People / ハンセン病に向き合う人びと
日本最南端のハンセン病療養所である宮古南静園は、本土の療養所にはみられない苦難の歴史を歩んできました。
とりわけ、アメリカ軍上陸に備えて日本軍が駐留し、幾度も空襲に見舞われた戦時中は、
多くの入所者が園を追われ、飢えとマラリアで亡くなっています。
医師として沖縄愛楽園と南静園にかかわってきた新城園長に、
南静園の成り立ちや歴史とともに、沖縄本島と宮古島のハンセン病当事者の情況の違い、
いま取り組みつつある入所者の生活支援のための方法論などについて語っていただきました。
Profile
新城 日出郎氏
(しんじょう ひでろう)
1952(昭和27)年、沖縄県宮古島市に生まれる。金沢大学医学部を1981(昭和56)年に卒業。琉球大学医学部第二内科、静岡県掛川市立病院、名古屋第二赤十字病院等で血液浄化部に勤務。1993(平成5)年、国利療養所沖縄愛楽園に勤務後、1996(平成8)年4月、国立療養所宮古南静園に転勤、現在至る。
南静園歴史資料館に復元されている監禁室。かつて全国の療養所にこのような懲罰的施設がつくられていた。
たしかに宮古島は、諸島も含めてたいへん患者が多かったと聞いております。療養所がつくられる際は、沖縄本島では強い反対運動があったのですが、宮古島ではそれほど強い反対運動はなかったようです。
療養所ができる前の宮古島では、村の畑のはずれに小屋をつくって、食べ物だけ運んでもらってひっそり生活するといった状況だったようです。「強制収容された」とよく言われますが、誰が強制したかという点では、国の法律の問題だけではなく、いろいろあったと思います。少なくとも、みずから望んでここに来た人はほとんどいなかったと思います。
家坂先生は、鉄条網をつくらせなかったと言われていますね。子どもたちが文字を読めるようにしようということで、園内に寺子屋のような学校もつくりました。宮古島では、小学生のときに発症している人がとても多かったんです。いまいる南静園の入所者も、子どものころに来たという人がとても多い。小学校を中退しているため、十分な教育を受けないままここへ来ている。そういうこともあって、当時、読み書きのための学校をつくったわけです。
ところが、家坂先生のあとに来た園長が、今度はたいへん厳しい人で、鉄条網や監禁室をつくったりしました。朝鮮のハンセン病療養所に勤務していた方でした。それで宮古島に来てここでも同じようなことをしようとしたと言われています。園内でのキリスト教の普及にも教育にも反対したそうです。キリスト教は外国の宗教だということで、仏教を普及させるため浄土真宗の教導師を招聘しています。
そうです。当時、アメリカ軍の上陸に備えて、宮古島に2万7千人の日本軍が進駐してきました。南静園にも日本軍が駐留しました。結果的にアメリカ軍の宮古島上陸はなかったんですが、1944(昭和19)年の10月から翌年の3月にかけて、何度も空襲を受けました。
海岸に残っている機関銃の壕跡はもうご覧になりましたか。ああいうふうにして、日本軍が入ってきたために園内で生活ができなくなった。帰る家のある人は逃げ帰ったと思いますが、取り残された入所者は海岸の自然壕に追いやられてしまった。空襲によって園の建物も壊滅してしまった。こうして、戦時中に大勢の入所者が亡くなりました。百余名の方が亡くなっており、約3人に一人が亡くなった計算になります。空襲による死者はわずかで、ほとんどがマラリアと飢餓で亡くなっています。
悲惨ですね。自然壕に入れた人はまだいいほうです。岩陰で雨露をしのいだという証言も多くあります。
いま宮古島の航空自衛隊の駐屯地があるところに、戦時中は陸軍の司令部基地があったんですが、隔離政策を徹底した園長はさっさとそこに逃げていたんです。
子どももいたことでしょう。ある入所者から聞いた話ですが、「自分は世渡り上手だった。大人の機嫌をとるのがうまかった。だから戦争中も食べ物をもらって生き延びることができた。それができない子どもは死んでいった」と言ってました。療養所では、子どもに対しては大人が親代わりをつとめるという制度があったんですが、戦争中は面倒みたくてもみられないということもあったのでしょう。
南静園の浜の崖につくられた日本軍の銃壕の砲口。米軍の上陸に備えてここで機関銃を構えていた。内部には幅1メートル、高さ0.8メートルの通路がU字型に堀られている。
歴史資料館に展示されている、1948年以降の「婚姻及同棲」の届書の綴。
30~40人ほど子どもが生まれたと言われています。昭和20年代にとくに多かったようです。いまの入所者も、3分の1ほどが夫婦で子どもがいます。
ここも表向きは断種しないと結婚は許さないということになっていましたし、断種手術も行われていました。でもそういったルールに対して、密かに抵抗する人もいたのでしょう。ルールが徹底されない面もあったと思います。そのころいたクリスチャンの医師が、堕胎に強く反対していたという影響もあったかもしれません。
