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People / ハンセン病に向き合う人びと

石田雅男・懐子(国立療養所愛生園 入所者)

愛生園で“いちばん中のよい夫婦”と
自他ともに認める石田雅男さん・懐子さん夫妻。
お二人はそれぞれ、社会に出て仕事をするというごく当たり前の生き方を
ハンセン病の後遺症によって中断させられるという苦い経験を乗り越えてきました。
療養所で生き続けるという決意のなかで、理想的な伴侶と出会うにいたったいきさつや、
新しい家族のかたちを精一杯つくろうとしてきたこと、
子どもたちを相手に啓発活動に勤しむなかで気づかされてきたこと。
お二人が仲睦まじく暮らすご自宅で話をうかがいました。

Profile

石田 雅男氏
(いしだ まさお)

1936(昭和11)年、兵庫県明石に生まれる。1946(昭和21)年、10歳のときにハンセン病を発病し、1週間後に長島愛生園入所。30代に社会復帰をしたが、40歳を機に愛生園に戻る。入所者自治会副会長、全国ハンセン病患者協議会(全患協)本部勤務などを経て、1997(平成9)年から2期にわたって自治会長をつとめる。現在は愛生園自治会の常勤役員。2005(平成17)年、共和教育映画社制作人権啓発ドキュメンタリー「ハンセン病・今を生きる」に出演。2008(平成20)年、鳥取県の小中学校への人権啓発教育活動によって教育委員会より「教育功労賞」を受賞。著書に散文集「『隔離』という器のなかで」(2005年)がある。

石田 懐子氏
(いしだ なつこ)

1949(昭和24)年、山口県下関市に生まれる。1960(昭和35)年、11歳のときにハンセン病を発病し、長島愛生園に入所。以来、長らく家族との関係が切れたままになる。1965(昭和40)年に邑久高等学校新良田教室に進学し、1972(昭和47)年より社会に出て仕事をする。健康上の問題から1988(昭和63)年に長島愛生園に再入園をし、自治会の仕事へのかかわりをきっかけに、石田雅男氏と出会い、1999(平成11)年に結婚。またこれを機に、離れ離れになっていた母親とも再会し、家族の縁を取り戻す。

療養所で生きる決意
――偶然めぐりあった永遠の「新婚さん」

石田さんご夫妻は愛生園で知り合って結婚されたんですよね。いつのことですか。

雅男 1999(平成11)年、ぼくが61歳のときに結婚しました。家内はぼくよりも13歳下です。もう今年で18年になりますが、ここではいまだに「新婚さん」と呼ばれてるんですよ(笑)。なにしろぼくらは愛生園で25年ぶりに誕生したカップルで、ぼくらのあとに結婚したカップルもいない。

愛生園で最後の結婚ですか。ひょっとしたら全国の療養所の中でも最後かもしれませんね。

懐子 そうかもしれません。「最近もらうのは黒縁の(死亡通知の)ハガキばかり、赤い寿の印のついたハガキをもらうのは20年ぶり」とか言って、ものすごく喜ばれました。ひさびさの明るいニュースだって。

雅男 自分で言うのもなんなんですが(笑)、園内では一番仲の良い夫婦に見えるらしいんです。どこに行くにもいつも一緒に行動するから。近くの街に買い物に行くのも一緒、園内のイベントに参加するときも一緒。それでいつまでたっても「新婚さん」と(笑)。

世の中は熟年離婚が増えているのに、お二人はいつまでも熟年新婚さんなんですね。素敵ですね。ご結婚はどのようなきっかけで?

雅男 その話は長くなりますけど、いいですか(笑)。ぼくがこの愛生園に入ったのは昭和21年なんですが、おふくろがぼくの結婚について夢をもってしまいましてね。愛生園の中で患者の女性と結婚してしまうのではないかと恐れて、嫁探しに一生懸命になってしまったんです。それがどうにも気持ちの負担になってしまい、あるとき「もう結婚はしない」と自分で決めてしまったんです。それからずっと結婚に無関心になってしまった。

  • 2015年、夫妻でクリオン島を訪問。前列右が石田夫妻、左は森元美代治夫妻。背景の石碑は、この場所が1906年に初めて患者たちが上陸した地点であることを示し、記念するもの。

