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People / ハンセン病に向き合う人びと

【People+】熊本 ハンセン病ゆかりの地をたずねて

熊本市内には加藤清正を祀った本妙寺があり、
ここには数多くのハンセン病患者が参拝客からの喜捨をもとめて集まっていた。
明治時代、その様子を見たキリスト教宣教師たちは私立療養所をあいついで創立する。
なぜ患者たちは本妙寺に集まっていたのか。宣教師たちを駆り立てたものは何だったのか。
いまも残るゆかりの地(本妙寺、待労院資料館、リデル・ライト両女子記念館)を
訪ねつつ、その歴史をひも解いてみたい。

かつては一大歓楽地だった
肥後本妙寺

  • 本妙寺周辺を案内してくださった菊池氏

  • 加藤清正公を祀る浄池廟

熊本城の北西、中尾山の中腹に肥後本妙寺(ひご・ほんみょうじ)という寺がある。日蓮宗六条門流の名刹で、建立したのはのちの肥後熊本藩初代藩主、加藤清正。もともとは清正の父、加藤清忠を祀るため摂津の国(現在の大阪市〜神戸市)に建てられた寺だったが、清正肥後入国後の1591(天正19)年、熊本城内に移された。賤ヶ岳七本槍として知られた加藤清正は、熱心な日蓮宗信者だったのである。日本三大名城として名高い熊本城はちょうどこの年、築城が始まったばかりだった。

加藤家の菩提寺であるはずの本妙寺が、なぜハンセン病とかかわりがあり、現在は熊本城内ではなく中尾山中腹にあるのか。この謎を解くためには、まずは加藤清正の死とその後について、いましばらく語らなければならない。

「古橋左衛門又玄の書いた『清正記』によると清正は、熊本へ帰る途上、船の上で急病を発し、その後亡くなったとされています。遺体は遺言によって中尾山中腹に埋葬され、その上に清正公を祀る浄池廟(じょうちびょう)が建てられました。その後、1614年(慶長19年)に火災で熊本城内にあった本妙寺が焼失しまして、それをきっかけに本妙寺もこの場所に移されたというわけなんですね」

そう語るのは熊本の国立療養所・菊池恵楓園で皮膚科医長をつとめ、のちに国立療養所・宮古島南静園副園長、園長を歴任された菊池一郎氏である。定年退職後は熊本市内にお住まいで、この日は本妙寺の案内をこころよく引き受けてくださった。菊池氏は各地の歴史民俗、自然現象などにも造詣が深く、さまざまな論文、エッセイなども執筆しているたいへん博識な方である。

「本妙寺の参道には東日本大震災のあと、大きな卒塔婆が6本建てられました。もちろん犠牲者追悼のためですが、じつは熊本も過去に津波の被害にあったことがあるんです。1792年(寬政4年)の春に起きた『島原大変肥後迷惑』です。これは雲仙普賢岳の噴火と土砂災害、それから津波がほぼ同時期に起こるという大変な自然災害でした。卒塔婆を建てられた日蓮宗のお坊さんたちは、こうした歴史もきっと心に留めておられたでしょう」

本妙寺に祀られた加藤清正は、やがて庶民から現世利益をもたらす頼もしい神としてあがめられるようになっていく。その信仰は加藤清正が生前親しまれていた通り名、清正公(せいしょうこう)にちなんで清正公信仰と呼ばれた。とくに幕末から明治期にかけては、連日数多くの参拝客が本妙寺に足を運び、参道も出店などで非常に賑わったという。往時の本妙寺は信仰の対象であると同時に一大歓楽地でもあった。

