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People / ハンセン病に向き合う人びと

石山春平(ハンセン病回復者・川崎市身体障害者協会理事)

石山春平さんは、ハンセン病の後遺障害に負けず、
早々に社会復帰を果たして、三人の子どもの父となった。
第1級障害者として神奈川県で初めて自動車運転免許を取得し
地域のさまざまな身体障害者のための活動に従事しながら、
ハンセン病問題の啓発活動に取り組んできた。
石山さんの波乱万丈の道のりには、負けん気とユーモアと、
「愛の力」がいつも人一倍あふれていたようです。

Profile

石山 春平氏
(いしやま はるへい)

1936年(昭和11)年に生まれる。小学校6年生の夏にハンセン病と診断され、1952(昭和27)年に神山復生病院に入院。15年間を復生病院で過ごし、1968(昭和43)年、結婚を決意し社会復帰する。2001(平成13)年のらい予防法違憲国家賠償訴訟を機に、ハンセン病回復者であることをカミングアウト、以降ハンセン病問題の啓発・講演活動を実名で行うとともに、川崎市身体障害者協会のリーダーとしても活躍。

「人に言えない病気」に冒されて

  • 神山復生病院は、日本初のハンセン病治療および療養のための施設。1889(明治22)年にパリ外国宣教会のテストウィド神父によって開設された。

ぼくがハンセン病にかかっていることがわかったのは、小学校6年生の夏でした。それがわかったとたん、「明日から来るな」と学校で言われました。担任の先生がすごい剣幕で「汚い病気」って言いながら、ぼくのことを教室から追い出した。そんなひどい仕打ちをされる理由がわからないので、家に帰って親父に言うと「お前は人には言えない病気なんだ」と言われたんです。

家には強制収容の通知も来てたらしいけど、親父はぼくのことをもうそれほど生きられないと考えたようです。せめて家で死なせてやりたいと、ぼくを納屋に閉じ込めてしまった。そのまま4年間ほど、来る日も来る日も納屋でひとりで過ごしました。いま考えてもよく我慢できたなと思います。でも、一度死のうとしたことがあった。死にきれなくて、こうなったら長生きしてやろう、ぼくのことをいじめた人を見返してやろうと思いましたね。

16歳のときに強制収容されて神山復生病院に入りました。収容の車の中で職員から「駿河と神山のどっちがいいですか」って聞かれたんだけど、そんなこと聞かれてもわからない。そしたら、迎えに来てくれた看護婦さんが、ぼくのことをぎゅって抱きしめてくれた。それまで家族以外の誰とも会えない、話もできない日々だったから、思いがあふれて看護婦さんにしがみついてワンワン泣いちゃった。看護婦さんのコートの胸元がぼくの鼻水でぐしょぐしょになって、親父が「すみません」って謝ったけど、「いいのよ、いいのよ」って言ってくれて。親父もぼくも絶対にこの看護婦さんのいるところがいいと思った。それが復生病院だった。

プロミンとDDSを使って、1年くらいしたらもう菌は出なくなった。薬はもう飲まなくてもいいよって言われた。でも家族に迷惑がかかるから、治ったからといって家に帰ることもできない。ハンセン病というのはそういう病気なんだということを、復生病院に入ってから知りました。

復生病院での生活はたいへんでした。自分たちが生きるために、いろいろな仕事をやらないといけない。ぼくも草刈りとか庭掃き、ときには木を伐ったり畑を耕したり力仕事もやりました。長いあいだ治療を受けられなかったせいで、片方の手は麻痺がかなり進んで使えなくなっていた。使えるほうの手も感覚がないからすぐにマメができて、それがつぶれて化膿してなかなか治らない。そうなると療養所のお医者さんが、傷を早く治すために適当なところで指を落としちゃう。ぼくの指もそうやってどんどん落とされちゃった。あとからきた整形の先生が「ひどいことするなあ」って驚いてました。「時間をかけても原型を残して治療するのが医療なのに」って。

でも復生病院は、人間教育という面ではものすごくいいところだった。「人を差別してはいけない」ということを、ぼくは復生病院の外国人シスターたちから教わった。療養所のなかでも、同じハンセン病の患者同士なのに症状の重い人を軽い人が差別したり嫌がるということがあったからね。でもシスターたちは絶対に人を差別しない、どんな人のことも分け隔てしない。えらいなっていつも思っていました。

