケアしてくれる医者も看護師もいないところがほとんどですが、広州近郊の村では、ようやく日本の療養所のような環境が整いつつあります。設備だけをみたらものすごく整備が遅れているんですが、そのかわり「外の人たちと関わり合いたい」という村人たちのエネルギーがすごいんですね。
中国の快復村に行くと、玄関のドアを開けてその前にちょこんと座っている人がとても多いんです。学生たちと目が合うと、おいでおいでをする(笑)。人がやってくるのが普通のことになってきて、自分たちを差別しないということもわかっているし、なにより学生たちのことをかわいいと思うんでしょうね。学生ボランティアはちょうど彼らの孫くらいの年齢なんです。
2002年11月の活動報告書に使ったのが最初だったと思います。人権の回復ってよく言いますけど、「回復」という字につねづね違和感を感じていたんですね。その根底にあるのは、じゃあ人権回復が図られる前は人間じゃなかったのか、という思いです。彼らはたしかにひどい待遇を受けてきたけれど、それでも尊厳をもって生きてきた。差別は受けてきたけれども決して尊厳を失っていたわけじゃないんです。だったら単に病気が治ったという意味の快復でいいじゃないか。ということで、それ以来この「快復」という字を使っています。
原田さんの絵「蘇振権(1928~2008)の老眼鏡」
2002年 初のリンホウ村訪問
その後ふたたび中国のワークキャンプに行ったとき、広東省にあるリンホウという快復村で蘇振権(ソウ・チンクワン)という快復者と出会いました。彼は自分の身体に残った後遺症でさえ笑いのネタにしてしまうような人で、ありのままの自分で生き抜いてきた。初めて会ったときは歩くこともできないし、かわいそうな人なんだなと思っていたんですが、2カ月後、村に3週間住み込んでみたときに、だんだん彼の人柄がわかってきた。
そのときまず感じたのは「この人にはかなわないな」という尊敬の念。一方、ぼくは中学までいじめられ、人と自分をつねに比べるクセがついていました。ありのままの自分も認められず、就職活動で負け組になったことにも絶望していた。強く生き抜く術を蘇振権に学びたい。いつの間にか、そう思うようになっていました。
原田さんの絵「バカバカ飲むのではなく、ゆっくりと、語り合いながら飲むビール。昔のこと、今のこと、これからのこと、…」
当時は中国語がまったく話せなかったので筆談しか手段がなかったんです。ぼくと蘇振権の関係って、サン・テグジュペリの『星の王子さま』に出てくる王子さまとキツネみたいでした。キツネは最初、王子さまから離れたところに座ってるんですけど、だんだんと2人の距離が近くなっていく。
ぼくらの場合も同じで、ある日、蘇振権が「タバコ吸うかい」「お茶飲んでいくかい」って声をかけてくれたんです。そこから筆談での自己紹介が始まっていった。そうやって距離が近くなっていくと、現場作業がが終わるころに今度は酒を用意して待っていてくれる(笑)。そうやって本当に少しずつ仲良くなっていったんです。
初めて一緒に酒を飲んだとき、彼が筆談でこう言ってきました。「おまえさんはハンセン病患者を怖がらないんだな。感激だ」それでぼくはこう書きました。「あなたの病気は治ってますよね」。彼は2008年に亡くなったんですが、そのときの蘇振権のうれしそうな笑顔はずっと残っています。
2002年 初のリンホウ村訪問
ひとつにはワークキャンプという活動のあり方が大きかったと思います。ただ単にものを寄付して終わりという活動であったなら、このようなことは起きなかったでしょう。快復村に住み込んで共同生活を送るというのは、とても非効率のようですが、だからこそ、このような出会いも生まれるんだと思います。
もうひとつはなんというか……馬が合ったんでしょう(笑)。快復村で自分が共感できる人に出会う。ぼくの場合は、それがたまたま蘇振権だったんだと思います。だから、学生ボランティアで村を訪れる学生一人ひとりにも、ぼくにとっての蘇振権のような人がきっといるんじゃないかと思います。
そういう人と出会って、その機会を----変な言い方かもしれないですけど----モノにできるかどうかは本人次第ですし、それがどのような関係になっていくかも、お互いが何を求めているかによって変わってくるでしょう。その一方でワークキャンプに参加しても何も得ることができずに帰って行く人もいます。
『星の王子さま』に出てくるキツネは最初、王子さまに「なついてないから一緒に遊べない」って言うんですね。この「なつく」というところを英語の本で調べるとtame(=飼い慣らす、手なずける)という単語になっているんです。でもフランス語の原書で使われているのは「仲の良い関係を(自発的な意志を持って)つくろうとする」という意味のapprivoiserという言葉なんですよ。人と人とが仲良くなろうとするとき必要なのは、こういう気持ちなんじゃないかと思います。
