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People / ハンセン病に向き合う人びと

山内 きみ江(ハンセン病回復者)、片野田 斉(報道写真家)

『生きるって、楽しくって』と題された本がある。著者は報道写真家、片野田斉さん。
被写体は多磨全生園に長年入所していた山内定さん、きみ江さんご夫妻。
ページをめくると、長年連れ添ってきた夫婦の愛情物語が、モノクロームの写真と文章で綴られている。
初孫の誕生、定さんの死といったドラマがある。

取材する/される関係を超えて、今では「お互い言いたいことを言いあう間柄」になったという片野田さんときみ江さん。
そんなおふたりに今までの思い出と、これからの夢について語っていただきました。

Profile

山内きみ江氏
(やまうち きみえ)

1934年、静岡県生まれ。7歳のときに初期症状である斑紋、10歳のときに知覚麻痺を発症。22歳のときに初めてハンセン病と診断され、翌年1957年、多磨全生園に入所する。10ヶ月後に山内定(やまうち さだむ)さんと結婚。1964年に社会復帰を希望するが、この望みは経済的理由で叶わなかった。念願の社会復帰が叶ったのは国賠訴訟勝訴後の2005年のこと。定さんの逝去、東日本大震災などを機に2011年10月、ふたたび全生園へ。日々の愉しみは全生園に隣接する「花さき保育園」で子どもたちとふれあうことで、今でも1日に約7千歩を歩く。自由律の五行歌や俳句もたしなむ。

片野田斉氏
(かたのだ ひとし)

1960年、東京都東村山生まれ。明治学院卒業後、NHK映像取材部助手を経て報道写真家・山本皓一氏に師事。2001年9月11日の米国同時多発テロに衝撃を受け、以後パキスタン、アフガニスタンなどの紛争地帯を取材するようになる。2011年に起こった東日本大震災では翌日から現地入りし、取材日数は延べ4ヶ月に及んだ。翌2012年に開催された東日本大震災記録写真展「日本! 天晴れ!」には2週間で1万人を動員。著書に『生きるって、楽しくって(クラッセ)』『きみ江さん ハンセン病を生きて(偕成社)』などがある。

紛争地帯から地元へ。
視点がかわって見えてきたもの

片野田さんが山内きみ江さんを撮影しようと思ったきっかけは、何だったのでしょう。

片野田 9.11の同時多発テロに衝撃を受けて2001年から、おもに紛争地取材をしていました。パキスタン、アフガニスタン、パレスチナ、イラクといった国々です。とくにパレスチナのガザにはよく行っていたんですが、そこでモハッメド・アベッドというパレスチナ人の写真家と知り合いになりました。彼は世界報道写真展でも上位に入るような仕事をしている人ですが、本当にいつ死んでもおかしくないような場所で取材をしているんです。ところが彼にとってガザというのは、自分が生まれ育った場所でもあるわけです。生まれ故郷がたまたま戦場だったのです。ある意味、故郷の記録として撮影しているわけです。

私はそれまで自分の国から遠いところばかり撮っていたんですが、彼の姿勢には考えさせられるものがありました。私はニューヨークにある写真通信社(Polaris Images)のメンバーでもあるんですが、そこに所属しているカメラマンというのは、文字どおり世界中にいるんです。紛争地に通いはじめた頃、カメラもフィルムからデジタルに移行し、世界のできごとが一瞬でネットに出回るようになり、カメラマンに求められる仕事も次第に変わっていきました。日本人である自分が言葉や文化が異なる遠い国まで出かけていき、その国で生きる人々の内面まで短期間で理解することはできたのだろうか、という疑問もありました。もちろん異文化にふれることは刺激的でとても面白い体験ですが、近所でテーマを見つけて時間をかけて丹念に取材することによって、フリーカメラマンとしての活路がみえてくるのではないかと考えました。

たとえば私の地元は東村山ですが、東村山のことだったら海外の著名なカメラマンより自分の方がよく知っていて、いい写真が撮れるはずでしょう。少なくともそうあるべきだし、そうありたいと思うわけです。そこで私が生まれ育ち現在も住んでいる団地で少子高齢化をテーマに写真を撮ろうと考えて、団地の顔役をしている小松恭子さんという方のところへ相談に行きました。小松さんは50年ほど前から団地の子供会を主催してきた方です。2010年初頭のことでした。