かつて患者たちが並んだという石段は胸突雁木(むなつきがんぎ)と呼ばれた

明治時代、患者救済に乗り出した
2人のキリスト者

  • 現在、本妙寺のご住職をつとめる池上氏

一方、参拝客からの喜捨をもとめて物乞いも集まった。彼らの多くは貧しい人たちや病気の人たちで、こうした物乞いのなかにはハンセン病患者も多数いたといわれている。本妙寺住職、池上正示氏によると患者たちがおもに集まっていたのは当時出店が並んでいた参道脇や、通称胸突雁木(むなつきがんぎ)と呼ばれた浄池廟への石段脇であったという。昭和初期には本妙寺周辺に集落をつくって住みつく患者たちもおり、山内には、おこもりをして法華経を唱えるためのお堂もあった。

そんなハンセン病患者たちの姿を見て救済活動に乗り出したキリスト者がふたりいた。ひとりは1891(明治21)年に英国国教会(CMS)の宣教師として来日したハンナ・リデル、そしていまひとりは1889年に来日したパリ外国宣教会カトリック司祭、マリー・コール神父である。ハンナ・リデルは1895年、熊本市黒髪に回春病院(かいしゅんびょういん)を、マリー・コール神父は1898年、花園村中尾丸に待労院(たいろういん)をそれぞれ設立し、私立病院、私立施療所というかたちでハンセン病患者の救済にあたった。九州7県連合九州癩療養所(のちの国立療養所・菊池恵楓園)の開設が1909年であったことを考えると、当時熊本でハンナ・リデルとマリー・コール神父が果たした役割は、かなり大きなものであったといえるだろう。

加藤清正は肥後藩主時代、キリシタンをきびしく弾圧したことでも知られている。その清正が眠る本妙寺に、ご利益と喜捨をもとめてハンセン病患者たちがつどい暮らすようになり、明治になると今度はヨーロッパからやってきたキリスト者が彼らを救った。なんとも不思議な巡り合わせだが、歴史とはそういうものなのかもしれない。

軍国化のなかで起こった「本妙寺事件」

  • 日蓮宗六条門流 肥後本妙寺

    〒860-0072 熊本県熊本市花園4-13-1
    Tel. 096-354-1411 / Fax. 096-356-8110

本妙寺とハンセン病患者にまつわる事件として忘れてならないのが1940(昭和15)年7月9日早朝に起こった本妙寺事件である。これは本妙寺周辺の集落に暮らすハンセン病患者を当局が強制収容したという事件で、検挙された人数は157名におよんだ。患者たちは無蓋のトラックに荷物のように乗せられ、運ばれていったという。ところが熊本市内にある九州7県連合九州癩療養所に収容されたのは重症患者8名のみで、残りの149名は全国各地の療養所に分散して収容された。群馬県の栗生楽泉園に送られた患者のうち数名は特別病室、いわゆる重監房に入れられたという。なぜこのような措置がとられたのか、はっきりとしたことはわかっていないが、1930年代以降、国内ハンセン病患者全員の療養所収容を目指す「無らい県運動」が全国で展開されており、本妙寺事件をこうした運動の一環ととらえる向きも多い。

また、こうした政策は当時の世相や世界情勢とも無関係ではなかったように思われる。歴史年表を眺めれば1931(昭和6)年には満州事変があり、1937年には日中戦争が始まっている。1936年にはドイツでベルリンオリンピックがあり、その次の夏期オリンピックは1940年に東京市で開催される予定だった。ハンセン病患者を療養所に強制収容すべしという気運はこうした状況、軍国化や全体主義、あるいは国威発揚という雰囲気のなかで醸成されていったのかもしれない。

本妙寺の浄池廟から左手奥に進むと300段の石段があり、石段を登りきるとそこには加藤清正像が建っている。トレードマークの長烏帽子兜を被り、片鎌十文字槍を携えた勇姿は堂々たるものだが、これは1935(昭和10)年、清正公没後325周年を記念して建てられたもので、リデルやコール神父の時代には存在していなかった。製作を担当したのは長崎出身の彫刻家、北村西望。ところが熊本駅から運ばれ、鳴り物入りで台座に据えられた清正像は、わずか9年後の1944年には金属供出のために撤去されてしまう。

