People / ハンセン病に向き合う人びと
療養所入所者を対象とした唯一の高等学校として1955(昭和30)年、長島愛生園内に開校した新良田(にいらだ)教室。正式名称は岡山県立邑久高等学校 新良田教室、4年制の定時制高校でした。
新良田教室には全国各地の療養所から若者たちが集まりました。一学年30名、定員120名という小さな高校でしたが、部活動もさかんで、なかでも野球部は非常に強かったとのこと。
ここでは2016年12月4日(日)、国立ハンセン病資料館1階映像ホールでおこなわれたトークイベント「野球談議 嗚呼、新良田教室野球部 !!」の様子をご紹介します。元高校球児たちの熱い野球談議、ぜひお楽しみください。
新良田教室野球部OB・ハンセン病回復者:城正/平野智/藤崎陸安/太田明
司会進行:黒尾和久氏(国立ハンセン病資料館学芸部長)
Profile
城正氏
(しろ ただし)
1937年生まれ。1956年、2期生として新良田教室に入学。現役時代のポジションはキャッチャー。卒業後は東北新生園などを経て1973年に社会復帰を果たした。
平野智氏
(ひらの さとる)
1939年生まれ。1956年、2期生として新良田教室に入学。現役時代のポジションはセカンド、4年の時にファースト。
藤崎陸安氏
(ふじさき みちやす)
1944年生まれ。1959年、5期生として新良田教室に入学。現役時代のポジションはファースト。現在、全国ハンセン病療養所 入所者協議会(全寮協)事務局長を務める。
太田明氏
(おおた あきら)
1943年生まれ。1959年、5期生として新良田教室に入学。現役時代のポジションはショート。現在、国立療養所菊池恵楓園自治会副会長。
(夏の全国高等学校野球大会のテーマ曲『栄冠は君に輝く』が流れるなか、往年の高校球
児4名が手拍子に合わせて入場)
城さんと平野さんは新良田教室の2期生、藤崎さんと太田さんは5期生とうかがっていま
す。まずは野球部に入ったいきさつ、当時の思い出などについて聞かせてください。
城 私は1955(昭和30)年に長崎で発症して強制収容で菊池恵楓園に入所しました。野球は子どもの頃からやっていて、高校では硬式野球部に所属していましたが、病気がわかった時点で、もう野球はできないなと思いましたね。ところが恵楓園に来てみると、ものすごく立派な野球場がある。いったい誰が野球するんですか、と職員の人に訊いたら、入所者の人たちですよって言われて驚きました。同時にこれはしまったことをしたな、とも思いました。入所前にそれまで持っていたグローブやバットなど、野球道具をすべて捨ててしまったものですから。
城 入学当初は病気の治療などがあって、すぐには入らなかったと記憶しています。でも根が野球好きなので、練習風景などは見に行くわけですね。正直、大したことないだろうと思っていたんですが、実際にプレイしているところを見ると、みんなすごく上手なんですよ(笑)。それまで高校で硬式野球をやっていた自分の目から見ても非常にうまい。これはびっくりしましたね。
城 私は身体は小さいですが肩だけはものすごく強かったんです。お前は肩が強いからショートかキャッチャーだという話になり、ショートをやらせてくださいと言いました。ところがチームのキャッチャーがしょっちゅう盗塁されるんですね。こりゃいかんということで、ぼくがキャッチャーをやります、と志願したんです。
一番の思い出は1959(昭和34)年に丸善石油(※当時の都市対抗野球優勝チーム)の選手たちが愛生園に慰問に来て、指導をしてくれたことです。守備練習でレフトを守っていたのは左手の悪い部員だったんですが、彼はボールをキャッチすると、グローブをぱっと持ち替えて右手で返球するんです。それがまた、ものすごく早い。キャッチボールをしていても普通の人と変わらないくらいのタイミングでボールが返ってくる。
それを見てノッカーの西選手という人が、あいつすごいなあと感心していました。私はキャッチャーですからノッカーのすぐ横にいて、そういう声が全部聞こえるんですね。自分のことのように誇らしかったです。丸善石油チームは都市対抗野球の優勝旗、「黒獅子旗」も持ってきていて、その旗にも触らせてもらいました。まさかこの旗に触れられるとは、とみんな感激していましたよ。
