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金城 雅春(沖縄愛楽園自治会 会長)

金城雅春さんは現在61歳。1990年に自治会長に初就任したときには、まだ35歳だった。
「全国最年少の自治会長」として自治会の改革に挑み、その後のハンセン病国賠訴訟でも園内をまとめ、
じつに90%以上の入所者が原告として名を連ねた。
なにごともオープンに、明朗に。そんな信条をもつ金城さんにご自身のセルフストーリー、
そしてこれからの愛楽園について語っていただきました。

Profile

金城雅春氏
(きんじょう まさはる)

1954年、沖縄県大宜味村生まれ。石垣島で小中学校を卒業後、高校在学中にハンセン病を発症。1980年に沖縄愛楽園に入所する。1990〜1993年、2000〜2006年にも自治会長をつとめており、今回の会長職就任は通算3回目。現在は2015年6月にグランドオープンした「愛楽園交流会館」の企画運営にも積極的に関わっている。2021年、享年67歳にて逝去。

「3カ月で帰れるから」と言われ、
やってきた沖縄愛楽園

金城さんが自治会会長をつとめるのは今回で3回目だそうですね。

私は同じ人間が長いこと会長をやるべきではないと思っているので、毎回数年でやめることにしているんです。今回は以前から関わってきた「沖縄愛楽園交流会館(2015年6月グランドオープン。以下交流会館と記す)」を最終的に仕上げる時期ということで(自治会会長を)やることにしました。交流会館をつくろうという運動は私たちが言い出したことですし、責任をもってやり遂げたいという思いもありますので。

愛楽園に入所されたのは1980年とお聞きしました。

発症したのは高校2年のときで、最初は酒によるアレルギーかなと思っていたんです。那覇市の病院に行ったら保健所へ行きなさいと言われ、そこからさらに予防協会(※ハンセン病の外来診療所。沖縄では米軍統治時代、在宅治療が推奨された経緯があり、そのための外来診療所があった)を紹介されました。

当時はハンセン病という病気のことはまったく知りませんでした。予防協会へ行ったときも「スキンクリニック」「皮膚診療科」としか書いてありませんでしたしね。薬を飲めば治りますよ、と言われたので在宅で高校に通いながら治療をつづけました。当時私は叔母の家に下宿していて、家族は石垣島にいました。心配をかけてはいけないと思っていたので、病気のことは家族にも言わなかったです。

高校卒業後は本土の大学に行ったんですが、その間は薬は飲んでいません。石垣に戻ってきてからは建築事務所で働いていたんですが、仕事で無理をすると熱が出る。それで病院に行き、ハンセン病の菌が出ていることがわかりました。本土に行ってから薬飲まなかったのがいかんかったかな、と思いましたけど、治療についての知識もそのときはまったくなかったんです。

それから3年くらいは仕事をしながら在宅で治療をつづけました。無理をするとときどき高熱が出て、ひどくなると1週間とか2週間入院しなければならない。仕事は相変わらず忙しかったので病院に持ち込んでベッドで仕事していました。「金城さん、ここは病院なんですから仕事は持ち込まないでください」って、よくドクターに言われましたよ。

そういったことが頻繁になってきたので、先生からも療養所に入ってしっかり治療した方がいいのでは、と勧められたんですね。病気だったら仕方ない。療養所に行って治るんだったら行きます、ということで仕事も辞めて愛楽園にやってきたのが’80年。26〜27歳くらいのときです。でも入所するときは「3カ月で帰れるから」と言われていたんですよ。ところが病棟で同室だったおじいさんに訊いたら、「私はここに50年以上いるんだ。3カ月で帰れるわけがないじゃないか」と言うんですね。そのとき「3カ月で帰れる」というのは嘘だったんだと初めて知った。それでも一日も早く退院して社会復帰したいと思っていましたから、一般舎には移らないと言い張って3年間ずっと病棟にいました。当時そういう人はまずいなかったですね。以来、35年になります。

金城さんが設計の腕を奮い、「開かれた療養所」という構想を込め、2015年6月にオープンした愛楽園交流会館。

なぜ病気が治っても退院できないのか。
素朴な疑問から自治会へ足を運ぶように

当時の愛楽園は重症の人がいる一方で、元気そうな青年たちも大勢いました。彼らは身体に障がいも出ておらず、人数もかなり多くてにぎやかなんですね。ここはいったいなんなのか、青年たちがとくにやることもなく毎日ブラブラしているのはなぜなのか、そんな疑問をもちました。沖縄では第二次大戦後に発症した人も多くいましたが、彼らの多くはプロミンなどの治療薬があったおかげで治っていたんです。

米軍統治時代(1945〜1972年)、とくに’60年代以降は在宅治療も推奨されたそうです
が、1972年に沖縄が本土復帰すると今度は「らい予防法」によって隔離政策が復活して
しまう。青年たちは、そのはざまで愛楽園に留まらざるをえなかったのでしょうか。