戦前、政治家や軍人の銅像を多く作った北村西望は1955(昭和30)年に一転、長崎平和祈念像を手がけ、これが戦前戦後を通じての代表作となった。加藤清正像が再建されたのはそれからさらに5年後、1960年のことである。

1963年に起きた火災のあと再建された待労院の病棟、治療棟跡

1963年に起きた火災のあと再建された待労院の病棟、治療棟跡

コール神父が出会った
本妙寺の患者たち

  • 待労院の歴史を物語る展示パネル

近代日本においてハンセン病患者の救済をになっていたのは、おもに海外からやってきたキリスト教宣教師たちだった。もっとも初期につくられた私立療養所は1886(明治19)年、パリ外国宣教会のジェルマン・レジェ・テストウィド神父が設立した神山復生病院(静岡県御殿場市)で、その後も慰廃園(東京都目黒区。1894年)、回春病院(熊本県熊本市。1895年)などがつくられている。待労院は回春病院から遅れること3年、1898年に本妙寺近くの中尾丸地区につくられた施療所をルーツとする。立ち上げたのはパリ外国宣教会カトリック司祭、ジャン・マリー・コール神父(以下、コール神父と記す)であった。

1889(明治22)年、熊本にやってきたコール神父は本妙寺周辺につどうハンセン病患者たちの姿を目にして大きな衝撃を受けたといわれる。彼らをなんとかして救済したいと考えた神父は、拠点となる教会ができる前からことあるごとに本妙寺に足を運び、患者たちと交流をはかっていたようだ。そして施療所をつくるため、寄付を募る手紙をフランスに書き送った。

「ハンセン病患者も同じ人間として創造されているのに、人間らしい生活を送ることができないでいます。はやく本当の神を知らせ、人間らしく生活させたいと思います。(中略)この不幸な人たちの魂を救わなければなりません」
(コール神父の手紙より/抜粋)

患者救済のために病院が必要と考えたコール神父は1896(明治29)年、海外から集められた募金をもとに、本妙寺からほど近い花園村中尾丸に土地を購入。ここに施療所を開設し、男女15名の患者を収容した。当初の施療所はバラックと呼ぶのがふさわしいような、きわめて粗末な建物であったらしい。一方、本妙寺周辺に目を転ずれば、そこには数多くの患者たちが参拝客からの喜捨を求めて列をなしている。一刻も早くよりおおきな施設、できることなら病院をつくらなければならない。コール神父はそう考えたのではなかろうか。

ヨーロッパから熊本に派遣された
5人のシスター

  • 待労院跡には特別養護老人ホームが建てられる

翌年の1897(明治30)年、コール神父は「マリアの宣教者フランシスコ修道会」の創立者、マリー・ド・ラ・パシオンに修道女派遣を嘆願する手紙を送っている。聖フランシスコはハンセン病患者への奉仕をおこなった聖人で、日本では「アッシジのフランチェスコ」の呼び名で知られる。また1897年という年は「日本における26聖殉職者300年祭」がローマのフランシスコ会で開催されていた年でもあった。この26人の殉教者のなかには、京都でハンセン病患者の施療に従事したフランシスコ会士、ペドロ・バプチスタも含まれていたのである。

コール神父がこうした事情を知った上でパシオンに手紙を出したのかはわからないが、これ以上ないタイミングだったことは間違いないだろう。パシオンはコール神父の嘆願を聞き入れ、翌年5名の修道女(シスター)が熊本に派遣されることになった。

5名のシスターが熊本にやってきたのは1898(明治31)年10月19日。到着したのは上熊本駅だが、当時の駅名は私鉄九州鉄道・池田駅といい、さかのぼること2年前の1896年には熊本五高で教鞭をとるべく松山からやってきた夏目金之助(漱石)が同じ駅に降り立っていた。シスターたちは土地のことばを学び、患者たちの足を洗うことからはじめたという。外国人、キリスト教の修道女ということで当初は警戒していた患者たちも、次第に打ち解けていったようだ。こうした救済活動の様子は、森鴎外の『小倉日記』にも描かれている。

