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People / ハンセン病に向き合う人びと

金城 幸子(ハンセン病回復者)

ハンセン病だった自分は幸せ者であると語る金城幸子さん。
そのライフヒストリーは、ハンセン病の両親から生まれ、
沖縄戦中・戦後の混乱期をかろうじて生き抜いた少女時代も、
いちはやく社会復帰と就職、結婚・出産を果たした成人後もまさに“壮絶”そのもの。
そんな幸子さんの小さなからだとその語りから、沖縄の海のような広さ、熱さがあふれていました。

Profile

金城幸子氏
(きんじょう さちこ)

1941(昭和16)年、熊本の本妙寺近くのハンセン病患者の集落で生まれる。その後、「育ての親」に引き取られ、久高島、与那国島などで幼少期を過ごす。8~9歳ごろハンセン病を発症、1950年沖縄愛楽園に入所。岡山の邑久高校新良田教室に進学し、卒業後は社会復帰し九州で働く。1967年に沖縄に戻り結婚、3児をもうける。1982年、愛楽園に再入所。1998年に提訴されたハンセン病違憲国賠訴訟では沖縄愛楽園原告団副団長をつとめる。2002年、愛楽園を退所、以降、回復者語り部として精力的に講演などの活動をしている。2007年、『ハンセン病だった私は幸せ』を出版。

熊本、台湾、そして沖縄へ
ハンセン病に翻弄された家族

幸子さんはご両親もハンセン病患者だったそうですね。

そうです。そのために両親は大変な苦労を強いられました。沖縄ではハンセン病に対する偏見や差別がひどく、患者たちは村を追われて海岸の洞窟や山に掘っ建て小屋をつくって乞食のように暮らしていたんですね。やがて沖縄MTL(沖縄キリスト教救らい団体)の働きかけで、沖縄の患者が鹿児島・熊本・大島の三カ所の療養所に収容されることになりました。私の両親もそうやって、鹿児島の敬愛園に送られました。

そのとき、父は21歳、母は19歳。母はすでに私の兄になる子どもを身ごもっていました。でも療養所では子どもを産むことが許されていなかった。生まれた子どもも殺されてしまう。それで両親は敬愛園を脱走して、熊本の本妙寺の近くの集落に行ったんです。そこには、両親のようにまだ若くてそれほど後遺症のない患者夫婦が全国から集まっていた。そこで生まれた子どもがたくさんいたそうです。そうして無事に兄が生まれ、その3年後、私もその集落で生まれました。

ご著書『ハンセン病だった私は幸せ』には、金城さんは、熊本の回春病院で生まれたと、
書かれていましたが。

  • 金城幸子さんの著書『ハンセン病だった私は幸せ』(2007年、ボーダーインク刊)

  • 金城さんの幼少時は戦争のさなかでもある。愛楽園には、被弾跡の生々しい壁がいまも残されている。

それが、違っていたのですよ。あの本を出したあと、私の出生を知る人が教えてくれたのです。私が産まれたのは回春病院ではなく、本妙寺の近くの村だったということを。それを知ったときは、ひっくり返りそうになりましたよ(笑)。だって、幼いときから、私は回春病院で生まれたと聞かされていたんですから。

でも私にそんな嘘を教えたのは、まわりの大人たちの思いやりだったんですね。回春病院のようなちゃんとした病院で生まれたと思っていれば、私が傷つかずに済むだろう、将来のためにもそのほうがいいだろうと。実際にも回春病院では、村で生まれた子どもを引き取って育てることはしていましたが、リデル先生は子供を産むことは絶対に許さなかったそうです。

ちょうど兄が産まれた昭和13(1938)年に、愛楽園ができていましたので、両親は兄と私を連れて沖縄に戻ろうとしました。ところが療養所からは、兄は引き取るけど、私はまだ赤ん坊だからだめだと言われて、家族で台北市に移ったんです。あのころ台湾は日本の領土でしたからね。幸い父は症状が軽かったので仕事に就くことができましたが、母は病状がどんどん悪化して、台湾の療養所に入れられてしまった。私たち幼い兄妹は沖縄に住む父方の祖母に預けられることになったんです。

