People / ハンセン病に向き合う人びと
高校生のときに学校の研修ツアーでたずねた邑久光明園。
そこでの出会い、入所者から託されたことばが辻さんのその後の人生を大きく変えていった。
沖縄愛楽園での聞き取り調査、証言集の発刊、そして沖縄愛楽園交流会館の学芸員への就任。
知らない人にこそ、さまざまな思いを伝えていきたいという辻さんに
交流会館の将来構想について語っていただきました。
Profile
辻央氏
(つじ あきら)
1978年、福岡県生まれ。琉球大学大学院人文社会科学研究科修了。沖縄県ハンセン病証言集編集事務局研究員、読谷村史編集室嘱託員を経て、2015年5月より現職。
1996年の夏でした。当時私は島根県の高校に通っていたんですが、その学校では毎年国立療養所の長島愛生園と邑久光明園へ行くスタディーツアーを行っていたんですね。そのツアーに参加したことがきっかけです。といっても、人権意識が高かったわけではなく、ツアーがあるからなんとなく行ってみようか、ぐらいの気持ちでした。
そうなんです。ツアーでは少人数に分かれて入所者の方々の部屋へ行き、お話を聞くという機会がありました。邑久光明園でお話を聞いた方から「今、園内の掲示板に真宗大谷派の謝罪声明(※’96年4月に出されたハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明のこと)が貼ってある。君たち、あれを読んできてほしい。そして、どう思うかを聞かせてほしい」と言われました。
当時の私は17歳で、事前勉強はしていたものの受け身の勉強で、ハンセン病の問題について、他人ごとでした。強制隔離という誤った政策がつづけられてきたことも事前に知っていたけれども、それはどこか遠い、自分の現実とはつながらないことでした。隔離を生きてきた人を目の前にして、昔はしょうがないことだったのではないか、そんなことを話しました。
邑久光明園の旧光明学園校舎(現在は資料館)
邑久光明園の納骨堂
するとその方は、怒るわけでもなく「私たちはここで生きてきたんだよ」と静かに話してくださったんです。その言葉が、自分が生きている社会のこととして、初めて他人ごとではないものとして、つなげてくれた。そのときハンセン病の問題と向き合い始めたのだと思います。
納骨堂に一緒に行ったときには「もう少ししたら日本から1つの群(ハンセン病を患った人々)はなくなるけれど、あなたたちが結婚して家族ができたとき、ここへ連れてきてほしい。そしてこんな人たちがいたんだということを伝えてほしい」と言われました。その方とはその後もお付き合いが続いたんですが、2年半ほどして亡くなられました。
その後、進学して沖縄にやってきたときも何らかのかたちで(ハンセン病療養所と)関わりをもちたいと思っていたんですが、自分ひとりではすぐに何かができるというわけでもない。大学4年のとき国立療養所の沖縄愛楽園(以下、愛楽園)で聞き取り調査が始まると聞いて説明会に参加したんです。プロジェクトの中心になっていたのは琉球大の森川先生(※森川恭剛氏=琉球大・法文学部教授)でした。
入所者への聞き取り調査は2002年3月から始まったんですが、そのなかで愛楽園との関わりは深くなっていきました。調査開始から2年ほど経つと聞き取りした内容をまとめる常駐スタッフが必要だろうということになり、2名のスタッフが愛楽園内に常駐して作業することになりました。私はそのスタッフのひとりとして編集作業に関わったんです。作業は5年ほどつづきましたが、そのなかで100名もの体験を聞き、証言をまとめていきました。
仕事になるかどうかは別として、高校生のときに邑久光明園で託された「こんな人たちがいたということを伝えてほしい」という遺言に応えなければいけないとずっと思っていました。『沖縄県ハンセン病証言集』の編集に携り、たくさんの人の人生のほんの一部なんですけど聞けたこと、そして証言集としてまとめることができて本当によかったと思っています。個人的にはハンセン病を患った人々の人生を分けてもらった、そんな気がしています。
その後、愛楽園に資料館をつくるということで2009年に準備委員会が立ち上がり、私も委員会に加わりました。このときひとつの核になったのも証言集をつくったメンバーだったんです。
沖縄のハンセン病患者・回復者たちの苦難を伝えるとともに、新たな出会いの場所にしていきたいという、入所者・関係者の思いがかたちになった交流会館
現在も一部の展示はボランティアの手も借りながら制作中