「別に本妙寺湖畔の救癩院あり。加持力教『フランチスカアネル』派の仏蘭西女史数人の経営に成る。医学あるものにあらずと雖、間々薬を投ず。その功績賞するに堪へたるものあり。」 森鴎外『小倉日記』(抜粋)

※待労院パンフレットの記述。オリジナル文献要確認

1901(明治34)年には修道院のある島崎村琵琶崎に待望の病院が完成し、待労院(たいろういん)と名付けられた。待労院という名は新約聖書の「疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ伝11章28節)」という一節から取られたもので、落成式には熊本県知事のほか、警察や陸軍の代表者なども参加したという。

名称がかわっても不変だった、
救済のこころ

  • 待労院の歴史を語るシスター鈴木さん

  • 待労院資料館

    〒860-0073 熊本県熊本市島崎6-1-27
    Tel. 096-354-1021 / Fax. 096-359-7033

「待労院には写真資料が多数残されていますが、これはおもにヨーロッパなどから寄付を募るための資料として撮影されたものです。写真を使って絵はがきなどもつくられました。撮影は明治時代からずっと熊本市の富重写真館にお願いしています」

そう語る待労院のシスター鈴木さん。待労院には明治時代の待労院、本妙寺など、貴重な写真資料が数多く残っているが、その多くは富重写真館主人、富重利平氏(1837〜1922年)によるものと思われる。富重氏は西南の役で焼失する前の熊本城、帝国軍人などを撮影したことで知られる日本写真界の先がけだった。回春病院を立ち上げたハンナ・リデルとエダ・ハンナ・ライトを撮影したこともあったという。富重写真館は1866年の開業から150年近くを経た現在も、熊本市内に健在だ。

開業以降の待労院は日露戦争(1904年)、太平洋戦争(1941年)によるヨーロッパからの資金途絶をはじめとして、つねにといっていいほど経営難に悩まされ続けた。1930年頃からは周辺住民の増加、熊本市の都市計画との兼ね合いから立ち退きを求められたこともあったという。太平洋戦争が始まってからは信者やシスターに対する迫害も強まっていった。1942年と1945年にはヨーロッパ国籍のシスターが強制疎開という名目で連行、拘留されるという事件も起きている。

太平洋戦争終結後、待労院は貞明皇后からの援助などにより、次第に医療、看護の体制をととのえていった。1948(昭和23)年からは当時ハンセン病の特効薬といわれたプロミンによる治療も開始し、1952年には「琵琶崎待労病院」へと名称をあらためている。

1970年代にはいってからは高齢化により入所者の減少が急速に進んだが、信仰によるむすびつき、大家族のような関係は、その後もずっと変わることがなかった。1996(平成8)年「らい予防法」が廃止された際には同じ熊本県内にある国立療養所、菊池恵楓園への移転・合併問題が浮上。1996年時点での待労院の入所者数は、わずか十数名にまで減っており、効率だけを考えれば移転・合併が合理的な選択肢といえた。しかしシスターたちは「最期まで待労院で過ごしたい」という入所者の声をあくまで尊重し、このときも医療法上の診療所として存続する道を選んでいる(法律上の変更にともない、名称は「待労院診療所」となった)。

そして2012(平成24)年。最後に残った3名の入所者が菊池恵楓園へ転院したのを機に、待労院はその長い歴史に、ついに幕を降ろすこととなった(閉院は2013年/平成25年)。入所者たちがつどった聖堂は現在「待労院資料館」となっており、写真や解説資料などによって待労院のあゆみを知ることができる。2015年現在、資料館は工事のため一時休館中だが、敷地内に特別養護老人ホームが完成する2016年5月以降、一般公開を再開する予定だという。