母とはその後、二度と会うことはできませんでした。療養所に入ったまま、26歳という若さで亡くなってしまった。母は、いつも二人の子どものことを案じて療養所で泣いていたそうです。入所したときは三人目の子どもを身ごもっていたんですが、その子が産まれて1週間ほどで亡くなってしまったとき、「自分の子じゃない」と言い張ったそうです。精神を病んでしまってたんですね。あまりにつらいことばかりが続いたせいでしょう。今でも母のことを思うと胸が詰まりますよ。

兄と私が預けられた祖母は、ハンセン病をとても嫌う人でした。兄は「糸満売り」に出されてしまいました。沖縄には子どもをウミンチュ(漁師)に売って年季奉公させる慣習があったんですね。そして、まだ2歳にも満たない私は、国際通りを乞食をしながら歩いている十数人のハンセン病患者たちに預けられました。あとになって知ったことですが、祖母は、自分の息子夫婦が患者なのだから、その子どもたちも病気にかかっていると思っていたんです。だから兄は売られ、私は捨てられたのです。

そんな私を引き取ってくれたのが、久高島から来たカミンチュ(神人)と呼ばれる女性でした。カミンチュというのは、久高島に古くから伝わる神事を執りしきる人で、とても尊敬されているんですね。そんな人が、国際通りに、ハンセン病患者に抱かれた赤ん坊がいる、聞けばその子は自分の親戚にあたるらしい。どうせ長生きはできないだろうけど、せめて久高島に引き取って葬ってあげようというつもりで来てくれたそうです。

そのカミンチュの兄と、その内縁の妻だった女性が、私の「育ての両親」になるわけです。「育ての母」も大変苦労した人でした。一度結婚したけれども、子どもができないので家を追い出されて、お金持ちの船長さんの二号さんになっていたんです。でもそのおかげで私は生き延びることができた。あの当時高価だったワカモト(栄養剤)を、母がご飯がわりに食べさせてくれたおかげです。拾われてきたときは、栄養失調でがりがりに痩せていたそうです。

でも村では私の出生のことは噂になっていたようです。幼稚園に行くようになると、「拾われた子」と言われてしょっちゅういじめられました。泣きながら家に帰って「母ちゃんは私の本当の親じゃないの」と聞いたことがありました。すると母は私の手を引いて、一軒ずつ近所の家を回って、「この子は私が産んだ子です。なぜ子どもたちに嘘を教えるんですか」と強い口調で言ってました。そのときのきりっとした母の顔と言葉を思い出すと涙が出てきますよ。

母はその後、私を連れ子にして、七人も子どものいる家の後妻として与那国島に嫁ぎました。きっとみじめな思いをしたことでしょう。女は家の「道具」としてしか扱われない、人権もなにもあったものじゃない、ひどい時代だったんですよ。

絶壁に追い詰められて
悪夢のような少女時代

ハンセン病の発症はいつごろだったんですか。

  • 幼少期の思い出がよみがえるのか、時折、涙ぐむ金城さん

8歳のときです。与那国島に渡って1年もたたないうちに、赤い斑点が顔に出て、やがて大きなコブがいっぱいできて腫れあがってしまった。腫れたところを母がカミソリで切って血を出してくれました。「悪い血を出せば治る」と思い込んでいたんです。そんなことをしても治るはずがないのに、おかげでいまも私の顔もからだも、母のつけた切り傷だらけですよ。

再び私は「母」と引き離されることになりました。おそらく家族のなかで何事か話し合いがあったのでしょう、私ひとりだけ久高島の親戚の家に行かされました。それからは、トタン屋根の狭い炊事場が私の寝起きする場所。独りで食べて、独りで遊ぶ毎日です。「絶対に門の外には出ては行けない」と言われた。でも、人恋しさのあまり、あるとき約束を破って門から外に走り出て、家の近くにあった学校の正門まで走っていきました。いつもその方向から、子どもたちの遊ぶ声が聞こえていたんです。すぐに校庭で遊んでいた子どもたちに見つかって、石を投げられたり、唾を吐きかけられたりしました。

そこへ、女の先生がやってきた。ものすごい形相で棒を振り上げながら「出ていきなさい」と言って、私を追いかけてきた。あのときの恐怖といったら、おとなになってからも何度も夢に見ましたよ。夢の中では、なぜか追いかけてくるのはライオン。絶壁に追い詰められて、そこから飛び降りると言う同じ夢ばかり。人間って、怖い思いをすると、そうやって同じ夢を何度も見るものなんですねえ。

