People / ハンセン病に向き合う人びと
1969年、北さんは、長島愛生園の園誌『愛生』に、「再燃を忘れた火に おれはなりたくないのだ」と綴った。
その40年後、北さんは、作陶展を開催し、初めて土に触れたときの喜び、窯の中で焼成された陶器の美しさを綴った。
“らい者”となり、身内や社会から受けた過酷な仕打ちも、療養所での悶々とした日々も乗り越えて、よき師とよき仲間に支えられ、
北さんは、熱さも痛さも知覚できないその両の手で、命の火をつかみ取ったのだ。
Profile
北 高氏
(きた たかし)
1932(昭和7)年、兵庫生まれ。1949年ごろにハンセン病を発症。1959年、長島愛生園に入園。転園治療のため1973年から入園した多磨全生園で、リハビリのために導入された陶芸に出会い、以降、仲間とともに東村山公民館で作品展を開催。1997年、陶芸文化財団主催の陶芸財団展で朝日新聞社賞を受賞。2004年、島根県立美術館で多磨全生園陶芸室5人展「土に支えられて」を開催。2009年、国立ハンセン病資料館で「北高作陶展―仲間に支えられて」を開催。
作品の裏側には、「北」の名が刻まれている
最初はリハビリとしてやっていました。粘土は柔らかいし、これなら手や指を傷つけることもなく、手の訓練にもなる。それで手の不自由な人たちが集まって、治療の合間に陶芸をやるようになった。それまではすることもなく部屋のなかでじっとしていることが多かったから、みんなと粘土で遊びながら話ができるのが楽しくてね。指導は、全生園職員で陶芸家でもあった榮一男先生がしてくれました。
最初のころは自分たちが使う食器をつくったりしてたけど、腕があがってくると、もっと作品らしいものをつくりたくなってね。自分たちは体が不自由だから社会復帰はできないけれど、陶芸作品で社会復帰しようじゃないかということで、東村山の公民館で1年に1回、展覧会をやるようになりました。13年くらい、毎年ね。いちばん多い時期には30人くらいが作品を出してました。
残念ながらその後は体を悪くしてしまったり、歳をとってやめてしまった人が多いですが、私はなんとかがんばって続けてきました。今日ここに置いてある作品は、去年の11月3日の文化祭が終わってからつくったものです。
粘土は私の思うような形になるからおもしろいです。それと、形をつくって色を付けたものが焼きあがって窯から出てきたときのあの感動。「これ、自分がつくったのか」と、それはそれはうれしかった。それでやみつきになった(笑)。
北さんが作陶のときに使用している道具(国立ハンセン病資料館「北高作陶展」カタログより)
私らのつくるものは、みんな“ひもづくり”です。ロクロの上にまず高台(こうだい)をつくって、その上に粘土を紐状に延ばしたものを積み重ねながら、形をつくります。紐と紐のあいだに空気が入らないようにしないと、焼いたときに割れてしまうので、ヘラを使って丁寧に丁寧に形を整えます。
粘土って柔らかいものでしょう。どうしてもこの指のせいで、せっかくつくったものに傷がついてしまう。出来上がったものをロクロから持ち上げるときに、うっかりすると指の跡がついてしまう。そうなるとまた直さないといけない。タオルを巻いておいて、そっと持つとか、ひとつひとつの作業に神経を使って、時間をかけないといかん。気が離せません。
道具はいろいろと工夫しています。形を整えるときに使うのはしゃもじ(笑)。そこにある花瓶の口のところなんかはね、スポンジを使うの。スポンジをナイロンの靴下に入れたものをまだ粘土が柔らかいうちに口の上にのせて、一晩置いておくと、いい感じになる。「北さんは、道具ばっかり揃えている」って言われるけど、道具がやっぱり大事だから。手の代わりだから。
ただ、私の作品は、どうしても厚くて重いものになってしまう。手に感覚がないから、触りながら厚みを確かめることができないからね。
シンプルなかたちの花瓶でも、不自由な手には技術的難所が多いという
ぜんぜんない。触っても何も感じないし、火を掴んだってわからない。
本当はもうちょっと粘土を削って軽くしたいんだけど、削りすぎると穴が空いたりするもんだから、どうしても怖くてね。小さな作品なら失敗しても壊してまた粘土にしちゃえばいいんだけど、大きな作品になると失敗するのが怖くてなかなか削れない。だからどうしても私の作品は厚くなってしまう。