記念館に飾られるリデル(右)とライト(左)の写真

記念館に飾られるリデル(右)とライト(左)の写真

ハンナ・リデルという英国女性

  • リデルは背が高く、威厳のある人だったという

  • 記念館館長をつとめる緒方さん

明治時代の熊本は官公庁が集まる政治の中心地であった。旧帝国陸軍・第六師団の駐屯地であり、熊本五高(現・熊本大学。正式名称は第五高等学校)が居を構える地でもある。キリスト教宣教師たちの多くが熊本を拠点としたのも、このような事情が大いに影響していたのではないだろうか。教会の建設、布教活動、各種救済活動にはある程度のまとまった資金が必要で、ヨーロッパはもちろんのこと、現地の財界、政界からも援助を受ける必要があった。資金がなければ教会も建たず、困った人たちを救済することもかなわない。布教、救済活動も広い意味での「経営」を必要としたのである。

ロンドン郊外で生まれたイギリス人女性、ハンナ・リデルは1891(明治24)年、英国国教会(CMS)の宣教師として熊本の地を踏んだ。1855年生まれで来日当時はまだ30代なかば。しかしリデルは非常に威厳があり、押し出しもよく効いたといわれている。上背があり、恰幅もよく、着ている服はビクトリア朝スタイル。ベール付きの帽子にドレス、足下はハイヒール、立ち上がれば身の丈は六尺以上もある(六尺=約180㎝といわれるが、ハイヒールを履いているので見た目はさらに高いのである)。それがハンナ・リデルという人だった。これは明治の男たちも圧倒されたに違いない。

「リデルがCMSから授けられた任務は五高でのスクール・ミッションでした。教会や自宅で週に3回程度、30〜40人ほどの学生を相手に英会話や文法を教えていたといわれています。この英語クラスはとても人気が高かったようです」
(リデル、ライト両女史記念館・館長 緒方晶子さん)

ハンナ・リデルは来日から4年後の1895(明治28)年にハンセン病患者の救済施設、回春病院(かいしゅんびょういん)を創設している。その救済活動を手助けしたのがリデルの姪であり、同じCMSの宣教師でもあったエダ・ハンナ・ライトだった。リデル、ライト両女史記念館は、そのリデルとライトの功績を顕彰するべく1992年に立ち上げられた記念館である。建物は1919年に回春病院の研究所として建てられたものをもととしており、内部にはリデル、ライトの使っていた家具、手紙などゆかりの品が数千点あまりも展示されている。設計はイギリスで建築を学んだ当時の有名建築家、中條精一郎。2008年には国の登録有形文化財にも指定されている。

記念館館長をつとめる緒方さんはリデルがスクール・ミッションに訪れた旧制五高、現在の熊本大学出身で、リデルやライトにまつわるエピソードだけでなく、江戸末期以降の熊本の歴史にも非常に詳しい。この日も館内を案内しつつ、興味深い話をいくつも聞かせてくださった。歴史資料を紐解くにつれ、今まで知られていなかった事実が明らかになることも多々あるそうで、たとえばグレイス・キャサリン・ニール・ノットという女性の存在などは、今まで以上にクローズアップされるべきだろうという。

「グレイス・ノットはリデルと同じ船で日本にやってた宣教師ですが、彼女の家系には海軍将校と聖職者が数多くいて、かなり家柄のいい人だったと思われます。回春病院を建てるための土地を購入する際にもグレイス・ノットが英国の両親や親類に手紙を書き送り、必要な資金を用意しているんですね。ノットはリデルの心強いパートナー、回春病院の共同設立者だったと考えるのが妥当なのではないでしょうか」