そういった事情もありますし、経済的な問題もあったのではないかと思います。当時の沖縄は失業率が高く、働き口もなかなかなかったですから。

金城さんが自治会に出入りするようになったのは、何がきっかけだったのでしょう。

自治会に出入りするようになったのは愛楽園にやってきて2年くらいたった頃です。きっかけはさっきも言ったように園内で目にした青年たちの姿と、なぜ彼らは治っているのに退院していかないんだろう、という素朴な疑問でした。それで調べてみようと思いたったわけですね。当時の私は「らい予防法」という法律が存在することすら知らなかったんですよ。

それと並行して自治会の資料室でいろいろな文書を読むわけです。すると先輩たちが不良職員追放運動とか、患者作業ストなど、さまざまな運動をやっていたことがわかった。そうか、昔の運動はこんなに激しかったのか、と思いました。

政治活動や人権活動には、もともと興味があったんですか。

兄が組合活動をやっていて、私はそれによくくっついて歩いていたんです。それで政治的なことには以前から関心がありました。そんなことがきっかけで自治会の文化部で仕事をするようになったんです。当時の自治会は部署もかなり多くて畑や家畜の管理、各種催し物の企画運営などもやっていました。人がたくさんいて、仕事もいろいろあった。これは面白そうだ、というのが第一印象でした(笑)。そういった仕事もやりつつ、園内の待遇改善、治った患者を退院させるべきだといった活動もしました。

1985年からの3年間は、東京の全国ハンセン病療養所入所者協議会(※通称・全療協。当
時は全患協と呼称されていた)本部に出向されていたそうですね。

当時私は自治会執行部に入って自治会副会長をやっていたんですが、当時の会長が全国会議から帰ってくるなり「沖縄から本部に1名派遣することを了承してきた」と言うんですね。誰が行くんだ? という話になったんですが、まさか会長を行かせるわけにもいかないので副会長の私が出向することになったんです。30歳そこそこで、まだ若かったし。

本部では広報担当をやっていました。文書を整理したり、全国から集まってくる情報に目を通して機関誌を出したりという仕事です。ところが本部の仕事のやり方というのは、ものすごく旧式だったんですね。’80年代のなかばだというのに文書作成は鉛の印字でカチャカチャやる和文タイプだし、印刷は手回しの輪転機。作った文書を送ろうと思ってもファックスすらない。急ぎのときは電報で送ってました。そこで「そんな面倒なこと、せんでおこうよ」「誰でも使えて便利なものの方がいいですよ」といって、各支部にもファックスを入れてもらいました。タイピストのおばちゃんたちにもワープロの使い方を覚えてもらって。使い方教えるのはけっこう大変でしたけど(笑)。

金城さんが普段スマートフォンを使っているのも、そういった考え方の一環ですか。

ものごとを合理的に考えるのは、もともとが技術屋だからでしょう。あとは農家の生まれだというのも大きいと思います。農家というのは、この時期はこれ、次はこれを育てて、それが終わったらこれ、というように通年段取りが決まっているものなんですよ。そうやってきっちりやっていかないと作物が育たない。私も夏休みの収穫期には朝早くから夜暗くなるまで、家の手伝いをよくしたものです。予定立ててきっちりやる、合理的、効率的に考えるという習慣は、そういう親の姿を見て育ったからかもしれません。

ハンセン病違憲国賠訴訟のときは、団長として愛楽園原告団の結成をまとめあげた。

正々堂々、すべての情報をオープンに。
そんな信条で臨んだ国賠訴訟

出向から戻ってきてからは非常勤で自治会の運営委員をしていました。そうしたら、ある話合いで「なぜ、そんなに質問ばかりするのか。お前は反対するために質問しているんじゃないのか」と非難されたことがあったんですね。そのときは「なに馬鹿なことを言っているのか、今の発言取り消せ」みたいな言い合いになったんですが、そのことがきっかけで自治会は誰のためのものなのかということをあらためて考えるようになりました。

言いたいことも言えない自治会なんて意味がない。自治会という名前を掲げる以上は自分たちにとって身近な存在でなきゃいけないだろう。そう思って自治会長に立候補したんです。当選したとき、私はまだ30代なかばで、全国に13人いる自治会長のなかでは最年少でした。

このときは’93年まで4年会長職をつとめられ、その次に会長に立候補したのは2000年で
すね。このときはやはり国賠訴訟(※らい予防法違憲国家賠償訴訟。1998年提訴、2001
年に原告全面勝訴)のためという側面が強かったのでしょうか。