  • 2016年、ハンセン病国際シンポジウムに出席のために夫妻でバチカンを訪れ、各国の回復者の皆さんとともにサン・ピエトロ広場で記念撮影(後列の中央が石田夫妻)。

  • 自宅近くの長島の浜で。

それよりも、なんとしても療養所の外に出て働きたかった。社会に出ないことには人間として認めてもらえないという思いがあった。それで30歳のとき(昭和41年)に運転免許証を取ってトラックの運転手になりました。ともかく社会に出なければと思い詰めて、しゃにむに頑張ってたんですね。ところが、社会に出ると自分の病気や過去のことを隠し続けなければならない、誰にも本当のことを打ち明けられない。そんな状況でただ汗を流して頑張り続けるということが、何かむなしくなってしまいましてね。体を悪くしてしまったこともあって、結局、40歳になったときに社会生活を断念して、ここ(愛生園)に戻ってきました。

それからは、療養所の中にいながら自分にできることがあるはずだ、まともに生きられる道があるはずだと、自治会の仕事にも積極的にかかわるようになって、48歳のときには初めて自治会の常任の役員にもなりました。

その一方、家内も社会に出て長いあいだ横浜のほうで働いていたんだけど、体が悪くなって愛生園に戻って来たんですね。ぼくはそのとき自治会の副会長をしていたんだけど、ちょうど自治会の書記が欠員の状態になっていた。それで新良田教室(愛生園につくられた邑久高等学校の分校)の出身者で、実務経験もある彼女がふさわしいんじゃないかということで、会長と二人で彼女の部屋を訪ねて、「書記をやってくれないか」とお願いしに行ったんです。それが出会いです。

二人とも歳はいってるけれども、助け合って励まし合って生きていこうやないかということで、一緒になりました。

お二人は、一度は社会に出て仕事もされて、からだの具合が悪くなってまた療養所に戻ら
ざるをえなかったという辛い経験が共通していたんですね。

懐子 私は昭和42年に、知り合いを頼って、愛生園を出て横浜に行きました。愛生園と完全に縁を切るということではなく、何カ月かに一度は連絡をとりながら「籍」は置いておくという感じで。ところが具合が悪くなってきたので、一時的に全生園に入り、その後また愛生園に再入所したんです。この病気は、菌がいなくなって治ってからも、身体の具合が悪くなったり麻痺が進んでしまったりするんですね。私のこの右手も、もとは何も問題なかったんですが、年齢を重ねるとともに、だんだん指が曲がってきてしまって。

雅男 ハンセン病の啓発活動をしていても、一番理解を得にくいのは、この後遺症のことなんですよ。病気が治ったといっても、曲がった指が伸びるわけではないし、知覚が戻るわけではない。でも薬が出始めたころは、多くの患者が、そういう期待をもってしまったんです。それはそうですよね。病気が治ると言われれば、つらい思いをしている指の変型や麻痺がやっと治るもんだとすっかり思ってしまうわけです。

愛生園の何代目かの園長だった皮膚科の先生と私は、しょっちゅう二人でウィスキーボトルを軽く明けちゃうような飲み友達だったんですが、酔っぱらうとよく先生に言ってやったものです。「先生、菌がなくなって病気が治ってるのに、どうして麻痺が進んだり、神経痛が出たりするのかなあ。これじゃあ治ったという気がしないんだよ」って。先生も困ってしまってましたね。

親子の絆を取り戻す
――新しい家族のかたち

雅男さんはお酒が好きなんですか。この部屋にもずいぶんたくさんのコレクションが並ん
でますね(笑)。

  • お二人の思い出の写真。左端は懐子さんのお母様。夫妻の住む家の庭先の小さな畑で草取りや水やりをするのを楽しみにされていたそう。

雅男 集めるのも好きだけど、もちろん飲むのも好きですよ(笑)。でもこれからは体のことを考えて、じょうずに飲まないといかんなと思ってます。若いころは、ほんとうによく飲みましたね。じつはぼくの親父も酒が好きでね。一時帰省ができるようになって、親父といっしょに酒を飲んだことが、いちばんうれしい思い出になっています。ぼく以上に親父が喜んでくれましたね。

それは一番の親孝行でしたね。結婚されたときは、ご両親はどのように?

