ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination

People / ハンセン病に向き合う人びと

田村 朋久(長島愛生園歴史館 学芸員)

初の国立ハンセン病療養所として知られる愛生園は、ハンセン病政策の方針決定、
各種情報発信などにおいても中心的役割を果たしていたという。
その事務本館が「長島愛生園歴史館」として生まれ変わったのは2003年のこと。
歴史館がめざすもの、その先に見据えているものとは何か。
主任学芸員の田村さんにうかがいました。

Profile

田村 朋久氏
(たむら ともひさ)

1976年、岡山県瀬戸内市邑久町に生まれ、地元で高校までを過ごす。福山大学経済学部卒業後、民間企業での勤務経験を経て長島愛生園勤務。のちに博物館学芸員資格を取得。療養所関係者にハンセン病問題を基礎から学び、見学者により近い目線でハンセン病問題の解説にあたる。団体の来館者への解説は年間300回を超え、各地での講演活動も年間20件を超える。現在は「ハンセン病療養所の世界遺産登録をめざす準備会」のメンバーとしての活動も進めている。長島愛生園歴史館主任学芸員、長島愛生園歴史館事務局責任者、長島愛生園附属看護学校非常勤講師。

長島=隔離の島。
しかし詳しいことは誰も知らない

最初の国立療養所をつくる際、長島が選ばれた理由とは何だったのでしょう。

  • 1階常設展示室にある昭和30年代の長島愛生園の航空写真とジオラマ

島がえらばれたのは、隔離を最重要視した結果です。愛生園がつくられる前、ハンセン病療養所としてもっとも理想的な環境とされていたのは大島青松園(※明治42年開設。当時は8県連合の第4区療養所で香川県知事の管理下にあった)でした。当初は大島青松園をモデルに療養所に適した島を全国から探していたようで、西表島などの離島も候補に挙がったようです。

しかし絶海の孤島では職員がなかなか集まらないですし、飲料水の確保もしにくい。内務省などの反対もあって「瀬戸内海で国有地が多くあり、なおかつ本土ともそれほど離れていない島がいいだろう」ということになったと聞いています。そしてこの条件に合った長島が選ばれたわけです。長島は江戸時代、池田藩が馬の放牧場として使っていたんですが、明治に入ってからは大部分が国有地となっていました。まさにうってつけの場所だったんですね。建設は1928(昭和3)年に始まり、竣工したのは1930(昭和5)年です。

地元の人たちにとって、長島はどんな場所という認識だったのでしょうか。

もっとも一般的な印象は「長島=隔離の島」というものです。といっても詳しいことは、ほとんどの人が知らなかったと思います。私も地元で生まれ育ちましたが、長島愛生園とハンセン病のことは中学校のときに、ちょっと授業で習ったくらいでした。ちょうど長島大橋が架かった頃のことで、愛生園のことはテレビや新聞でもよく採り上げられていましたが、どこか遠い世界のような気がしていました。その後岡山県立邑久高等学校に通いましたが、じつはこの学校は愛生園のなかにある高校(邑久高等学校・新良田教室)の本校にあたります。にもかかわらず愛生園のことはまったく習った記憶がありません。高校の先生も詳しい知識を持った人がいらっしゃらなかったのでしょう。

そんな田村さんが愛生園の歴史館で働こうと思ったきっかけは、
何だったのですか。

よく聞かれるんですが、本当にたまたまなんです(笑)。当時、愛生園で働いていた友人から「(愛生園で)採用試験があるみたいだよ」という話を聞き、軽い気持ちで受けました。看護助手の採用試験だったので、採用が決まったら看護助手になるんだとばかり思っていたんですが、いざ入ってみたら「いま資料館の立ち上げを考えているが、担当職員がいない。やってくれないか」と言われ、業務につきました。2001年のことです。その後、通信教育課程で博物館学芸員資格を取得しました。

初日にやったのは資料の整理です。わからないことは自治会の宇佐美さん(宇佐美治氏。愛生園の資料を収集保存していた)に教えていただきました。宇佐美さんは目がご不自由だったので、最初は書棚に並んでいる本のタイトルを代わりに読み上げることから始めたんですが、明石海人など愛生園に関わる著名な人の名前が出てきても、それが誰かすらまったくわからない。最初はそんな状態だったんです。

そんなある日、「自分はここで仕事をしていてハンセン病にかかることはないんだろうか」と、ふと疑問に思ったんですね。うつる病気だから隔離されているはずなのに大丈夫なんだろうかと、とても不安になった。自分で調べて現在の日本では感染の心配はほとんどないこと、感染したとしても薬で完治することなどを知りましたが、そんなことすら、まったく知らなかった。