『生きるって、楽しくって』のあとがきでも書かれていますが、小松恭子さんは東京都議
をされていた方なんですね。

片野田 そうなんです。昭和40年代の全盛期には160人以上いた団地の子供会が1人になったと聞き、その様子を撮影したいと思って相談に行ったんですが、小松さんは、すぐに「東村山で少子高齢化をテーマにするんだったら、多磨全生園を採り上げてみたら」と言われました。多いときには1500人以上いた人たちが、もう280名(2010年2月時点)ほどまで減ってきている、平均年齢も80歳を超えていて、あと20年もすれば誰もいなくなってしまう。記録を残すんだったら今しかないんじゃないかと。そこで撮影に協力してくださる方がいたらご紹介いただけませんか、と小松さんにお願いしてみたんです。それが山内きみ江さんだったんですね。

きみ江さんは、小松恭子さんとはいつからお知り合いだったんですか。

山内 私は2001年の国賠訴訟(らい予防法違憲国家賠償訴訟)のあと、全生園を出て社会復帰してみたいと思っていました。ところが実際に不動産屋さんめぐりをしてみると、70歳をすぎてマンションを借りようとしても、なかなか借りられないんですね。私の場合は障がいもありますから。やっと契約がまとまりそうになっても、現住所が全生園だということが問題になって契約破棄になったこともありました。そんなとき小松さんが全生園をたずねてきて「何かお困りのことはありませんか、相談に乗りますからなんでもおっしゃってください」って言われたんです。それで家を借りて社会復帰してみたいと思ってるんだけど、住むところがなかなか借りられなくて困ってるんですって言ってみたんです。

そうしたら一週間くらいして電話がかかってきて、小松さんの友人で東村山市議をやっている方が面倒をみてくださいました。念願かなって2005年に全生園近くのマンションに転居したあとも、小松さんの知り合いの方が入れ替わり立ち替わりやってきて支援してくれたんです。最初のうちは「弱者の味方だって口では言っても、住むところが見つかるところまでは助けてくれないだろう。議員さんだって票がほしいだけなんだから」なんて斜に構えて見てたんですけど、間違ってたのは私の方でした。皆さん本当に親身になってくれた。

その小松さんから、きみ江さんを撮影したいカメラマンがいるのよ、と言われたんです。聞いてみると、そのカメラマンさんは東村山出身なのに全生園に来たこともないし、ハンセン病のこともあまり詳しくない人だっていうじゃありませんか。いったいどんな人だろう、と思いましたけど、小松さんからも「きみ江さんも社会復帰していくんだったら、こういう人がいるってことを社会に広く知ってもらうことも大事ですよ」って言われたんですね。これはもう断れないと思いました。私にとって小松さんの言葉はツルの一声ですから。

どう接していいかわからない
お互い手探りで始まった撮影取材

  • 長年夢に見た療養所外での暮らし。わずか6年半だったが山内夫妻にとってはとても大きな意味があった(撮影:片野田斉氏)

片野田 初めてお会いしたのは2010年初頭だったと思います。私は全生園に行くのも初めて、入所者の方にお会いするのも初めてでしたから、かなり緊張して構えた状態で会いに行きました。最終的にどんなものになるかわからないけれども、きみ江さんの写真を撮らせてもらいたいんです、とお願いしたら、さらっと「あ、いいですよ」という返事だったんですね。でも、気軽に受けていただけたように見えて、そう簡単にはいかないんだろうな、とも思ってました。

山内 次に会ったときは、お父さん(※きみ江さんのご主人・山内定さん。2011年逝去。2010年当時は全生園内の病院に入院していたが、体調の良いときは、きみ江さんのマンションで夫婦水入らずで過ごしたりしていた)のところへ一緒にお見舞いに行ったのね。2月、雪が降った翌日で寒椿がきれいだったのを覚えてます。

片野田 雪と寒椿、白と赤の対比がとてもきれいだったんですけど、2人っきりで会うのは初めてで、お互い硬いまま。会話もあんまり弾まなかったですよね。きみ江さんも、この人、いったいどんな人なんだろうって思っていたんじゃないですか。

山内 話しているうちに、この人はハンセン病のことや私たちのことを正しく理解しようと思っている方なんだなってことは、すぐわかりました。でもあまりに長い間、社会の人たちとの接点がなかったから、どうお付き合いしていいかわからなかったのね。最初のうちは手探り状態。でも、そのうちにダメならダメでいいじゃない、無理して合わせることはないんだからって思うようになって、そうしたら急に気が楽になった。