そうです。私が原告になったのは1999年12月の第7次提訴のときで、愛楽園からは14名が最初の原告として名を連ねました。裁判については「せっかく静かに生活できているのに、なぜ波風立てなければいかんのか」「みんな国の世話になっているんじゃないか」「そんなにお金がほしいのか」といった批判も数多くありました。「愛楽園にいたからこそ長生きできたんじゃないか」という声もあったんです。

しかしいろんな人に話を聞いてみると、戦前戦中に畑から強制的に連れてこられたという人もたくさんいるんですよ。軍人からサーベルを突きつけられて脅された、という人もいました。長い年月のあいだにみんなそういったことを忘れてしまっているんですね。

私たちは好きでここにいたわけじゃない。「ここにいたからこそ長生きできた」と言う人もいるけれども、実際はここでしか生きることを許されなかったんです。そんなことを続けてきた世の中の方がおかしいのだと、なぜ思わないのか。私たちの人権をどうするかという話なんですよ。これはみんなで闘わないといかんでしょう。

ところが園側は原告団には園内の施設使用を許可できないと言ってくる。当時の自治会はというと、そういった園の意向に異議を唱えることもなく同意していたんです。こんな自治会ではいかん、ということで2000年の自治会長選挙に立候補したわけです。

愛楽園では最終的に90%以上の人が原告として裁判に参加したとうかがいました。
賛否両論あったなかで、ここまでの人が名前を連ねた理由とは何だったのでしょう。

  • 自治会長として忙しい金城さん、園内移動にはもっぱら自転車を利用

他の園では各部屋を個別に回って説得するケースが多かったようですが、それでは誰が原告かもわからず、入所者同士の関係がぎくしゃくする。みんなが疑心暗鬼になってしまうんです。それではいけない。そこで愛楽園ではすべてオープンにしました。説明会も公会堂でやって、そこに弁護士も参加してもらう。その上で「この裁判に賛成する方は原告となる手続きをここでしてください」とお願いしました。入所者のほとんどがいるところで署名するわけだから、誰が原告かみんなわかっているわけです。

別に隠す必要もないし、(裁判を)やりたくない人はやらなくていい。ただ裁判はすでに始まっていて、判決が出ればその結果は私たち全員に影響するんです。だったら黙って見ているより参加して自分の思いを伝えた方がいいんじゃないですか。そう訴えかけました。最後は「あんたがそこまで言うんだったら」といって賛同してくれた人もいて、そこまでくるとお互いもう理屈じゃないんですね(笑)。その積み重ねが、いまの愛楽園の歴史というか、オープンないい風土をつくっていると思います。

愛楽園の入所者数も180名を切りました(※2015年11月現在、入所者数178名)。一方、今年の6月1日に「沖縄愛楽園交流会館」がグランドオープンしましたが、この施設を将来的にどう活かしていくかも私たちにとっての大きな課題です。更地から新しく建物をつくったのは13園ある国立療養所のなかで愛楽園が初めてなんですね。予算もなく、できるまでには時間もかかってしまいましたが、交流会館という拠点ができたことは非常に大きなことだったと思っています。

交流会館や資料館といった建物は園の入口近くに作られることが多いですが、愛楽園交流
会館の場合は園のもっとも奥まった場所に建物が建っている。これも大きな特徴のひとつですね。

  • 2005年に開通した古宇利大橋。2014年までは県内最長の離島架橋だった。

この場所に交流会館を建てた理由は、ここが沖縄愛楽園発祥の地だからです。熊本の回春病院からキリスト教伝導のためにやってきた青木恵哉が苦難の末に療養所を開いた場所、それがちょうどこのあたりなんですね。すぐそばには青木恵哉が堀った井戸や記念碑もありますし、納骨堂もある。交流会館は、やはりこうした場所の近くにあるべきだという結論になったんです。

6月1日から半年足らず(※2015年11月取材時)の間に入場者数も3500名を超えました。ここは観光スポットの古宇利大橋から見える場所なので、グランドオープンに合わせて橋のたもとにも案内看板を立てたんですね。そのせいもあってか、観光客の方々がレンタカーで園内に入ってきてくれるようになりました。沖縄は戦争に関する博物館や平和祈念館などを見て回る観光客も多いですから、地元の観光ガイドにも載せてもらおうなんていう相談もしているところです。交流会館2階にある展示室も来年度以降、地域の人たちがサークルで作った作品展示などに活用してもらう予定です。

国賠訴訟以降ずっと、愛楽園では「地域との共生」を大きなテーマとしてきました。ついこの間も地域のお祭りを愛楽園の多目的広場でやったばかりです。そうやって交流会館も愛楽園も地域の人たちにどんどん出入りしてもらいたい。これからもハンセン病のことをまったく知らない人たちをできるかぎり呼び込んでいきたいと思っています。自治会の運営もそうですが、人が集まるということがやっぱり大事なんですよ。

取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