日本の政界、財界からの援助を
取り付ける

  • ハンセン病患者との出会いが書き込まれた祈祷書

  • 明治の元勲、大隈重信からの書簡

1891(明治24)年1月に来日、3月に熊本入りしたリデルだったが、ハンセン病患者と初めて出会ったのは1893年の4月3日のことだったとされている。そもそものきっかけはハンセン病患者が本妙寺に多数集まっており、その根底には清正公信仰がある、という話をリデルがたまたま耳にしたことだった。4月3日は神武天皇祭の祝日であり、当日の本妙寺は桜が満開であったという。リデルが使っていた祈祷書『日々の光』4月3日のページには、本妙寺で見たハンセン病患者たちの姿にショックを受けたことなどが書き込まれている。

しかし回春病院設立までの動き、残された手紙などを時系列に並べてみると、リデルが本妙寺を訪れたのは1893年ではなく、1891年だったというのが現在の定説であるようだ(正確な日付については諸説あり)。このあたりの検証については1995年に出されたジュリア・ボイドによる『ハンナ・リデル ハンセン病救済に捧げた一生(ジュリア・ボイド著 吉川明希訳 日本経済新聞社刊)』に詳しい。著者のジュリア・ボイドは元駐日英国大使・ジョン・ボイド(在職1992〜1996年)夫人だが、ハンナ・リデルの生涯に興味をもち、丹念な調査によって数々の新事実を明らかにしている。

「ジュリア・ボイドは著書のなかでハンナ・リデルが庶民の生まれだということも明らかにしています。当時の日本の人たちはリデルのことを貴族の生まれだとばかり思っていたんですね。体格も立派ですし、いかにも英国の貴婦人という風格をもった人でしたから、これは無理もないことかもしれません。あなたは貴族の生まれなのですか、という質問に対してはリデルは否定も肯定もしなかったそうです」(緒方さん)

否定も肯定もせず相手の目をじっとみつめ返す。質問した人は「なんと無礼なことをお聞きになるのでしょうか」と言われた気持ちになり、恥じ入ったのではないだろうか。

回春病院は1895(明治28)年11月12日に創設されているが、ここから逆算すると病院開設のための資金集めはおもに1893年から1894年にかけて行われたと考えられる。もしそうだとすれば「2年前、主教に教えられてハンセン病患者の存在を知りました」というよりも「今年(あるいは昨年)の春、満開の桜の下でハンセン病患者たちと出会ったのです。私は大きな衝撃を受けました」とする方が説得力もあり、かつドラマチックであっただろう。リデルは支援者をかき口説くすべにも優れ、そのためには政治的な駆け引きや演出も厭わなかったのではないか。

「そういった面はたしかにあったでしょう。回春病院の財政基盤は不安定で、日露戦争でイギリスからの送金が途絶えたときもたちまち経営難に陥っています。このときリデルは明治の元勲、大隈重信のところへ直談判をしに行きました。そして資金援助を求めるだけでなく、弱者救済は国の仕事ではないか、なぜ放っておくのですかと訴えたそうです。こんなことができたのもリデルならではという気がしますね」(緒方さん)

ハンナの人脈は渋沢栄一や日本の財界人にもおよび、皇室行事などにもたびたび招かれたという。ちなみに回春病院という名称は「希望を回復する病院という意味を込めたい」というリデルからの要望を入れて決められたものだが、回春という文字は熊本藩にかつてあった藩校「再春館(1756/宝暦6年)」と相通じるものを感じさせる。その再春館に通った熊本出身の医学博士・北里柴三郎は、のちに回春病院の基金づくりなどにも協力しており、浅からぬ関係があったようだ。緒方さんによると1919年、回春病院敷地内に創設されたハンセン病研究所の初代研究主任も北里伝染病研究所(現・東京大学医学研究所)から派遣された人物であるという。こうした取り計らいにもリデルの人脈、尽力があったと見るべきだろう。

次第に近づく戦争の靴音と
回春病院の危機

  • 終戦後ライトは再来日し、この地で暮らした

  • リデル、ライト両女史記念館

    〒862-0862 熊本県熊本市黒髪5-23-1
    Tel. 096-345-6986 / Fax. 096-345-6986
    開館時間:9:30〜16:30
    入館料:無料
    休館日:月曜(祝日の場合は翌日)・年末年始