でも、子どもを産むことはできても、園内で育てることはできなかったようです。だから生まれた子どもは夫婦のどちらかの親やきょうだいに引き取られた。そのときに戸籍上の親も変更されてしまう、つまり子どもは育ての親の戸籍に入るということが、けっこうあったようです。
そうかもしれません。本土であれば、ほかの園の情報も入ってくるでしょうし、まったく違うことをするということはなかったでしょう。でもここはなかなか情報が入ってこないから、ほかの園とは違うこともかなりあったでしょう。だから職場放棄して自分だけのうのうと陸軍のもとに逃げたりする園長もいた。
いちばん違いを感じたことといえば、愛楽園にいたころは、入所者たちと親しくなって話をしていても、出身地が具体的にわかりそうになると話がそこで途切れてしまうんですね。自分がどこのだれかということがわかりそうになると、口をつぐんでしまう。でも南静園ではそういうことはありません。自分からどこの出身だということを抵抗なく話します。お互いにそうやって出自や家族のことを知ったうえで親しくするという面があるようです。
それから愛楽園では、園外にいるとき、たとえばショッピングモールとかで入所者と会いますね。そうすると他人のフリをされるんです。だから外で会ったときには、手を振ったりして「やあ」なんて声をかけてはいけないんだと思いました。でも宮古にきたら、ほとんどの人が外で会っても親しく挨拶してくれます。なかには目線をそらす人もいるんですが、それはごくマレです。むしろ、こちらが知らない振りなんかしたら「なんだ、あいつは」って言われそうです。そういうことが一番、沖縄にいたときと違うなと思いました。
開放的かどうかわかりませんが、たとえば、市内で出会った人も、「自分の身内のだれだれが南静園にいた」ってことを話してくれたりするんです。「自分の母方の誰それが南静園にいた」とか話します。こちらが聞いたわけでもないのに、私が南静園の医者だと聞くと、そういう話をしてくれる。どうも宮古島というのは、自分から「私はこういう者です、こういう家族です」ということをきっかけにしながら、人間関係をつくっていこうとするところがあるように思います。私が南静園の医師ということで、南静園にいたということを退所者も必ずしも隠さないし、身内の人たちも隠さないように感じます。むしろそういったつながりを自分から語ろうとする。もちろん、伏せている人もいますが。
大きなガジュマルの木に覆われた休憩所。入所者の憩いや交流の場として親しまれてきた。戦後はこの木の下に爆弾の殻が吊るされ、それを打って配給や集会の合図をしていた。
老人クラブ「福寿会」の交流施設として使われている厚生会館。地元の人びとも交えて、毎週のようにカラオケの練習でにぎわっている。
園内のゲートボール場。ゲートボールは全国の療養所で盛んだったが、南静園がその発祥という話もある。
まったくの偶然でして、私は耳鼻科医として宮古病院に勤務していました。そのとき、南静園の園長をやっていた長尾榮治先生が宮古病院でも皮膚科診療をしていて、出張に行かれるときなど、代わりに私が南静園の当直に入ったりしていたんです。その関係で、長尾先生が愛楽園に転勤されたときに勧誘されました。
ですから、ハンセン病に関しては、ほとんど何も知らないまま就職することになりました。療養所に来てから、差別とか偏見とか大変だったんだということを知りました。
そういうことを通して、ハンセン病のことを理解するようになりましたね。
じつはいま、南静園の入所者たちのカルテに、生活歴を加える情報シートをつくっているところなんです。普通のカルテというのは病歴しか書かれていませんが、これからは一人ひとりがどのような人生を送ってきたのかがわかるような、「生活歴」が必要だと考えています。とはいえ、南静園では戦争で古い記録が全部焼けてしまっていますので、証言集などでおおやけになっている情報や看護師さんが聴取して記載された情報を中心に作成しています。こういうことを始めて、「ああ、ここにいる人たちは、みんな小学校のときに入所してきたんだ」といったことがわかるようになったんです。ということは、80年とか90年近く、ずっとここで暮らしてきたんだということもわかる。
南静園では66人(2017年3月現在)の入所者のうち、まだ半数近くの人が、自分の身の回りのことは自分でできる、食事も自分でつくることができるんですが、だんだん生活面のサポートが重要になっていきます。ところが、疾病の治療を中心にやってきたところでは、どうしてもやり方が管理指導になるんですよ。「こういうことをやってはいけません」というように。生活支援をするには、そんなやり方ではうまくいきません。