「二人でがんばれば」――新しい家族とともに

そのうちに職員のある女性と仲良くなってね。その女性から「どうして病気が治っているのに退院しないの」って聞かれた。「退院しても仕事はないし、食っていけないし、病気のことがばれたらいられなくなるし」って言ったら、「二人でがんばればなんとかなるわよ」って。「二人って、俺とお前のことか」って聞いたら、こっくりうなづくんだよ、つぶらな瞳をして(笑)。それがいまの女房です。

ぼくは病院に慰問に来た人たちを案内するガイド役をしていたんだけど、その中に「もし社会に出たいと思ったら、遠慮なく相談してください」って言って名刺を置いていってくれた人がいたんです。もらったときはそんな名刺が役に立つ日が来るなんて思ってもいなかったけど、思い切ってその人に手紙を書いてみた。そうしたらすぐに車で迎えに来てくれました。

ぼくが東京で働き始めると、彼女は看護師の資格を取るんだといって、復生園のシスターの口添えで名古屋の病院で勉強を始めました。彼女は貧しい家の育ちで高校にも行けなかったんだけど、そのままでは資格がとれないので定時制高校にも通いました。大変だったと思いますけど、ものすごい根性でやり通しましたよ。週末になるとぼくのほうが“こだま”にのって名古屋まで彼女に会いに行く。給料は安くて3万円もなかったけど、会社の寮に入っていたから生活費もかからないし、酒もタバコもやらないから、もらった給料の半分は彼女に渡してやりました。

そうやって3年間二人でがんばって、彼女の卒業が決まったので、ようやく「結婚しよう」ということになったんだけど、彼女が看護師学校の先生に報告したら、もう1年間は病院に奉公する義務がある、結婚するなら3年間の学費を一括して払えって言われた。しょうがないからもう1年待とうということになったんだけど、そうこうするうちに彼女のお腹が大きくなってきてしまったの(笑)。まあ、悪いことしちゃったんだね。ははは。それで彼女の年季が明ける前の1月に、先に東京の教会で結婚式をあげました。

ぼくが結婚するって言ったら、親父がびっくりしちゃってね。復生園にいた患者の女性と結婚すると思ったらしい。彼女を連れて帰って引き合わせたら、患者じゃないからまたびっくりして。でも向こうの親が反対するんじゃないかって心配してた。もし反対されたら、自分が責任をもって引き取ってやるからがんばれとも言ってくれた。

  • インタビューおよび取材には、石山さんのこれまでの活動に関心を寄せる笹川記念保健協力財団の元理事の山口和子さんも同行。

女房の家族は、相手は復生園の職員なんだろうと思っていたらしい。ぼくが初めて会った女房の家族はお姉さんだった。初対面のとき、ぼくの顔を見るなりお姉さんの顔がひきつっていた。病気のことは言わなかったけど、お姉さんにはすぐにわかったでしょう。そのあと女房に手紙で「将来のことを一時的な感情で決めないで、よく考えるように」って言ってきた。「別れろ」とは一言も書いていなかった。えらいお姉さんだなって思ったよ。

次に母親に会いにいった。そのときは病気のことをちゃんと話した。お母さんは「娘があんたのことを好きだというなら反対しない」って言ってくれて、「うちの子は貧乏には慣れているから、どんなに大変な暮らしになっても耐えていけるだろう。でも気持ちだけはうんと幸せにしてやってくれ」って。ぼくは「それだけは自信がある。あふれるくらいの愛がある」って答えました。キザだよね(笑)。「それなら安心だ」って、お母さんはぼくの手を握ってくれてね。でもそれから半年くらいして亡くなってしまった。もう少し生きられたら孫の顔も見せてあげられたのに。

3月に女房が上京してきて一緒に暮らしはじめて、それから8月には子どもが生まれた。男の子だった。親父がすぐに見に来てくれて「お前が結婚するってだけで俺は十分幸せだと思っていた」って言いながら、ものすごく喜んでくれた。それからすぐに二番目の子が、年子でできちゃった。今度は女の子だった。また親父がすぐに見に来てくれた。そのとき親父がえらく痩せてたから、「どうしたんだ」って聞いたら「糖尿だ」って。でもじつは末期の癌だったの。あとから知ったんだけど、からだもかなりきつかったのに、無理して孫の顔を見に来てくれたらしい。親父は二人の孫を膝に抱いて、「もういつ死んでも悔いはない」って言ってた。それから半年くらいして亡くなった。

親父は、ぼくの手がこんなふうになってしまったのは自分のせいだとずっと悔やんでいた。納屋に閉じ込めたりせず、はやく治療を受けさせてやればよかったって。親父にそんなふうに言われるのがつらかった。でも死ぬ前に、孫の顔を見せてあげることができて、いちばんの親孝行ができたと思うよ。

