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People / ハンセン病に向き合う人びと

高木 智子(朝日新聞社会部記者)

2015年初夏、『隔離の記憶』というタイトルの本が出版された。
著者は朝日新聞社会部記者、高木智子さん。
回復者と療養所の外からやってきた人たちとが出会って生まれる、輝き、笑い、勇気。
読んだ人に「この人と会ってみたい」と思わせる、真摯だけれど、やさしい語り口。
そんな『隔離の記憶』の世界は、どのようにして紡がれたのか。
現在も療養所取材をつづける高木さんにうかがいました。

Profile

高木智子氏
(たかき ともこ)

1972年福岡県福岡市生まれ。朝日新聞大阪本社社会部記者。1996年、読売新聞西部本社に入社、鹿児島支局に勤務。2000年に朝日新聞社に入社、前橋・高崎支局時代に国立療養所「栗生楽泉園」に通い、ハンセン病に関する本格的な取材を始める。大津総局、大阪本社生活文化グループなどを経て'08年9月より大阪社会部、2014年4月より2016年3月まで編集委員。人権、戦争記憶の語り継ぎ、元受刑者らの再犯防止などにも取り組んでいる。'15年には『隔離の記憶----ハンセン病といのちと希望と』(彩流社)を出版、第10回疋田桂一郎賞を受賞した。

なんの予備知識もなく出会った
ハンセン病の世界

高木さんは、いつ頃から新聞記者になりたいと思っていたんですか。

小学生くらいのときからです。とくに社会面が好きで朝食のあと、よく読んでいました。そこには泣いたり、笑ったり、怒ったり、悲しんだりしている人たちがたくさん載っているんですね。その背景には何があるのか、それがずっと気になっていました。このページに関わる仕事ができたらいいな、と思ったのが記者になるきっかけでした。

高木さんが新聞記者になったのは1996年で、
この年は「らい予防法」が廃止になった年でもありました。
入社当時、ハンセン病に関してどれくらい知っていたのでしょう。
またハンセン病関係の取材をする機会はありましたか。

ハンセン病に関してはまったく知らなかったんです。最初、読売新聞社に入社して鹿児島支局に配属になったんですが、ある日先輩の代理で、集会の取材に行ったんですね。大学の講義室のような広い部屋に入っていくと壇上におじいちゃんたちがいて、そのうちのひとり、岡本さんという方が「ぼくは今日、本当の名前を取り戻す」といって黒板に「窪田」と書きました。当時の私はハンセン病のことをまったく知らなかったので、どういう意味なんだろうと思いながらメモを取っていたんです。星塚敬愛園からやってきた、これから原告になろうという方たちでした。

集会が終わったあと、おじいちゃんたちが飲みに行こうと誘ってくださって、そこで初めてハンセン病に関するさまざまな話を聞いたんですね。私の近くに座ったのは黒板に名前を書いた窪田さんというおじいちゃんで「明日、星塚敬愛園に帰ったら表札を窪田に掛け替えるんだ」と、誇らしげに語っていたのがすごく印象に残っています。ほかにもカメラが好きでたくさん写真を撮っていること、自宅の庭で花を育てていることなど、いろんなことを話してくださいました。

数日後、官製はがきの裏に紙焼き写真を糊で貼り合わせた自家製の絵はがきが届いたんです。写真はとっても大きなアゲハチョウで、こないだは楽しかったよ、仕事頑張ってね、こんどコーヒーでも飲みにおいで、と書いてありました。真心がこもったはがきだなあと思って、ぐっときちゃったんですね(笑)。でも自分はまだ新聞記者一年生だし、日々やらなければいけない仕事もある。おじいちゃんに会いにいきたいなあと思いながら会いに行くことはできませんでした。

その後2000年に朝日新聞社に入社されて前橋・高崎支局へ配属となっていますが、
このときはどんな記事を担当されていたのですか。

  • 原稿を執筆する谺雄二さん。補助器具を使ってキーボードを打つ(撮影:八重樫信之氏 2010年)