城 そうなんです。野球指導といえば、明治大学の選手たちがやってきたこともありました。のちに大洋ホエールズに入った秋山(登)、土井(淳)のバッテリーがいて、明大野球部が一番強かった時代です。
真夏のことでしたが、明大の選手たちは私たちをまったく病人扱いせず、後ろからフォームを直したり、一緒になって野球をしてくれました。水はバケツに水道水を汲んできたものを飲むわけですが、その水も同じひしゃくを使って飲む。これには非常に感動しましたね。それは新良田教室の教師もしないことだったんです。私たち生徒は職員室に入ることすら許されなかったんですから。
だから明大の選手たちのしたことは、涙が出るくらいうれしかった。もう50年以上前のことですが、いまだによく思い出します。丸善石油と明大野球部の慰問、このふたつは死ぬまで忘れられない思い出ですね。
平野 私は1950(昭和25)年に駿河療養所に入所して、テニスと野球をやっていました。中学卒業後、1956(昭和31)年に新良田教室の2期生として長島にやってきたわけですが、1期生の頃はまだ野球部はなかったです。年配の方が多かったのでスポーツ経験のある人も少なかったし、実際にスポーツをやろうという人もそれほど多くなかったんじゃないでしょうか。
開校2年目、私たちの代で野球部ができたんですが、とにかく予算がないわけです。自慢できることといえば「全国で唯一の国立高校」「全国で唯一の昼間定時制高校」ということだけで、学校の予算も部活動の予算も全然なかった。ユニフォームだけは、かろうじて揃えてもらえましたが、グローブ、バット、スパイクは自前。みんな一生懸命、お金を貯めて買いました。ですから道具はとにかく大事にしていましたね。
平野 私は二塁手で一番バッター。4年生のときはファーストでした。あまり肩は強くなかったですが、打つことに関しては多少自身がありました。それにしてもわずか4打数2安打で首位打者というのは、ちょっと不思議な感じがしますね。
このときの野球大会は大島青松園の開園記念だったと思います。瀬戸内三園のグラウンドというのは、どれも山を切り崩してつくったものなんです。愛生園はレフトが短かったですし、青松園はライトが狭い。もっともこうした状況は、ほかの療養所も似たようなものでした。駿河療養所のグラウンドはレフトが崖っぷちになってました。冬になると霜柱ができて、外野が崩れていくんです(笑)。
平野 かなりさかんでした。長島愛生園だけでも入所者チーム、職員チーム、新良田教室野球部という3つのチームがあって、日曜日は毎週朝から3試合とか、そんな感じです。当時は療養所内で強制作業があった時代でしたので、入所者が働いている職場ごとの対抗試合なんていうのもありました。
入所者作業で身体を悪くしてしまう人もいましたが、義足で野球をしている人もいて、「あの義足でよくやるな」と感心したことを覚えています。その方は現在、全生園におられますが、今も義足でテニスをやってます。すごいことだと思いますね。光明園に当時のノンプロ、大日本土木の選手が患者として入所してきたこともありました。
各療養所に出身地や寮舎や作業場ごとに野球チームがあった。 写真は1931(昭和6)~1933(昭和8)年頃の多磨全生園での試合の様子 (国立ハンセン病資料館提供)
1950年代後半の(邑久高等学校)新良田教室野球部(長島愛生園歴史館提供)
1961~2年ごろの新良田教室野球部。ユニフォームとロゴが新しくなっている。後列右から二人目に太田明氏、同じく右から三人目に藤崎陸安氏。(藤崎陸安氏提供)
藤崎 平野さんがおっしゃった大日本土木というのは、1951〜1952(昭和26〜27)年頃、都市対抗野球で準優勝した強豪チームです。光明園に入所してきた方は、そこでショートをやっていた選手で、今回の秋期企画展(※生きるための熱 ─スポーツにかける入所者たち─ 2016年10月1日〜12月27日)図録にも写真が載っています。写真を見ていただければわかりますが、とにかく並みのバッティングフォームじゃないんですよ。すごい選手が入ってきたということで当時、大変話題になりました。
