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People / ハンセン病に向き合う人びと

中尾 伸治(長島愛生園入所者自治会 会長)

昭和23年、中尾伸治さんが戦後まもない長島愛生園にやってきたとき、島にはおよそ1700名の入所者が暮らしていた。
許可が下りれば帰省も許されたものの、目の前に立ちはだかっていたのは職員地域への立入禁止、社会からの偏見という現実。
その現実を見つめながら、入所者たちはどんな日々を送り、何を生きがいとしてきたのか。
現在、愛生園で自治会長をつとめる中尾さんにうかがいました。

Profile

中尾伸治氏
(なかお しんじ)

1934年、奈良県に生まれる。13歳のときにハンセン病に罹患していることがわかり、1948年、長島愛生園に入所。2011年、長島愛生園自治会長となる。ハンセン病の語り部として、小学校などを中心に各地で講演や交流活動をしている。また、現在、長島愛生園と邑久光明園が推進する世界遺産登録を目指す活動も精力的に行っている。

緑深い山をこえてたどり着いた
1,700名が暮らす孤島

中尾さんが長島愛生園へやってきたのは何歳のときだったのでしょうか。

  • 職員通勤用の桟橋とはべつにつくられていた、入所者収容のための桟橋跡

14歳です。病気が発見されたのはそれより1年ほど前のことで、しばらくは自宅から普通に学校にも通っていました。ハンセン病にかかっているということは、まったく聞かされていませんでしたよ。週に1回くらい大風子油の注射を打ちにいくときも、病院に来ているのは健常者と変わらないように見える人たちばかりだから、そこでも気づかない。療養所に収容されるときになって初めて「自分はいったいどんな病気にかかっているんだろう」と思い始めた。それがハンセン病だとわかったのは長島愛生園に入所してからのことです。いま思うと呑気なものでした。

愛生園に向けて出発したのは昭和23年の6月23日、雨の降る真夜中でした。病人はぼくひとり。あとは長島愛生園への入園を勧めてくださった大阪大学の大西先生、奈良県の担当官、村の保険補官。付き添っている大人の方が多かった。岡山駅からはトラックの荷台に乗せられ、どんどん山深いところに入っていくんですね。「愛生園は島にあると聞いていたのに、こんなに深い山に入っていくのは、なぜだろう」「もしかしたら山の中に捨てられるんかな」と思いました。山を抜けたら瀬戸内海に出まして、そこから船に乗せられました。

その日は愛生園の桟橋近くの収容所に入れられました。部屋の中には布団にもぐったままの人----たぶんおじいさんだったと思いますが----がひとりいて、その方とふたりきり。食事のときに世話をしてくれる入所者の顔を見てから、急に怖くなってしまい、そこからはずっと泣いてばかりでね。園の食事も3日ほどは食べることができなかった。お袋がもたせてくれた巻き寿司をひとつずつ食べてしのぎました。

本来なら収容所には1週間いなければならないんですが、あまりに泣くので少し早めに少年舎に移されました。そこで他の子どもたちと生活するうちに、すぐに馴染んでいきました。そのあたりはやっぱり子どもですわな(笑)。少年舎には70名ほどの子どもが生活していたと思います。

当時の愛生園というのは入所者の数もかなり多かったそうですが、
園内の様子も今とはまったく違うものだったのでしょうか。

  • 草木が生い茂る、かつて中尾さんたちが学んだ少年舎の跡地

当時の入所者は1,700名くらいだったと思います。寮も足りなくて、どこもぎゅうぎゅう詰めの状態でしたよ。夫婦も12畳半の部屋に2組が暮らすという状態です。それで夫婦寮を作ろうという運動が立ち上がりました。これは菊池恵楓園(熊本県。九州7県連合の養所として明治42年に開設された)から始まったもので、その運動がやがて全国の療養所へと広がっていったんです。結果、権利が獲得できて夫婦寮が建ち始めたのが昭和26年。たとえ四畳半でもこれは大きな違いでした。それまでの療養所では、数組の夫婦が雑魚寝しているような状態でしたからね。

当時の愛生園には「入所者は職員のいるエリアに入ってはいけない」
という規則があったそうですね。

職員のいるエリアとの境界に、「ここから患者入るべからず」という立札があってね。ぼくたち若いものはそれをよく引っこ抜いて捨てたりしてました。ところが明くる日になると新しいのが立っている。しかも今度のはコンクリートで固めてある。それをまた夜になると引っこ抜きにいくんだ(笑)。戦前や戦中だったら監房行きだったね。

以前は職員地域の向こう側に果樹園があったんですが、そこへ作業しに行く入所者は、毎日立ち入り禁止エリアを通っていくんです。「ここから患者入るべからず」なんて言いながら、通過するのはいいなんて、ものすごく中途半端な決まりだし、矛盾していると思いましたね。

愛生園には歌人の明石海人さん、「青い鳥楽団」の近藤宏一さんなど、
文芸・文化活動をされた方が多くいましたね。

  • 愛生園の「青い鳥楽団」が使っていたハーモニカ

全生園からの開拓患者と言われる方々が短歌や俳句を外の人に見せたことがきっかけで、活動がだんだん広まっていったという面があったと思います。「愛生」という園の発行する雑誌が作品発表の場になっていました。今も年6回出しています。