雅男 残念ながら、すでに両親とも亡くなってました。だから結婚したとき、家内の親のことが気になりましてね。自分の親には何にもしてあげられなかったけど、家内の親がまだ元気なら、何かしてあげられることがあるんじゃないかと思いまして。それで「いま両親はどうなっているのか」と聞いたところ、父親は早くに亡くなって、母親とは子どものころに別れたきり、音信が途絶えたままになっていると言う。そこで、もう亡くなってるかもしれんけど、もしどこかで生きていてくれるなら、きちんと結婚の報告をしようやないか、うやむやにしておいてはいつまでも気になってふんぎりがつかない、おふくろさんを探してみようじゃないかと私が家内を説得しましてね。

懐子 私は11歳のときに愛生園に来たんですが、ちょっと気をそらした隙に、一緒に来てくれた母親と祖母がいなくなってしまって。それ以来、音信が絶えたまま。「捨てられたんだ」と思って、それは悲しかったですよ。グレてしまったこともありました。だから、主人から「親はどうなってるんだ」って聞かれたときは、とまどいました。最初は探そうという気持ちもおこらなかった。けれども、「ちゃんと受けとめなくちゃいけない」と言ってくれたので、やっと真剣に考えられるようになったんです。

雅男 家内の出身地の山口県の職員に事情を話して、母親を探してくれるようお願いしたところ、半年くらいたって「やっと見つかった」と連絡がありましてね。こちらの電話番号を母親に渡してくれたというんです。それから1~2カ月ほどして、電話がかかってきたんですよ。愛生園で別れ別れになってから、38年ぶりですよ。

ではそのときに、結婚の報告もされたんですね。

  • 2002年、懐子さんのお母様と三人で、沖縄を旅行(首里城の守礼門前で)。

  • 2005年、懐子さんのお母様と三人で、愛知万博を訪れる(日本政府による「長久手日本館」の前で)。

懐子 はい。それからすぐに、会いに来てくれることになりました。私が車を運転して岡山駅まで迎えに行ったんですが、幼いときに別れたきりなので、母親の顔がわからないんですよ。だから本当に会えるんだろうかと不安でしたが、母親のほうがすぐに私のことがわかったようでした。先に駆け寄ってきてくれました。

その後も、年に3回くらい、ここに来て1週間くらい泊まっていくというかたちで、一緒に過ごすようになりましたが、最初はなかなか母と親しくできなくて。何を話していいのかわからないし、どう接していいのかもわからない。でも主人がしょっちゅう母に声をかけてくれて、三人いっしょによく旅行もしました。

雅男 正月とお盆は必ず三人でいっしょにすごすというふうにしたし、北海道から沖縄まで、三人でいろんなところに行きました。名古屋の万博にも行った。そうやって、おふくろさんが亡くなるまで10年ほどのあいだ、精一杯のいい時間をつくることができました。三十年以上も途絶えていた親子の関係にぼくという人間が加わって、三人の家族の濃密な時間をもつことができたと思います。

懐子 ほんとうに、私だけではできないことを主人はやってくれました。母親は母親で遠慮もあったようで、主人がいろいろしてくれても「うれしい」とか「楽しい」とかなかなか言わないものですから、私のほうが腹を立てて文句を言ってしまったこともありました。そうやってギクシャクしていた時期もありましたけど、ちょっとずつ気持ちの幅も狭まっていきましたね。

母親が亡くなったときは、お葬式に呼んでもらうこともできたんです。亡くなるちょっと前に親戚のおばさんから電話があって「病院に来られるか」と。親戚との関係も途絶えていましたので、行っていいのかどうか最初は迷いましたが、母親の病気がきっかけで親戚とも関係がつながって、母親が亡くなったときはちゃんと見送りをさせてもらえた。ありがたかったですよ。

「助け合って励まし合って生きていこうやないか」のプロポーズの言葉どおり、自宅近くの長島の浜を、身を支え合いながら仲良く語らい歩く石田夫妻。

忘れられない出来事
――身近な人びとから受けた冷たい仕打ち

お二人は、子どものころは愛生園内で出会う機会はなかったんですか。

雅男 家内がここに入ってきたとき、ぼくはもう青年寮にいましたからね。そのころは入所者の数も1700人ほどいたかな。いまとは違って園内に人があふれてましたから。ぼくは18歳のときに自治会に入って書記をやっていました。本当は腕力があったので力仕事が得意なんですが、どういうわけかそれ以来、ずっと事務方の仕事ばかり(笑)。