そのあともう一人、一番下に男の子が生まれて、まあ暮らしは大変だったけど、貧乏してもぜんぜん苦にならなかったね。ぼくはものすごく恵まれた人生だったと思うよ。女房とはケンカするたびによく「お前はすぐそうやって目を三角にするけど、あのとき“二人でがんばろう”って言ってくれたときのつぶらな瞳をもう1回見せてみろ」って言ってやるんだよ(笑)。女房は女房で「あれは若気の至りだったのよ」って。ははは。でもぼくが社会復帰していままでやってこられたのは、女房のおかげです。ぜんぶ、「愛の力」ですよ(笑)。

前例がないなら、前例になる

ぼくが勤めていた会社はプラスチックの成型なんかをやっている製造の会社で、はじめは現場の仕事をやらせてもらった。でも手が悪いから工場の中の片づけとか不良品の粉砕とか、そういう仕事くらいしかできることがない。あるとき社長から「その手じゃ何をやっても無理だろうけど、しゃべりは得意そうだから営業をやれ」って言われた。それで営業先をまわるために運転免許をとることにした。

障害者が免許をとるときはまず公安委員会の許可をとらないといけない。ところが神奈川県の公安委員会に行くと「あなたは第1級の障害者だから免許を取れません。免許を取れるのは3級以下の障害者だけです」と言われた。ハンセン病回復者の障害者手帳って、障害がそんなに重くなくても「1級」とされているんです(注:第1級障害者は他人の介助を受けなければ自分の身の回りのことができない程度とされている)。厚生省の方針で、ハンセン病回復者は社会に出ることもないし、「1級」にしておくことで高い障害年金をもらえるからというので、そんなふうにされているんだね。

でも実際にぼくはそこまで障害が重いわけじゃない。身の回りのこともかなり自分でできるし仕事だってしている。そう言って食い下がったんだけど、「第1級障害者が免許とるなんて前例がない」と言われた。あきらめずに何回も通って頼み続けたんだけど「前例がない」「前例がない」「前例がない」って取り合ってくれない。「ぼくを前例にしてください」ってお願いしたけどそれでもダメ。しまいに頭に来てね。ない知恵を絞って、朝9時に窓口に行って、「自動車学校で不適格と言われたらぼくもあきらめる。でも学校にも行かせてくれないのは障害者差別だ。ぼくは遊びで車に乗りたいわけじゃない。生活がかかっているんだ。だから今日は自動車学校の入学を許可してくれるまで帰らない」って言って、アンパンと牛乳を詰めたカバンを見せてやったの(笑)。そうやって夕方まで粘って、ようやく学校に行く許可だけ出してもらった。あとから聞いたんだけど「あの障害じゃどうせ免許なんか取れるわけがない。教習所のほうが合格出すはずがない。だから学校に行く許可だけ出してやろう」という話し合いをしたらしい。

  • 石山さんが愛用するニコンのカメラ。神山復生園時代に、園の記録写真を撮るために撮影から現像までをほぼ独学で憶えたという。

その翌日、さっそく溝口の自動車学校に行きました。そうしたら、私の話を聞いてくれた松本先生という人が「これからは障害者にこそ車が必要な社会になる。ぜひがんばってください」って言ってくれたの。「ただし、もし障害が原因で事故を起こされたりしたら自動車学校としても責任問題になる。だから徹底的にしごくけれども、がんばれるか」って。こっちもハンセン病になって虐げられて生きてきた経験があるから、ちっとやそっとではへこたれない、どんなことでも耐えていく自信があるからね。「ぜひしごいてください」って言ったら、さっそくその日から、松本先生が手取り足取り車の動かし方を教えてくれた。

その教習所には障害者でも運転できる仕様にしたホンダのオートマチックの軽自動車があった(ハンドルにグリップがついていて手が不自由でも操作ができる車)。川崎市の「障害者も社会参加できるように」っていう方針でね。なのに公安委員会が障害者に許可を出さないもんだから、誰も運転する人がいない。新車なのに埃をかぶって教習所の隅に置かれていた。だからぼくがその車を一人で乗り放題(笑)。松本先生も特別に2時間でも3時間でも続けて実車教習してくれた。学科のほうも、毎晩のように女房の一問一答式の特訓を受けて丸暗記できてたからまったく心配なかった。それで2週間ほどで仮免までいっちゃったの。