その後、入所者の方からお話を聞きながら過去のハンセン病政策や愛生園の歴史など、さまざまな知識を得ていったんですが、長島と外の世界とのギャップには、本当に考えさせられました。私は生まれてからずっと地元で生まれ育って長島に愛生園という療養所があることも、それがどこにあるかもよく知っている。にも関わらずハンセン病という病気に関する知識をまったくもっていなかった。これは怖いことだなと思いました。地元の人間ですら知らないのだから、社会一般の人が知らなくてもなんの不思議もない。しかも私も含めてみんな自分のこととして考えていない。すべて他人事なわけです。

歴史館ができる前にも研修対象の見学などは行われていました。当時は最初に入所者の話を聞き、そのあと園内を見学するという順番になっていたんですが、参加者を見ていると、どうも話があまり伝わっていない気がするんですね。質問はありませんか、と問いかけてもまったく反応がない。こう言ってはなんですが、研修などで来ている方が多いので必ずしも問題意識を持っている人ばかりではないんです。でもそれは少し前までの自分自身の姿でもあると思いました。無関心、何も知らないというのは怖いことだなと、そのときあらためて感じました。

一方、入所者の方というのは、とてもやさしい人が多いんです。ご苦労をなさった方ほどそうなんですね。こんなに素晴らしい方々がたくさんいるのに、世の中からまったく知られることなく誤解されたまま亡くなっていく。こんなことがあっていいはずがない。もし資料館を作るのであれば、私のようにまったくハンセン病を知らない人に問いかけができるものにすべきじゃないかと、そのとき強く思いました。

人権、差別などを考える
きっかけとしての「歴史館」

歴史館ができた当初の展示は、どんなものだったのでしょう。

  • 入所者の作品が並ぶギャラリー・陶芸展示室

  • ハンセン病とその後遺症を紹介する医学展示室

当初の展示はもっとギャラリーがたくさんあって、一面に入所者の作品が並んでいるというものでした。展示は入所者の皆さんと業者さんが中心になって作っていったのですが、とにかく初めての経験でしたから、なかなかうまくいかない。どうやって伝えるべきかという方法論より「これを見てほしい!」という情熱の方が先に立ってしまうんですね。一方、病気のことを説明するパネルは歴史館に1枚だけとか、そんな感じでした。

そこでいろいろと検討を重ねた結果、約1年後に展示の全面的な入れ替えを行いました。コンセプトは、まったく予備知識のない人にハンセン病という病気のこと、入所者の方々がどんな境遇で生きてきたかを知ってもらうこと。自分自身、ここへ来るまで予備知識ゼロという人間でしたから、逆に客観的な視点で歴史館の展示を見ることができたのかもしれません。

また開館当初は入所者から聞いたつらい話、悲しい話を中心に伝えることで人権侵害や差別の問題について訴えかけていたのですが、ある日見学者の方から「じゃあ、私たちはどうしたらいいの?」「私たちには何ができるの?」と聞かれたんです。そのとき、このままではいけないんだなと強く感じました。というのも当時の見学プログラムはハンセン病のことだけで完結していて、そこから先のことは何も語っていなかったからです。

ご存知のように一般の人たちが回復者の方々と会う機会というのは、今ではほとんどありません。日本の回復者の多くは療養所内で静かに暮らしているか、社会で生活していても、その出自を隠している方が多く、高齢化も進んでいます。このままでは単なる「過去にあった悲惨な話」として、風化していってしまうでしょう。「私たちはどうしたらいいの?」「私たちには何ができるの?」という問いに答えるためには、ハンセン病の歴史や回復者の方々の経験をスタート地点として、人権や差別問題について幅広く考えてもらうことが必要になってくるのだと思います。そんなこともあり、見学の最後にはいつもこんなことをお話ししています。

「皆さん今日の見学でハンセン病についてご理解いただけたと思います。皆さんが今後愛生園の入所者を差別することはないはずです。正しく理解することで差別は防げるのです。そして、同じことが他の問題についても言えるのではないでしょうか。人権問題、差別問題のことがいくら新聞に書いてあっても、関心を持って読まなければ頭の中に入ってくることはありません。正しい情報を得るためには、まず関心をもつことが大切なんです」。

人権や差別についてここで感じたこと、関心をもったことをハンセン病以外の分野にも広げて考えてみてほしい。さまざまな問題を考えるきっかけとしてハンセン病を捉えてほしい。こうした問いかけを積極的にしていることが、この歴史館のもっとも大きな特徴です。全国の資料館、社会交流館でも、ここまで具体的に踏み込んで展示を作り、メッセージを発信しているところはあまりないと思います。

1人ひとりが心のなかに思いを留めていく。
そのためのプロジェクトも進行中

瀬戸内三園(長島愛生園、邑久光明園、大島青松園)の世界遺産登録という構想も、
ハンセン病療養所を広く人権や差別について考えるきっかけにしてほしい
というところから出てきたものなのですか。