ぼくも蘇振権と仲良くなりたかった。でもいきなりそうなろうとしても無理なので、まずは近くに座ることから始めて、次に勧められたタバコを受け取ってみる、お茶を飲んでみるというように、少しずつ近づいていった。それはいい関係をつくっていくときのひとつの鍵なのかもしれないと思います。古くて面倒臭いやり方かもしれないですけど(笑)。でも今の学生たちを見ていると、案外彼らもそういう関係を求めているような気がするんですね。
2013年 ロンガン村
2013年 ロンガン村
2013年 ジョウジアーリン村
リンホウ村では、蔡玩卿(チョワ・ワンケン)というおばあちゃんとも知り合いました。この人はワークキャンプが終わるときにちょうど風邪を引いていて、とても苦しそうにしていたんです。村の人たちにとって姉のような存在なので、みんな心配そうに見守っている。死んでしまうんじゃないかといって泣いている人もいる。それでも家族は誰も会いにこない。尾てい骨が震えてくるような怒りをおぼえました。
そのときのワークキャンプには通訳として一人、中国の学生が参加していたんですが、その人は快復村にいても絶対に村の人と話したり触れ合ったりしなかったんです。ところが、その人が今にも亡くなってしまいそうな蔡さんを見て、心配のあまり彼女の手を握った。それを見たとき「誰でもワークキャンプに参加することで変われるんじゃないか」と感じました。
地元の学生を巻き込んで快復村にやってくる人の流れをつくることができれば、いつの日かその流れに乗って快復者の家族も村に来てくれるようになるかもしれない。実際に地元の学生を巻き込んでワークキャンプを行うようになると、地元のメディアが報道してくれるようになり、周辺住民が快復村を訪れたりということも起きていきました。どちらも以前だったら考えられないことです。
ワークキャンプを行う村が増えてくると、今まで以上に情報収集や情報共有もしっかりしなければならないし、ノウハウを蓄積して人を育てていくことも大切だ、という意見が出てくるようになりました。そこで有志の仲間と2004年に立ち上げたのが「家 -JIA-(JIAはJoy in Actionの頭文字。漢字では家と表記し、ジアーと発音する)という中国のNPOです。設立メンバーは中国の大学生4名、韓国のワークキャンプ団体代表1名、それからぼくの合計6名でした。
ワークキャンプに参加した学生の感想で一番多いのは、「参加する前は快復者のことをかわいそうな人たちだと思っていたけれども、みんなものすごく強く生きている人たちだということがわかった」というものです。最初は快復者を支えているつもりだったのが、じつは彼らに支えられていることに気づく。そんな学生もとても多いです。
その一方で、「やさしいおじいちゃん、おばちゃんたちだったね」で止まってしまっている人が多いなと思うこともあります。最初はハンセン病快復者としてだけ見ていた人たちが、話をしていくうちに本当にやさしいおじいちゃん、おばあちゃんなんだということがわかってくる。それはすばらしいことなんですが、本当はそのあとにもう一度「この人たちは昔ハンセン病にかかって、いろいろなつらい経験をしてきた。その人たちに自分たちは何ができるんだろう」というところまで立ち返ってみてほしいんですね。
なぜそのような差別が起こってしまったのか。差別のない社会をつくっていくためには、どうしたらいいのか。自分たちにはどんな未来がつくれるのか。学生たちにはそんなことも考えてほしいと思っています。かといって、きっちりプログラム化するというようなこともしたくない。それはぼくらがやってきたJIA本来のスタイルじゃないって思うんですね。夜集まったときに誰かが語り出して、それがいつの間にかみんなを巻き込んで議論につながっていく。そんなスタイルの方がいいなと思います。人と人との自発的なつながりを大切にしたい。
今から何十年か経ったとき、きっとアジアはハンセン病快復者と向き合ったことのある人であふれていると思います。そんな経験をもった人たちは、障がいや人種、国籍、肩書きで人を判断しない。その人の内側を見て、それぞれの違いを理解した上で共生していこうとするに違いない。振り返ってみると、ぼくにその夢をくれたのは蘇振権でした。
そんな人の輪が広がって自分たちの社会や未来について考える人が増えていけば、そこからいろんなことが変わっていくような気がします。そのとき初めて快復村で出会ったおじいちゃんやおばあちゃんたちの人生、何十年という日々が未来に活かされる。そう信じています。そして、それが彼らに対する最大の恩返しなのではないでしょうか。
家 -Joy in Action- JIA
http://jiaworkcamp.org/jp/
原田さんのセルフ・ストーリー「家があるから」
http://1drv.ms/1JZWDkO
取材・編集:三浦博史 / 写真:長津孝輔