いよいよ本免許の試験を受けることになった。ふつうの人は自動車学校で本免許を取ることができるけど、障害者は本免許取るために二俣川まで行かないといけない。二俣川はものすごく広くて、コースもいっぱいあってまるで迷路みたいなんです。そこを試験官の先生がぼくを助手席に乗せて一回だけぐるぐるっと走っただけで、交代して今度はぼくが同じコースを回らなきゃいけない。一回じゃとても覚えられないようなコースですよ。で、やっぱり入り方を間違えてしまった。「こんな迷路のような道、1回走っただけで覚えろなんて無理です」って抗議したら、「わかんなきゃ聞けばいいんだよ」って。それでまた頭に来ちゃった。「障害者に免許を取らせたくないからそういうことを言うんだろう。バカにするな」って言ってやった。でも「規則なんだからしょうがない。試験は一日一回しか受けられない。明日また来い」って。

結局、松本先生があいだに入ってぼくの事情なんかも話してくれて、「もう1回だけ特例として試験をしてやってくれ」って頼んでくれた。そしたら午後になって、もう1回だけ同じ先生が受けさせてくれることになった。今度は最初に「わからくなったら聞いていいんですね」って確認して、本当にいちいち「次は何番ですか。次は何番ですか」って聞きながらやってやった(笑)。そうしたら一発で合格しちゃった。先生もすっかり感心して「あんた、やるねえ」って言って「せっかくだから、今日最後の学科試験を受けていけ、間に合うから」って。試験が終わって結果発表を待って、合格のランプがついたときは、先生と二人、男同士で抱き合って喜んじゃった(笑)。向うも泣きながら喜んでくれたよ。「神奈川県で一級の障害者で免許をとったのは、石山さんが初めてだ」って言って。

あとから知ったんだけど、世界中でいちばん免許の試験が厳しいのが日本、その日本のなかで一番厳しいのが神奈川県なんだそうです。神奈川県の試験で落ちた人が、東京の鮫洲や府中に行くと受かっちゃうんだって(笑)。最後に先生は「あんたには嫌なことも言っちゃったけど、二俣川で実技と学科の両方を合格したんだから胸を張ってください。障害者の模範となれるように精進してください」って言ってくれました。

石山さん撮影による「富士残照」(平成13年1月15日 精進湖畔で撮影)

どんなときも啓発活動のチャンスに

  • 石山さん撮影「富士残照」(平成13年1月15日 精進湖畔で撮影)

  • 石山さん撮影「夕映え富士」(平成13年1月1日 山梨県三国山で撮影)

  • 石山さん撮影「静寂の瞬」(平成14年11月18日 京都天龍寺で撮影)

社会復帰したばかりのころ、先輩からは「子どもが社会人になるまでは、絶対に病気のことは他人に言うなって」アドバイスをもらってました。そうしないと、子どもが差別やいじめの対象になるからって。ぼくも子供にはそういうつらい思いをさせたくなかったので、アドバイスをずっと守っていたんだけど、あることがきっかけで息子の担任の先生に話すことになってしまった。

ぼくはそのとき小学校のPTAの役員をやっていたので、しょっちゅう学校に行ってたんだけど、あるとき息子から「お父さんに学校に来てほしくない」って言われた。同級生たちから、ぼくの顔や手の障害のことで嫌なことを言われて、つらい思いをしていたらしい。これは困ったことになったなと思って、担任の先生に時間をとってもらって、息子が悩んでいるからPTAの役員をはずさせてほしいってお願いをしたんです。このときはじめて自分がハンセン病だったことも先生に明かしました。先生は「わかりました。その対応はぼくにまかせてください」って言ってくれました。

数日後、また授業が終わるころを見計らって先生にどうなったのかを聞きにいったら、いままでとは違って子どもたちがぼくのほうに駆け寄ってくるんですよ。「石山君のお父さんはえらい人だって、先生から聞いたよ」って言って。びっくりして「何があったんですか」って先生に聞きました。そうしたら先生は、あのあと子どもたちにこんな話をしましたって言ってくれました。「石山くんのお父さんは、PTAの役員を誰も引き受けてくれないので会議が行き詰まっていたときに、たった一人だけ手をあげて “私は障害者ですが自分にできることがあればやります”と言ってくれた。そうしたら“体の不自由な石山さんがあそこまで言うなら私たちも引き受けなくちゃ”とお母さんたちが次々と手をあげてくれて、あっというまに10人の役員が決まった。石山君のお父さんは体は不自由でも人間としてとても立派です。そんな人のことを障害があるからって見下したり差別したりするのは、人間として最低のことです」。先生のこの話を聞いて、子どもたちのぼくをみる目がすっかり変わってしまったんだね。それからは息子もぼくが学校に行くのを嫌がらなくなりました。先生には「先生はぼくたち親子を救ってくれました」ってお礼を言いましたよ。