ハンナ・リデルの姪であるエダ・ハンナ・ライトは1870(明治2)年ロンドン生まれ。回春病院が創設された翌年、1896年に来日、伝道師として水戸で活動したのち1900年り熊本でリデルの手助けをした。記念館に飾られている写真を見ると威風堂々としたリデルに対し、ライトは繊細でやさしげな印象を与える人だということがわかる。実際のライトもそのような人であったようだ。1932年にリデルが亡くなると二代目院長を引き継いだが、ライトは院内にある研究所(現・リデル、ライト両女史記念館)の2階に移り住み、患者たちと触れ合うことを日々の愉しみとしたといわれている。だが前年に満州事変が起こるなど、ライトと患者たちを取りまく環境は急速に変化しつつあった。

「状況が決定的に悪化したのは1940(昭和15)年に日独伊三国軍事同盟が締結されて以降だといわれています。ライトの祖国イギリスが敵国となったため、当局からも目をつけられるようになりました。病院の責任者や教会の牧師が警察に拘留され、書類なども押収されてしまいます。回春病院は実質上の経営不能状態に陥りました」(緒方さん)

70歳になっていたライトには、いわれのないスパイ容疑もかけられた。私物の短波ラジオが当局から「秘密の無電設備」であるとされたのだ。ほかにも毎年クリスマスに合わせてつくっていたカレンダーが出版法違反に問われたりしたという。ライトの住む家には警察官が泊まり込み、監視がつづけられた。そして翌1941(昭和16)年のとある朝、礼拝堂に集められた患者たちは衝撃の事実を告げられる。

「当局からの通達で、回春病院は本日午前11時30分をもって閉鎖、九州療養所に合併されるので即時転入するようにというものでした。部屋には予防衣を着た係員が土足で上がり込み、勝手に荷造りをして外に荷物を放り出したそうです。患者たちは強制的にトラックに乗せられました。ライトはトラックの荷台にすがりつきましたが、そのとき患者たちの間から誰ともなく賛美歌の歌声がわきおこったそうです」(緒方さん)

こうして回春病院は46年の歴史に幕を下ろし、ライトは同年4月、追われるようにして日本をあとにする。行き先は知人の待つオーストラリアだが、これは事実上の国外追放だったといえるだろう。出航前、失意に沈むライトのもとに一通の緊急電報が届けられた。電報は貞明皇太后からで、そこには長年の救済活動に対する感謝のことばが綴られていたという。電報の送り主を知った船員たちはライトへの態度を一変させ、要人として丁重に扱ったという逸話が残されている。

いまも熊本市黒髪に残る
リデル、ライトの名

太平洋戦争終結後の1948(昭和23)年、ライトは念願の再来日を果たした。高齢で足も悪くなっていたライトは旧・回春病院敷地内にあった医師用住宅で暮らすことになり、当初は患者たちを訪ねて国立療養所・菊池恵楓園に通っていたという。身体が弱ってからは患者たちがこっそり恵楓園を抜け出して、ライトを訪ねるということもあったようだ。回春病院で育まれた両者のつながりは、それほどまでに強かった。そして再来日から1年8カ月後の1950年、ライトは80歳で息を引き取った。のちに発見されたメモには「神さまのお恵みにより、私は幸せでした」ということばが記されていたという。

回春病院があった場所には現在、老人福祉施設が建設されている。運営しているのは社会福祉法人リデルライトホーム。施設名にはリデルライトホーム、ノットホームなど回春病院ゆかりの懐かしい名前が並んでいる。かつてのハンセン病研究所はリデルライトホームの管理棟として長年利用されてきたが、1992(平成4)年熊本市に寄贈され、1994年に「リデル、ライト両女史記念館」としてリニューアルオープンを果たした。開館記念日はリデルの命日、2月3日である。