片野田 とは言うものの、こっちは写真を撮らなきゃいけないわけですから、色々と考えてしまうわけです。きみ江さんは右手の指は全部ないし、下唇に麻痺があるので、ときどきよだれが垂れたりもする。どう対峙して、どう写真に残していったらいいのか。最初はずっと悩んでいたんです。

それでちょっとでも空き時間ができると連絡して、とにかくきみ江さんのところへ通うことにしました。行けば見えてくるものがあるんじゃないかって思ったんですね。こういうものはアタマでいくら考えてもしょうがない、現場へ行って撮れるものを撮るしかないだろうと。紛争地帯で取材しているときとまったく同じアプローチです。

山内 私の方も片野田さんが何も知らないっていうから、ハンセン病がどんな病気で、後遺症を抱えた人がどんな生活をしてきたか、いろんなことを教えてあげたのね。そういう人生を生きた人がいたってことを、きちんと知ってほしかったんです。

片野田さんがカメラを構えても、きみ江さんはこのとおり。撮り/撮られる関係はふたりにとってすっかり自然なものとなっている

障がいや高齢を言い訳にしたくない
あくまでも自然体で

撮影を始めてから2ヶ月後の2010年4月には、山内さんご夫妻に初孫が生まれていますが
(※2001年に山内夫妻は知人からのすすめで当時18歳の真由美さんを養子として引き
取っている)、このときも片野田さんは同行されたんですか。

  • 初孫(写真中央)の七五三で真由美さん家族と(撮影:片野田斉氏)

  • 初孫を抱いて笑顔を見せる定さん(撮影:片野田斉氏)

  • 痛くないんですか、と思わず訊いて叱られた足裏の治療風景(撮影:片野田斉氏)

  • パソコンは70歳をすぎてから始めた。毎日歩いた歩数を東海道に置き換えて、どこまで行けたか愉しんでいるという

片野田 ぜひ撮らせてくださいとお願いして、私の車にきみ江さんを乗せて、真由美さんの住む静岡まで一緒に行きました。子どもを産むことを許されなかったきみ江さんが、孫との初対面でどんなふうに接するのか、とても興味があったからです。丸一日一緒にいて、いろんなこともわかりましたし、あの日をきっかけにして、お互い一気に打ち解けましたよね。その一ヶ月後に真由美ちゃん家族が全生園に入院中の定さんのところまで、孫を見せにきました。

山内 お父さんが孫を抱いて笑ってる写真がいいのよね。

片野田 定さんは普段、本当に寡黙な方で、めったに笑わないんです。笑って写っているのは、たぶんこのときの写真だけじゃないですか。

山内 (『生きるって、楽しくって』に収録された写真を眺めながら)全生園を出て自分たちの住まいをもてたのはわずかな間でしかなかったけど、この頃が一番よかったわね。いい思い出です。ずっと療養所というものを忘れたいなと思って生きてきて、外での生活を実際に味わうことができた。たった6年半だったけど、あれで生き返った気がする。

片野田 きみ江さんが暮らしていたマンションは全生園から通りを隔てたすぐ近くにあったんですけど、きみ江さんと定さんにとっては、それだけでも天と地ほどの違いがあったんですね。あれは実際に療養所で暮らした方でないとわからない感覚なのかもしれないなと思います。

ハンセン病だったけど、もう治っている。身体に残っているのは後遺症。だったら普通に生きて何がいけないの? これがきみ江さんにとって最大のテーマなんですよ。その裏には、みんなと同じことがしたいと思っていたのに許されなかったという事実、途方もない時間の積み重ねがある。それができるようになったからこそ、いろんなことに挑戦したい。できるものなら普通の人以上にうまくなってもみたい。そういう欲があるし、すごくエネルギッシュなんですよね。

足の裏にできた500円玉ほどの大きさの傷のなかを治療しているのに、表情ひとつ変えないので「痛くないんですか」って思わず訊いてしまったこともありました。「あなた何言ってるの、これがハンセン病なのよ」って叱られましたけど。釘を踏んでもわからないって、本で読んで知ってはいたんですけど、それがどういうものなのか、実際に目の当たりにして初めてわかったわけです。なにしろ足の裏に穴が開いてるんですから。

山内 でも自分はもうおばあさんで障がい者だから、あれもこれもできない、なんてことは言いたくないのね。皆さんだって、年を取っていくのは同じだし、いつどんな障がいが出るかわからない。私の場合は、その時期が人よりちょっと早かっただけ。そう考えるとすごく気が楽になるんです。くよくよしたって泣いたって、何かが変わるわけじゃないでしょう。だったら明るく生きないと。