私は子どもの頃からずっと野球をやってきて、新良田教室に入学したときも、すぐに野球部に入部しました。ポジションはファーストです。私は5期生ですが、ここにいらっしゃる3年上の先輩たちは、はっきり言ってとても恐かったです。城さんは鉄砲肩で球が速かったですし、平野さんは、ものすごく足が速かった。平野さんは私が野球部に入ったときは、たしか1番でセンターでした。
練習のときも、その先輩たちに怒られないよう、声だけは人一倍出すようにしていました。今でも声が大きく、元気ですねとよく言われますが、これは野球部の練習と、恐い先輩たちのおかげだと思ってます。ありがたいことです。
藤崎 死ぬほどつらい思いを一瞬でも忘れたい。これが療養所内でスポーツがさかんになった一因だと思います。なかでも野球は当時とてもポピュラーなスポーツでしたから、どこの療養所でもやっていました。近隣のチームとの対外試合もそれなりにありましたが、その際もこちらから出かけていくということはなく、試合相手のチームが長島にやってくるわけです。外に出たいという気持ちはつねにありましたが、そんなことが許されるわけがない、ありえないことだと思っていましたね。
ところが、私たちが2年生のときに「野球部で東北遠征に行こうじゃないか」という話が出てきたんです。私は、おそらく太田君あたりの発案だったんじゃないかと思っているんですが、そんなわけで2年の夏休みに新良田教室野球部として初めて遠征試合にいきました。
藤崎 正式な許可は取ってないんですよ。野球部で遠征にいきます、と言ったら許可なんて出るわけがありませんから。そこで帰省するという名目で各自が外出許可を取りました。当日はばらばらに愛生園を出て、岡山駅で集合する。そこから各駅停車に乗って最初の目的地である駿河療養所へ向かいました。遠征に参加したのは総勢10名。駿河に着いたときは、さすがにみんなへとへとでしたが、野球となると元気が出るんだから不思議なものですよね。
藤崎 駿河のあと多磨全生園、栗生楽泉園、東北新生園、松丘保養園と回りましたが、連戦連勝です。唯一、松丘保養園の職員チームに負けました。松丘の職員チームは全国レベルの強さでしたが、なぜそんなに強かったかというと、当時の園長が野球好きで地元の有名選手に声をかけて勧誘していたそうなんですよ。社会人野球の全国大会で3回戦まで勝ち進んだことがあるっていうんですから、かなりの強豪です。それでも負けたことは悔しかったですね。今でも忘れません。
太田 東北遠征を企画したのは私と平井さんという先輩の2人でした。平井さんは私と同じ菊池恵楓園の出身で新良田教室野球部でピッチャーをしていた方です。その平井さんがある日「太田、新良田教室には隔離政策のために修学旅行がない。修学旅行に代わるイベントを何かやろうじゃないか」と言い出したんですね。
そこで2人で考えて、夏休みに東日本の療養所へ遠征試合をしに行く計画を立てました。「せっかく遠征に行くんだから、あたらしいユニフォームにしよう。太田、お前が作れ」ということで、ユニフォームも新調しました。当時の西鉄ライオンズのロゴマークとそっくりですが、これは私が西鉄の大ファンだったからです。
太田 地元九州のチームが東京の読売ジャイアンツを破って三年連続日本一になった。これがちょうど私の中学時代とぴったり重なっているんです。これに刺激されて、これはもう野球しかないと思って中学から本格的に野球を始めました。
中学3年のときには地元の済々黌(※熊本県立済々黌高等学校)が春の選抜で優勝したんですね。これにも感激して受験勉強そっちのけで熊本駅まで歓迎パレードを見に行きました。中学を卒業したら済々黌、そのあと東京六大学へ行って野球をやる、というのが当時の私の夢だったんです。そのあと家庭の事情で、泣く泣く愛生園へ行き、新良田教室に5期生として入学しました。