愛生園には、全国どの県からも患者がやってきたという特徴がありましてね。菊池恵楓園も邑久光明園の元となった府県立の療養所(第三区連合府県立外島保養院 ※1)も、入所する人の出身地が決まっていましたが、愛生園には北海道から沖縄まで、いろんな出身地の人がおりました。自分から希望して来られた方もいますし、熊本の本妙寺が整理された(※2)ときに強制的に連れられてきた人もいました。

いろんな活動を熱心にやっていたのは、そういういろんな出身地の人がいたことも関係していたかもしれませんね。

註)※1 第三区連合府県立外島保養院は、1907年に制定された法律「癩予防ニ関スル件」を受け、近畿・北陸の2府10県がいまの大阪府西淀川区中島に開設した隔離収容施設

註)※2 本妙寺事件。1940年に本妙寺周辺のハンセン病患者が多く住む集落から患者を強制収容した。草津の栗生愛泉園の重監房に収容された人もいた。

青い鳥楽団は1967年に園外で演奏会を開くなど、
かなり積極的に活動されていたそうですね。

結成は1953年ですが、愛生園の精神科を退職して大阪の病院に再就職された高橋先生という方が、「青い鳥楽団を呼ぼう」と言ってくださって、そのとき初めて園の外へ出たんです。楽団の人たちは、ほとんどが盲人でした。最初のころは練習するにも楽器も道具もなくて、かなり苦労されたそうです。ドラムも丸い枠しかなくて、打ち鳴らす肝心の革がない。炊事場から米の袋をもらってきて、それを何枚も重ねてドラムに張ったそうですよ。シンバルもないので鍋の蓋で練習していたとか、おもしろい話がたくさんあります。

卓球、野球、ゲートボールなどのスポーツも盛んでした。野球チームなどは開園した当時からあったようです。外島保養園まで試合しに行ったというんですから。他にも大島青松園(香川県高松市)まで遠征試合に行ったり、向こうから試合しにやってきたり、交流試合はかなりさかんでした。大島であれば汽車に乗らずに船で行けるからと、そうやって何日もかけて行った。ただ野球の試合をするためにね(笑)。どのスポーツもとても強くてね、ゲートボールでは全国大会で優勝もしましたよ。「必勝法を編み出したんだ」って言うてましたな。

※2内田守氏。ペンネーム内田守人。療養所で医師を勤める一方、ハンセン病療養所の入所者や熊本刑務所の受刑者に短歌の指導をした。明石海人の『白描』、小川正子『小島の春』などの出版も手がけている。熊本県菊池郡出身。

海に面して建つ、長島愛生園旧園長邸

戦後になって許可された帰省
ときには船に乗っての買い物も

野球での遠征試合はさかんだったということですが、
それ以外に島から出る機会はまったくなかったのでしょうか。

戦後は許可が下りれば帰省することもできました。ぼくは1952(昭和27)年に初めて帰省したんですが、出発前に「園長の診察があるから試験室へ行きなさい」と言われるんですね。そのときに光田(健輔)園長が何をするかといったら、まず入所者の顔を見て、それからガッと金玉を握ってね(笑)、それで診察終わり。もしかしたらそこに菌が集まりやすくて具合が悪いと腫れたりするとか、そういうことがあったのかもしれないけど……。いまだに、あれはどういう意味だったのかよくわかりませんな。ぼくは2回握られた(笑)。それで問題なければ、「行ってこい」と尻を叩かれて送り出される。

光田園長が1964(昭和39)年に亡くなったときには、葬式に参列するために、初めて両備バスに乗りました。そのころはまだ入所者は両備バスには乗せてもらえない時代です。愛生園で育てた花を抱えて停留所でバスを待っていると、やってきたバスの運転手に「どこへ行くんじゃ」と訊かれました。「光田園長のお葬式に行くんです」と答えると「おう、それじゃ後ろの席に乗っとけ」って言われてね。初めてのことだったのでよく憶えています。

戦後になって虫明〜長島〜日生(ひなせ)という航路ができたんですが、その船にはかなり早い時期から乗ることができました。日生ではぼくたちのことを歓迎してくれて、いろんなものを売ってくれましたよ。昭和30年代の初めころのことです。

夜に舟を漕いでいって、頭島(かしらじま)へ酒を買いにいったこともあります。職員に見つかったら怒られるから、夜中にごそごそ起きて二人で出かけました。その夜は海が荒れて、波と波の谷に入ると向こう岸も見えないような大しけだった。もし海に落ちたらぼくは泳げないので、必死でしたよ。やっとお店にたどりついたら、主人から「5千円払わなかったら酒は売らん」と言われましてね。理由を訊くと、何日か前に愛生園から来た連中に酒を売ったときに、どうも計算間違いをしたらしい。それでぼくたちにその分もまとめて払えという。なんで人の酒代まで払わないといけないんやって話ですわな(笑)。