  • 入所者の証言映像などが視聴できる第二映像室

そうです。2012年の11月に準備会を立ち上げ、愛生園、光明園、両園の自治会と園長、事務部長、事務の職員などにも参加してもらいました。世界遺産登録が実現されれば長島全体の景観保全をはかることもできますし、一般の方々やマスコミの関心を高めることでもできる。また「被害者」としてのみ報道されてしまいがちな入所者の実像をアピールする機会ともなるでしょう。力強い生き方をされてきた方がとてもたくさんいらっしゃるんですね。そのこともぜひ知ってもらいたい。

ただ、世界遺産登録の運動は入所者の方々がやるものではないと私は思っています。こういった運動の主体になるべきは、やはり市民なのではないでしょうか。「すばらしい学びの場なのだから後世に残してほしい」「そのためには世界遺産登録を受け、次の世代、その次の世代へと記憶を語りついでいくべきだ」。こうした声は、本来市民の間から出てくるべきで、今はその種まきをしている段階です。

現在は入所者の声を残していくために映像記録なども充実を急いでいるところです。ライフヒストリーについては、自分たちだけでは手が回らない部分もありますので、そこは大学の研究者や出版社の方々にもぜひお願いをしたいと思っています。ここでも課題となるのは残された映像やライフヒストリーを、どうやって一般の市民の皆さんに届けるのかということですね。資料そのものは歴史館のような場所に保存されるわけですが、そのエッセンスというのは、やはり市民一人ひとりの心や記憶のなかに留まってこそ、意味があると思うからです。

学校教育で採り上げるというのも、ひとつの方法でしょうが、
それで充分かと言われれば、まったく足りないのではないかとも感じます。

  • 「青い鳥楽団」の故・近藤宏一氏の映像を前に

たしかに学校の道徳教育で採り上げてもらうこともひとつの方法でしょう。岡山県の場合は人権教育指針のなかにハンセン病問題が入っていますので、かなりの学校で人権学習の中で学ぶ機会があります。そのおかげで、たくさんの学校関係者の方も見学に来てくださる。今でも愛生園を訪れる見学者の3〜4割程度は学校関係者です。

一方でハンセン病や差別について教えることのできる先生が、まだまだ足りていないという課題もあります。今まで、毎年見学に訪れていた学校がある年から急に来られなくなる。理由を聞いてみると、中心となって取り組んでくださっていた先生が転勤されたからだというんです。これは教えることのできる先生が限られているという証だと思います。まず第一にしなければならないのは、生徒ではなく先生に正しい知識をもってもらうことなんですね。

療養所のある県というのは、ハンセン病に関する教育には、かなり積極的に取り組んでいると思います。とくに岡山県教育委員会では新採用職員の全員が療養所で研修を受けることになっていますし、倉敷市でも教育委員会が主催して市内の全教職員を対象に毎年研修を行っています。すべての先生が歴史館へやってくる。これはとても先進的な取り組みだと思います。しかし、そうは言っても先生方も忙しいですし、毎年の行事になってしまうと前年度やったことを踏襲するだけという部分もどうしても出てきてしまう。

そのような場合には私が学校まで出向いていって事前説明を1時間くらいやり、そのあとにDVDで映像を見たり、各自で調べたりしてもらうというようなこともしています。その上で歴史館に来ていただく。これだけでもかなり理解が深まるという感想をいただいています。

なぜ岡山県はハンセン病の啓発活動に対して熱心なのでしょう。

やはり、長島に日本で最初の国立療養所がつくられたこと、また現在はそこに長島愛生園と邑久光明園という、ふたつの療養所が存在していること(※)。この歴史や状況が関係しているのでしょう。私の妻は広島の出身ですが、毎年8月6日(原爆の日)というのは、広島平和記念公園をはじめとして、各地で平和を考えるイベントがあります。それと同じように長島愛生園も、社会全体の問題として療養所やハンセン病や回復者のことを考え、さまざまな差別や人権について特別な気持ちで考えるための場所であってほしいと思っています。そのためには、これからも啓発活動を続けていく必要があるでしょう。

「無らい県運動」がそうであったように、ハンセン病にかかわる誤解と差別は全国の県で起こったものでした。それは決して他人事ではなく、すべての人が考えるべき問題だと思います。先日も「療養所のある県、市町村だけが取り組めばそれでいいのか」という記事を新聞で目にしましたが、まさにそのとおりです。そのためにも、まず正しい知識を得て、そこから人権や差別の問題について視野を広げていく必要があるでしょう。歴史館がそのきっかけになれたとしたら、これ以上うれしいことはありません。

註)邑久光明園は、1934年(昭和9)の室戸台風によって壊滅した「第三区府県立外島保養院」(現在の大阪市西淀川区中島にあった)の復興政策として、1938年(昭和13)長島につくられた。

長島愛生園歴史館
http://www.aisei-rekishikan.jp/

取材・編集:三浦博史 / 写真:川本聖哉