おもに県庁で行政や選挙関係の取材をしていました。当時は'98年に国賠訴訟(らい予防法違憲国家賠償訴訟)が提訴され、判決に向けてどんどん状況が動いていった時期だったんですね。その報道を見ながら「この取材がしたいな」「あのとき知り合ったおじいちゃんたちは、いま何を思っているんだろう」といつも思っていました。

そのときの思いが草津の栗生楽泉園(以下、楽泉園)へ
通うきっかけになっていったんでしょうか。

理由はおもにふたつあったと思います。ひとつめは2001年春には国賠訴訟の判決が出る予定になっていたんですが、前橋・高崎支局では当時、前任者の退任などで、たまたま楽泉園の取材をしている人がいなかったんですね。そこで自分から取材をしたいと希望を出したんです。

もうひとつは鹿児島で出会ったおじいちゃんに会いにいけなかったこと。星塚敬愛園から「高木さんに会いたいと言っている。こちらに来ていただけませんか」と連絡も入っていたのに、目の前の仕事を優先させてしまい、鹿児島に出かけていく努力をしなかった。そうしているうちに窪田さんは亡くなってしまったんです。そのことをすごく後悔していて。いま思うと、できるかぎりいろんな人に会いにいく努力をしよう、お話を聞いて記事を書こうと決心したのは、そのことも強い動機になったように思います。

といっても私自身、療養所へ行くのはまったく初めてでしたし、楽泉園には知り合いもいません。なにもわからないけれど、とにかく行ってみよう、ということで出かけていったんです。

初めて見た療養所からは、どんな印象を受けましたか。

ものすごくびっくりしました。療養所の中と外では時間の流れがまったく違うんですね。当時、楽泉園には自由地区と呼ばれているエリアがあって、そこには昭和20年代の長屋みたいな家が並んでいました。なのに人はまったく歩いていない。その光景にまず驚きました。

楽泉園では国賠訴訟の原告の方を取材したいということで、まず谺雄二さん(※詩人。当時、国賠訴訟全国原告団協議会=全原協会長代理、群馬原告団長)にお会いしたんですが、谺さんは自室の縁側で写真家・趙根在(チョウ・グンジェ)さんの写真集を見せてくださいました。胎児標本が載っているページを開いて「あなた、これを知ってるかい?」「こんなこと、許されると思うかい?」って。見てはいけないものを見てしまったような、ものすごい衝撃を受けたことを覚えています。

16年の付き合いになる栗生楽泉園の藤田三四郎さんと。三四郎さんの自室には訪れた人との記念写真が一面に貼られている

ステレオタイプな表現で
見えなくなっているものがある

ハンセン病に関する記事には「隔絶された人たち」「社会との断絶」というようなフレーズが使われることが、いまでも多いです。私もそういった記事を読んでいたので療養所に暮らす人たちは誰とも関わることなく、孤独にひっそり生活しているんだろうな、と思いこんでいたんですね。

ところが実際の姿を見てみると、そんなことはないんです。自分の家族から拒絶されたという方は、たしかにたくさんいらっしゃいますが、療養所の外にお友達がいるという人も多いし、外からつながろうとしている人たちもいる。仲間同士でささえあってもいる。でも報道ではそういったことってあまり取り上げられないんです。私の知ってる回復者の人たちって違うんだけどな、とずっと思っていました。

高木さんの知る素顔の回復者とは、どんな方々だったのでしょう。

信じられないくらいの苦労や痛みを抱えていらっしゃって、ときには涙を流すこともあるけれど、けっしてそれだけじゃないんですね。いまこの瞬間、誰かと出会えたことに感謝したり、充実した時間を過ごして、すごくいい表情を見せることもある。私自身、そんな気づきを積み重ねて、ここまできた気がします。

目の前にいる人が笑っているのに悲しそうな表情、孤独に見えるようなアングルばかりで写真を撮ったり、「隔絶」「断絶」といった表現で記事を書いてしまう。それって目の前にいる人と誠実に向き合っているんだろうか、と思いました。人間だったら、うれしいことも悲しいことも両方あって当たり前。ハンセン病はたしかに被害の歴史なんだけれども、いつも悲しい面だけを採り上げるのは違うんじゃないかと。