大しけのなか必死で舟を漕いで行ったのに、手ぶらで帰るわけにはいかない、「なんとしても売ってくれ」と食い下がったら、ついに「1人1本ずつ好きな酒もっていけ」と言ってくれた。それで角瓶2本、買って帰りました。あれは面白かったな(笑)。あんなに疲れたことはなかったけどな。そんな感じで、みんなのんびりしたもんでした。ぼくがのんびりしていただけかもわからんけどね(笑)。

その後も帰省はされたんですか。

兄貴が結婚して子どもができたとき「すまんけど自分の子どもが大人になるまでは家に帰ってこないでくれ」と言われました。それ以来一度も帰っていません。その子も今はいくつになってるんやろう。50(歳)くらいにはなっているのか……。お袋や兄貴が亡くなったこともまったく知りませんでした。今の時代も、まだそんなことがあるんです。

2人が亡くなったことを知ったのは、まったくの偶然でね。奈良県が定期的に開催している里帰りツアーに参加したときに、観光ガイドの人が教えてくれたんです。その人がうちの実家から200メートルも離れていない家の親戚だっそうで、お袋と兄貴のことを知っていたんです。その後、友達の車に乗せてもらって慌てて墓参りに行きました。

ぼくは14歳のときに自分が何の病気かも知らずに家を出ましたけど、いろいろ話を聞くと、そのあとが大変だったらしい。家中真っ白になるくらい消毒されたそうです。そんな中で兄貴もお袋もどこへも逃げずに生活を続けていた。さぞかしつらかっただろうと思います。「生まれた子どもが大人になるまでは戻ってこないでくれ」という兄貴の言葉も、そんな苦労があったからなんだなと振り返ってみて思いました。

子どもたちとの文通がくれた
思いがけないよろこび

愛生園内にある歴史館には小さな子どもから県の職員まで、
さまざまな人が訪れるそうですが、
自治会の人たちとの交流なども行われているのでしょうか。

  • 園内を自家用車で案内してくださる中尾さん

自治会には語り部が6人ほどいて、近くの学校からやってくる子どもたちや研修でやってくる人たちへの講演もしますし、こちらからも出かけていったりもします。一番近いところですと裳掛(もかけ=岡山県瀬戸内市邑久町虫明)の小学生たちが11月に愛生園で発表会をしてくれるんです。入学式、卒業式、運動会などの学校行事にも招待してくれますよ。子どもたちにも、どんどん遊びに来てほしいと思っているんですが、隣の邑久光明園と比べるとここはちょっと遠いですから、子どもたちだけで来るというのは、なかなか難しいようですね。

岡山市の石井小学校(岡山県岡山市北区)の子どもたちと、10年近く交流を続けている人もいます。子どもたちは卒業して入れ替わっていくんですが、それでも交流が続いていますよ。10年ですから、最初に来てくれた子どもたちの中には、もう結婚している人もいるでしょう。こういった交流は自治会としてというより、それぞれの入所者が個人として続けているものです。

ぼくも島根県出雲市の国富小学校の子どもたちと文通をしています。子どもたちが卒業したあとも、ずっと続いています。倉敷のチボリ公園で待ち合わせして会って話したこともあります。そのうちに「結婚しました」「子どもが生まれました」なんていう手紙が届くようになる。もうそんな年になったんだねえ、と手紙を書いて送ると、「小学校5年生のときに文通を初めてからもう13年になるんだよ!」なんて返事が来たりする(笑)。こっちは変わらないけれども、子どもたちはどんどん大人になっていくんですね。

女の子で専門学校から土木関係に進んだ子もいます。その子からは「私はみんなが大学に行っているときに、ひとり離れて土木の勉強をしています」という手紙が来ました。「それが一番いいことかもしれないよ。大学に行って遊んでいるより、手に職を付ける方がずっといい」と、すぐに励ましの返事を書きました。頑張ってほしくてね。

子どもたちからの招待を受けて、出雲の小学校を訪ねたりもされたそうですね。

  • 「これ、持っていきな」。自宅前の家庭菜園にて

一緒に給食を食べました。そのときに「将来の夢をもっていた方がいいですよ。夢というのはとても大切なものです」という話をしました。すると子どもたちが「中尾さんの夢は何でしたか」と訊くので、「私はお医者さんになりたかったけれども、勉強ができなかったのでなれませんでした」と答えて、そこからひとりずつ将来の夢を発表してもらいました。女の子では獣医さんや花屋さんやパティシエになりたいという子がいましたし、プロ野球の選手になりたいという男の子もいましたね。

一番うれしかったのは、そのパティシエになりたいと言っていた女の子が、お菓子屋さんに勤めるようになったとき、お菓子を送ってくれたことです。ふたつ入っていてね、ひとつはお店で売っているお菓子、もうひとつはその子がぼくのために初めて自分でつくってくれたお菓子でした。その日はちょうど敬老の日だったんです。「敬老の日おめでとう」という手紙の文字を見て、涙が止まりませんでしたよ。

取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