太田 藤崎君、北島君、山下君、河野君という野球のうまい同級生4名を誘って入部しました。一学年30名ですから、5名がまとめて入部するというのは、めったにないことです。「同級生5人のなかでおれが最初にレギュラーにならんといかん!」と思っていました。
ところが入学当時、ショートのポジションは藤崎君のお兄さんが守っていて、守備はうまい、打撃もいいと、まったく隙がない。この人がいる限りとてもレギュラーにはなれそうにないぞ、ということで入学してすぐ、ひそかに早朝練習を始めました。藤崎君のお兄さんは4年生だから来年になれば自分にもレギュラー獲りのチャンスがある、と考えたわけです。長島の厳しい坂道を早朝ランニングして足腰を鍛えました。
藤崎 そんなことしてたのか。それは初耳ですよ。
太田 そのおかげもあってか、2年になってすぐレギュラーになれたんですが、夏の東北遠征ではホームランを4本打つことができました。冬の走り込みは、絶大な効果があるんだと自分の身をもって体感しましたね。
太田 各療養所に着くと、ただちに長島愛生園に戻りなさいという連絡がきているんですね。それで「はい。ここでの試合が終わったら、すぐ帰ります」と答えるわけです。そして、何食わぬ顔をして次の園へ行く。このくり返しで8月いっぱいかけて青森(※松丘保養園)まで行きました。いったん遠征に出たら、なんとしても5ヶ所行くんだと最初から決めてましたから。
城 東北遠征へ出かける前、太田君たちは各園の園長に手紙を書いているんですよ。私は当時、東北新生園にいたんですが、上川園長(※上川豊氏。1948年から1965年まで東北新生園の園長を務めた)は「夏に新良田教室野球部が来ることになった。手紙が来たよ」と、とても喜んでおられました。
新良田の面々が試合をしに来たときは、上川園長が「せっかく東北に来たんだから松島見学にでも連れて行ってあげなさい」と車を出してくれました。案内役は元野球部OBの城君がいいでしょう、とおっしゃってね。運転手さんは最初は塩釜に行きましょうかっていうんですが、塩釜というのは寿司がおいしいので有名なところなんですね。ところが野球部10人に寿司を食べさせるお金なんて、私はもってない。不安になってどうしましょう、と小声で相談したら「これでみんなに寿司を食べさせてやってくれ、と上川園長からお金を預かってきました。大丈夫ですよ」って運転手さんが言うじゃないですか。ほっとすると同時に、上川園長はそこまで考えてくれているのかと感激しましたね。
東北新生園では、子どもたちをどんどん外に外出させていましたし、海水浴も一般の人が行く海水浴場へ平気で行かせてました。園内に来ている教師の家に遊びに行ったりということもあった。新生園は、ほかの園とは全然違うな、園長でここまで違うものなんかな、といつも感心していましたね。上川園長は私が知っている園長先生のなかで一番立派で、やさしい人です。これは別に寿司をおごってもらったから言うわけじゃなくてね(笑)。
藤崎 長島では毎日のように野球の試合があって、グラウンドが空いてるひまがないくらいでした。先ほどの松丘保養園もそうですが、当時はどの療養所の職員チームも強かったですし、その職員チームとしょっちゅう試合している入所者チームも鍛えられて強くなる。一種の連鎖反応みたいなものだったと思います。さらに日曜になると外から一般企業の野球チームが試合をしに来たりもする。こうした対外試合で我々もだいぶ腕を上げたと思います。
平日は練習で、朝から晩まで野球漬けです。高校生ですから授業も受けていたはずなんですが、授業のことは、さっぱり記憶にないですね。でも野球のことは克明に覚えているんですよ。不思議ですねえ。
太田 体育の授業や運動会のことは思い出に残ってますよ。新良田教室の体育はソフトボールかバレーボールと決まっていたんですが、これは身体が不自由な生徒でもできるもの、という理由で選ばれた競技でした。ところがある日、愛生園の入所者から「新良田教室の高校生はなんだ、女のやるようなスポーツしかできないんか」と言われたんですね。これには腹が立ちました。
以来、愛生園の入所者チームと野球の試合するときは喧嘩腰です。東京六大学の早慶戦みたいなものでベースタッチも激しくやるし、スライディングも危険行為すれすれです。塁上で険悪な雰囲気になって喧嘩寸前ということが何度もありました。