自治会の下に入所者、退所者、有識者を含めた企画・運営委員会がつくられ、基本的な方向性が決められていきましたが、委員会は実質的な作業までするのは難しい。そこで、作業部会を設置してもらいました。実質的な展示の作業を行ったのはこのメンバーです。自治会に交通費などを出していただいていましたが、作業部会のメンバーも仕事をしながらですから、休日や仕事外の時間を使って展示を考え、作っていきました。展示業者も使わない、グランドオープンの2週間前まで常駐する人は誰もいない状況でしたから、オープンが1年延びてしまったんです。常設展示の作業は現在もつづいています。
常設展示の入口には、病を患った者とそうでない者を分けてきた隔離の壁が再現されていますが、これは開園当時から残っている壁から型をとってつくられたものです。彫刻家の方に相談して壁を再現していただきました。それから壁に色を塗ったり壁に風景を描いてくれたのは沖縄県立芸術大学の学生なんです。グランドオープンの日の朝まで絵を描いてくれました。隔離小屋の茅葺きは名護博物館の方たちと一緒に茅を刈り、葺いたものです。
名称を社会交流会館ではなく交流会館としたのは、自治会の人たちとも話し合った結果、愛楽園も社会の一部なのだから、あえて「社会」という文字を入れる必要はないのではないかという結論に達したためです。そもそも愛楽園の自治会も入所者自治会という名称ではないんですね。
自治会というのはそこで暮らす人たちがつくるものであって、そこに「入所者」という文字をわざわざつけ加える必要はない。愛楽園自治会でいいじゃないかというのが金城雅春会長を始めとする自治会の方々の思いなんです。また交流会館という名称には「ここで起きたできごと、それも含めて沖縄の歴史の一部で、やってきた人びとが歴史を含めていろんなことと出会う場所」という意味も込められています。
参考にさせてもらったことも多いですし、交流もあります。ひめゆり平和祈念資料館や南風原文化センターを始めとして、沖縄には戦争の歴史、体験を継承していこうとする資料館があります。戦争を体験していない世代がどうやって体験や記憶を語り継いでいくのかといった課題は、ハンセン病の場合と同じ、共通したテーマです。課題として重なる部分も多いですね。
県外の療養所と比べて、戦争のために開園当時のものや施設の多くが残っていないことも特徴ですが、それでも集められた資料はかなりの数にのぼります。そのなかで何を展示し何を訴えるかということは、これからもずっと考え続けなければいけないことなのだと思っています。
名護博物館の皆さんの協力を得て再現された隔離小屋
展示業者が入った部分はありません。常設展示は隔離の場であった療養所、壁のなかで起こってきたこと、今も続いていることを知ってもらいたいと考えました。もちろん知ってもらいたい出来事もたくさんありますが、ここで暮らしてきた人たちの痛みや悲しみを彼らの言葉や姿をとおして感じてもらいたい。そして現在につながっているという事実を知ってもらえたらと思っています。沖縄は沖縄戦、米軍統治、本土復帰、基地問題など、さまざまな痛みの歴史を抱えてきた場所ですから、そういった痛みや悲しみの記憶と共振するような、つながっていける場でありたい。そんなことも思っています。
つい先日も浦添市にある浦城小学校の子どもたち160名ほどがやってきました。人権や平和学習などの一環として毎年やってくる学校は以前から一定数ありましたが、交流会館ができたことで、これを機にハンセン病問題や平和、人権問題について学習したいというお話もいただくようになりました。
私が聞き取り調査を始めた2002年頃は入所者の方も400名以上いました。しかし、それから10数年の間に100名以上の方が退所され、また毎年15名ほどの方が亡くなっています。学校が1学年6クラスでやってきたときも、昔であれば入所者の方が半分くらいのクラスを案内していたんですが、今ではそういったことも難しくなってしまいました。園内を案内するボランティアガイドの育成、歴史を継承していく取り組みなど、課題はまだまだ多いです。
米軍のコンセット(カマボコ型兵舎)が病棟として使われた、敗戦直後の沖縄の療養所ならではの様子も再現されている。トタンの錆や板の色合い、背景は県立芸大の学生が描いたもの。
沖縄戦のすざまじさを物語る園内の水タンクの被弾跡
戦時中、入所者たちによる過酷な労働によってつくられた早田壕
青木恵哉氏が独りで瞑想していたというガマ(洞窟)跡
青木氏らの上陸地ウフグチハマ(大口浜)を背景に