その後、診療所の先生がやってきて、垣根越しに家の人に「この子は大変な病気だ。早くヤガジに連れて行きなさい」と言っているのを聞きました。愛楽園のある屋我地島のことです。当時、療養所のことをそう呼んでいたんです。私はまた舟に載せられて、知念村の病院に入れられました。海を見下ろす絶壁に立っている病院でした。

すぐには愛楽園に入らなかったんですか。

あとから知った話ですが、あの当時、愛楽園は450人収容のところに1000人ものおとなたち、下は5歳くらいから上は中学生くらいの子どもが70人近くも収容されていて、子どもひとりさえ受け入れられない状態だったんです。

知念村の病院といっても、アメリカ軍から払い下げられたコンセット(カマボコ型の仮兵舎)が置かれただけの、ひどいところでした。沖縄戦で負傷した人なんかが入院していたようです。私は外から鍵のかかった薄暗い部屋にひとりきりで監禁されました。そこにいるあいだ、一度も医者も看護婦も見たことがなかった。唯一、記憶にあるのは、ドアの隙間に白い丸いお盆が置かれていたこと。そこから食べ物が差し入れされてたのでしょう。治療も診察もしてくれない、着替えもしてくれないので着たきりスズメで、病気もどんどん悪化していく。「らいの子なんて死んでもかまわない」という扱いですよね。

ある夜、ひどい台風が来ました。ものすごい風の音がして、ガタガタ建物が揺れた。隣の部屋の患者たちはどんどん運びだされていく様子なのに、私は放って置かれたまま。怖くて怖くて、泣きながら真っ暗な部屋のなかを「かあちゃんよー」と泣き叫びながら走り回りました。突然、風で部屋のドアがバーンと開いて、夢中で走り出たとたん、強い風に吹き飛ばされてしまった。幸い小さな木に引っ掛かって助かったんですが、飛ばされた方向が違っていたら絶壁から落ちて死んでましたよ。しばらく木にしがみついて泣き叫んでいたら、誰かがやってきて手を引っぱってくれた。記憶はそこで途絶えています。そのまま気を失ってしまったんでしょう。

気が付いたら、また元の部屋に戻されていました。足にひどい傷を負ってましたが、感覚が麻痺して、痛みも感じない。腐った傷口から蛆が這い出てくるのを放心状態で眺めていました。その数日後、二人の看護婦さんが迎えに来てくれて、ようやく愛楽園に入ることになったんです。

いろんなことがあった私の人生のなかでも、この知念の病院でのことは、一番つらかったですね。幼い子どもだったから、精神的に傷つかずに済んだ。もし思春期の多感な年ごろだったら、あんな酷い体験をして生きていけませんよ。きっと久高島の神が私を守ってくれたんだろう、悩まずに済む年頃に試練を与えてくれて、私に生きる力をくださったんだろうと思いますね。

愛楽園発祥の地に立つ、青木恵哉氏の銅像。迫害を受けていたハンセン病患者のために土地を自費購入、その後も苦難のなかで開園された。

生きること、学ぶことを
教えてくれた人びと

愛楽園に来てからはどんな毎日でしたか。

  • 愛楽園で笑顔を取り戻した金城さん13歳のころの写真。手にのっているのはかわいがっていたハト。

  • 現在は、長島愛生園にかろうじて面影をとどめる岡山県立邑久高等学校新良田教室

愛楽園では大勢のおとなたちがみんな私をかわいがってくれる。友達もたくさんいる。それはそれはうれしかったですよ。私にとっては天国のようなところ、幸せでした。

生きること、生きるために学ぶことを教えてくれたすばらしい人たちとの出会いもありました。長島に高校(新良田高校)ができたという話を聞いて、私もそこに行きたいと思うようになりました。幸い、療養所に母方の祖母の妹夫婦がいました。その夫婦が、園内の中学を卒業したあとも私が勉強を続けられるように、乙女寮には行かせず、夫婦舎に引き取ってくれたんです。おじいちゃんは私のために東京から通信教育を取り寄せてくれました。