「国際生活機能分類」(ICF:「生活機能」と「障害」を判断するための「分類」。障害の有無のみならず、環境や活動状況などの広い視点から理解しサポートすることを目的とする)というものがありましてね。これは介護保険の世界では常識になっているものです。それを入所者の生活支援や自立支援の方法論として取り入れています。そういった評価基準や方法論がないと、看護の方法論だけでは限界があるのではないかと思うんです。
まず、一人ひとりへの接し方ですね。この人はこういうふうに生きてきた人なんだ、こういうことに楽しみを見出してきたんだ、ということを知ったうえでケアをしていく。「ああしなさい」「これはだめ」というように管理していくのとはかなり接し方が違ってきます。もちろん、いきなり何もかもすぐに変えることは無理ですが、時間をかけてシステムや体制をまずつくっていく。職員たちが、「なるほど、そういうことか」というふうに少しずつ理解できるように進めています。
私が見るかぎり、みんなの意識も少しずつ変わってきたと思います。自分たちはまったく意識していないんですが、やはり前から引き継いできた差別構造を、知らず知らずのうちにもってしまっているんです。それが見えないかたちで残っている。入所者も長いあいだそういう扱いを受けて、自己規定してきてしまった面もあるわけです。そういう構造のなかで、一方的な管理型の医療が行われてきた。
ほかの介護施設とも交流を持とうということで、十数年前に地元の高齢者介護施設の園長に来てもらって、講演をしていただいたことがあるんです。「園内も見たい」と言われたので、不自由者棟の食事風景を見てもらったんですが、そのあとで言われたことに愕然としました。入所者が食事をしているとき、その周りをぐるっと職員が取り囲んで立っていたんです。そのことを、「逃げないように監視しているんですか」って聞かれたんですよ。ハッとしました。いっしょに座って交わったり、食事の介助をするとかいうこともなく、みんなただ周りに立って、腕なんか組んだりしているものですから、「見張っている」というふうに見えてしまったんですね。私も、そんなふうに言われるまで、それがおかしなことだと気づきませんでした。自分たちが気付いていないところに、差別構造が残っていたんですね。こういうことを、なんとかして変えていきたいと思うんです。
1983(昭和58)年から、外来診療を行っています。もちろん退所者を最優先しますが、一般の方の入院も受け入れています。おもにリハビリ目的が多いですね。退所者で再入院(入所)される方も年に一人か二人かいます。高齢になると、老人ホームに行くよりも、ここに戻ったほうが顔見知りもいるからって。
おもしろいデータがありましてね。南静園は、もとは奄美和光園のつぎに小さくて入所者の少ないところだったんですよ。それがいつのまにか駿河療養所を追い抜いて、大島青松園を追い抜いた。なぜかというと、亡くなる人が少ないわけじゃないんです。入ってくる人がいるからです。だから減り方が他所よりも緩やかなんですよ。
園には「福寿会」という老人クラブがあるんですが、「らい予防法」が廃止された年(1996年)に、地元の老人クラブ連合会に加入して、それ以来、地域といっしょに活動しています。
以前はゲートボールを通じた交流が盛んでしたが、最近はもっぱらカラオケですね。毎週木曜日に、職員も退所者も一般の方もボランティアもいっしょになって、みんなちょっとした食べ物やお酒も持ち寄って、わいわいやってます。いつもにぎやかですよ。私はたまにしか行きませんけどね。あと囲碁クラブ。入所者は2~3名しかいませんが、やはり退所者や一般の人たちが入ってきてやってます。私はロクに囲碁はできませんが、なぜか会長をやらされてます(笑)。
まあ、あえて「交流」を意識してやっている面だけではないと思います。園にはゲートボールをやるにもカラオケをやるにもいい場所があるから、いい意味で地元の方もここを利用されているんですよ。
だいぶん変わってきたし、理解が進んでいるように思います。でもそのことは、国賠訴訟の裁判による大きな変化の延長線だと思います。らい予防法廃止よりも、裁判の影響が大きかった。あのときに、みんなが「えっ、そんなことがあったのか」と思ったのでしょう。らい予防法が廃止されたときは、それほど注目されていなかったと思います。
当時は、職員だってわかっていませんでしたから。「大変だ、職場がなくなるかもしれない」と思う人もいたようですが。ましてや普通の人たちには、何のことやらだったでしょうね。裁判のときに過去の療養所で何があったのかが伝えられて、初めて「らい予防法廃止」の意味も理解されたんだと思います。私たち職員も「あんたたち、ひどいことをしてきたのね」なんて言われたりしたこともありましたけどね。
何かについて理解してほしいというよりも、ともかく一度、園に来てほしいですね。実際に自分の目でいろんなことを見て感じてほしい。それが一番だと思っています。差別のことを言葉によって、頭で理解しようとしても、なかなか難しいのではないでしょうか。
取材・編集:太田香保 / 撮影:川本聖哉