片野田 自分にとってのきみ江さんって、もう完全に普通の人なんですね。たしかに手や足に障がいはあるけれど、本人はそれを苦にしている気持ちをまったく見せない。だったらこっちが妙に気を使うのもおかしいでしょう。すると今度は、きみ江さんの言葉ひとつひとつにシビれるようになってきたんです。話していると、普段からときどきはっとするようなことを言うんですよね。「私、今が青春なのよ」とか「生きるって、楽しくってしかたがないのよ」とか。長いこと苦労されてきたはずなのに、すごいこと言うよなって。

機嫌が悪いときはお互いきつい言い方になったりもしますし、うるさいなあ、頼むからちょっと黙っててよ、みたいな会話をすることもあります。そのあたりは完全に対等ですね。きみ江さんって、けっこう冗談きついんですよ。

山内 今年でおいくつになるんですか? なんてよく訊かれるんですけど、そういうときは「何年生まれかよく憶えてないですけど、今年で28歳になります」って、いつも言ってます。神妙な顔して、そうなんですか、なんて言ってる人もいるわね。

片野田 いつもこんな感じですから(笑)。

「おばあちゃん、おててどうしたの」と無邪気に訊く子どもたち。きみ江さんは、質問のひとつひとつを受け止め、わかりやすく真正面から答える(撮影:片野田斉氏)

写真展、本の出版、家族との和解
そしてその先にある、もうひとつの夢へ

片野田さんときみ江さんは、東日本大震災の被災地にも一緒に行かれたそうですね。きみ
江さんはなぜ、震災被災地に関心をもたれたのですか。

  • 盛況だった『きみ江さん ハンセン病を生きて』の出版記念パーティー

  • 初孫の誕生、定さんの死。「生きるって、楽しくって」には2年半のドラマが凝縮されている

山内 福島から東京へ避難してきた子どもたちが、いわれのない偏見、差別を受けていると聞いたことがきっかけです。公園で遊んでいると、ほかのお母さんがやってきて「あの子たちと遊んじゃいけません。放射能がうつるからね」って言っている、そんなニュースでした。その話を聞いて、これは放っておけないと思ったんですよ。福島からやってきた子どもたちが置かれている境遇というのは、かつてのハンセン病患者とまったく同じだからです。放射線もらい菌も目に見えない。だから意味もわからず怖がって、そこから偏見や差別が生まれてくる。

片野田 私は東日本大震災直後から被災地で取材をつづけていて、翌年3月に開いた写真展(相田みつを美術館で開催。2012年3月6日〜3月18日)にも思いがけず多くの方々が来てくださったんですね。きみ江さんも見にきてくれたんですが、なんだかちょっと不機嫌な感じなんです。どうしたんですかって訊いてみたら、自分も被災地に行って現地にいる子どもたちをひと言でもいいから激励したい、なんで片野田さんは私を連れて行ってくれないのって怒ってるんですよ。そのあと、きみ江さんのところへ行ったら、部屋に見たことのない一眼レフと三脚が置いてある。これどうしたんですかって訊いたら、きみ江さんが自分用に買ったって言うんです。

山内 被災地には行きたいけど、やっぱり恐いでしょう。でも片野田さんは何度も行って写真を撮っている。この違いはなんだろうと考えて、それはカメラをもってるかどうかじゃないかと思ったのね。片野田さんみたいにカメラをもったら、私もひょっとして恐くなくなるんじゃないか。そう思ってカメラと三脚を揃えてみたんです。

片野田 発想がすごいですよね。そこまで思ってるんだったら一緒に行きましょうということで、福島〜仙台を一泊で回ってきました。

実際にご自分の目で見た被災地は、どうでしたか。

山内 田んぼでは蛙も鳴いてるし、桐の花や藤の花も咲き乱れているし、海辺に行けば静かな海がありました。でも人っ子ひとり住んでいないんですね。こんな静かなところで異変が起こっている。目に見えないってことが、いかに恐ろしいことか、あらためて実感しました。

片野田さんは同じ年の夏に国立ハンセン病資料館で山内さんご夫妻の写真展(2012年9月8日〜9月30日)も開かれていますね。

片野田 資料館での写真展は、『生きるって、楽しくって ハンセン病を生きた山内定・きみ江夫妻の愛情物語(クラッセ刊)』の出版と同時にやろうということで企画しました。じつは本を出版する前、これなら週刊誌でもいけるんじゃないかと思って(写真を)あちこちの編集部に持ち込んでみたんですよ。でも、まったく相手にしてもらえませんでした。