おじいちゃんはクリスチャンで、愛楽園をつくった青木恵哉先生(*註)ととても仲がよかった。その関係で、青木先生にもとてもかわいがってもらいました。毎日、私が青木先生の昼ごはんをつくってあげてたんですよ。昼時になると、ガッタンガッタンと先生の義足の音が聞こえて、「おーい、幸子、ごはんはできてるか」って言いながら夫婦舎に来られるんです。あのころの義足は出来が悪かったからガッタンガッタン音が鳴るんですね(笑)。

先生は療養所の皆さんから「青木タンメー(おじいちゃん)」って呼ばれていました。私も「タンメー」って呼んでました。おじいちゃんは「ちゃんと青木先生と呼びなさい」と言ってましたけど。

青木先生は教会の2階にお住まいでした。私は、園内の小中学校の音楽の先生からオルガンを習って、よく教会に行って一人でオルガンを練習していたんです。すると青木先生が「もらいもののお菓子があるよ」と言って、しょっちゅう部屋に呼んでくれました。そこでいろんな話を聞きました。先生の内緒の話、恋の話なんかもしてくれましたよ。いつも「人にやさしくするんだよ。隔てなくやさしくするんだよ」と教えてくれました。

長島の高校(新良田教室)に行くのは大変だったでしょう。同じく愛楽園から進学した伊
波敏男さんに取材したとき、当時、アメリカ統治下の沖縄からハンセン病患者が本土に渡
るのは大変なことだった、進学するために愛楽園を舟で逃走したという話をうかがいまし
た。 伊波敏男さんのインタビューはこちら

伊波さんのことはよく知っています。立派な本をたくさん出されて、私にとっては、「尊敬すべき弟」のような存在ですよ。まだ沖縄から長島の高校を受験する制度が整ってない時代でしたからね。「軽快退園許可証」をもらえないような障害をもつ人は、伊波さんや私のように園を逃走して、鹿児島の敬愛園に入って受験させてもらうしか手段がなかったのです。

私は、親友と二人で、療養所の皆さんが寝静まるのを待って、寮母が頼んでくれていた舟で対岸の運天港に渡りました。それから親友の家に寝泊まりしながら、パスポート申請のために戸籍を取ろうとしたんですが、困ったことに自分の戸籍がどこにもないんです。育ての親の知念村、実の母の出身地の名護、父の出身地の糸満、ぜんぶの役場に行ってみたけど、見つからない。さらに調べてみると、驚いたことに実の母の戸籍が消されていて、私は祖母の四女ということになっていた。しかも実際は昭和16年生まれなのに、昭和5年に生まれたことになっていたんです。

案の定、鹿児島に渡る船に乗るとき、パスポートチェックをする係員から怪しまれました。親友と私のパスポートを見比べて、「あんたたち10歳も離れているように見えない」と言われた。なにしろ親友は17歳、同い年のはずの私は27歳ということになっていたんですから。でもなぜかそこにいたアメリカ人の係員が「二人とも通してよい」と言ってくれたんです。おかげで助かりました。

その後、私は受験に一度落ちてしまったので、親友のほうが一年先輩になりましたが、長島に行ってからも、その後も、ずっとお付き合いしていますよ。彼女は愛楽園を卒業後、岡山の看護学校で勉強してがんばって看護婦の免許を取ったんですよ。そして、卒業後も将来のことが決められずに、なんとなく愛生園に残っていた私に「いつまでそんなところにいるの。早く社会に出て仕事をしなさい」と励ましてくれたんです。すばらしい親友です。彼女がいたおかげで、いまの私があるんですよ。

註)ハンナ・リデルに感化され、1927年にキリスト教伝道のために沖縄を訪れた青木恵哉は、人里離れた洞窟などで暮らすハンセン病患者の悲惨な状況を知り、救済に尽力。その活動拠点が現在の愛楽園の礎となった。

青春時代によく遊んだ愛楽園の浜辺。「男の子に負けないほど泳ぎが得意だったのよ。でもね、じつはここで首を吊って死のうとしたこともあった」と語る。

誰も、病気が治っていることを
教えてくれなかった

幸子さんは、ハンセン病回復者という立場で、社会復帰し、結婚もされ、三人のお子さん
を育てあげた。なみなみならない苦労をされたと思いますが、いちばんつらかったことは
どんなことでしたか。