でも私のつくった湯呑は、ここの人には評判がいいんだよ。薄い湯呑だと熱いお茶を入れたときに手を火傷しちゃうけど、私の湯呑は厚いから火傷しないんだって。それとね、私も食器をよく落としてしまうんだけど、私のつくったものは落としても絶対に割れない(笑)。
感覚を失い痛みも熱さも感じないという北さんの両手。左手の指先は「陶芸をやりやすくするために」手術によって切ってしまった
私は昭和7(1932)年に兵庫で生まれて、昭和24(1949)年にハンセン病にかかりました。それで大阪大学の付属病院に2年間通院しました。通院と言っても、人に見られないように裏口からそっと入って行くんですよ。そのころちょうどプロミンが出始めた時期で、阪大の付属病院では外来で注射を打ってくれました。その効果があって、2年たったら菌陰性になった、これでもう入院する必要もないと言われました。
ところが“らい”という病気は、いっぺん宣告を受けたら、どうしようもない。それまで実家の敷地の蔵と母屋のあいだに三畳くらいの小さな部屋をつくってもらって、ずっと一人で、誰にも会わずに暮らしていました。でも噂が広まってしまって、私のことが原因でいとこの結婚が破談になってしまった。家族も親戚もみんな私が悪いように言う。兄貴も「家を出る」と言い出すし、父親は「みんな出ていけ」と怒るし、家のなかがむちゃくちゃになってしまった。本当につらかった。
「これはもう、私がいる家ではない」と考えて、家を飛び出しました。そのあと天理教で3カ月ほど修業して、布教師の免状を取りましたが、故郷に戻って布教活動をしようとしたら、やっぱり病気のことがあるから、教会に出入りするのを遠慮してくれと言われました。「ああ、私には行くところがないんだ」と思って、しばらく放浪の旅をしました。昭和34(1959)年に長島愛生園に入ったときは、体もぼろぼろになっていました。
移動には電動車も使うが、積極的に歩くことも心掛けているらしい
最初は昭和40(1965)年です。鼻の形成手術をするために来ました。そのときにお世話になったのが、成田先生(成田稔氏。整形外科医。元全生園園長。現在は国立ハンセン病資料館館長)です。そのあとまた愛生園に戻ったんですが、成田先生に鼻の手術をやり直してもらう必要があって、昭和48(1973)年に転園してきました。成田先生には、長いあいだお世話になりましたよ。おかげでやっと人間らしくなりました。あっちこっち(手術して)切ったり貼ったりしてもらってね(笑)。
この私の左手の指も、先が曲がって固まってしまってたのを、成田先生に切ってもらいました。先生は「指は生えてこないんだから、落としてはだめだよ」って言いましたが、指が曲がってると、粘土で紐をつくるのにひっかかって邪魔になるから「切ってくれ」ってお願いしました(笑)。
それまでは、曲がった指のせいで手で“ひもづくり”ができなかったからね。切ってもらったおかげで、やりやすくなりました。「ほら、先生、陶芸するのにいい手になったよ」って言ったら、先生、「ばかやろう」って怒ってたけどね(笑)。
成田先生には足も切ってもらいました。先生が園長をやめると聞いたから、「私の足を切ってからやめてください」って言ってね。足の感覚がないからしょっちゅうケガをするし、傷が治らないからいつまでも歩けない。足の傷には本当に苦労させられたからね。「足は歩くためにあるんだから、歩ける足にしてくれ」って言って、切ってもらった。この左足は義足だよ。おかげで自転車にも乗れるようになった。
だから、まあね、人間、むちゃくちゃだよ(笑)。腸ねん転とか盲腸炎の手術もしたこともあるし、手術台には100回くらいあがってきたよ。ほとんどは形成の手術だった。成田先生には本当にお世話になりました。
今回の出品作のなかで「もっとも苦労した」という東村山公認キャラクター「ひがっしー」。頭のとげとげが大変だったそうだ。
やっぱり、教えてくれた榮先生に少しでも近きたいと思ってやってきました。あとはいろんな本を見て勉強しました。九谷とか伊賀焼とか信楽の本とか。テレビなんかで焼き物が紹介されていると、「ああ、次はああいうのをやってみようかな」とかね。