ぼくが病気のことを隠さずにカミングアウトするようになったのは、2001(平成13)年の国賠訴訟のあとです。それまでは小児麻痺のせいでこうなったとか、事故のせいでこうなったとかずっと嘘をついてきた。カミングアウトしたときには、肩の荷が下りたようにホッとした。これでもう嘘をつかずに済むんだってね。女房からは反対されましたよ。「もし家族まで差別されたらどうするの」って。でも「もしそうなったら、家族を守るために俺は徹底的に闘う」って言って、住み慣れた団地の皆さんにも、身体障害者協会のメンバーにも打ち明けました。でも誰からも差別されたりしませんでしたよ。そのころは裁判の記事が新聞なんかにしょっちゅう出ていたから、むしろ「石山さん、大変な思いをして生きてきたんですね」って言ってくれる人が多かった。

いまでは障害者の仲間と旅行なんかいくと、ぼくが口をつけた食べ物や飲み物なんかも、みんな平気で口をつける。「それ、俺が口つけたよ」って言っても「かまわないよ」って。だからぼくのほうから言ってやるの。「お前も気の毒にな。来年のいまごろは俺みたいになっちゃうぞ」って(笑)。ひどいブラックジョークでしょ。でも障害のある者同士、そうやって自分たちのことをネタにしちゃうことで、付き合いが深まって円滑になるんだよ。

「石山さんのその手どうしたの」って聞かれれば、正直に答える。ときにはブラックジョークだって言っちゃう。そうやって自分からあけっぴろげになることで、どんなときもハンセン病の啓発活動のチャンスにしちゃう。

障害者の社会参加について思うこと

ガイドヘルパー(一人で移動するのが困難な障害者のための移動のサポートをするヘルパー)の仕事をやっていたときは、ほかのヘルパーはみんな定年退職した人とかで、自分も障害者というヘルパーはぼくだけだった。でもぼくを指名してくれるお客さんがいちばん多かった。お客さんの話では、健常者のヘルパーは障害者の気持ちをわかっていないというんだね。「でも石山さんは自分が障害者だから、私たちの気持ちがよくわかってくれるし、気が楽だ」って。たとえば盲人の方が車に乗ろうとしているときに、健常者のヘルパーは「危ないですよ。急いでください」なんてことを平気で言う。その点ぼくなんか「自分のペースでいいよ」って言って絶対にせかさない。「もしぶつけられても向うが悪いんだから、俺が補償金いっぱいとってやるから心配ないよ」って冗談まで言ってなごませて(笑)。運転しながらもいろいろなおもしろい話をしてあげるんだよ。

障害者協会でいろんな障害者と付き合うようになってから、いろいろ学んできたからね。障害者を助けたくてもどういうふうにしてあげればいいのかわからないってよく言われるんだけど、「私が面倒みてやる」「助けてやってる」っていうニュアンスは絶対に出しちゃいけないんだ。障害者にも人間としてプライドがあるからね。だから「お手伝いしましょうか」っていうふうに聞いてあげてほしい。

これからは、障害者の側が社会参加の意思をもっと強くもたないといけないと思う。障害者というのはどうしても「自分は一人前の人間じゃない」っていう自己判定をしてしまうんだね。だからみんなが十歩行くところを、自分は五歩でいいって思っちゃう。人並みに十歩行こうとしたら嫌がられるんじゃないか、叩かれちゃうんじゃないかっていつもビクビクしながら生きている。でもそこで引っ込んでしまったらダメなんだ。

社会というのはどうしても健常者中心のルールでできているでしょう。健常者なら、道にはずれさえしなければ、反社会的なことさえしなければ、なんとか生活していけるということが保証もされているでしょう。まあ最近はそれも完全じゃなくなってきたけどね。でも障害をもっている人がこの社会で生きていくのはまだまだ大変なんです。困ったときには助けてくれるかもしれないけれど、誰も人生を引っぱって行ってはくれない。だからこそ、自分でエンジンを吹かして走り続けようと思わないとだめなんです。

ぼくは毎日「今日は何をやろう」と思って生きてきた。無為に一日を過ごすなんてことはなかった。人生なんて明日のことは誰にもわからないでしょ。だから、その日その日をどう一生懸命生きるか。一生懸命やればムダなことなんて何にもない。自分でいうものキザだけどさ(笑)、そうしていけば道は拓けると思うんだよ。

取材・編集:太田香保 / 撮影:長津孝輔 / 協力:山口和子