そのころからですね。療養所の中の雰囲気が変わって、だんだんみんなの顔が明るくなっていった。プロミン(ハンセン病の特効薬)が広まって、病気が治る可能性が出てきたことによって、活気が出てきたんですよ。それまではこの病気は治らないから、一生ここで過ごさなければいけないと考えて、生きる気力を失ってしまったような人が多かった。

24歳まで生きられればいいほうだと言われていた時期もあるそうですね。

雅男 戦時中や戦後すぐのころはそうでしたね。私の兄もここにいたんですが、胸の病でやはり26歳で亡くなりました。でもプロミンが出てきてからは、症状の重い人もみるみるまによくなった。ぼくもよく重病人の介護をしていたんですが、体中に熱コブとか結節とか特有のできものができて、全身ガーゼや絆創膏や包帯で覆われたような人が何人もいました。ところがプロミンというのはそういうできものによく効くんですよ。早い人は10日ほどでできものが渇いてよくなっていく。そんな様子をまのあたりにしました。

ところが、ご存じのように初代園長の光田健輔先生は、入所者の退所にはたいへん厳しい考えをもっていた。それが二代目の高島重孝園長の時代になると、いきなり開放的になって、昭和33年には退所基準も制定されたんです。そういう流れがあったので、ぼくも外に出て働きたいと思うようになったんですね。

1988(昭和63)年に離島だった長島と本島とのあいだに橋が架けられたときも(邑久長
島大橋)、大きな変化があったのでしょうね。

  • 別名「人間回復の橋」とも呼ばれる。愛生園・光明園の自治会が架橋運動を展開しはじめてから、じつに20年近くの歳月が費やされて実現した。

雅男 やはり、外に出るのに船に乗る必要がなくなったというのは、大きかったですね。外出が簡単にできるようになっても、船に乗らなければどこにも行けないというのは、やはり不便でしたからね。しかも私はその船で、とても嫌な思いをしたことがありましてね。

ちょっとした用事で岡山に出て、虫明(瀬溝を挟んで長島と向かい合う対岸の町)を出る最終の船に乗ったときのことです。ちょうど雨が降ってきたので、急いで客室に入ったところ、船長から「客室に入っては困る」と言われたんです。びっくりして「なぜですか」と聞いたところ、「この船には明日の朝、職員の家族や子どもたちが乗るからだ」と言う。納得できずに「どういうことですか、子どもさんたちに病気が移るとでも言いたいんですか」と食い下がると、「そういう決まりなんだから困る」の一点張り。

しかも船の中には知った顔の職員が5、6人いて、なかにはぼくがいつも親しくしている職員もいた。なのに、ぼくと船長が言い合っているあいだ、かかわるのはいやだと言わんばかりに、知らん顔しているんです。ぼくと目を合わそうともしない。これがまたショックでしたね。

園の中では親しげな職員たちが、船のなかではよそよそしく冷たい態度をとったと?

雅男 この話にはまだ続きがありましてね。ぼくが意地でも客室から動こうとしなかったので、船長はしかたなくそのまま船を出しました。船着き場に着いたところで、「このままでは納得できない。ちゃんと話し合おう」と船長に言って、愛生園の分館まで一緒に行きましてね。分館というのはいまの福祉課のようなところで、職員が必ず二人宿直していた。その職員と自治会の人にも立ち会ってもらって、船での出来事について話し合いを始めたんですが、たまたまその夜の宿直の職員のうちの一人は、ぼくが一番親しくしていた野球友だちだったんです。そこで「ぼくのことはあんたが一番よくわかっている。ぼくがこんなに怒ったことがないということもわかってくれるだろう」とその職員に言った。ところがその職員がなんと言ったと思いますか。「石田さんという名前は知っていたけど、お会いするのは今日が初めてです」と言ったんですよ!