どこの編集者からも、なぜ今、ハンセン病なんですかって言われるんですね。世間の人たちにとってハンセン病というのは過去の病気なんなあ、と思って諦めていたんですが、写真展が始まってみると新聞三紙から取材申込みがあり、テレビの取材まで来てくれました。東京都人権プラザでの写真展(2013年8月1日〜11月27日)も決まりましたし、最終的にはもう一冊本を出しませんかという話にもなった。

それが『きみ江さん ハンセン病を生きて(偕成社 2015年)』という本になるわけですね。

片野田 きみ江さんの人生をあらためて聞き直して私がまとめるというもので、企画そのものは2013年に始まっていたんです。最初は半年で出すつもりだったんですが、ほかの仕事が忙しかったり、原稿がなかなか進まなかったりで、結局出版まで2年もかかってしまいました。きみ江さんからは「片野田さんには無理だから、もう書くのはやめた方がいいよ」って、さんざん叱られたんですよ。あの叱咤激励があったからこそ、本ができたんじゃないかと思ってます。

山内 私のところへ来るたびに「原稿が進まなくて大変だ、大変だ」って言ってるから、私の前で大変だなんて軽々しく言わないでちょうだいって叱ったんですよ。私の苦労に比べたら、どうってことないじゃないのって。

片野田 まったくその通りで、それを言われるとぐうの音も出ないんですよね。

山内 本ができたときの出版記念パーティーも楽しかったわね。

片野田 きみ江さんがせっかくパーティーやるんだったら金屏風の前で挨拶してみたいって言うもんですから、友人知人も呼んで盛大にやりました。私が個人的に写真を撮らせていただいている井上堯之さん(ミュージシャン。沢田研二、萩原健一のバックを務めた伝説のギタリスト)もゲストで来てくださって、3曲歌ってくれたんですよ。

でも個人的に一番ぐっときたのは、きみ江さんの妹さんが会場に来てくれて「お姉ちゃんが一番出世したね」って、話しかけているのを見たときですね。妹さんは、きみ江さんのことが原因で結婚が破談になったりして、きみ江さんのことをずっと恨んでいた人なんです。そんな2人の姿を見られただけでも出版記念パーティーをやって本当によかったと思いました。

きみ江さんが今、一番楽しみにしていることってなんですか。

山内 私、毎週のように保育園(※花さき保育園。多磨全生園に隣接する形で2012年に開設された)に通って子どもたちとお話してるんですけど、あそこに通っていた子どもたちが、あと10年もすると高校生になるんです。それを見届けることが一番の夢ですね。それまでは元気でいたいなって思ってます。

片野田 子どもたちって素直ですから「おばあちゃん、なんで指がないの?」「いつになったら生えてくるの?」みたいなことを普通に訊くんですよね。いくら邪心がない子どもの言うことでも、傷つくんじゃないかと思いますよね。でも、きみ江さんは、そういうのをまったく気にしないんですよ。

山内 どこか人と違うところがあったら、気になるし見たくなるものじゃない。子どもって好奇心がなかったらダメなんだから。その代わり、子どもにもわかるようにハンセン病のことも、ちゃんと説明してあげるのね。

片野田 ものごとを俯瞰して見られる強さ、決して被害者視点にならない公平さって、本当にすごいなと思いますね。

  • 定さんを見舞うきみ江さん。片野田さんは定さんの臨終にも立ち会った(撮影:片野田斉氏)

山内 そういう経験をした子どもたちのなかから、お医者さんか、先生か、それとも弁護士さんかはわからないけれど、弱者を助けるような人材がきっと出てくるって信じてるんです。そういえば、近頃はおばあちゃんじゃなくて、きみ江さんって呼んでくれる子どもが増えてきたんですよ。なんでおばあちゃんって呼ぶのやめたの? って訊いたら「だって本に、きみ江さんって書いてあったんだもの」って言うんですよ。これも片野田さんのおかげね。子どもたちが黄色い声で名前を呼んでくれるときの、あの響きがなんともいえないのよ。

片野田 ハンセン病のことをまったく知らない私を受け入れてくれて、普段の生活から初孫の誕生、定さんの死まで全部さらけ出して撮らせてくれた。カメラマンとしても、ひとりの人間としても、定さん、きみ江さんに育てられた部分って非常に大きいと思ってます。これからも恩返ししていきたいですね。

取材・編集:三浦博史 / 写真:長津孝輔