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Topics 2016.3.11
WHOコラボレーティングセンターである英国ヨーク大学グローバル・ヘルス・ヒストリー・センターから『LEPROSY A SHORT HISTORY』が出版されました。
当該センターは医療の歴史を研究している団体で、これまでも結核の歴史をまとめた「Tuberculosis: A Short History」(2013)や、熱帯病の歴史をまとめた「Tropical Diseases: lessons from history」(2014)などを出版しています。
https://www.york.ac.uk/history/global-health-histories/publications-outreach/outreach-materials/
『LEPROSY A SHORT HISTORY』では、ヨーロッパ、日本、アフリカ、インド、ブラジルのハンセン病の歴史が取り上げられており、様々なハンセン病の専門家による寄稿文と、ハンセン病の歴史を切り取った写真や絵画、啓発ポスターなどが掲載されています。
本書は、非営利の配布を目的としたもので、将来的に全文がオンラインで見られるようになるようです(英語・ポルトガル語)。
本書には、WHOハンセン病制圧大使・笹川陽平氏も「Passing on the History of Leprosy to Future Generations(ハンセン病の歴史を次世代に引き継ぐ)」というタイトルで文章を寄稿しました。以下に和訳文を掲載します。
第1章 ハンセン病の歴史を次世代に引き継ぐ
日本財団 会長 笹川陽平
ハンセン病は有史以前から何世紀もの間、スティグマ(社会的烙印)と差別の対象とされてきました。今日、医学の進歩、公衆衛生の発展、そして関係者のコミットメントにより、身体に障害を引き起こし、業病や天刑病とされてきたハンセン病は、治る病気になりました。1980年代に多剤併用療法(Multidrug Therapy :MDT)が開発され、治療薬の無料配布と医療制度の統合による治療の普及が新規患者数の激減に大きく貢献しました。今では、年間の新規患者数の大半はごく限られた国のみで報告されています。ハンセン病が世界中のほとんどの国で公衆衛生上の問題ではなくなったことは大きな成果です。しかし、それによって多くの人々の意識からハンセン病とそれにまつわる壮絶な人類の歴史が忘れられつつあります。
過去にハンセン病患者の多くはコミュニティから追放され、人里離れたコロニーや療養所で残りの人生を過ごすことを余儀なくされました。ハンセン病という烙印を押されることは、家族や友人、住まい、仕事、そして自らのアイデンティティと自尊心を失うことを意味しました。私は、WHOハンセン病制圧大使として世界中のハンセン病患者や回復者と対話を重ねてきました。愛する人たちから強制的に引き離されたり、名前を変えさせられたり、中絶手術や断種手術を強制されたり、生まれたばかりの我が子を養子に出さなくてはならなかったりと、どれも心が締め付けられる話ばかりでした。
一方で、このような過酷な状況に置かれながらも、その運命を受け入れまいと抵抗する人たちもいました。彼らは、思い出すことさえ辛いような自らの体験について小説を書いたり、絵を描いたり、人々に伝えたりすることで、人間としての尊厳を保ち、この世に存在した証を残そうとしました。
日本では、ハンセン病患者や回復者たちは、長い間、療養所に隔離されたことにより、憲法で保障されていたはずの自由と権利を奪われたとして、政府に対して補償を訴えました。また、ブラジルのハンセン病患者や回復者は、出生直後に養子に出され、生き別れになっていた我が子たちとの再会を実現するために様々な活動を行ってきました。
一方、忘れてはならないのが、ハンセン病患者や回復者に寄り添い、彼らに対するスティグマ(社会的烙印)と抑圧に立ち向かった人々がいたことです。たとえば、ハンセン病の有効な治療法が確立される前から患者に衣食住を提供した宗教家であったり、患者を治療した医師や看護師であったり、献身的に患者へのケアを施した個人や団体です。
初めてハンセン病に有効だとされた治療法は、20世紀半ばには存在していましたが、多剤併用療法(Multidrug Therapy :MDT)の開発とその治療薬の配布のための戦略が導入されたことで、多くのハンセン病患者が病気から解放されました。1995年から1999 年までの間、日本財団はWHOを通じて、世界中に治療薬を無料配布しました。多剤併用療法(Multidrug Therapy : MDT)の導入は、病気としてのハンセン病に対する見方を一変させるマイルストーンでしたが、新規患者の早期発見・早期治療を行い、重い障害を予防するためには、引き続き、この問題に取り組む必要があります。ハンセン病をグローバルな課題の一つとして位置づけるための努力を今後も怠ってはなりません。
しかし、ハンセン病に対する根深いスティグマ(社会的烙印)と差別は、医学的な側面に比べてはるかに難しい課題です。日本財団は、日本政府の協力のもと、様々な関係者と協働し、ハンセン病を人権問題として取り上げるよう、国連に働きかけてきました。このような努力が実り、2010年には国連総会において「ハンセン病患者・回復者及びその家族に対する差別撤廃決議」が採択されました。世界各国が一つになり、ハンセン病を取り巻く差別に目を向けたことで、ハンセン病との闘いの歴史は新たな章の幕開けを迎えました。
この決議は、ハンセン病患者や回復者の方々、特に過去の隔離政策の影響を受けた世代を大変勇気づけるものとなりました。しかし、この世代は高齢化が進んでおり、それに伴い、彼らが生活を送ってきた病院や療養所は取り壊され、その記録が失われつつあります。
ハンセン病の歴史から学ぶことの重要性、そして今行動を起こさなければ間に合わないという危機感から、このような歴史的建造物や当事者の実体験を後世に残そうという動きが出てきています。日本には、ハンセン病の歴史を社会に伝えることを目的とした国立ハンセン病資料館があります。資料館には、かつての療養所での生活を再現した部屋や写真、当事者の遺品や作品などが展示されています。
フィリピンには、かつて世界最大級だったハンセン病施設がクリオン島にあります。ここに長年暮らす住人にとって、この島の資料館は大きな誇りです。彼らは資料館が、「クリオン島が恐怖の場所から希望の場所へと変貌していった軌跡を見事に描いている」と話します。そして、「ハンセン病患者や回復者が犠牲にした一つひとつのことが今の世代と後世に価値あるものとして引き継がれている」とも話します。このような動きはブラジル、マレーシア、アメリカ、タイ、韓国、ポルトガル、スペイン、ルーマニア、台湾など、世界各国でみられます。
また、このハンセン病の歴史は、建物や資料、作品など形に残るものだけではなく、当事者が自ら話す歴史なしに語ることはできません。ここで、一人の勇気ある日本人女性のお話をご紹介します。彼女は、人生の大半を療養所で過ごしてきました。現在、彼女は小学校や幼稚園などに出向き、自らの過去を若い世代に伝える活動を行っています。当事者のこのような活動は非常に重要であり、彼女たちの言葉は時とともに失われてはならないものです。
将来、人類はハンセン病の撲滅に成功するかもしれません。ハンセン病のない世界においては、ハンセン病患者や回復者がどのような生活を送ったのかは、ハンセン病資料館や当時の映像や音声、また当事者による書籍などの記録でしか知るすべがなくなってしまうのです。
ハンセン病の歴史を残すことで、人類がいかにこの病、そして、それにまつわるスティグマ(社会的烙印)と差別と闘ってきたかを、後世に引き継ぐことができます。次世代に生きる人々が歴史から得た知識をどのように活用していくのかは、彼ら次第です。我々がすべきことは、真実に沿った記録を次世代に残し、そのために最大限の努力をするということです。