そんな思いが原点になって「ニッポン人脈記」(※高木さんの著書『隔離の記憶』の
元になった新聞連載)が始まったんですね。

  • 連載から一冊の本にまとまるまでに4年を要した『隔離の記憶』。その間にも谺雄二さん、桜井哲夫さんなど多くの方が亡くなった

前橋・高崎支局から転勤したあとも年に1度くらい楽泉園をたずねていたんですが、あるとき私の知っている方が次々と亡くなっていると聞かされたんです。認知症になった方もいるということでした。そのとき頭に浮かんだのは「みんないつまでもお元気なわけじゃないんだ、いったいどうしたらいいんだろう」ということでした。会いにいけないまま亡くなってしまった鹿児島のおじいちゃんのこともすごく後悔していましたし、そういったことの積み重ねが「書かなければ忘れられてしまう」「彼らのことを書き続けよう」という決心につながったように思います。

一方でハンセン病を扱う記事というのは、見出しにしても記事に使われることばにしても、決まりきった定番の表現があるんです。そういった記事をずっと読んでいると見出しを見ただけで、どんなことが書かれているか、だいたい想像がつくようになってしまう。楽泉園に通うようになって知り合いもできて、私自身はすごく興味をもっているはずなのに、新聞に載っている記事には興味をひかれなくなっていた。記事は本当に読まれているのかな、活字報道はどうあるべきかな、と考えていました。

そこで連載を始めるにあたってはハンセン病のことを知る人、知らない人の両方に振り向いてほしいと思ったんです。今までの記事だったら使われない、予測もつかないようなことばを見出しや記事に入れていく。少し驚いてもらう。そのことで「なんだ、これは」と感じてもらいたい。そのことばも、まぎれもなく彼らが語ったものなんです。

今までだったら記者が聞いたとしても記事には使われることのなかったことば、
それを紙面に出していくということですね。
たしかに新しい素顔が見えてくるような気がします。

  • 新宿のホテルでこれから式を挙げる新郎新婦と藤田三四郎さん。新婦が療養所を訪れた縁で知り合い「孫」のようにかわいがってきた(撮影:八重樫信之氏)

連載のタイトルにもハンセン病ということばをあえて使いませんでした。私がそうだったように、ハンセン病という文字を見ただけで「ああ、またあんな感じの記事なんだろうな」と、読まなくなってしまう人がいると思ったからです。記事ではつねに私たちの日常生活の延長にあるようなドラマを採り上げ、そこに登場するのがたまたまハンセン病の回復者である、というスタイルとしました。彼らも社会の一員なんだよ、ということを言いたかった。ハンセン病だって数ある病気のひとつにすぎないんだと。

そのことを表現するために「ニッポン人脈記」の連載では、使う写真も今までとは違った選び方をしました。藤田三四郎さんを紹介した回では、三四郎さんが出席した結婚披露宴(※都内ホテルでおこなわれた。写真参照)の写真を使っていますが、これも「ハンセン病回復者も私たちと同じ社会に暮らす一員なんだ」ということを視覚的に訴えたかったからです。

新聞連載の桜井哲夫さんと金正美(キム・チョンミ)さんの回では
桜井哲夫さんの実像が初めて見えた気がしました。
桜井さんは重い障がいをおもちで、たいへんな苦労をされた方というイメージが強いですが、
高木さんの記事では明るく楽しい一面が紹介されていますね。
同時にものすごく力強い生き方をされている方だということも、よくわかりました。

哲っちゃんと金正美さんの回ではふたりが笑っている写真を使ったんですけど、あのふたりが話しているときって、本当にずっと笑ってるんですよ。とっても楽しそうなんです。桜井さんはたいへんな苦労をされた方だし、私たちが想像すらできない世界を生きてこられたと思います。それもたしかに人生の一面だっただろうし、若い頃は苦しんでいたかもしれないけれど、80代になった桜井さんはもっと別の希望を見ていたかもしれない。そういうことも伝えたかった。