  • 那覇市にあったハンセン病外来病院は、現在は「ゆうな藤楓協会」となり、ハンセン病回復者のための活動を継続している。

  • 「HIV人権ネットワーク」の演劇「光りの扉を開けて」より

  • 子どもたちに囲まれて挨拶をする幸子さん

  • 現在の自治会会長・金城雅春さんは、幸子さんにとって、「ハンセン病違憲国賠訴訟」を闘った同志であり、「尊敬すべき弟」のような存在だそう。

社会に出て働くために、結婚という幸せを手に入れるために、ずっと自分の病気を隠し続けなければならなかったこと。それと、いつハンセン病が再発するか、自分の子どもたちがハンセン病に罹ってしまうのではないかという怖れをずっと抱え続けたことですね。

 私の病気は、愛楽園でプロミン治療を受けたことで、早くに治っていたんです。ところが、そのことは国家賠償訴訟にかかわるようになってから初めて知りました。私が無知だったせいかもしれません。でもそれまで、療養所の医者たちの誰ひとりとして、「あなたはもう治っている」とは言ってくれなかったんですよ。「治っている」ことを知らなかったために、自分の子どもにおっぱいを飲ませてやることもできなかった。子どもの足に発疹ができただけで「移ったのではないか」という恐怖にさいなまれた。

沖縄では、「スキンクリニック」というハンセン病外来病院がつくられていたんですね(*註)。そこに行けばハンセン病の予防注射を打ってもらえると聞いて、子どもたちを連れて行ったこともあります。その病院に行ったということが知られたら、それだけで病気のことがバレてしまうので、人目につかない時間にこっそり行って、やっとの思いで注射してもらった。子どもたちをハンセン病にしたくないという切実な思いだったんですよ。

あとから聞いたら、それは結核を予防するためのBCGの注射でした。BCGがハンセン病予防にも効くのではないかと考えたお医者さんたちがいたのだそうです。

私自身も、病気が再発しないよう、「スキンクリニック」でもらった薬をずっと飲み続けていました。夫には「胃薬だ」とウソを言い続けて。ところが40歳をすぎたとき、皮膚に異常が出てしまい、再び愛楽園に入ることになったんです。それは病気の再発ではなく、薬の副作用のせいだったのですが、そんなこともよくわからない私は「これでもう二度と社会には戻れない」と思ったものでした。

その時代になってもまだ、ハンセン病療養所は、入るのは簡単だけど、出ることが難しい
ところだったんですね。

でも悪いことばかりではありませんよ。このとき愛楽園に戻ったおかげで、私は国家賠償訴訟の運動にかかわることができた。ハンセン病への差別が激しいために名前を公表する人すら少ない沖縄のなかで、いちはやく勇気をもって社会に立ち向かった金城雅春さん(現・愛楽園自治会長)とともに、ハンセン病回復者として堂々と社会に出ることができるようになった。私の考え方を理解してくれた子どもたちは、ハンセン病に偏見のないすばらしい伴侶をみつけ、かわいい孫をつくってくれた。

それと、もうひとつ、裁判のあとに、私にとって大きな出会いがありました。「HIV人権ネットワーク」の皆さんとの出会いです。以来、14年間にわたって、精神的な悩みや苦しみを抱えた子どもたちによる、ハンセン病とHIVをテーマにした演劇「光りの扉を開けて」を、県内や本土で上演する活動をずっと続けてきました。ハンセン病回復者として堂々と生きよう、語り部として全国で活動しようという意欲を持てるようになったのは、この子どもたちとの触れあいのおかげなんです。私が心の底から愛してやまない、いのちの原動力です。

だからいまは私はハンセン病で幸せだったと言えますよ。本当に、すべては神のはからいなんですね。

註)「スキンクリニック」はハンセン病の外来診療所。戦後も新患が多かった沖縄では、療養所を「軽快退所」し在宅治療ができるようにするための無料診療所が1962年から設置されていた。ハンセン病の予防薬は現在もまだ開発されていないが、沖縄の診療所では1971年からハンセン病患者と接触した児童を対象にBCG接種を行っていた。

取材・編集:太田香保 / 写真:川本聖哉