沖縄特有の歴史が関係しています。70年前、約3カ月におよぶ地上戦があったこと、戦後、日本本土と異なるハンセン病隔離政策が採られたことが大きな要因です。沖縄戦は長い期間にわたって社会に影響を残し、現在も影響を与えています。ハンセン病に関しては、本土に比べ発症率が高く、その減少もゆるやかでした。
一方、沖縄戦で破壊しつくされた愛楽園は、療養所としての機能がまったくない状態から戦後が始まり、復興もなかなか進みませんでした。発症する人はなかなか減らず、園内はいつも満床になってしまう。米軍統治下でも隔離政策がつづけられていたからです。戦後、発病した人の多くはプロミンを初めとした薬で病気は治っていきましたし、後遺症も軽くてすみました。
こうした状況があり「治療した後遺症がない、あるいは軽い人に退所してもらい、空いたベッドに新たな患者を収容する」といったことが行われていきました。いわゆる回転ベット方式という措置ですが、これは世界的に主流となっていたハンセン病を一般の感染症と同じように扱うこととは異なるものでした。
もちろん退所した人数や、療養所に入らずに在宅で治療ができたことは、日本本土と異なる点で、たくさんの人に与えた影響が大きいことは間違いありません。しかし、沖縄でも主たる治療の場は療養所であったし、ハンセン病を特殊な感染症として扱ってきたこともまた事実なのです。沖縄県は療養所の外で暮らす回復者が全国でもっとも多い県ですが、彼らの多くはいまもハンセン病回復者であることを隠して生きています。
正確な数字はわかっていませんが、県内に住む退所者は5、600名ほど、療養所に入所せずに在宅で治療を受けていた人も合わせると1000名ほどの回復者がいると思われます。回復者であることを公言しているのは金城幸子さんなど、ほんの一握りの人だけなんですね。
過去に患った病について、回復者みんなが公表する必要はもちろんありませんが、家族など大切な人に嘘をつかずに打ち明けられたり、的確な治療を受けるために医療関係者に話ができることは大事だと思います。回復者も年を取り、体の不調を感じることが増えてきています。回復者だと知られるのを恐れて病院に行くことをためらい、治療が遅れてしまったりする事例もあります。また、給付金を受ける正当な権利がありながら、もらう手続きをしない人も多くいます。
まずは途中になっている常設展示をつくっていくことが当面の課題です。来館された方々からは常設展示のパンフレットがほしいという声も多く寄せられているんですが……。少しずつでも展示制作のスピードを上げて、パンフレットなどもつくっていけるようにしたいと思っています。
ここまでやってこれたのは証言集をつくるなかで蓄積されたものがあったからだと思います。時間をかけて資料やものを集めて、それについての知識や人のつながりがあったこと。やはりこれは大きかったですね。今後は交流会館を通して様々な人たちとつながることで新たな展開があったり、作られていくものもあるのだろうと思います。
常設展示をつくっていくなかで入れることができなかったテーマなどもたくさんあります。そうした事柄や資料を整理してしっかりと残していくこと、企画展などの形で公開していくこともこれからの課題のひとつでしょう。2016年は園内ボランティアガイドを養成する講座を再開する予定になっています。蓄積してきたもの、これから蓄積していくものや関係を、回復者の人たち、来館者の人に還元していけるか。オープンしてまだ半年足らず(※2015年11月取材時)で手探りの部分も多いですが、これからもしっかりやっていきたいと思っています。
証言集をつくったときもそうでしたが、やはりひとつのものを作り上げていくにはパワーも必要ですし、その過程はとても大事なことです。たくさんの人が関わり積み重ねてきたことをもとに、開館してからも積み重ねて、つなげていく。開館までの道のりも大変でしたが、開館してからの、これからの活動の大切さ、それは本当に感じます。
本を読んで知ることと、この場所を歩きながら感じることは、違うのだと来館者の反応を見ていると思います。資料館にいるとハンセン病を患った人たちがあゆんできた歴史を知らない人がまだまだたくさんいるとあらためて感じます。そういった人たちにも足を運んでもらうために、いろんな企画展やイベントも必要だと思います。どうやって足を運んでもらい、伝えていくか。まずはそこからだと思っています。
取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