故郷・津軽のリンゴの花の下で金正美さん(写真左)と一緒に笑顔を見せる桜井哲夫さん(写真中央)。これが最後の里帰りになった(朝日新聞社提供)

他人を完璧に理解することはできない。
だからこそ謙虚に

  • 連載当時(2011年)の取材ノート。なかには取材した人たちの人生のドラマがつまっている

回復者の方々が笑っているところ、輝いているところをあえて紹介する。それは連載を読んでもらう工夫のひとつではありましたが、同時に「彼らはどうしてこんなにやさしいんだろう」「どうしてこんなにきらきらしたことばで語りかけられるんだろう」ということも伝えたいと思っていました。回復者の方々には長い間の痛み、孤独、ないがしろにされてきた経験などがあって、それを自分なりに整理、昇華できたからこそ、今の姿があると思うんですね。

取材をするにあたって心がけているのは、先入観をもってものごとを見ないということ。むしろやりとりのなかで偶然出てくることば、その人ならではの輝き、意外性といったものを大切にしたいと思っています。取材でお話していただいたことより、帰りがけにふと言われた一言が心に残るということも多いんですよ。あるとき藤田三四郎さんが「ぼくはみんなが帰るときにさよならって言わないの。言うと悲しくなっちゃうから」と話してくださったんですが、帰り道クルマを運転しながら、ずっとその意味を考えたり。

記事を書く上でいつも思っているのは取材させていただいた方に、今の私にできることを精一杯やりました! と言える関係でありたいということ。ちゃんと目を見て次も会えるよう、誠実に仕事をしていきたいと思っています。

どうしたら高木さんのように寄り添うことができるのでしょう。

学生の人たちからも「高木さんは回復者の方々の気持ちを理解し、寄り添って記事を書いているんですか?」とよく訊かれるんですが、私自身は寄り添えてもいないし、理解もできていないと思っています。人はみんな別の人格をもち、別々の人生を生きてきたわけで、親子でさえわかり合うことは難しいという現実がありますね。私が思っているのは、せめて向いている方向くらいは同じでありたいということです。「これってこういう意味だよね」「こっちの方向でいいんだよね」ということは、つねに確かめ合いながら書いていきたいと思っています。

このことばで間違っていないか、自分が誤認している部分がないか、
記事を書きながら不安に駆られることもあるわけですか。

そういうときは本人にお会いして確認をします。何かの事情でどうしてもお会いできないときは、手紙やファクス、電話などでかならず確かめるようにしています。他人のことは完璧には理解できない、本人にはなれないからこそ、ていねいな仕事をしなければならないと思うんですね。同時に読み手がこの記事をどのように受け止めるだろうか、ということもつねに考えます。よかれと思って書いたことが誤解のもとになってしまったとしたら、それはとても不幸なことですから。

私が記事を書くのは、私の考えを押しつけたいからではありません。それよりも「気になった人がいたら会いに行ってみたら?」という最初のきっかけ、道筋のようなものを作れたらと思ってるんですね。気になる回復者の方がいたら、やっぱり実際に会って話してみるのが一番だし、そのことで誤解や自分自身がもっていた思い込みに気づくことも多いと思うんです。それがハンセン病の歴史、彼らの過酷な人生を想像する、最初の一歩になってくれたらいいなとも思います。

高木さんにとって、いま一番気になるテーマとは何でしょう。

記者として追い続けているテーマには戦争の記憶の語り継ぎ、元受刑者の再犯防止などがありますが、ハンセン病はそのなかでもものすごく存在感のある、とても大切なテーマになりました。すべてに共通しているのは挫折や困難、アクシデントを経験した人間が、そのあとの人生をどう生きていくのかというドラマです。

大きな壁に突き当たり挫折してしまった人間が、自分の足で立ち上がり、ことばを発しながら懸命に生きていく。これは再生そのもので、私はきっと「人生の再生」というテーマに惹かれているんだと思います。ハンセン病の取材では、とても多くの方々から人間の強さを教わりました。その「再生する力」のすばらしさを伝えつつ、できることなら記事を通じて、そうした方々の「家族の再生」も応援していきたい。そう思っています。

取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