藤崎 そんな野球漬けの日々でしたが、なかには太田君のように大学へ進学した人もいた。さっき彼は早朝自主トレで走り込みをしたと言ってましたけど、放課後は暗くなるまで部活の練習、舎にもどっても電灯の下でバットの素振りをよくやっていたんです。いったい、いつ勉強していたのか、せっかくの機会なので、そこのところを訊いてみたいですね。
太田 授業を必死になって聞く。これしかありません。一にも二にも集中力。それ以外の時間は野球の練習をしなきゃならんわけですから。私は字を書くのが速い方で、これは大学でノートを取るときにも役に立ちました。野球もそうですが影に隠れて努力しないとレギュラーになれなかったし、大学にも行けなかったと思います。
城 勉強の方はさっぱりでしたけど、私も野球だけは一生懸命やりました。1973(昭和48)年に社会復帰したんですが、このときも野球にずいぶん助けられた気がします。職場は小さな町工場だったんですが、療養所にいたということはひた隠しにして生活していました。口を開くのは朝出社して「おはようございます」、帰りに「失礼します」と挨拶するときだけ。付き合いも悪かった。そんな生活が長いこと続きました。
それでもいじめられなかったのは、やはり野球をやっていたからだと思います。野球がうまいということで、まわりから一目置かれていたんですね。
その工場には定年まで勤めました。60歳になったとき「定年は60(歳)だけど、まだ仕事していいよ」と言われて結局63歳になるまで働かせてもらった。休まず真面目に一生懸命働きましたが、これも野球で鍛えた体力があったからだと思っています。野球部の経験を通じて大抵のことなら負けないという自信もありました。これは後輩たち何人かも同じことを言っていましたね。
本当に野球やっていてよかったと思います。野球がなかったら自分の人生、どんなものになっていたんだろうかと、今でも思うことがありますよ。
平野 私も今年(2016年)、喜寿(※満77歳)を迎えることができました。いまだにこうして元気でいられるのも新良田教室野球部での4年間があったからだと思います。私が暮らしている全生園入所者の最高齢は女性105歳、男性101歳。我々は園内ではまだまだ若くて元気な世代だと言われています。これからも、もう少し頑張らないといけないなと思っているところです。
一方で亡くなる方も増えてきました。元愛生園入所者チームのレギュラーでも小坂さん、加藤さん、石田さん、本多さん、村田さんが亡くなっています。2016年11月には元新良田教室野球部の谷君が亡くなりました。ほかの園でも亡くなっている方がおられると思いますが、各園の連絡が取れておらず、はっきりした人数がわからないというのが現状なんですね。残念に思います。
太田 新良田教室の4年間は私に生きるためのエネルギーを与えてくれました。野球部の練習は本当に大変で、全国から集まってきたライバルたちと争ってレギュラーを勝ち取るためには人が見ていないところで努力するしかなった。そんな経験を通じて「新良田魂」というものをもつことができたと思います。その魂は今も私の心のなかに生きています。
そういった意味でも1954(昭和29)年当時、新良田教室開校のために尽力してくださった長島愛生園高等学校設立準備委員会の方々には、感謝の思いでいっぱいです。6名の準備委員会メンバーが、わずか9ヶ月半の準備期間で高校をつくってくださったんですから。そして307名の人材、卒業生を世に送り出した。これは長島大橋(※1988年架橋。完成まで17年を要した)と並ぶ、長島愛生園自治会の偉業のひとつだと思います。
藤崎 みんな年は取りましたけど、野球部OBはみんなそれぞれ頑張っています。高校時代は青春においてとても大切な時期ですが、その4年間を野球三昧で過ごし、それぞれが勝ち取った「新良田魂」で人生をささえることができた。これはやはりすごいことだと思います。たかが野球、されど野球なんですよ。
取材・編集:三浦博史 / 写真:長津孝輔