信じられませんでした。よくそんな恐ろしいことをぬけぬけと口にできるなと思いました。これが現実なのか、いくら親しくしているようでも、職員とぼくら患者の関係というのは、こういう冷たいものなのかと、思い知らされました。

懐子さんも、そのような差別的な態度を受けた体験はありますか。

懐子 私の場合は、職員ではなくて、バスに乗ったときに、切符を車掌さんに渡そうとしたら、爪と爪のあいだに挟むようにして取るようなことをされたことがあって。愛生園に来てまだ間もない、12歳ごろのことでした。そのときのことはいまでもずっとどこかに残っていて、いまだに外の人と会うときに気を遣ってしまうんですよ。

雅男 いまは偏見や差別がだいぶん少なくなってきましたが、それでもまだ、さりげなくすっと避けられたかなと思うことはありますよ。でも職員たちは本当によく理解してくれるようになりました。以前は岡山市内の商店街とかで職員とばったり会ったりすると、お互いにすっと道をそらして挨拶もしない、というのが暗黙の了解になっていたんですよ。でもいまでは、向こうから「石田さん!」と声をかけて駆け寄ってくれる。これがいまだに、ドキドキするほどうれしいんです。長いあいだ、外で会っても無視されたり避けられたりしてきた身には、とてつもない歓びですよ。

ある少女からの質問
――ハンセン病体験から得られたもの

雅男さんは、鳥取の子どもたちにずっとハンセン病の啓発活動をされているそうですね。
どういうきっかけがあったんですか。

  • 一番右が、鳥取県から2008(平成20)年に受けた「教育功労賞」の賞状。

雅男:私は兵庫県明石の生まれですが、そのあと鳥取に引っ越して、そのときにハンセン病を発症してしまったんですね。その関係で、元鳥取県知事の片山善博さんと知り合う機会がありました。鳥取県は無らい県運動(昭和初期から全国で行われたハンセン病患者の強制収容を促進する差別的な運動)を徹底してやった優等的な県だったんです。それで国賠訴訟(らい予防法違憲国家賠償訴訟)の勝訴のあと、小泉首相が国を代表して謝罪をしたとき、片山さんも鳥取県知事として謝罪をしに愛生園に来られたんです。私はこのとき自治会長をやっていたんですね。

片山さんは「石田さんは、鳥取県に何をしてほしいと望まれますか」と聞いてくれたんです。そこですかさず、「鳥取の小中学校の子どもたちに、ハンセン病の学習をする時間を設けてほしい」とお願いしたんです。片山さんが来られたのは2001(平成13)年の夏だったんですが、さっそくその年の秋からスタートしました。ぼくと家内とやはり鳥取出身の加賀田さん(加賀田一氏、愛生園自治会長を長くつとめた)といっしょに、学校を回って子どもたちに話をするようになったんです。加賀田さんが歳をとって動けなくなってからは、ずっとぼくと家内と二人で回りました。自分で車を運転して鳥取に午前中に着いて、その午後にひとつの学校に行って話をする。一泊して翌朝またべつな学校に行って話をして、また車を運転して午後に帰ってくる。つまり一泊二校ということで、ずっと続けました。

加賀田さんは、長島架橋のときの自治会長さんだった方ですよね。

雅男:そうです。なかなか架橋の話がまとまらず、もうだめになるかと思われたとき、加賀田さんが最後の頑張りをされた。ぼくもそのとき自治会役員として、いっしょによく厚生省に行ったりしたものでした。その加賀田さんとともに、鳥取県から功労賞をいただきましたよ。

子どもたちの反応はいかがでしたか。

雅男:子どもというのは、やっぱり自分たちと同じくらいの、10〜11歳くらいの子どもの話にいちばん興味をもつんですね。だから話をしたあとに出てくる質問も、私の子どものころのことばかりです。「少年舎ではどういう遊びをしていたんですか」とか「お父さんやお母さんと別れてどんな気持ちでしたか」とか。でも、子どもたちと触れ合っていると、いろんなことを気付かせてもらえます。

あるとき、鳥取の田舎のほうの小学校の女の子からこんな質問をもらったんです。「石田さん、ハンセン病をわずらって、得をしたことはありますか」って。いやあ、この質問には参りました(笑)。そのあとずっと、この質問の答えを自分で考え続けましたね。たしかに嫌なこと、辛かったことはありました。でもハンセン病になったことで、得難い経験をすることもできた。これも確かなんです。望んでなった病気ではないけれど、ハンセン病を背負わされたおかげで、人の情けや温かさ、やさしさというものを人の何倍も感じられる人間になった。ぼくがもし強い人間だったら、これほど人間のすばらしさを知ることはできなかったかもしれない。

病気になってよかったとはもちろん言えませんが、得難い経験ができたということは、胸を張って言える。おかげさまで、いまではそう思うようになりましたね。

取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