先生からは、「こういう作品をつくりたい」というイメージをもってつくるように、ということも教わりました。つくる前にちゃんとデッサンしろとかね。だから言われた通りにデッサン帳を買ってきてやろうとしたけど、最初のころは何を書いていいのかもわからず、「こんなんじゃダメだよ」って先生から言われたり。
せっかく形ができあがったと思ったら、「これはダメだ。粘土がもったいない」ってつぶされたりしたこともありました。「陶芸の粘土は、長い年月かけて手をかけて陶芸用につくられたんだ、それをつまらないものをつくって粗末にしちゃいけない」って。私もあまりに腹が立ったから「何するんだよ」って言い返して、「今日はもうヤメだ」って帰っちゃったこともあった(笑)。ほかの人は先生から言われたらすぐに引いちゃうけど、私は引かないからね。だから先生も私には言いたいこと言って、私は私で好きなこと言って、まあそうやって、本当に親しくさせてもらいました。いまでも先生からは「いつまでも同じような作品ばかりつくって」って文句言われますよ(笑)。そういうことを言いながらも、本当によく面倒みてくれました。
釉薬は既製品を使うんだけど、最初のうちは調合も全部先生にやってもらった。桜の葉っぱを拾ってきて、それを灰にして釉薬に使うとかね。桜の葉っぱを灰釉にすると、きれいな茶褐色になります。そういう科学的なことは、われわれにはわからんから、先生にはずいぶんいろんなことを教わりました。
手にやさしく味わいのある姿をした北さんの花生けたち
釉薬のかけ方でできあがりが変わってしまうからね。さーっとかけたり、薄くかけたり、濃くかけたり。かけるところと、かけないところをつくっておいて、そのあいだへ織部とかほかの色をさっと二重掛けにするとか。そういうことは全部自分で経験しながら、覚えていきました。焼き物は、焼きあがって窯から出てこないと、うまくいったのかどうかがわからないからね。窯から出したとたん、「ああ、失敗した」って割っちゃうこともある。
そうかと思えば、火の加減で思いもよらなかったいい景色が生まれることもある。偶然、釉薬が薄くかかってしまったところに、灰がかぶっていい色が出ることもある。だからやっぱり窯から出してみないとわからない。
釉薬はコンプレッサー(陶芸用のエアーコンプレッサー)で吹き付けます。手が不自由でも使えるからね。でもいまは手がさらに悪くなってしまったので、それもできない。今回出した作品は、先生に釉薬をかけてもらって焼いてもらったんです。だからちょっとね、自分の好みとは違うものもあるね。まあ、しょうがないよ(笑)。
じつはね、去年、膿胸になって長いこと東京病院に入院しました。ずっと38度以上の熱が続いて、片方の肺が(レントゲン写真で)真っ白になるほど膿がたまってしまった。注射器で背中から膿を吸い出して、そのあと抗生剤を点滴して、なんとか助けてもらいました。退院して帰ってきたら、職員が全員そろって迎えてくれて、びっくりしたよ。みんな「今度こそ北は帰って来られないだろう」って言ってたそうです。
みんなから「お前は往生際の悪いやつやな」と言われました(笑)。でも体重が35キロくらいまで減ってしまって、足も細って義足が合わなくなってしまった。なんとか歩けるようにならないといかんと思って、靴下を2枚重ねて履いて、がんばって歩きました。でもね、80歳もすぎてあんな大病をすると、自分が落ちていくのがわかるんですよ。なかなか元には戻れない。ずっと目の調子も悪いので、最近はぜんぜん粘土も触ってません。
手に感触がない、感じないうえに、目までやられてはね。療養所には盲人の人たちも大勢いるんだけど、あの人たちもこういう道をたどってきたのかなってしみじみ思います。でもあんまり何もしないで休んでるとボケちゃうからね(笑)。
せっかく生かしてもらったんだから、やらないとね。続けてないと体が忘れちゃう。粘土になじむまで、粘土と一体になるまでが大変で、時間がかかるからね。粘土をこねるだけでも早くやりたいよ。手伝ってくれるという職員もいるから、もうちょっと目がよくなったら、ぜひやりたいね。成田先生も、「オレが死ぬまでにまた資料館で展覧会やりたい」って言ってくれてるからね。
左:鶴首大壺(1999年) 中:炭化窯変花器(1997年、陶芸財団展で朝日新聞社賞受賞)右:夢の手(2004年)-「こんな手が欲しいと思ってつくった」というオブジェふうの作品 *いずれも写真提供は国立ハンセン病資料館
取材・編集:太田香保 / 撮影:川本聖哉